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第十四章 真咲の分を殴らせろっ
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クリーニングから戻ってきたての制服に袖を通すと身の引き締まる思いがする。
成人したわけでもなしに。
本日四月六日から特別なイベントが開始するのでもなしに。
自動的に進級したという現実が待つだけだ。
この事実に、変わらなければならないという必然を覚える。
それは例えば。
階下から母に呼び起こされる前に自力で目を覚ますとか。
寝ぐせのひどい頭で学校に行かない、とかそういうたぐいのことを。
生憎の雨だった。
せっかく花をつけたばかりの桜もまもなくして散ることだろう。海風に手伝われ。
されど、雨に濡れそぼる桜を眺めるのも悪くはない。
桜の花弁が雨粒と共に舞う風雅を網膜に刻みつつ、学校へ続く大通りを歩く。たくさんのビニール傘の花が咲き、そしてブレザーを脱いだ男子生徒のポロシャツの白が光って浮いて見えた。湿度を封じ込めたかの蒸し蒸しとした、まるでビニールハウス内の暑さのさなか、長袖に上着を羽織れというのも酷というものだろう。
それだって校門に着く辺りで再び着用することとなる。竹刀を持った体育教師が門番の役割を務めている。
東京でバス通学なり電車通学をする人間のかなりがそうするように、天候の悪いと予想のつく日には早めに家を出る。
到着が普段より早かろうとも、生徒玄関は傘立てに傘を立てる生徒でごった返していた。人と人の隙間を縫ってたどり着くまでに時間を要す。傘を持ったまま混雑に突入し誰かを濡らすのは気が引ける。みんな同じに考えているのだろう。
やや強引に道を切り開く男子の黒子になって前方に躍り出る。
後ろで見ている人々が気になり身を低くする。
自分の名前を探すことと。
素早く交友関係を確かめることとに専念する。
三年、一組。
担任は宮本先生だった。
見るべき最小限を確かめたので腰を屈めて群れを抜ける。
「おっはよー真咲ぃ」
同じく、一組となった紗優に出くわした。
「おはよ。私たち同じ一組だよ、よろしくね」
「そーなん!? やーん超うれしーっ!」
飛び跳ねるくらい喜んで貰えて私も嬉しい。
紗優は抜かりなくジャンプのついでに自分の名前を確かめた。……背が高めだと言い方はなんだがこういうときに便利だと思う。
「おはよ。元気そうだね。紗優、真咲さん」
「あ」和貴だ。「おはよう。みんな同じ一組だね。一年間よろしくね」
紗優に言ったことと同じことを言ったところ何故だか和貴は「うっ」と口を押さえて横を向いた。
「あ。タスクこっちこっち! おっはよー」
好きな人を見つけることは反射的なものだ。
和貴は同じ方角を見ていたはず。
それが、紗優のほうが反応は速かった。
傘を畳んで傘立てに立て、タスクは背筋を伸ばしたずいぶん姿勢のいい歩き方で私たちのところにやってきた。
「お久しぶりですねみなさん。お休み中はいかがお過ごしでしたか」
「……こないだ会ったばっかやんか。なんやのその他人行儀な言い方」
肘でタスクの脇腹をつつく紗優は「わ。やわかいタスクのお腹ぁ」
「ぶよぶよ?」なんて笑って和貴が加勢すると……二人ともくすぐり始める。
最初は子どもの言動を好きにさせる、保父さんぽい余裕を保っていたタスクが、「ちょ、ちょっとや、めてくださいぃィ」
らしからぬ奇声を上げ始めた頃に、
「……なにやってんだおまえら」
威圧感を伴う低音を聞く。
確かめずとも分かるこの存在感。長身の成す影の長さといい。
止まったかの鼓動のあとに早打ちを始める、これが私の反射能力だと思う。
確かめるのに緊張を伴う……
「おっはよぉーマキ」
「……ああ」
髪。
切ったんだ……。
