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Bye-bye/*さよなら*/
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「ああ……」電話口の女は何故か納得したように語る。「杉崎より承っております。『カナ』様ですね。いまお繋ぎしますので、お少しお待ちくださいませ……」
随分と流暢な語り口の女性だった。秘書だろうか。保留音は『主よ人の望みの喜びよ』――まさに、彼女が彼に対して願うそのことだった。
お昼休みは残り十五分。迷惑な時間だというのは分かっている。だが――今日。
今日の今日のうちにけりをつけたかった。
鉄は熱いうちに打て。あの彼も言っていたではないか。
「あお待たせ」途切れる音楽。切り替え音。直後、懐かしい声を聞けて、ときめく自分を抑えられない。「カナちゃん。あのね――」
電話口の男はすうと息を吸い、
「――会いたかった……」
気持ちを押さえる意志のない男の声が彼女の感情を揺さぶる。
(駄目。『決めた』のに……)
しかしながらこの時点で『開始』をすべきではない。よって、彼女は、「あたしもです」と本音を吐露した。「今日こちらに電話をしたのはですね。あの。急なんですけど、今夜、会えませんか? 新宿とかで二十時頃に……」
「いいよ」と彼は快諾する。「きみとなら、何時でもどこでだって、構わない。――場所は? 新宿駅なら、小田急線の西口の、階段のした降りたところでどうかな。JRの改札口と合体するらへんの……」
「分かりました」
「じゃあそのときに」
――またね、カナちゃん。
キスの音がしたので彼女は本気で携帯を落っことした。――なんなんだあの男(エロティカルモンスター)は。いちいち挙動が甘すぎる。心臓の辺りを押さえつつどうにか拾い上げれば、
(――あれ)
「携帯の番号、訊かれなかったなあ……」
彼女は首を傾げる。もし――会えなかったらどうしよう。
「そしたらそれはそのときだ」
彼女は髪を払い、非常階段を抜け、セキュリティカードをかざし、なかへと入る。――たまに、カードをなかに忘れてしまったままこういう私用の電話を外で済ませ、再入場できず慌てて代表電話にかけてくる社員がいる。なかには煙草とライターのみ持参してその事態に陥る強者がおり、結果。一階の受付嬢に入れてと乞うた――とのこと。受付嬢が美人だったゆえ彼がわざとやったのではないか、と笑い話として広まった。非常階段での喫煙は禁止されている。他部署ゆえ知らないが、それなりの処分を食らったはず。結果、会社は不利益から利益を得たわけだ。
彼女は長い髪を払い、再びカードをかざし、ロッカーの化粧ポーチと歯磨きセットを取りに向かう。先輩社員と顔を合わせた。何事もなかったかのように会釈する。
化粧室へと歩を進め彼女は思う。
(――月曜日。いったいあたしは、どんな気持ちでこの会社に来て仕事をしているのだろう……)
今日は忙しかった。業務もプライベートも。後者は、やることが二つある。まさに、決戦は金曜日と言うわけだ。あのイントロが彼女の脳内に鳴り響く。らーー、らーらーらーと。
しかしながら再びロッカーを開けるときはメランコリックな気分を伴った。
(近づいてくけど――遠ざかっていくんだよね、あたしの場合)
* * *
残念ながら、時間の都合で、町田の行きつけの美容室に行くことは叶わなかった。
いつも彼女の髪質を知ったうえで適切なヘアスタイルを提案してくれるあの美容師には悪いとは思ったけれど、今日じゃなきゃ駄目なのだ。
今日じゃないと駄目なのだった。
たまに使うhot pepperが役に立った。昼休みに、彼に電話をする前に、初回クーポンを見ながら予約した。18時半で取れるところ。それが絶対条件だったが、電話口のアシスタントと思われる女性は快く応じた。カットのみだから一時間で終わるだろう。
そして、天井までガラス張りの窓の大きな美容室にて、中堅と思われる女性は、彼女の外見や服装からなにまでを絶賛した。サービストーク過剰だなあ、とは思ったものの、悪い気はしなかった。「顎らへんまでバッサリいってください」と依頼すると「あー腕が鳴るぅ」と何故か喜んでいた。
いつもロックを流すロックな美容師の顔が浮かんだが、また三ヶ月後にでも行けばよいだろう。ごめんなさいどうしてもすぐに切りたかったんです、と甘えたように言えばそーねーで流してくれる。大人の男だ。
場所はJR東口方面だったゆえに、定期券を購入している恩恵を利用させて頂き、JRのなかを突っ切る。小田急の切符でJRの改札経由で小田急線の改札へと入れる。京王線も。通り抜けることも可能。入場料金は取られたと思うが……。このからくりに。上京した当初は驚いたものだ。大学の友達に教えてもらった。いまはもう、連絡を取っていないが。元気にしていることを願う。
改札をやっと出る。とにかく、いつもひとが多い。長野出身の彼女は毎回毎回驚かされる。人口密度が違うのだ。――震災からはや三年。日本国民の献身、努力及び高潔な精神は世界に誇れるほどで――交通機関が麻痺したにも関わらず短期間で修復した。尽力した人間のちからに彼女は感服している。あくまで彼女の目で見る限りは、首都圏は元通りの日常を取り戻している。被災地の皆さんも、戦っておられるのだ。ひとは――ひとりでは生きられない。大勢の流れに巻かれる無力な自己を感じつつも、彼女はその流れに従った。自分も、社会に必要とされる大切な人間のひとりであることが分かっているから。
小田急線西口地下のほうから、おにぎりやさんやパン屋さんの並ぶ店を右手に、JR西口方面へと突き進む。――と。
なにか、髪を引かれる感じがあった。
彼女は後ろを振り仰ぐ。小田急線地上改札口のほうへと繋がる階段を見る。いつも丸ノ内線を利用する彼女はこの年数経過ゆえ白とは言いがたい白の階段を急ぎ降りる。見慣れたはずのそこには――
見慣れぬ、明るめのグレーのスーツの男。
栗色のさっぱりとした短髪。だが前髪が眉毛のしたくらいの長さでさらさらで。スタイルのよさもあいまって、まるで外国人みたいで、雑誌から抜け出たモデルのような世界を、彼は生成していた。
――とくん。
と彼女の胸が波打つ。
(駄目――!)
