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insider
第一話(5)同居中の姑にいびられ悩める女
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「お義母さんも弘人(ひろと)も! だらだらテレビばっか見てないで弘人は学校! お義母さんは後片付けくらいしてくださいよ!」
恨めしそうに義母が言う。「……鬼嫁が」
「鬼嫁でもなんでも結構! 弘人! 学校の支度終わってんの!? お母さんもう行くわよ!」
「へいへーい」
学ラン姿で部屋に戻った弘人は、学生かばんを手に、
「じゃあ、行ってくるな。ばーちゃん」
「わたしはあんたのばーちゃんでもなんでもないわ」
「はは。とんだツンデレキャラだよなばーちゃん」
「弘人! 時間がない! もう行こ!」
「へいへーい」
朝の、玲子の日課は、自転車で、弘人を中学まで送り届け、そこから勤務先に出勤することである。
友哉に抱かれてから、三年余りの歳月が経過していた。
夫は、三十八歳という若さで急死した。
悲しみのあまり、義母は、養子を迎え入れることを了承してくれた。ところが、あの態度だ。
それでもまあ、かつて玲子にしたような、えぐいいじめをしない辺り、弘人のことが気に入っていることがうかがえる。
玲子は無事正社員の仕事を見つけ、毎日仕事に邁進する日々を過ごしている。
義母は――相変わらずだが、それでも、アウトサイダーだった弘人の出現で、若干丸くなったように思われる。あくまで玲子比だが。
介護の仕事はきついが、無資格だった自分を雇ってくれただけありがたい。勤務しながら無事資格を取得し、仕事の範囲が広がったこと、そして、給与があがったことに、喜びを感じる玲子である。
帰りはくったくただが。それでもスーパーに寄り、夕食を作る。いまでは、亡き夫に感謝をしている。あのひとがあれだけ出来合いの惣菜を嫌がったお陰で自分の料理の腕前はぐんぐんあがった。
――今日は、カレーにしよう。
奇しくも、今日は、あのひとの命日。
時間はかかるけれども、あのひとの大好きだった料理で、弔ってやりたい――。
もし、あのひとが、元気だったら、今頃は、別の感情を抱いていただろう。
弘人も、引き取っていなかった。
悲しいは、悲しい。けども、憎んでいた頃よりもいまのほうが楽だ。毎日、毎日、暗い穴倉に閉じ込められたような強制と孤独の井戸にいて。だったら、目の回るような忙しさと多幸に満たされるいまを選ぶ。
なにもかもが縁だ――と思えるようになった。
あのタイミングで、友哉に出会えたこと。
抱かれたこと。
夫が亡くなり、生まれ変わりのように、弘人と巡り合えたこと。
すべてが巡り巡って自分という人間の幸福を演出している――とすら思えるのだ。
自分を必要としてくれる場所があるのはいいことだ。
食材をかごに突っ込み、レジに向かう。――と、恋焦がれたあのひとがいたような気がした。彼は店を出て行ってしまう。
力いっぱい、玲子は叫んだ。「――友哉ぁ!」
店じゅうの人間の視線が玲子に集まる。呼ばれたその男性は――友哉ではなかった。
「人違い、でした、すみません……」
思えば、友哉と会ったのは都心。こんなところにいるはずなどないのだ。自分のおめでたさに頬が熱くなるのを感じつつ、玲子は会計を済ませた。
「ばーちゃん。ここ教えてよ。分かんねえの」
「あんたに分からない問題がわたしに解けるはずがないでしょ。お馬鹿!」
「国語の問題。……これ。作者の言いたいことはどれかって問題」
「優等生的な答え二つに絞られるのよ大概」テーブルを拭きながら玲子はふたりのあいだに入る。「どれどれ。あ、これ、ウだねウ。間違いない」
ところが弘人が回答を見ると、
「イじゃねーかよ母ちゃん。ったく。この家だとだーれも頼りになんねーのな。おれ、ひとりで勉強する」
「あらあら」
自室に入る弘人を見て、女たちは笑みをこぼした。
――本当に、弘人が来てくれてよかった。家のなかがあたたかくなる。春の日射しを浴びたさくらのように。
それは、一瞬の出来事だった。
幸せなど、一瞬で消え去る。
それでも、人間が生きていけるのは――たとえいっときでも、本当に、真に、愛されたことへの喜びが残っているからではないか――少なくとも、自分がこの世に生まれ落ちた瞬間だけは。
いつもなら自分の好きなテレビドラマを見ながらばりばり煎餅を食べ、玲子に一切見向きもしない義母であるが、大好きな秀樹の命日であるその日は違った。
「玲子さん。その……」
「なんですかお義母さん。お茶でも飲みますか?」
「自分で淹れられるからいいです。それより、そのね。玲子さん。
これからのこと、どのくらい、真剣に考えているの、あなた……」
玲子は、座った。義母が真剣になにかを伝えようとしているのが明らかだからだ。
「これからのこと、と言いますと、具体的には……」
「察しが悪いわね。……もう。本当、不出来な嫁なんだからあなたは」
亡き夫から聞いた限りでは、この義母も、姑から相当いびられたらしい。
その世代の価値観の人間からするとそれが当たり前だったのだろう。家事もなにもまったく出来ない専業主婦に対しては。
「すみません」と玲子が素直に詫びると、
「け、結婚とか、その……」
「お義母さんがですか?」
「なわけないじゃないの!」とうとう義母は立ち上がり、「あなたが! 玲子さんがって意味よ! 秀樹ちゃんの三回忌なんてとっくに終わってんだから、あなたは、もう――自由なの!
