碧の青春【改訂版】

美凪ましろ

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第十四章  真咲の分を殴らせろっ

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 傷つくのを見るよりは、傷つくほうがましだった。
 別段犠牲精神の旺盛な人間だとは思わないけども、もしあの行動で阻止できるのなら、それでよかった。
 血など流しておらず。擦り傷と軽い打撲程度だ。
 なんやら都倉さんは災難が続いとるねえ、と田中先生に苦笑いされるだけで済むのだし。

 という気持ちを誰にも言えないで、校庭の雨を桜を、……眺めている。
 やや風がつよく吹く。窓を開けられないのが残念だ。
 霧雨に肌を濡らす、自傷的なあの感じも嫌いではないから。

 始業式と入学式のどちらが先に始まるんだったっけ。
 どちらでも構わないや。
 どちらも出ないことになったし。
 蛍光イエローにパンジーの紫がでかでかとプリントされたお約束通りの色合いのツーピースでキメた田中先生が、宮本先生に伝えて下さったそうだ。
 事情を察してか深く追求せずにいてくれた。
 のを利用して病人のように横になっている。
 すこし、眠い。
 好きな人に会える前日は、緊張か興奮か分からない事情で寝不足となる。
 どこかしら薬品臭いベッドが誘う本当のまどろみに、
 意識を落としかけたときに、

「先生。……ちょっと、外してくれんか。桜井に話があんねや」

 本日の、二つの式に出ないのは四名。和貴と私とに加えて、

「……見なかったことにしとくわ、その拳。手当てしてあげたいんやけどね、先生すこし、腹が立っとるの」
「ツバつけとけばヘーキっす」
「雑菌が入るからやめときなさい。……机のうえにマキロン置いとくから」

 出ていく気配と入れ違いに、隣のカーテンがシャッと開く。
 顔を傾けて私はシルエットに目を凝らす。
 右頬で触れる枕のシーツは薄手で気持ちがよかった。
「すまんかった。桜井。この通りや」
「……僕より真咲さんに謝ってね。いま寝てるけど」
 寝てない!
 内心で焦りつつも寝息を偽装する。鼻からすーすー心持ちうるさいくらいに。
 かつ会話を聞き取れる程度に。
「そうか。……すこし話せるか?」
 横になっていたのだろう、和貴がからだを起こす。丸椅子がからからと動く。男子がする乱暴な感じで水野くんは腰掛けた。
 シルエットもそれを示していた。
「万由が転校したのは聞いとった。やけどまっさか……妊娠しとるとは思わんかったぞ」
「そりゃそーだよ」
「いつから知っとったんや。おい。ま、さかっ」はっ、と息を呑む。「本当はおまえの子どもやとかゆうなよ」
 思わず寝息が止まる。
「あるわけないじゃん」
 嘘のない響きで和貴が笑い飛ばしたから、……胸をなでおろす。
 や、別にいいじゃん。学生がどうのって事情をさしおいても、和貴がその万由さんてひとが好きでくっつくんだったら、……
 なんでこんな嫌な気持ちになるんだろう。
「僕は、初めっから知ってた。全部ね」
「まじかよ。はよゆえや」
「万由は……県外に住んでるし、バレないだろなーって見込んでた。できるだけ長く、願わくば卒業まで持たしたかったんだけどね、僕の読みが甘かった。キミたちの情報網をナメてたよ」
 きっと和貴は頭を掻いている。
「伏せたのは、……万由にとって水野は最初に好きになった人だからだよ。こんなこと彼女口では言わなかったけどさあ、早くあたしのことなんて忘れて幸せになってよ亮介(りょうすけ)! ……つう乙女心が根底にあったんだと思うよ。分かる?」
「……分からん。どーせばれんのやぞ相手が飯橋(いいばし)ちゅうことは。なにを隠すことがある」
「僕が提案した」
 丸椅子が震えた。
 水野くんの驚きによってだ。
「修旅で会ったのはホントに偶然。狙ってなんか無かったんだよ? うちのじーちゃんが法然院かんならず行っとけって薦めてさー、彼女もばーちゃんにオススメされたんだって。そんでもってまるきし同じ時間に遭遇するたぁなーんか運命的なもん感じるよねえ?」
「馬鹿言え」
「万由にはとても……返しきれない借りがあるからさ。僕とつき合ってることにしろって言った。ぶっちゃけた話するとさ、いっちゃん怖いのは水野がうああてヤケクソになって陸上辞めること、だったんだよ。だから矛先は飯橋さんから逸らす必要があった。僕なんか適任しょ? ほんでもってあの子、嘘つき通せるタイプじゃないじゃん。……嘘つき続けるのも負担かかんだよ、つかれるよりかつくほうがキツいってのが僕の持論。幸いにしてつき続ける相手は彼女の近くにはいない。万一のときは日本語の特性を生かして彼って主語を僕に置き換えれば済むから保険かけといただけ。『つき合ってる』ってのはウソにはならない。……ひとまず彼女周縁の事情は彼女自身でどうにかしてもらうとして、こっちでは誰かさん一発殴らせるくらい激怒さしといて噂バラまけばどーにかカモフラになるだろと判断した。そんなわけで……水野には悪いことしたね。謝るのは僕のほうだ」
 布団をまくり、
 和貴が、言葉通りの動きをしている。
「桜井……」
 また動くと和貴は無邪気な声をあげて笑った。「めでたく結婚したのも知ってるでしょ。よかったよね? 彼女孕ましといて逃げるようなやつだったら僕がブン殴りに行こうって思ってた」
「アホかお、ま……」
 丸椅子が揺れる。
 声を詰まらす、……水野くん。
「あっちゃあ……女の子以外を抱く趣味はないんだけどさーよければ胸くらい貸すよ?」
「ふざ、けんなやてめ」
 結局。
 水野くんは和貴の胸を借りたようだ。
 そういうシルエットが生成されている。
「……黙ってようか迷ったんだけどね。万由のきれいなとこを水野には知ってて欲しかった」
 怜生くんに語るのと、同じ。
 初対面の私に対してしたような優しい語りかけで彼は、
 嗚咽する水野くんの頭を、撫でる。
 一拍置くと、和貴はそれを口にした。