彼女はその胸を押さえる。でも彼から視線を外せない。
彼女は気力を振り絞って叫ぶ。
(『あたし』じゃ、『駄目』なの……!)
一度下を向き、呼吸を整えたのちに、ヒールのかかとを鳴らして突き進む。
男は、そこから動かず、彼女のことを、ただじっと見ていた。
階段に足をかけたときに、こちらを覗き込む彼の顔をちらと見た。――なんだか。
(いつもと違う……?)
思えば、彼と会うのはこれが二度目だというのに。彼女がそう感じるのは不思議な話だった。――初対面のときの彼の印象であれば、彼は、駆け寄ってくるはず。彼女と視線を絡ませ、「会いたかったよ」なんてあの甘い声で言ってくれるはず。
なのにそれを、しない。
見慣れた階段を登りつつ、彼女は彼に近づき、そこでようやく彼の瞳をじっと覗き込んだ。
あの日と同じく、明るいいろの瞳が柔らかく収縮し、
「やっと、――会えたね。カナちゃん……」
身を屈め、優しく髪を撫でてくれる。切ったばかりの短い髪を。
すると彼は手を下ろし、
「――さ。行こう」
彼女の顔を見ずに階段を降り始める。「どこに?」と彼女。
「きみに――見せたいものがあるんだ。
たぶん、そこで話をするのがベストだとぼくは、判断している」
彼にしては緊張したような、固い声音だった。
明るい後ろ髪、それからワイシャツの背中を追い、人混みを縫い、彼女は思う。なにか――彼も、『予想』しているのではないかと。
それを裏づけるように、彼は、ずっと黙っていた。彼女の顔さえ見なかった。
それでもその手は、離さなかった。
* * *
百万ドルの景色というものがあればまさにこれなのだろう。
丸ノ内線西新宿勤務の彼女。上京して何年も経つ彼女であっても、意外と新宿の夜景は数度しか見たことがなかった。MSビルだったか、友達ときゃっきゃとのぼったことはあれど。男がいないとこの手のシチュは盛り上がらない。
高所ゆえの強風が――吹き抜ける。季節はまだ、寒くなかった。これからだ。
彼の手がここで離れた。まっすぐ、彼は進んでいく。手すりのほうへ。
そんな彼を見やりつつ彼女は首筋に触れる。――まだ。この髪の長さには慣れない。風が吹けばあの長い髪が守ってくれた。でもそれはもう、ない。それは自分が選んだ道なのだ。
「ここねえ。ぼくのお気に入りの場所なんだ――」
三百六十度。
満天の夜空に守られ、手すりを後ろ手でつかみ、彼は彼女のほうを向く。暗さゆえ、その表情はいまひとつ分からない。だが。
「――特権を利用して今夜は守衛さんに開けてもらった。というのはね」
自身の靴の辺りを見ていたかに思えた彼がまっすぐ彼女を見据え、
「――最後だから。きみに、見せておきたいと思ってね……」
どくん、と彼女のからだが波を立てる。
――いったい彼は、なにを言っているのだろう。
あまり働かない頭。ぎくしゃくとした動きながらも彼女は彼の正面に立つ。――と。
「教えて」と彼は乞う。その瞳が、薄闇のなかでひどく輝いて見えた。「きみの、結論を。きみは――いったいなにを、ぼくに言おうとしている、のかな?」
優しい問いかけ。すがりつきそうな自分を抑えこみ、彼女は一度拳を固めてから、――いよいよこのとき。自分から伝えねばならない。『あの』ためには絶対に。神経を研ぎ澄ませ新たな自分を構築する。
「――あたし、セックス狂いなんです」――と。
ふふ、と彼女は彼の注意を引きつけておいて笑う。「よく、……誤解されるんですよ。あたし。自分で言うのもなんですけど清純派? ていうか、まあ、うぶな女に見えるみたいで……」そして短くなった髪に触れ、「それで男を引っ掛けたこと、何度もあります。実は移されて病院に行ったことも度々――で」
彼女は彼の横を通り過ぎ、手すりを掴む。――掴まねば、決意が鈍りそうだった。一度目を固く瞑ったのちに、目を開くと湧きあがる涙を意志の力で抑えこみ、美しすぎる夜景を睨みつけ、懸命に頭を働かせる。
「――杉崎さんに出会う前日の晩も。ちょっと、……飲み過ぎて、ラリっちゃって。まあその男とはその場限りだったんですけど。やっばいですねー部屋に男なんか呼んじゃあ。部屋中ワインまみれにされてひっどいことになりましたよ……」
嘘にほんのちょっとの事実を交える。これは嘘をつくときの鉄則。
――リアリティを持たせるために。
彼女は大きく息を吸い、
「それで、二日酔いなんかですっ転んだら。杉崎さんみたいなちょーイケメンに助けられて。あったしもう、……ぐらって来るどころか。失神しちゃいそうになりましたよ。実際イかされちゃいましたしね。
杉崎さんの会社のHP、すぐにスマホで調べましたよ。しっかりした会社なんですねえ。IT系プロフェッショナルに向けた調査コンサルタント、……っていったいなんの仕事なんですか。正直意味分かんなかったです。――で」
ここで彼女は呼吸を整える。――負けるな。負けてはならない。
これは、愛する男を完璧に守りぬくためがゆえ。
「会社も信用できるみたいだし。念のため代表電話に電話してみたらちゃーんと秘書もいらっしゃって。声、なんかえっろい感じのひとでしたねー。杉崎さんのことだからどーせ美人さん選んだんでしょう?」
『開始』して以来。ここで初めて彼女は杉崎の顔を確かめる。