春休み前よりも前髪のジグザグが全体に短くなってる。銀縁眼鏡にかかって邪魔そうだったのがかかるかかからないかの長さになってる。
二週間ぶりに目にする私の好きな人は。
あまりにも格好良くって、……胸が潰れそうになる。
「長谷川は四組だ。おまえら三人は一組」
「マキは何組なん?」
どうでもよさそうに、
「三組だ」
――ああ。
彼の口から、彼が違う場所に向かうことを聞きたくはなかった。
分かってはいても。
でも。同じ部活なんだからそれだけでいいじゃない。
意識下から追い出せない私はそう思うようにした。
あれから。
誰にも、紗優にだって自分の気持ちを明かしてはいない。
図々しいことに、もっと早くこの恋を自覚していたら――告白していたらいまは違ったのだろうかと想像することだってある。
私はそれをしなかったのだから、考えなおすのも栓のない話だ。
こんな感情の一切を。
普通ごみのようにまとめて片付けられないのならば、時が来るのを待つのみ。
花をつけた桜がやがては散る――かような自然の摂理と同じく、流れゆく水のごとく傍観する……自分の恋であるはずなのに、外的要因に任せるだけの、私は。
アウトサイダーなのだった。
片思いとは、個性を埋没させる努力なのかもしれない。
二年のときと比べて生徒玄関から教室が近くなった。もっとも近いのが一組、それから二組三組四組と順に続く。
「じゃあな」
名残惜しさを微塵も感じさせず、消えていく彼のことを見送る。
大きな図体を突っ伏して授業中に居眠りするのを。
起きてあくび噛み殺す、きつい眼差しが和らぐ涙目を。
「やる」私が欠席をした翌日にノートを突き渡す、あの言動を。
二度と、同じ教室で眺められない。
思い返し、それが思い出と化すことにも寂しさを噛み締めた。
「なしてタスクも一組来んの」
「坂田くんにCDを借りてまして。『MTV Unplugged in New York』……一日遅れたのでご立腹かもしれませんね」
私に分からない単語で紗優にタスクが含み笑いで答えると、先頭を切った和貴が「げッ」と声をあげた。
「朝っぱらから桜井見てしもた。最っ悪や」
――当の、坂田くんだ。
教室の入り口を塞ぐように立っている。
ものの、表情がやけに険しいというか……
「それはこっちの台詞だよ。新学期早々こーんなやつに遭遇するなんて気分が悪いっ悪すぎるっ」
この二人、いつの間にこんな仲が悪くなったのか。
「んなっ」紗優を発見すると一変、坂田くんは嬉々として「みっやざわさーん! オレらおんなじクラスなん運命ちゃうんか? さーさー入って入ってー」
「も、あんたっ、痛いっ引っ張らんといてやっ」
……強引だ。
少々嫌がられようと彼女をそのまま教室へ引っ張りこんだ。
CD返すタイミングも見失ったみたい。
タスクは私を見て微苦笑すると、教室に入っていった。
「……んだよくそ」
ちょっとビビる。
低い声で不快を露わにする。
まさに、悪い人モードの和貴再び。
「どうしたの? 紗優の誕生日のとき、二人で協力して……たんでしょ。その、」
「あいつとは別行動だった」
ポケットに両手突っ込む彼が、焼き餅焼いてる小学生の男の子に重なって見えた。
「和貴に嫌いな人なんているんだ?」
「そりゃあ。いるよ」
ますます機嫌悪くさせそうだからなんだか、なにも言えず。
そこを、
「う。あーっ! 犯人はおっまえやったんかぁあー長谷川ぁああ! 一枚足りひん思うとってんや」
「どしたの?」私と和貴が駆けつけると、信じられないと頭を抱えてわめく坂田くんの代わりにタスクが答える。「坂田くんは、毎年カート・コバーンの命日に、『Nirvana』の全CDを並べて黙祷するそうでしてね。僕が借りていたのでそれができなかったのですよ」
カート・コバーン。「て誰?」
周りにいる何人かの視線が私に集まる。