「万由は、水野のことが本当に好きだったんだよ」

「おせ、えよ、……ばっきゃろ」
「ところで万由は、無事に出産したんだね? よかった……」
「な、んでおめえが知らねんだ。双子だぞ。ちき、しょ……っ」
「こら痛い叩くなって」
 安堵した和貴に対し、
 何故か怒ったように、それでも、感情を震わす水野くんの嗚咽を聞きながら。

 よかった、と私も思った。

 二人の……ううん、三人の事情や関係は知らない。
 私は部外者だ。
 けど和貴が、水野くんのために、きっと自分を犠牲にしたのだろう。
 誰かのために。
 なにかを守るために。
 そんな和貴の本当が伝わって――よかった。

 安心して瞼を下ろした。


「ま、さーきさーん」
 夢の続きかと思った。
 だってこんなに近い、
 透き通る無垢な瞳が。

「むがあっ!」
 蟹だ。
 彼から見ればたぶん蟹のようにうえに逃れた。
 逃れた先が悪かった。

「あっ……ぐっ」

 声にならない痛みが私を襲う。
 ベッドのパイプだかに頭をぶつけた。
 ぶつけたばかりだというのに。

「ご、めん真咲さんっ」和貴の手が伸びてくる。「痛いの痛いのとんでけっ」
「近い、てば和貴」
 なんの気もなく呻いたつもりが。
 自分の発言にて状況を悟る。
 つまりは。
 さする頭に熱い彼の手が添えられ、至近距離に彼の顔があり、
 ほぼ、全体重で伸し掛かられてる。目の隅に映る和貴の足がベッドから浮いていた。
 私が顔を埋めてさえいればいつかと同じく抱きしめられてる状況、

 それよりも事態は深刻でベッドのうえだった。

 とんでもなく頬が染まったと思う。
 無言で降りる和貴の耳も赤かった。

「そろそろ……入っても構わんか」

 今度は廊下から田中先生の大きな声が届く。
 赤くなったり痛くなったり驚かされたりで、本日の私のからだは忙しい。

「お昼で解散ねんしもーホームルーム終わっとんのよ。帰っていいって宮本先生ゆうとたっわ。遊んだりせんと二人とも自重してまっすぐ帰るんよ。特に都倉さん。あなたはからだ弱いんさけ無茶せんようにせな駄目やろ」
「はい、分かりました……」
 スカートの裾を整え、ハンガーを手に取る。
 ブレザーを着ていると見るに怒ってた田中先生の表情がちょっと和らいだ。
「宮沢さんが一度様子見に来てんけどね、起こしたらあかんやろてカーテン開けんかってんよ」
 私の安息の地は保健室にあるらしい。
 家ではなく。
 届けてくれたかばんを受け取り、保健室を辞す。そのまま左に向かいかけたのが、
「ちょ、真咲さん!」肘を掴まれる。「どこ行こうとしてんの」
「だってみんな心配してるだろうし、顔だけでも出そうと思って。紗優にかばんのお礼も言ってないし」
「いいんだよそんなんしなくてっ」
「でも、」
「行くよ帰るよ? ひょっとしたらこの会話を聞いてるかもな田中ちゃんに後でドツかれても知らないよ?」
「田中先生は私に乱暴なことなんかしないもん」
「んじゃ僕が、」
 突然に顔を背け。
 咳払いをした。
 ……なんとなく、
 なにも言えなくなった。
 先をずんずん歩く、
 和貴の赤い耳を見ていると。
 それと、やっぱり。
 ただの肘を掴まれる、それがブレザー越しであっても、
 和貴だと知覚できるのだった。
 例えば、マキとはまるで違う。
 左手だからってわけじゃなくて、
 ……非常に、熱くなる。