硬い横顔が動く。「――うん。それで?」
事務的な口調。彼女をあれほどときめかせた甘い響きが消失。
効果を見せていることに手応えを感じるよりも、喪失感のほうが強い。
自分の望んでいる方向に進んでいるにも関わらず。
彼女は手すりを握りしめた。「だーかーら」
悟られぬよう、前を向き、笑みを作る。「杉崎さん。セレブなんでしょう? あたし、そーゆーひととヤったことなかったし、ほらあ。なんか杉崎さん、あたしが純情な女演じてたらころって引っかかっちゃって。やっけに甘い言葉ぽんぽん吐いてくれるから、あー。あたしこの男に抱かれたいなーって思って」
彼女は声を立てて笑う。ショルダーバッグを握るほうの手に力を入れ、手すりから手を離し、からだを反転させる。
見えるのは、出口。あそこに向かうのは間もなく。
「だ、か、らー、杉崎さん。
あたし。えっち、大好きなんです。……せっかくですから、あたしのこと、イキっぱなしに、してくれません?
もー、杉崎さんの顔見たら、しゃぶりつきたいってたまらないっていうかあ。
なんだったらここでもいいですよー。あたし、野外も嫌いじゃないんで。でもあ。避妊。してくださいね。ヘルペスとか二度とゴメンなんで。あれかなり、痛いんですよ。
ねーえ。杉崎さん……」
上ずった女の声を意識して作り、顔を右に傾ける。
「あたしと、シてよ」
彼は表情を動かさず答える。「――無理」
「あー残念」手を伸ばし、彼の唇にそっと触れてみる。弄ぶかのように。「せぇっかく水も滴るいい男なのにー。けっこーオカタイんですねえ、杉崎さんて」
目の前の男は一切、動かさない。怒っているのかよく――分からない顔をしている。
「あそ」彼女は一歩を踏み出し、出口を見やる。「あっちゃー。ほんともー残念だなー。そのへんの男引っ掛けんの、リスキーだから、あんまりやりたくなかったんですけど。
どーしよっかなーちょーむらむらするんですけどー。
色魔獣(エロティカルモンスター)とヤれるなんて生涯この一回こっきりなのにぃ……」
――こつ。こつ。こつ。
一定のリズムで彼女のヒールが響く。足運びに、無駄がない。
かつ、とその音が止まる。目的地周辺、案内を終了します――。カーナビの音声が脳内に流れる。
「ま。しょーがないっすね。勃たない男勃たせるテクなんてあたしありませんので。これが最後ですよーヤるんだったらいまのうち――」扉に触れて彼女は振り返る。
のだが。
男は、一歩も、動いていない。
「あっちゃあ」と彼女は苦笑いを漏らす。「じゃーねー杉崎さん。さよーならぁ。会えて――
楽しかったです」
この言葉だけは、偽らざる彼女の、本音だった。
「まー後悔のない人生を歩んでくださいね。お幸せにー。……ってあたしなに言ってんですかねー。やだ、やだ……、っ……」
――もう、無理……!
涙がこぼれ落ち、からだが震える。もう――隠し通す自信など無い。
とうとう、冷たいドアノブに手をかけ、激情のままに、思い切り、引いたところを――
「無理、って、言わなかったっけ、ぼく」
一語一句をはっきり発音する、彼の大きな声が――彼女の耳に届いた。
嗚咽を堪える気力など、彼女には残っていない。
口許を引き結び、あふれるものを必死で抑えこもうとする。
音を立てて閉まる重いドアの存在が、彼と彼女を、二人だけの世界へと、閉じ込めてしまう。
「あのさあ」彼の、声が徐々に大きくなる。「ぼくと接する前提条件として、これ、覚えておいて。
――ぼくは嘘がつけない。
嘘をつきたくない、性分なんだ。
だから、ぼくは言う」
ゆっくりとした革靴の足音が響く。夜の闇に。
「きみの――自分を押し殺してまで貫く、きみの正義を、ぼくは、尊重しようと思った。
演技をしてまで守りぬきたいものがあるのなら――ぼくは、きみの守りたいものを守ろうと思った。けれど。
ぼくには、それが、できない」
懐かしさを覚えるほどの、彼の、情熱にまみれた声だった。
彼女は口許を覆い、嗚咽が聞こえないようにと願う。すると穏やかな響き。「あのねえ」
とうとう、彼が彼女の後ろに辿り着いた。気配を――感じる。
「……ほんの、ちょっとの、時間だったけれど、ぼくは、きみの目を見て話した。
なんでかぼくの目を見るたびに、はっとした顔して胸押さえるきみが――愛おしくてたまらなかった。
抱きしめたくてたまらなかったね。
……これでも。仕事柄、多くの人間に接してきた。
人を見る目はそれなりに養えたと自負している。
ぼくはね。騙すやつには騙される主義なんだ。よっぽどの不利益になることを除いてはね。――ま。やつらには目的がある。あんまり勝ちっぱなしだと、敵作りまくって不利になるもんでねえ。ときには、やつらの自尊心を満たすってことが必要になってくるんだ。若造は若造らしく、謙虚な下っ端でいよ――そういう扱い、なんべんも受けたことがあるんだよ。――で。
ぼくは、きみのなかに星のかがやきを見た。
誰に対しても、誠実で。
綺麗過ぎるくらいに、純粋で。
自分を守ることよりも、大切な誰かを守るためなら迷わず自分が傷つくことを選ぶ。――そういう女性だ。……ひとつ言うとね。
アルコール入りのセックスを好むOLさんが、平日にあんなに酒臭くなるまで、飲むってもんかな?