「……『Nirvana』のボーカルです。退廃的な曲調を魅力とした、九十年代前半にかけて一世を風靡した伝説的なバンドですね。ボーカルの彼が自殺した日が四月五日でして、命日をいまだ多くのファンが偲びます。坂田くんもそのうちの一人だったようですね」
「死ぬことへの恐怖よりも現世を生き続ける苦痛が勝るだなんて」死への衝動は誰しもが持つとはいえ、「よっぽど苦しいことがあったんだろうね」
「……真咲あんた。知らんなんて『The Red and The Black』のファンの前で言うたらいかんよ。熱狂的ファンは坂田だけやなくてカート・コバーンも好いとんのやし」
「はあ。そうなんだ」
「なぜに、一枚足りひんのを気づかんかってんやぁあ」と絶叫を続ける彼のどこが魅力なのか、私には皆目理解できず。
のんびりした、新学期初日を迎える三年一組の教室に。
進級することへのほのかな緊張感と、新しいクラスメートと迎える、真新しい空気が満ちる。
談笑してる子たちばかりのなかで――
先ず。
タスクがからだの向きを変えた。
坂田くんのほうを向いて微笑んでいたのがやや眉を寄せ。
入り口のほうから、
なにか急報でも知らせる、けたたましい足音がする。入り口近くの何人かも異変に気づいたようだ。
窓ガラスにシルエットが浮かぶ。
轟音と呼ぶに相応しい、
蹴破るようにドアを開いた存在に、
文字通り私たちの平穏な空気は破られた。
「桜井はおるか!?」
血相を変えた男子――彼は。
『都倉さん、教えたるわ。そいつはな、友達から女奪って遊んどるよーなやつや』
……和貴が豹変するきっかけを与えた男の子だ。
「僕ならここにおるけど? 見てのとーり。どったの? こっわい顔してさー般若みたい」
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った教室で、思いのほか和貴は呑気に言う。
入り口から、
私の隣から、
進む、彼と彼とが、
教卓の前で合流する。
と、
「おっまえふざけんな! 知っとったんか、あいつのこと。あいつがっ……」
胸ぐらを掴む。
一触即発。
なのになおも和貴は声を立てて笑う。「あっれえもー聞いちゃったのお? 情報早いねーさっすがアシの早い陸部部長なだけのことはあんねえ」
見開いた人間の瞳が、
理性をかなぐり捨てる動きで、
掴んでいた胸ぐらを放り出す。
拳で、
振りかぶり、
力任せに、
和貴の、
ことを、――殴りつけた。
叫ぶ間も、驚く間も、与えられなかった。
後ろから倒れこむ。
ブレザーの背中が床にこすれ、滑り、勢いあまって坂田くんの足元へ届く勢いだった。
――またも、
反応が遅れた私は、周りの子が絶叫するのにようやく、追いつける始末だった。
なにが起きているのかを。
「いったいなあー」
なのに、和貴は。
「暴力でなんでも解決しようとするのはよくないよ。僕が喧嘩しても水野くんには勝てないって」
殴られたはずなのに。
痛むこともない調子で、底抜けに明るく、そう言うのだった。
私からは後ろしか確かめられない。茶髪の髪が揺れる。口許を拭うのが分かった。
確かめられるのは、それを受けて、いまだ青ざめ、……怒りに震える行動主体だった。
被害者ではなく、
加害者だった。彼は。
「……水野くん」
「あ?」
キレているひとの瞳に捉えられる。
「なにがあったか知らないけど。いきなり人の教室来て、事情もきかず一方的に殴るなんて、失礼じゃない」
私のほうから接近する。
落ち着いて諭すようにと脳が命令を下したけれど、下げていた彼の拳を見て、
胃の底が煮えたぎる思いがした。
和貴を殴った拳に和貴の血がついていた。
口が切れるほどの一撃を見舞った。
彼を殴り倒したい――そういう、強烈な衝動が内側から湧くのを感じた。
「部外者はすっこんでろ! 俺は桜井に話しとんのやっ」
顔に唾が飛ぶ。
我を失う人間を目の当たりにしようとも、
私はまったく怖さを感じなかった。
