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act32. こころが彷徨う現実
しおりを挟む「あはい。そうです。登録画面の、生年月日の項目です。入力するとき全角でできちゃうんですが仕様書にはありませんけどエラーですよね。……、ええ、分かりました、障害ということで切らせて頂きます。……はい。ありがとうございました」
かちゃん、と受話器を置くと、またか、と言いたげな眼差しを隣席の道林ミカがよこしてくる。
「またですか? 多いですよね、登録画面の障害」
「本当。あたしたちがしてるのって単体テストじゃなくてシステムテストだよね。なのに単体レベルのが出るわ出るわ……」愚痴がこぼれそうになり、彼女は無理に口許を引き結び、微笑んでみた。
と、道林が、
「お昼にしません?」
「あっほんとだ」十二時を五分過ぎている。「ごめんね、急いで障害票の番号だけ取っちゃうから。そしたら、こないだ見かけたイタリアンのお店、行こっか」
「了解でぇす」慣れた様子で勤務表に入力する道林。昼どきなのにもう入力するのか。定時で帰る気満々。
どうせ、定時でなんて帰れやしないのに。
と、内心で彼女は毒づいた。
* * *
「うまいっすねーここのパスタ」
美味しそうにミートソースパスタを食べる道林ミカ。
すこし羨ましい。
彼女は、白い服を着ているためカルボナーラにした。ハネたら、大変だ。
「うん美味しいね」彼女は、同調した。
「当たりっすね。今度違うのまた食べたいっす」
「良かったら食べる? すこし」
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「ええー全然痩せてますよ」
「ありがと。でもなんか、……変な感じなの。食べても物足りないっていうか、だったら食べ過ぎないほうがマシっていうか」
「蒔田さんのことと関係してますか」
ずばりと。
急所を、突かれる。「うーん、あるようなないような……」彼女は苦笑いを漏らす。
蒔田に別れを告げてから三ヶ月が経つ。
初秋だった季節はもう冬だ。彼女は冬物のコートを隣の座席に置いている。
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「ところで、事業部の忘年会行きます?」
「あ、返事今日までだっけ。どうしよっか。行けるかな。ミカちゃんはなんて出した?」
「出席っす。榎原さんも出席っす!」何故か道林は怒ったように言う。
道林には、いままでに起きたことのほとんどを相談している。ひとつ下の、頼れる友人だ。蒔田を諦めきれないでいるのも、言わずともきっと、伝わっているのだろう。
またも苦笑いを漏らしつつ、「分かった、出席ね」と頷いたのだった。
* * *
「久しぶりじゃん、紘花ちゃん。どうよ、例の案件」
「ああ、まあ……忙しいです。障害発生率四十パーセント超えですから。でもまあ、やりがいがあります」
「そうかそうか良かった! ……本社は愛想のないやつばかりが残って寂しいよ!」
「だったら、出さなきゃよかったじゃないですか」
「きみが直訴したんだろ、柏谷に。うん?」
そのとおりなのだ。
「……はからいには感謝してます」
「まあ、期待してるよ!」ぱん、と背中を叩いてまた別の社員に声をかける。部長という仕事は大変だ。飲み会のたんびに、滅多に会わない客先常駐の部員に声をかけて回る。おう元気か。久しぶりかなど。
どういうわけだか、彼女は宗方部長に気に入られ、こういう会のたびに真っ先に声をかけられる。部屋の隅で静かにウーロンハイを作り続ける健気さが目を引いたのか。
別に気を引くためではない。
あれは部長ではなく、蒔田のためであった。
その蒔田の姿が見当たらない。いつも一緒の道林は久々に会う同期と話が弾んでいるようだし彼女はとりあえず、お手洗いに行くことにした。
* * *
「そうなんす。で、蒔田さんなら分かるかと思って。こういうこと」
お手洗いを出ようとしたらそんな声が飛び込んできた。
咄嗟に壁の影に身を隠す。一色の声だ。新人の頃何十回と彼女のところに質問に来た。
「そいつはおまえの目から見て見込みがありそうなのか」
「ありますっ。だから悩んでるんです」
「そうか。まあ、焦るな。すぐに結果が出るというものでもない。待つことだ」
「待つんすか」
「そうだ。胃の痛い思いをするかもしれんが自分を信じることだ。そいつならやれそうだとおまえが判断したんだろ? なら責任を持て。ひとが育つまでには時間がかかる。おまえだってまだ入社半年の新人だがそんなことで品質の低下は許されない。クオリティが求められる仕事だ。そのBPさんが、おまえと同じレベルに育つまで一年二年かかるかもしれん。だが、辛抱強く、待つことだ。おまえのことだから、相手が考えて答えを出す前に、先に答え言っちまってないか? 短期的に見てそれで解決できても、長い目で見れば、それだといつまで経っても下が育たん。すこしは任せることだ。それと信じること。最後には責任を持つこと」