そんなに慣れてんなら酒の量を調整するし、二日酔い対策の薬もドリンクも用意しといて電車乗る前に飲んどくってもんさ。コンビニかホームでぐびーっとね。……或いは。
不慣れでやらかしたセックス狂いであれば、ぎりぎりの時間まで寝こけて、慌てて部屋飛び出すんじゃないかなあ。代々木上原駅への到着は6時21分。空いてガラガラだとは言いがたかったが、ピークではなかった。
きみの、髪型は、整っていた。
アルコール分解酵素が少ないのは明らかだ。そもそも酒好きという条件が成り立たない。――以上の前提から、きみが、酒に溺れるセックス狂いということは、ありえない」
――論理破綻というやつだ。
ため息を吐き、こっそり涙を拭った。「それから――」と杉崎の声。
「悪いねえ。ぼく、話長いもんで。よく、……社員たちに突っ込まれる。杉崎さん、簡潔に簡潔にー! って……」
ふー、と彼は息を吐く。「ごめん。自分でなに言ってるかわけわかんなくなってきた……参ったねえ」
頭を掻く彼のあたたかな動きを感じる。
「……最後って言ったのは」杉崎が論を展開して以来、初めて彼女は声を発す。「ここに来たときに。どうして、最後だから、って言ったんですか」
すると間髪入れず。
「きみは、最後って、決めているんだろう……?」
彼女は肩にかけていたショルダーバッグを落とした。
拾う気力など、沸かなかった。――何故。いったいどうして……?
すると、彼女の両の肘にそっと彼の手が触れる。「ぼくの予想が当たっているのなら。きみは――
『守った』、んだね……?
こんな、小さなからだで、一生懸命……」
胸に熱いものが込み上げる。震えは――止められない。
(杉崎さん……!)
最愛の彼の名を叫ぶ。この顔はもう、彼には見せられない。
そして、耳元に近づく彼の気配を感じる。
「ぼくは、――
礼を言わなければならない。
ありがとう……」
彼女は首を振る。「――違う。違うんです。あたしはそんな……」
「きみの、こころの整理がつかないということも、分かっている。だからこそのあの演技だ。だから――時間が、必要、なんだね――」
――どうしてこのひとには分かってしまうのだろう。
元彼氏とはいえ、『許して』しまった。いくら約束通り声を殺したとはいえ、自分を『許せ』ない。たとえいま、杉崎と向き合えることになったとしても、彼女は、自分を責め続ける。行為の際にどうなってしまうか――彼女には想像もできない。
それでも。
いつか、忘れ去ることができる日が来るはず。
愛するひとと、なんの苦しみもなく迷いもなく向き合い。
ためらわず、互いの愛を自由に表現する日が。
それが――いつなのか。
明日なのか来年なのか十年後なのかおばあちゃんになってからなのか分からないけれど。
すると。
「残念ながら、ぼくはそこまで辛抱強い人間じゃあなくってね……」やや余裕をなくした彼の声。「期限を、切ろう。だからぼくは提案する。
三年後の2017年、7月7日。二十時ジャスト。
ぼくは、ここで、きみを待つ。鍵は勿論開けておくよ。
もし。きみに、ぼくと向き合う意志があるのなら。迷わず、来て欲しい……」
とうとう、彼女は声をあげて泣いた。こんなに好きなのに。こんなにも愛しているのに。
どうして、このひとはこの道を選ぶのだろう……。
男なら。好きな相手にすぐ愛を伝え、そして結ばれる道を進むのが簡単だというのに――!
「カナちゃん」号泣する彼女の肩に添えられる彼のあたたかな手。「ぼくは、――信じているんだよ。
明けない夜は、ないって。だから――
いつか、必ず、ぼくたちは、めぐり会える。
必ずまた笑って――同じ方向向いてさ。
いっぱい、いっぱい、幸せになるんだよ。だから約束して……」
意識が彼のほうへと向かう。顔を傾けるのを彼女は自粛した。そんな彼女に――
「――二度と。
自分を傷つけないで。
それをすると、ぼくは悲しい……。
ぼくは。きみを傷つけた人間を成敗する手段を持たないわけではない。実を言うと、ある。
でも。
それをきみが望まないのをぼくは知っている。――こんな。
悲しいことは、二度とごめんだ。
こんな……好きになれるひとに出会えたのは、初めてなんだよ、カナちゃん……」
涙混じりの杉崎の声。彼女は、杉崎のぬくもりに自分のそれを重ねた。――けど。
声をかけたい気持ちを、抑えこんだ。――いま。彼は、戦っているのだから……。
鼻をすする音。それに続いて、「ねえカナちゃん」
「……なんですか」これだけなら支障がないと思い彼女は反応した。それでも手はまだ離せない。すると杉崎は彼女の手を愛おしく撫で上げ、
「――最後に。ひとつだけ教えて?