何故なら、彼よりも抑えがたい怒りに駆られている。
和貴を隠す位置を意識する。
からだじゅうから震えるほどの白い、冷静な熱を感じる。
拳を強く固めねば自制を保てないほどだった。
「どけ」
「嫌だ」
誰も守れなかった。
紗優のことも見てるだけでなんにもできなかった。
今度こそは、守りたかった。
「それに。部外者じゃない。私は和貴のともだ、」
こういう状況で正義漢を気取るのが、
相手の怒りを煽ることを。
すこしは分かっていた、
でも守れるんなら、
矛先を、逸らせるのなら、
それでいいと、
私は、思った。
避けるつもりが無かったのか、
いや私の反射神経がかなり鈍いだけだったのだろう。
振り払う手がどんどん大きくなり、
こんな風にどこか遠巻きに、
他人ごとのように見ていた。
傍の机と椅子と。
倒れた椅子だかに足を取られ、
いくつ巻き込んだんだろう。
受け身を取れなかった香川の残像が自分と重なる。
ああ私もそういう、状況だ。
重力加速度に任せるしか脳のない、埃が鼻を刺激する、自分がなにを見ているか分からず。
最低限に頭をかばい、目をつぶる。
静寂が――訪れる。
遅れて、痛みが湧く。当たった机のへりからパイプから非人間の冷たい硬さが。
痛いといってもどこが明確に痛いのかよく分からない。自分がどんな体勢をしているかもいまひとつ。スカートめくれてたりしないだろうか。
おかしなことに、暗闇を小蝿に似た星がちらつく。
「や、だ、……あああ!」
紗優だった。
「やだねえ、ちょっと! しっかりしてえ真咲っ!」
絹の引き裂かれるような、叫びだった。
駆けつける紗優に、抱えられ、上体を起こされる。浜に打ち上げられるセイウチかなにかを不覚にも連想した。内心でも笑える元気があるから平気なのだろう。
二度頷く。
ヘーキだよって笑うつもりが、頭がふらついて、まだできなかった。
もう一つ、足音が動いた。
その主体は、なにか、机だろうか、すごい勢いで蹴り飛ばす。唾棄する。
そしてこっちに向かう、
違う、
「水野てめえっ」
対象は、
「やっ……」
怒りが次から次にウイルスのごとく感染する。
私はそれが、――
彼が振るうこと自体が、怖かった。
止めたのは、
「桜井くん、――落ち着いてください」
「タスクは黙ってろ! 人が下手に出ればいい気になりやがっててめえ、ふざけんな! 真咲の分を殴らせろっ」
離せえ、と彼が絶叫するのを。
愛らしい小動物で一見平和主義者な、彼の。
いまにも暴走しかねないエネルギーを、
さっきの坂田くんよりもわめく彼をまた、誰かが止める気配が加わる。
……こんなに憤る和貴を初めて知った。
私は大丈夫だから。
水野くんがあっ、と声を発した。振り払った彼が罪悪と驚きと後悔とに駆られるのを、私はこの目にしかと捉えた。
伝えたかったのに、私は目の前の星を落ち着かせるのに精一杯で。
もう一度瞼に力を込める。うっすらすこしずつ、開いた。
水野くんを守るように立つタスクのほかには。
後ろから羽交い絞めにする坂田くんを見た。
それでも振りほどこうとする和貴に、なにか耳打ちすると、
動きが、止まった。
それを受けてかタスクが周りを見回して口を開いた。
「宮沢さんは都倉さんを。坂田くんは桜井くんを、僕は水野くんを保健室へ連れて行きます。すみませんが、そこの机は直しておいて頂けませんか。騒ぎにしたくはありませんので皆さん、いま見たことに聞いたことは先生方に黙っておいて頂けますか」
「……なに仕切ってやがんだてめ」
水野くんの声は、消耗し尽くしたようで力がなかった。
「僕に従って頂きますよ。推薦狙いが暴力沙汰を起こすのはまずいでしょう? それとここにいる全員もですね。もし不満があるようでしたら。或いは余計な口を滑らすようでしたらいつでも『永迂光愚蓮会』が挨拶に参りますよ」
タスクは冷酷な笑みと共にパキパキと拳を鳴らした。