もし、もしあなたが他の男と結婚するのなら、あなた、わたしを追い出せばいいだけの話よ! ここのローンは秀樹ちゃんの死亡保険やらでまかなえたんだから! わたしが邪魔ならわたしは――出て行きます! ひとりで生きていけるだけの蓄えはあるんですから!」
「邪魔だなんて、そんな、お義母さん」思わぬ発言に涙目の玲子は、「いえ。確かに、秀樹さんが生きていた頃は、毎日辛くて、辛くって自殺を考えたこともあります。
でも、あるひとから教わったんです。
あたしは、生きているだけで意味があるんだって。
生まれてきた命すべてに意味がある。
一応ね。……お義母さん、わたしたち恋愛結婚だったんです。
好きあって一緒になった以上、なんというか、……一生を捧げたいじゃないですか」
友哉のことを思いだすと『うそつけ』と脳内で別の自分がぼやくのだが――スルースキルを駆使する。
「それに。弘人はおばあちゃんに懐いていますからこれからも、不出来な嫁であるわたし、そして弘人の力になってくれると嬉しいです」
「そこまで言うならふん。仕方がないわね。ちょっと玲子さん、邪魔でテレビが見えないわ」
「あっすみません」
義母が殊勝になるのなど一瞬。とはいえ、以前よりも随分関係は良好になった。
炊事は相変わらず玲子任せだが、多忙な玲子を気遣い、料理の後片付けや、洗濯物の処理をするようになった。危うく引きニーになりかけたのが、一歩どころか百歩前進だ。
出来は、酷いものだが。だったら自分でしたほうが速いとは思えど。
せっかく芽生えた義母の好意を無下にするのも悪いと思ったのでひとまず――甘えている。
忙しい一日を終えたあとの楽しみは、ベランダでひとりビールを飲むことである。夜を迎えても明るさを保つ都会の夜空を見上げ、玲子は、一度きりの、忘れられない幸せを与えてくれた彼のことを想った。二度と経験することのない、官能の渦に溺れさせてくれた愛おしいひとのことを。
――おやすみなさい、友哉さん。
*
恨めしそうに義母が言う。「……鬼嫁が」
「鬼嫁でもなんでも結構! 弘人! 学校の支度終わってんの!? お母さんもう行くわよ!」
「へいへーい」
学ラン姿で部屋に戻った弘人は、学生かばんを手に、
「じゃあ、行ってくるな。ばーちゃん」
「わたしはあんたのばーちゃんでもなんでもないわ」
「はは。とんだツンデレキャラだよなばーちゃん」
「弘人! 時間がない! もう行こ!」
「へいへーい」
朝の、玲子の日課は、自転車で、弘人を中学まで送り届け、そこから勤務先に出勤することである。
友哉に抱かれてから、三年余りの歳月が経過していた。
夫は、三十八歳という若さで急死した。
悲しみのあまり、義母は、養子を迎え入れることを了承してくれた。ところが、あの態度だ。
それでもまあ、かつて玲子にしたような、えぐいいじめをしない辺り、弘人のことが気に入っていることがうかがえる。
玲子は無事正社員の仕事を見つけ、毎日仕事に邁進する日々を過ごしている。
義母は――相変わらずだが、それでも、アウトサイダーだった弘人の出現で、若干丸くなったように思われる。あくまで玲子比だが。
介護の仕事はきついが、無資格だった自分を雇ってくれただけありがたい。勤務しながら無事資格を取得し、仕事の範囲が広がったこと、そして、給与があがったことに、喜びを感じる玲子である。
帰りはくったくただが。それでもスーパーに寄り、夕食を作る。いまでは、亡き夫に感謝をしている。あのひとがあれだけ出来合いの惣菜を嫌がったお陰で自分の料理の腕前はぐんぐんあがった。
――今日は、カレーにしよう。
奇しくも、今日は、あのひとの命日。
時間はかかるけれども、あのひとの大好きだった料理で、弔ってやりたい――。
もし、あのひとが、元気だったら、今頃は、別の感情を抱いていただろう。
弘人も、引き取っていなかった。
悲しいは、悲しい。けども、憎んでいた頃よりもいまのほうが楽だ。毎日、毎日、暗い穴倉に閉じ込められたような強制と孤独の井戸にいて。だったら、目の回るような忙しさと多幸に満たされるいまを選ぶ。
なにもかもが縁だ――と思えるようになった。
あのタイミングで、友哉に出会えたこと。
抱かれたこと。
夫が亡くなり、生まれ変わりのように、弘人と巡り合えたこと。
すべてが巡り巡って自分という人間の幸福を演出している――とすら思えるのだ。
自分を必要としてくれる場所があるのはいいことだ。
食材をかごに突っ込み、レジに向かう。――と、恋焦がれたあのひとがいたような気がした。彼は店を出て行ってしまう。
力いっぱい、玲子は叫んだ。「――友哉ぁ!」