カナちゃんて、どういう字を、書くの……?」
「あー」顔を傾けると涙がこぼれた。言い慣れたタームだからすらすらと言える。「可能の『可』に、奈良の『奈』です……」
「へえ。いい名前……」ひさびさに杉崎の声が弾む。「『奈ら可能』、『奈ら可能』ってね。
ねえ可奈ちゃん」
唄うような杉崎の響き。
愛おしさと懐かしさのあまり、つい、「なんですか」と彼女は訊いてしまう。
たっぷりと杉崎は彼女の注意を引きつけ、
「ぼくたちになら、なんだって、可能だと思わない……?
だってね。
ぼくたちほど、初対面のたった五十九分間で、あれだけどきどきし合えた男女は、世界中どこを探したって、ほかにいないと、思うよ……?」
「杉崎さん」震えを抑えこみ、彼女は言葉を発した。「なぁに?」と優しい彼の語感。
――せめて、これだけは。
愛しているという言葉を用いるのが許されないのなら、せめて。
「あなたの思う、あたしのこころのなかの真実。
きっとそれが、正しい真実、です……」
「可奈ちゃん」とうとう彼が背後から彼女を抱きしめる。「ああ……
好きなんだよ。
愛している……」
何度も、何度も、彼女は頷く。「分かって、ます、でも……」
「それも、分かってる」と杉崎。「だから、ぼくは、この道を、選ぶんだ……。
きみがぼくの、最愛のひとだから……」
泣きじゃくりをあげ、自分に巻き付く彼の愛おしい腕に手を回し、できるかぎりに頬を近づけながら、全身に、彼の愛を感じる。――これで、いい。
これで、充分なのだ。
こんなに愛するひとに出会えただけで、幸せ、なんだから……!
――いったいどれだけ泣いたのだろう。
これ以上泣けないというほどに泣き尽くした頃――。
彼が、息を吐いた。頃合いだと彼女は思った。
彼女は彼にすがる自分の手を離し、静かに自分のバッグを拾い、肩にかけた。――ドアのリーチを気にして彼が後ろに動く気配。
最後に顔だけは見たかったが。でも――。
取っておこう、と思った。
本当に、好きなひとだから。
彼の与えてくれた奇跡が胸のなかに色づいたときにこそ、――
目一杯の愛で。
彼と、向き合いたい。
ドアを開き彼女は別れを告げた。「――さよなら」
「待ってる」と杉崎。
「ぼくは自分を大切にする。
だから、きみも自分を大切にして。
自分の選んだ道をしっかりと歩んでいくんだ。――忘れないで。
ぼくは、きみの味方、なんだから――」
開いたドアにからだを滑りこませる。別れはあと――数秒後。
「最後に可奈ちゃん」反射的に素早くドアを手で押さえた。どうしても期待を捨てきれない。「なんですか」
「おれ、……やらしい男でごめん」恥ずかしげに彼。どうしてだか――表情まで鮮明に思い描ける。「あのね。今度教えて。
おっぱい、なにカップなの……?」
――ふっ。
と彼女は笑いを漏らした。こらえきれず肩を揺らす。――なんという、愛の奇跡なのだろう。『あのとき』抱きしめた杉崎は実はこう言ってくれていたのである。「あー笑ったぁー」後ろから無邪気な声。彼女を救ったどこまでも愛おしい、男の声。
最後に聞こえたのは、
「可奈ちゃん。ぼくはね。
きみの、笑った顔が、大好き、だ」
愛する男の応援を存在を背に。やや明るい通路を進みエレベーターのボタンを押す。乗り込むのはひとり。降りるのもひとり。けれど――
彼女は、決してひとりでは、なかった。
随分と流暢な語り口の女性だった。秘書だろうか。保留音は『主よ人の望みの喜びよ』――まさに、彼女が彼に対して願うそのことだった。
お昼休みは残り十五分。迷惑な時間だというのは分かっている。だが――今日。
今日の今日のうちにけりをつけたかった。
鉄は熱いうちに打て。あの彼も言っていたではないか。
「あお待たせ」途切れる音楽。切り替え音。直後、懐かしい声を聞けて、ときめく自分を抑えられない。「カナちゃん。あのね――」
電話口の男はすうと息を吸い、
「――会いたかった……」
気持ちを押さえる意志のない男の声が彼女の感情を揺さぶる。
(駄目。『決めた』のに……)
しかしながらこの時点で『開始』をすべきではない。よって、彼女は、「あたしもです」と本音を吐露した。「今日こちらに電話をしたのはですね。あの。急なんですけど、今夜、会えませんか? 新宿とかで二十時頃に……」
「いいよ」と彼は快諾する。「きみとなら、何時でもどこでだって、構わない。――場所は? 新宿駅なら、小田急線の西口の、階段のした降りたところでどうかな。JRの改札口と合体するらへんの……」
「分かりました」
「じゃあそのときに」
――またね、カナちゃん。
キスの音がしたので彼女は本気で携帯を落っことした。――なんなんだあの男(エロティカルモンスター)は。いちいち挙動が甘すぎる。心臓の辺りを押さえつつどうにか拾い上げれば、
(――あれ)