以降のことはあまり、記憶していない。
紗優の支えを借りて保健室の敷居をまたぎ、気がつけばベッドのうえだった。
成人したわけでもなしに。
本日四月六日から特別なイベントが開始するのでもなしに。
自動的に進級したという現実が待つだけだ。
この事実に、変わらなければならないという必然を覚える。
それは例えば。
階下から母に呼び起こされる前に自力で目を覚ますとか。
寝ぐせのひどい頭で学校に行かない、とかそういうたぐいのことを。
生憎の雨だった。
せっかく花をつけたばかりの桜もまもなくして散ることだろう。海風に手伝われ。
されど、雨に濡れそぼる桜を眺めるのも悪くはない。
桜の花弁が雨粒と共に舞う風雅を網膜に刻みつつ、学校へ続く大通りを歩く。たくさんのビニール傘の花が咲き、そしてブレザーを脱いだ男子生徒のポロシャツの白が光って浮いて見えた。湿度を封じ込めたかの蒸し蒸しとした、まるでビニールハウス内の暑さのさなか、長袖に上着を羽織れというのも酷というものだろう。
それだって校門に着く辺りで再び着用することとなる。竹刀を持った体育教師が門番の役割を務めている。
東京でバス通学なり電車通学をする人間のかなりがそうするように、天候の悪いと予想のつく日には早めに家を出る。
到着が普段より早かろうとも、生徒玄関は傘立てに傘を立てる生徒でごった返していた。人と人の隙間を縫ってたどり着くまでに時間を要す。傘を持ったまま混雑に突入し誰かを濡らすのは気が引ける。みんな同じに考えているのだろう。
やや強引に道を切り開く男子の黒子になって前方に躍り出る。
後ろで見ている人々が気になり身を低くする。
自分の名前を探すことと。
素早く交友関係を確かめることとに専念する。
三年、一組。
担任は宮本先生だった。
見るべき最小限を確かめたので腰を屈めて群れを抜ける。
「おっはよー真咲ぃ」
同じく、一組となった紗優に出くわした。
「おはよ。私たち同じ一組だよ、よろしくね」
「そーなん!? やーん超うれしーっ!」
飛び跳ねるくらい喜んで貰えて私も嬉しい。
紗優は抜かりなくジャンプのついでに自分の名前を確かめた。……背が高めだと言い方はなんだがこういうときに便利だと思う。
「おはよ。元気そうだね。紗優、真咲さん」
「あ」和貴だ。「おはよう。みんな同じ一組だね。一年間よろしくね」
紗優に言ったことと同じことを言ったところ何故だか和貴は「うっ」と口を押さえて横を向いた。
「あ。タスクこっちこっち! おっはよー」
好きな人を見つけることは反射的なものだ。
和貴は同じ方角を見ていたはず。
それが、紗優のほうが反応は速かった。
傘を畳んで傘立てに立て、タスクは背筋を伸ばしたずいぶん姿勢のいい歩き方で私たちのところにやってきた。
「お久しぶりですねみなさん。お休み中はいかがお過ごしでしたか」
「……こないだ会ったばっかやんか。なんやのその他人行儀な言い方」
肘でタスクの脇腹をつつく紗優は「わ。やわかいタスクのお腹ぁ」
「ぶよぶよ?」なんて笑って和貴が加勢すると……二人ともくすぐり始める。
最初は子どもの言動を好きにさせる、保父さんぽい余裕を保っていたタスクが、「ちょ、ちょっとや、めてくださいぃィ」
らしからぬ奇声を上げ始めた頃に、
「……なにやってんだおまえら」
威圧感を伴う低音を聞く。
確かめずとも分かるこの存在感。長身の成す影の長さといい。
止まったかの鼓動のあとに早打ちを始める、これが私の反射能力だと思う。
確かめるのに緊張を伴う……
「おっはよぉーマキ」
「……ああ」
髪。
切ったんだ……。
春休み前よりも前髪のジグザグが全体に短くなってる。銀縁眼鏡にかかって邪魔そうだったのがかかるかかからないかの長さになってる。
二週間ぶりに目にする私の好きな人は。
あまりにも格好良くって、……胸が潰れそうになる。
「長谷川は四組だ。おまえら三人は一組」