 三年生にあがってから彼と下駄箱の位置が近くなった。内履きに指をかけ、戻し入れる。
「真咲さん、さっきの話聞いとったでしょ?」
 黙りっぱだった和貴が不意に扉越しに笑う。
「や全然」
 扉を閉める手に必要以上に力が入った。
「目が、泳いどる」
「泳いでない左上も見てない髪も触ってない! ほかになんかある?」
「ないよ? ほんでも真咲さん、……右を振り返ってみようか。彼はキミに用があるみたいだよ」

 和貴が見あげる私の背後には、
 ずぶ濡れの水野くんが立っていた。

「申し訳ありませんでした」
 頭を下げると、濡れた短髪からまた水が滴る。額から前髪から何本も雨の筋が走る。
「い。いいよ全然。気にしなくって」
 それよりも雨に濡れた彼の全身が気になる。……駅伝選手っぽいショートパンツにタンクトップ。風邪引きそうだけど、練習中なのだろうか?
「真咲さんて体重軽いしまっさかあんな飛ぶとは思わなかったしょ? びっくりだよね。足、浮いてたっけ?」
「正直な。……あんま力入れたつもりなかったんけどな」
 まじまじと水野くんが自分の手を見つめる。
 私は鳥か紙飛行機かなんなのでしょう。
「どっか、痛むとこはあるか」
「ぜんぜん」
「なんかあったら。いや……なくっても、いつでも行ってくれ。病院とか行かんかっても、」
「本当に、平気だから。でもありがとう。水野くん」
 彼の立つ位置に水たまりができてる。「……半日で帰れるのに。練習して行くんだね」しかもこの雨のなかを。
「一日でも欠かすとからだが鈍る」

「水野は練習熱心だかんね。僕とは違って」

 水野くんと一斉に和貴を振り返った。
「……なんだよ」
 私たちの目線を集めて和貴は戸惑う。
「女にうつつ抜かしとっとああなる。都倉、気ぃつけいや」
「ありがとう水野くん。あんなひとはほうっておいて、陸上部の練習、頑張ってね」
 ぬわにぉおっ、と叫ぶ和貴に対して、
 水野くんは初めて目にする笑みを乗せて、雨の降りしきる屋外へ戻っていった。
 和貴とはまた違う綺麗な走りを、あたたかいような気持ちで見送る。
 さっきまでとは違う気持ちだった。
「わっ、急に触らないでよ」
 出し抜けに後頭部に触れる手があった。
「頭ぼさぼさじゃん。……結構いろんなとこぶつけたんしょ? ちゃんと水野に言わなきゃ駄目だよ。痛かったんだって」
「ううん、いいのそんなの」
「いいのって……よくはない」
 それよりも私。
 じぃっと見つめてると和貴はまた、目の丸い、子リスに似た顔をする。
「な、に? 僕の顔になんかついとる?」
「目と鼻と口が。じゃ帰ろ」
 気にしてか頬をなぞる和貴を背に、
 こっそり、含み笑いをする。

 他人行儀に、水野くんって呼んでたのが、いつの間にか水野、に戻ってる。
 友達だった頃は、そう呼べる間柄だったんだろうね。
 和貴は基本男子を呼び捨てで呼ぶから。

 振り返ると和貴はまだほっぺたを気にしてた。
 目が合うと、ブタ鼻を作る。
 それであの奇跡的な表情。
 お腹を押さえて笑う。

「真咲ぃー! あんた大丈夫やったかーっ」
 でっかい声がする。
 下駄箱のほうから紗優がやってきた。
 ズックなのに水野くんの残した水たまりを踏みつけ、
 私にハグ。
「あんもー心配してんよ。痛いとこないが?」
「へーき」
 頭のぼさぼさがそんなに酷いのか。紗優が美容師みたく素早くポケットから櫛を出して整えてくれた。
「宮本先生にだけは唯一隠し通せませんでしたが。穏便に処理してくださいました。安心してください」
「頭をそれ以上ぶつけるな。馬鹿になる。いや方向音痴が治るかもしれねえな」
 タスクに、マキも……。
 土足厳禁関係なしに。
「あそうだ紗優。かばん、ありがとう」
「そんなのいーて! でもなんか顔見たら……元気そで安心した」
「私意外と丈夫なんだよ」
「自分で意外とか言わねえだろ。病弱ぶってんじゃねえぞ」
「れ。部活どーしたのそういや。全員お揃いで」
「趣向を変えてたまには課外授業と行きましょう。目的地はきよかわです」
「……カラオケ?」
「遊びやていいなや」
 ええ?
 私と和貴は病気で早退扱いですよ?

 というのに。
 傘を差し肩を並べ歩き出す。
 目的地を共に。
 ここが、私の居場所だ。
 あたたかくって大好きな。
 そして永遠に続くものではなく。

 こんな私たちを、散りかけた春の桜と、やや強い風に煽られる雨とが、送り出してくれた。
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