「携帯の番号、訊かれなかったなあ……」
彼女は首を傾げる。もし――会えなかったらどうしよう。
「そしたらそれはそのときだ」
彼女は髪を払い、非常階段を抜け、セキュリティカードをかざし、なかへと入る。――たまに、カードをなかに忘れてしまったままこういう私用の電話を外で済ませ、再入場できず慌てて代表電話にかけてくる社員がいる。なかには煙草とライターのみ持参してその事態に陥る強者がおり、結果。一階の受付嬢に入れてと乞うた――とのこと。受付嬢が美人だったゆえ彼がわざとやったのではないか、と笑い話として広まった。非常階段での喫煙は禁止されている。他部署ゆえ知らないが、それなりの処分を食らったはず。結果、会社は不利益から利益を得たわけだ。
彼女は長い髪を払い、再びカードをかざし、ロッカーの化粧ポーチと歯磨きセットを取りに向かう。先輩社員と顔を合わせた。何事もなかったかのように会釈する。
化粧室へと歩を進め彼女は思う。
(――月曜日。いったいあたしは、どんな気持ちでこの会社に来て仕事をしているのだろう……)
今日は忙しかった。業務もプライベートも。後者は、やることが二つある。まさに、決戦は金曜日と言うわけだ。あのイントロが彼女の脳内に鳴り響く。らーー、らーらーらーと。
しかしながら再びロッカーを開けるときはメランコリックな気分を伴った。
(近づいてくけど――遠ざかっていくんだよね、あたしの場合)
* * *
残念ながら、時間の都合で、町田の行きつけの美容室に行くことは叶わなかった。
いつも彼女の髪質を知ったうえで適切なヘアスタイルを提案してくれるあの美容師には悪いとは思ったけれど、今日じゃなきゃ駄目なのだ。
今日じゃないと駄目なのだった。
たまに使うhot pepperが役に立った。昼休みに、彼に電話をする前に、初回クーポンを見ながら予約した。18時半で取れるところ。それが絶対条件だったが、電話口のアシスタントと思われる女性は快く応じた。カットのみだから一時間で終わるだろう。
そして、天井までガラス張りの窓の大きな美容室にて、中堅と思われる女性は、彼女の外見や服装からなにまでを絶賛した。サービストーク過剰だなあ、とは思ったものの、悪い気はしなかった。「顎らへんまでバッサリいってください」と依頼すると「あー腕が鳴るぅ」と何故か喜んでいた。
いつもロックを流すロックな美容師の顔が浮かんだが、また三ヶ月後にでも行けばよいだろう。ごめんなさいどうしてもすぐに切りたかったんです、と甘えたように言えばそーねーで流してくれる。大人の男だ。
場所はJR東口方面だったゆえに、定期券を購入している恩恵を利用させて頂き、JRのなかを突っ切る。小田急の切符でJRの改札経由で小田急線の改札へと入れる。京王線も。通り抜けることも可能。入場料金は取られたと思うが……。このからくりに。上京した当初は驚いたものだ。大学の友達に教えてもらった。いまはもう、連絡を取っていないが。元気にしていることを願う。
改札をやっと出る。とにかく、いつもひとが多い。長野出身の彼女は毎回毎回驚かされる。人口密度が違うのだ。――震災からはや三年。日本国民の献身、努力及び高潔な精神は世界に誇れるほどで――交通機関が麻痺したにも関わらず短期間で修復した。尽力した人間のちからに彼女は感服している。あくまで彼女の目で見る限りは、首都圏は元通りの日常を取り戻している。被災地の皆さんも、戦っておられるのだ。ひとは――ひとりでは生きられない。大勢の流れに巻かれる無力な自己を感じつつも、彼女はその流れに従った。自分も、社会に必要とされる大切な人間のひとりであることが分かっているから。
小田急線西口地下のほうから、おにぎりやさんやパン屋さんの並ぶ店を右手に、JR西口方面へと突き進む。――と。
なにか、髪を引かれる感じがあった。
彼女は後ろを振り仰ぐ。小田急線地上改札口のほうへと繋がる階段を見る。いつも丸ノ内線を利用する彼女はこの年数経過ゆえ白とは言いがたい白の階段を急ぎ降りる。見慣れたはずのそこには――
見慣れぬ、明るめのグレーのスーツの男。
栗色のさっぱりとした短髪。だが前髪が眉毛のしたくらいの長さでさらさらで。スタイルのよさもあいまって、まるで外国人みたいで、雑誌から抜け出たモデルのような世界を、彼は生成していた。
――とくん。
と彼女の胸が波打つ。
(駄目――!)
彼女はその胸を押さえる。でも彼から視線を外せない。
彼女は気力を振り絞って叫ぶ。
(『あたし』じゃ、『駄目』なの……!)
一度下を向き、呼吸を整えたのちに、ヒールのかかとを鳴らして突き進む。
男は、そこから動かず、彼女のことを、ただじっと見ていた。
階段に足をかけたときに、こちらを覗き込む彼の顔をちらと見た。――なんだか。
(いつもと違う……?)