「マキは何組なん?」
どうでもよさそうに、
「三組だ」
――ああ。
彼の口から、彼が違う場所に向かうことを聞きたくはなかった。
分かってはいても。
でも。同じ部活なんだからそれだけでいいじゃない。
意識下から追い出せない私はそう思うようにした。
あれから。
誰にも、紗優にだって自分の気持ちを明かしてはいない。
図々しいことに、もっと早くこの恋を自覚していたら――告白していたらいまは違ったのだろうかと想像することだってある。
私はそれをしなかったのだから、考えなおすのも栓のない話だ。
こんな感情の一切を。
普通ごみのようにまとめて片付けられないのならば、時が来るのを待つのみ。
花をつけた桜がやがては散る――かような自然の摂理と同じく、流れゆく水のごとく傍観する……自分の恋であるはずなのに、外的要因に任せるだけの、私は。
アウトサイダーなのだった。
片思いとは、個性を埋没させる努力なのかもしれない。
二年のときと比べて生徒玄関から教室が近くなった。もっとも近いのが一組、それから二組三組四組と順に続く。
「じゃあな」
名残惜しさを微塵も感じさせず、消えていく彼のことを見送る。
大きな図体を突っ伏して授業中に居眠りするのを。
起きてあくび噛み殺す、きつい眼差しが和らぐ涙目を。
「やる」私が欠席をした翌日にノートを突き渡す、あの言動を。
二度と、同じ教室で眺められない。
思い返し、それが思い出と化すことにも寂しさを噛み締めた。
「なしてタスクも一組来んの」
「坂田くんにCDを借りてまして。『MTV Unplugged in New York』……一日遅れたのでご立腹かもしれませんね」
私に分からない単語で紗優にタスクが含み笑いで答えると、先頭を切った和貴が「げッ」と声をあげた。
「朝っぱらから桜井見てしもた。最っ悪や」
――当の、坂田くんだ。
教室の入り口を塞ぐように立っている。
ものの、表情がやけに険しいというか……
「それはこっちの台詞だよ。新学期早々こーんなやつに遭遇するなんて気分が悪いっ悪すぎるっ」
この二人、いつの間にこんな仲が悪くなったのか。
「んなっ」紗優を発見すると一変、坂田くんは嬉々として「みっやざわさーん! オレらおんなじクラスなん運命ちゃうんか? さーさー入って入ってー」
「も、あんたっ、痛いっ引っ張らんといてやっ」
……強引だ。
少々嫌がられようと彼女をそのまま教室へ引っ張りこんだ。
CD返すタイミングも見失ったみたい。
タスクは私を見て微苦笑すると、教室に入っていった。
「……んだよくそ」
ちょっとビビる。
低い声で不快を露わにする。
まさに、悪い人モードの和貴再び。
「どうしたの? 紗優の誕生日のとき、二人で協力して……たんでしょ。その、」
「あいつとは別行動だった」
ポケットに両手突っ込む彼が、焼き餅焼いてる小学生の男の子に重なって見えた。
「和貴に嫌いな人なんているんだ?」
「そりゃあ。いるよ」
ますます機嫌悪くさせそうだからなんだか、なにも言えず。
そこを、
「う。あーっ! 犯人はおっまえやったんかぁあー長谷川ぁああ! 一枚足りひん思うとってんや」
「どしたの?」私と和貴が駆けつけると、信じられないと頭を抱えてわめく坂田くんの代わりにタスクが答える。「坂田くんは、毎年カート・コバーンの命日に、『Nirvana』の全CDを並べて黙祷するそうでしてね。僕が借りていたのでそれができなかったのですよ」
カート・コバーン。「て誰?」
周りにいる何人かの視線が私に集まる。
「……『Nirvana』のボーカルです。退廃的な曲調を魅力とした、九十年代前半にかけて一世を風靡した伝説的なバンドですね。ボーカルの彼が自殺した日が四月五日でして、命日をいまだ多くのファンが偲びます。坂田くんもそのうちの一人だったようですね」