「いろいろいっぺんに言いましたけど難しいすよそれ」
「リーダーだって最初からリーダーだったわけではない。誰しも紆余曲折を経験する」
「蒔田さんもそんな頃あったんすか」
「正直言うと榎原くんに仕事を投げるのには抵抗があった」
いきなり自分の名前を出され、心臓が波打つ。
思わず、彼女は胸を押さえた。
蒔田の独白は続く。
「全部、自分でするほうが速いと思い込んでいた。だがそれだと、いつまで経っても自分は楽にならんし、下が育たん。下を育てることも大切な仕事だ。身の回りのことができるようになったら意識すべきだ。だがその意識が欠けていたことを気づかせてくれた、貴重な経験をした。
榎原くんは、優秀で、おれがするよりも速く的確にサポートの仕事をこなしてくれた。
誰かに仕事を任せると必ず新しい発見がある。
自分に気づかないことを誰かが気づいてくれる。
業務を効率化するうえでも、任せるのは大切な仕事だ。
彼女のおかげで、おれの仕事は随分と楽になったし、いまもその経験が生かされている。
こないだ回覧したグループリーダー向けのマニュアル、あれを作ったのは榎原くんだ。資料作りの能力は天下一品だったな。もっと頼みたいくらいだった。
分かりやすく、的確に、必要なことを資料にまとめるのは、案外難しいことだ。おれは苦手だからその難しさがよく分かる」
「まあ、榎原さんみたいなひとだったらいいんすけど……まだ分からないんすよ」
「新人レベルのBPを雇ったうえに新人にリーダをやらすうちの体制に、問題がないとは言わんがな。予算が限られていることだから、辛抱してくれ。おまえもGLになればいずれ分かる」
「人間的に信用できるひとが来てくれて、感謝してますよ。まえいたとこ、人間関係最悪だったんで」
「それも経験だ。世の中経験しておいて無駄なことはなにひとつ無い」
「ま、蒔田さんに相談してなんかおれ気持ち楽になったっす。感謝です」
「おまえは頑張り過ぎると空回りする傾向にある。だから周りに頼れ。ほどほどに頑張れ。なにかあればいつでもおれや柏谷さんに言ってくれ」
「あざーす」
足音が遠くなる。
彼らが座敷に消えたのを見計らって彼女は顔を出す。
思わぬ、会話を、立ち聞きしてしまった……。
(知らなかった。蒔田さんが……)
あんなふうに、自分のことを評価してくれていたなんて。
質問魔の新人だった一色は、いまや三人のチームを任されるリーダー。時期尚早といった声もあったが、状況がそれを許さなかった。
それで悩む一色に、蒔田が答えたかたちだ。
「困ったなあ……」
諦めようとすればするほどに、胸のなかに占める蒔田の割合が多くなる。
どうしても、追い出せない。
(いつ、忘れられるんだろう……)
まだ三ヶ月。
されど三ヶ月も経ったのだ。仕事に忙殺されていても、ふとした瞬間に、蒔田さんならこうしていたとか、いまどうしているかとか、考えてしまうのだ。
道林ミカと仕事をしているのに、彼女が蒔田だったらと思うことすらある。
後輩に恵まれているのに、そんなことを望んでしまうなんて、どうかしていると思うけれども。
飲み会の席に戻る足取りが重かった。せっかく忘れようと努力しているのに。
また蒔田の存在を探してしまう。
求めてしまう。
どうせ極薄のウーロンハイを作り、受け取ってもらえれば内心で喜んでしまうのだろう。
「あ、榎原さん」入り口のところに道林が立っていた。榎原を探していた様子だ。
道林は素早く駆け寄り、
「残念ですね。蒔田さん、さっき帰りましたよ」
飲み会が始まって一時間しか経っていないのに。
避けられているのかもしれない。
仕事が忙しいにしてもこの時間に帰るのは早すぎる。第一、仕事が忙しいのだったら最初から参加しなかっただろう。
彼女がいつもウーロンハイを作るのは分かりきっていることだ。
蒔田に作ってあげているのも。
(蒔田さんに作ってあげたの、……いつが最後だったろう)
今年最後の忘年会。蒔田に会えないまま年末をそして年始を迎えることとなる。
せめて会いたかった。
「大丈夫すか榎原さん」
「うん。平気」笑って彼女は首を振る。
(来年になったら、綺麗さっぱり忘れられてるよきっと……)
「もうあたしには関係ないから」と彼女は心配顔の道林に、強がりを言ってみせたのだった。
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