思えば、彼と会うのはこれが二度目だというのに。彼女がそう感じるのは不思議な話だった。――初対面のときの彼の印象であれば、彼は、駆け寄ってくるはず。彼女と視線を絡ませ、「会いたかったよ」なんてあの甘い声で言ってくれるはず。
なのにそれを、しない。
見慣れた階段を登りつつ、彼女は彼に近づき、そこでようやく彼の瞳をじっと覗き込んだ。
あの日と同じく、明るいいろの瞳が柔らかく収縮し、
「やっと、――会えたね。カナちゃん……」
身を屈め、優しく髪を撫でてくれる。切ったばかりの短い髪を。
すると彼は手を下ろし、
「――さ。行こう」
彼女の顔を見ずに階段を降り始める。「どこに?」と彼女。
「きみに――見せたいものがあるんだ。
たぶん、そこで話をするのがベストだとぼくは、判断している」
彼にしては緊張したような、固い声音だった。
明るい後ろ髪、それからワイシャツの背中を追い、人混みを縫い、彼女は思う。なにか――彼も、『予想』しているのではないかと。
それを裏づけるように、彼は、ずっと黙っていた。彼女の顔さえ見なかった。
それでもその手は、離さなかった。
* * *
百万ドルの景色というものがあればまさにこれなのだろう。
丸ノ内線西新宿勤務の彼女。上京して何年も経つ彼女であっても、意外と新宿の夜景は数度しか見たことがなかった。MSビルだったか、友達ときゃっきゃとのぼったことはあれど。男がいないとこの手のシチュは盛り上がらない。
高所ゆえの強風が――吹き抜ける。季節はまだ、寒くなかった。これからだ。
彼の手がここで離れた。まっすぐ、彼は進んでいく。手すりのほうへ。
そんな彼を見やりつつ彼女は首筋に触れる。――まだ。この髪の長さには慣れない。風が吹けばあの長い髪が守ってくれた。でもそれはもう、ない。それは自分が選んだ道なのだ。
「ここねえ。ぼくのお気に入りの場所なんだ――」
三百六十度。
満天の夜空に守られ、手すりを後ろ手でつかみ、彼は彼女のほうを向く。暗さゆえ、その表情はいまひとつ分からない。だが。
「――特権を利用して今夜は守衛さんに開けてもらった。というのはね」
自身の靴の辺りを見ていたかに思えた彼がまっすぐ彼女を見据え、
「――最後だから。きみに、見せておきたいと思ってね……」
どくん、と彼女のからだが波を立てる。
――いったい彼は、なにを言っているのだろう。
あまり働かない頭。ぎくしゃくとした動きながらも彼女は彼の正面に立つ。――と。
「教えて」と彼は乞う。その瞳が、薄闇のなかでひどく輝いて見えた。「きみの、結論を。きみは――いったいなにを、ぼくに言おうとしている、のかな?」
優しい問いかけ。すがりつきそうな自分を抑えこみ、彼女は一度拳を固めてから、――いよいよこのとき。自分から伝えねばならない。『あの』ためには絶対に。神経を研ぎ澄ませ新たな自分を構築する。
「――あたし、セックス狂いなんです」――と。
ふふ、と彼女は彼の注意を引きつけておいて笑う。「よく、……誤解されるんですよ。あたし。自分で言うのもなんですけど清純派? ていうか、まあ、うぶな女に見えるみたいで……」そして短くなった髪に触れ、「それで男を引っ掛けたこと、何度もあります。実は移されて病院に行ったことも度々――で」
彼女は彼の横を通り過ぎ、手すりを掴む。――掴まねば、決意が鈍りそうだった。一度目を固く瞑ったのちに、目を開くと湧きあがる涙を意志の力で抑えこみ、美しすぎる夜景を睨みつけ、懸命に頭を働かせる。
「――杉崎さんに出会う前日の晩も。ちょっと、……飲み過ぎて、ラリっちゃって。まあその男とはその場限りだったんですけど。やっばいですねー部屋に男なんか呼んじゃあ。部屋中ワインまみれにされてひっどいことになりましたよ……」
嘘にほんのちょっとの事実を交える。これは嘘をつくときの鉄則。
――リアリティを持たせるために。
彼女は大きく息を吸い、
「それで、二日酔いなんかですっ転んだら。杉崎さんみたいなちょーイケメンに助けられて。あったしもう、……ぐらって来るどころか。失神しちゃいそうになりましたよ。実際イかされちゃいましたしね。
杉崎さんの会社のHP、すぐにスマホで調べましたよ。しっかりした会社なんですねえ。IT系プロフェッショナルに向けた調査コンサルタント、……っていったいなんの仕事なんですか。正直意味分かんなかったです。――で」
ここで彼女は呼吸を整える。――負けるな。負けてはならない。
これは、愛する男を完璧に守りぬくためがゆえ。
「会社も信用できるみたいだし。念のため代表電話に電話してみたらちゃーんと秘書もいらっしゃって。声、なんかえっろい感じのひとでしたねー。杉崎さんのことだからどーせ美人さん選んだんでしょう?」
『開始』して以来。ここで初めて彼女は杉崎の顔を確かめる。
硬い横顔が動く。「――うん。それで?」
事務的な口調。彼女をあれほどときめかせた甘い響きが消失。
効果を見せていることに手応えを感じるよりも、喪失感のほうが強い。
自分の望んでいる方向に進んでいるにも関わらず。
彼女は手すりを握りしめた。「だーかーら」
悟られぬよう、前を向き、笑みを作る。「杉崎さん。セレブなんでしょう? あたし、そーゆーひととヤったことなかったし、ほらあ。なんか杉崎さん、あたしが純情な女演じてたらころって引っかかっちゃって。やっけに甘い言葉ぽんぽん吐いてくれるから、あー。あたしこの男に抱かれたいなーって思って」
彼女は声を立てて笑う。ショルダーバッグを握るほうの手に力を入れ、手すりから手を離し、からだを反転させる。
見えるのは、出口。あそこに向かうのは間もなく。
「だ、か、らー、杉崎さん。
あたし。えっち、大好きなんです。……せっかくですから、あたしのこと、イキっぱなしに、してくれません?