「死ぬことへの恐怖よりも現世を生き続ける苦痛が勝るだなんて」死への衝動は誰しもが持つとはいえ、「よっぽど苦しいことがあったんだろうね」
「……真咲あんた。知らんなんて『The Red and The Black』のファンの前で言うたらいかんよ。熱狂的ファンは坂田だけやなくてカート・コバーンも好いとんのやし」
「はあ。そうなんだ」
「なぜに、一枚足りひんのを気づかんかってんやぁあ」と絶叫を続ける彼のどこが魅力なのか、私には皆目理解できず。
のんびりした、新学期初日を迎える三年一組の教室に。
進級することへのほのかな緊張感と、新しいクラスメートと迎える、真新しい空気が満ちる。
談笑してる子たちばかりのなかで――
先ず。
タスクがからだの向きを変えた。
坂田くんのほうを向いて微笑んでいたのがやや眉を寄せ。
入り口のほうから、
なにか急報でも知らせる、けたたましい足音がする。入り口近くの何人かも異変に気づいたようだ。
窓ガラスにシルエットが浮かぶ。
轟音と呼ぶに相応しい、
蹴破るようにドアを開いた存在に、
文字通り私たちの平穏な空気は破られた。
「桜井はおるか!?」
血相を変えた男子――彼は。
『都倉さん、教えたるわ。そいつはな、友達から女奪って遊んどるよーなやつや』
……和貴が豹変するきっかけを与えた男の子だ。
「僕ならここにおるけど? 見てのとーり。どったの? こっわい顔してさー般若みたい」
先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った教室で、思いのほか和貴は呑気に言う。
入り口から、
私の隣から、
進む、彼と彼とが、
教卓の前で合流する。
と、
「おっまえふざけんな! 知っとったんか、あいつのこと。あいつがっ……」
胸ぐらを掴む。
一触即発。
なのになおも和貴は声を立てて笑う。「あっれえもー聞いちゃったのお? 情報早いねーさっすがアシの早い陸部部長なだけのことはあんねえ」
見開いた人間の瞳が、
理性をかなぐり捨てる動きで、
掴んでいた胸ぐらを放り出す。
拳で、
振りかぶり、
力任せに、
和貴の、
ことを、――殴りつけた。
叫ぶ間も、驚く間も、与えられなかった。
後ろから倒れこむ。
ブレザーの背中が床にこすれ、滑り、勢いあまって坂田くんの足元へ届く勢いだった。
――またも、
反応が遅れた私は、周りの子が絶叫するのにようやく、追いつける始末だった。
なにが起きているのかを。
「いったいなあー」
なのに、和貴は。
「暴力でなんでも解決しようとするのはよくないよ。僕が喧嘩しても水野くんには勝てないって」
殴られたはずなのに。
痛むこともない調子で、底抜けに明るく、そう言うのだった。
私からは後ろしか確かめられない。茶髪の髪が揺れる。口許を拭うのが分かった。
確かめられるのは、それを受けて、いまだ青ざめ、……怒りに震える行動主体だった。
被害者ではなく、
加害者だった。彼は。
「……水野くん」
「あ?」
キレているひとの瞳に捉えられる。
「なにがあったか知らないけど。いきなり人の教室来て、事情もきかず一方的に殴るなんて、失礼じゃない」
私のほうから接近する。
落ち着いて諭すようにと脳が命令を下したけれど、下げていた彼の拳を見て、
胃の底が煮えたぎる思いがした。
和貴を殴った拳に和貴の血がついていた。
口が切れるほどの一撃を見舞った。
彼を殴り倒したい――そういう、強烈な衝動が内側から湧くのを感じた。
「部外者はすっこんでろ! 俺は桜井に話しとんのやっ」
顔に唾が飛ぶ。
我を失う人間を目の当たりにしようとも、
私はまったく怖さを感じなかった。
何故なら、彼よりも抑えがたい怒りに駆られている。
和貴を隠す位置を意識する。
からだじゅうから震えるほどの白い、冷静な熱を感じる。
拳を強く固めねば自制を保てないほどだった。
「どけ」
「嫌だ」
誰も守れなかった。