店じゅうの人間の視線が玲子に集まる。呼ばれたその男性は――友哉ではなかった。
「人違い、でした、すみません……」
思えば、友哉と会ったのは都心。こんなところにいるはずなどないのだ。自分のおめでたさに頬が熱くなるのを感じつつ、玲子は会計を済ませた。
「ばーちゃん。ここ教えてよ。分かんねえの」
「あんたに分からない問題がわたしに解けるはずがないでしょ。お馬鹿!」
「国語の問題。……これ。作者の言いたいことはどれかって問題」
「優等生的な答え二つに絞られるのよ大概」テーブルを拭きながら玲子はふたりのあいだに入る。「どれどれ。あ、これ、ウだねウ。間違いない」
ところが弘人が回答を見ると、
「イじゃねーかよ母ちゃん。ったく。この家だとだーれも頼りになんねーのな。おれ、ひとりで勉強する」
「あらあら」
自室に入る弘人を見て、女たちは笑みをこぼした。
――本当に、弘人が来てくれてよかった。家のなかがあたたかくなる。春の日射しを浴びたさくらのように。
それは、一瞬の出来事だった。
幸せなど、一瞬で消え去る。
それでも、人間が生きていけるのは――たとえいっときでも、本当に、真に、愛されたことへの喜びが残っているからではないか――少なくとも、自分がこの世に生まれ落ちた瞬間だけは。
いつもなら自分の好きなテレビドラマを見ながらばりばり煎餅を食べ、玲子に一切見向きもしない義母であるが、大好きな秀樹の命日であるその日は違った。
「玲子さん。その……」
「なんですかお義母さん。お茶でも飲みますか?」
「自分で淹れられるからいいです。それより、そのね。玲子さん。
これからのこと、どのくらい、真剣に考えているの、あなた……」
玲子は、座った。義母が真剣になにかを伝えようとしているのが明らかだからだ。
「これからのこと、と言いますと、具体的には……」
「察しが悪いわね。……もう。本当、不出来な嫁なんだからあなたは」
亡き夫から聞いた限りでは、この義母も、姑から相当いびられたらしい。
その世代の価値観の人間からするとそれが当たり前だったのだろう。家事もなにもまったく出来ない専業主婦に対しては。
「すみません」と玲子が素直に詫びると、
「け、結婚とか、その……」
「お義母さんがですか?」
「なわけないじゃないの!」とうとう義母は立ち上がり、「あなたが! 玲子さんがって意味よ! 秀樹ちゃんの三回忌なんてとっくに終わってんだから、あなたは、もう――自由なの!
もし、もしあなたが他の男と結婚するのなら、あなた、わたしを追い出せばいいだけの話よ! ここのローンは秀樹ちゃんの死亡保険やらでまかなえたんだから! わたしが邪魔ならわたしは――出て行きます! ひとりで生きていけるだけの蓄えはあるんですから!」
「邪魔だなんて、そんな、お義母さん」思わぬ発言に涙目の玲子は、「いえ。確かに、秀樹さんが生きていた頃は、毎日辛くて、辛くって自殺を考えたこともあります。
でも、あるひとから教わったんです。
あたしは、生きているだけで意味があるんだって。
生まれてきた命すべてに意味がある。
一応ね。……お義母さん、わたしたち恋愛結婚だったんです。
好きあって一緒になった以上、なんというか、……一生を捧げたいじゃないですか」
友哉のことを思いだすと『うそつけ』と脳内で別の自分がぼやくのだが――スルースキルを駆使する。
「それに。弘人はおばあちゃんに懐いていますからこれからも、不出来な嫁であるわたし、そして弘人の力になってくれると嬉しいです」
「そこまで言うならふん。仕方がないわね。ちょっと玲子さん、邪魔でテレビが見えないわ」
「あっすみません」
義母が殊勝になるのなど一瞬。とはいえ、以前よりも随分関係は良好になった。
炊事は相変わらず玲子任せだが、多忙な玲子を気遣い、料理の後片付けや、洗濯物の処理をするようになった。危うく引きニーになりかけたのが、一歩どころか百歩前進だ。
出来は、酷いものだが。だったら自分でしたほうが速いとは思えど。
せっかく芽生えた義母の好意を無下にするのも悪いと思ったのでひとまず――甘えている。
忙しい一日を終えたあとの楽しみは、ベランダでひとりビールを飲むことである。夜を迎えても明るさを保つ都会の夜空を見上げ、玲子は、一度きりの、忘れられない幸せを与えてくれた彼のことを想った。二度と経験することのない、官能の渦に溺れさせてくれた愛おしいひとのことを。
――おやすみなさい、友哉さん。
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