紗優のことも見てるだけでなんにもできなかった。
今度こそは、守りたかった。
「それに。部外者じゃない。私は和貴のともだ、」
こういう状況で正義漢を気取るのが、
相手の怒りを煽ることを。
すこしは分かっていた、
でも守れるんなら、
矛先を、逸らせるのなら、
それでいいと、
私は、思った。
避けるつもりが無かったのか、
いや私の反射神経がかなり鈍いだけだったのだろう。
振り払う手がどんどん大きくなり、
こんな風にどこか遠巻きに、
他人ごとのように見ていた。
傍の机と椅子と。
倒れた椅子だかに足を取られ、
いくつ巻き込んだんだろう。
受け身を取れなかった香川の残像が自分と重なる。
ああ私もそういう、状況だ。
重力加速度に任せるしか脳のない、埃が鼻を刺激する、自分がなにを見ているか分からず。
最低限に頭をかばい、目をつぶる。
静寂が――訪れる。
遅れて、痛みが湧く。当たった机のへりからパイプから非人間の冷たい硬さが。
痛いといってもどこが明確に痛いのかよく分からない。自分がどんな体勢をしているかもいまひとつ。スカートめくれてたりしないだろうか。
おかしなことに、暗闇を小蝿に似た星がちらつく。
「や、だ、……あああ!」
紗優だった。
「やだねえ、ちょっと! しっかりしてえ真咲っ!」
絹の引き裂かれるような、叫びだった。
駆けつける紗優に、抱えられ、上体を起こされる。浜に打ち上げられるセイウチかなにかを不覚にも連想した。内心でも笑える元気があるから平気なのだろう。
二度頷く。
ヘーキだよって笑うつもりが、頭がふらついて、まだできなかった。
もう一つ、足音が動いた。
その主体は、なにか、机だろうか、すごい勢いで蹴り飛ばす。唾棄する。
そしてこっちに向かう、
違う、
「水野てめえっ」
対象は、
「やっ……」
怒りが次から次にウイルスのごとく感染する。
私はそれが、――
彼が振るうこと自体が、怖かった。
止めたのは、
「桜井くん、――落ち着いてください」
「タスクは黙ってろ! 人が下手に出ればいい気になりやがっててめえ、ふざけんな! 真咲の分を殴らせろっ」
離せえ、と彼が絶叫するのを。
愛らしい小動物で一見平和主義者な、彼の。
いまにも暴走しかねないエネルギーを、
さっきの坂田くんよりもわめく彼をまた、誰かが止める気配が加わる。
……こんなに憤る和貴を初めて知った。
私は大丈夫だから。
水野くんがあっ、と声を発した。振り払った彼が罪悪と驚きと後悔とに駆られるのを、私はこの目にしかと捉えた。
伝えたかったのに、私は目の前の星を落ち着かせるのに精一杯で。
もう一度瞼に力を込める。うっすらすこしずつ、開いた。
水野くんを守るように立つタスクのほかには。
後ろから羽交い絞めにする坂田くんを見た。
それでも振りほどこうとする和貴に、なにか耳打ちすると、
動きが、止まった。
それを受けてかタスクが周りを見回して口を開いた。
「宮沢さんは都倉さんを。坂田くんは桜井くんを、僕は水野くんを保健室へ連れて行きます。すみませんが、そこの机は直しておいて頂けませんか。騒ぎにしたくはありませんので皆さん、いま見たことに聞いたことは先生方に黙っておいて頂けますか」
「……なに仕切ってやがんだてめ」
水野くんの声は、消耗し尽くしたようで力がなかった。
「僕に従って頂きますよ。推薦狙いが暴力沙汰を起こすのはまずいでしょう? それとここにいる全員もですね。もし不満があるようでしたら。或いは余計な口を滑らすようでしたらいつでも『永迂光愚蓮会』が挨拶に参りますよ」
タスクは冷酷な笑みと共にパキパキと拳を鳴らした。
以降のことはあまり、記憶していない。
紗優の支えを借りて保健室の敷居をまたぎ、気がつけばベッドのうえだった。
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