もー、杉崎さんの顔見たら、しゃぶりつきたいってたまらないっていうかあ。
なんだったらここでもいいですよー。あたし、野外も嫌いじゃないんで。でもあ。避妊。してくださいね。ヘルペスとか二度とゴメンなんで。あれかなり、痛いんですよ。
ねーえ。杉崎さん……」
上ずった女の声を意識して作り、顔を右に傾ける。
「あたしと、シてよ」
彼は表情を動かさず答える。「――無理」
「あー残念」手を伸ばし、彼の唇にそっと触れてみる。弄ぶかのように。「せぇっかく水も滴るいい男なのにー。けっこーオカタイんですねえ、杉崎さんて」
目の前の男は一切、動かさない。怒っているのかよく――分からない顔をしている。
「あそ」彼女は一歩を踏み出し、出口を見やる。「あっちゃー。ほんともー残念だなー。そのへんの男引っ掛けんの、リスキーだから、あんまりやりたくなかったんですけど。
どーしよっかなーちょーむらむらするんですけどー。
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――こつ。こつ。こつ。
一定のリズムで彼女のヒールが響く。足運びに、無駄がない。
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とうとう、冷たいドアノブに手をかけ、激情のままに、思い切り、引いたところを――
「無理、って、言わなかったっけ、ぼく」
一語一句をはっきり発音する、彼の大きな声が――彼女の耳に届いた。
嗚咽を堪える気力など、彼女には残っていない。
口許を引き結び、あふれるものを必死で抑えこもうとする。
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「あのさあ」彼の、声が徐々に大きくなる。「ぼくと接する前提条件として、これ、覚えておいて。
――ぼくは嘘がつけない。
嘘をつきたくない、性分なんだ。
だから、ぼくは言う」
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「……ほんの、ちょっとの、時間だったけれど、ぼくは、きみの目を見て話した。
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抱きしめたくてたまらなかったね。
……これでも。仕事柄、多くの人間に接してきた。
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ぼくはね。騙すやつには騙される主義なんだ。よっぽどの不利益になることを除いてはね。――ま。やつらには目的がある。あんまり勝ちっぱなしだと、敵作りまくって不利になるもんでねえ。ときには、やつらの自尊心を満たすってことが必要になってくるんだ。若造は若造らしく、謙虚な下っ端でいよ――そういう扱い、なんべんも受けたことがあるんだよ。――で。
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(杉崎さん……!)
最愛の彼の名を叫ぶ。この顔はもう、彼には見せられない。
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ありがとう……」
彼女は首を振る。「――違う。違うんです。あたしはそんな……」
「きみの、こころの整理がつかないということも、分かっている。だからこそのあの演技だ。だから――時間が、必要、なんだね――」
――どうしてこのひとには分かってしまうのだろう。
元彼氏とはいえ、『許して』しまった。いくら約束通り声を殺したとはいえ、自分を『許せ』ない。たとえいま、杉崎と向き合えることになったとしても、彼女は、自分を責め続ける。行為の際にどうなってしまうか――彼女には想像もできない。
それでも。
いつか、忘れ去ることができる日が来るはず。
愛するひとと、なんの苦しみもなく迷いもなく向き合い。
ためらわず、互いの愛を自由に表現する日が。
それが――いつなのか。
明日なのか来年なのか十年後なのかおばあちゃんになってからなのか分からないけれど。
すると。
「残念ながら、ぼくはそこまで辛抱強い人間じゃあなくってね……」やや余裕をなくした彼の声。「期限を、切ろう。だからぼくは提案する。
三年後の2017年、7月7日。二十時ジャスト。
ぼくは、ここで、きみを待つ。鍵は勿論開けておくよ。
もし。きみに、ぼくと向き合う意志があるのなら。迷わず、来て欲しい……」
とうとう、彼女は声をあげて泣いた。こんなに好きなのに。こんなにも愛しているのに。
どうして、このひとはこの道を選ぶのだろう……。
男なら。好きな相手にすぐ愛を伝え、そして結ばれる道を進むのが簡単だというのに――!
「カナちゃん」号泣する彼女の肩に添えられる彼のあたたかな手。「ぼくは、――信じているんだよ。
明けない夜は、ないって。だから――
いつか、必ず、ぼくたちは、めぐり会える。
必ずまた笑って――同じ方向向いてさ。
いっぱい、いっぱい、幸せになるんだよ。だから約束して……」
意識が彼のほうへと向かう。顔を傾けるのを彼女は自粛した。そんな彼女に――
「――二度と。
自分を傷つけないで。
それをすると、ぼくは悲しい……。
ぼくは。きみを傷つけた人間を成敗する手段を持たないわけではない。実を言うと、ある。
でも。
それをきみが望まないのをぼくは知っている。――こんな。
悲しいことは、二度とごめんだ。
こんな……好きになれるひとに出会えたのは、初めてなんだよ、カナちゃん……」
涙混じりの杉崎の声。彼女は、杉崎のぬくもりに自分のそれを重ねた。――けど。
声をかけたい気持ちを、抑えこんだ。――いま。彼は、戦っているのだから……。
鼻をすする音。それに続いて、「ねえカナちゃん」
「……なんですか」これだけなら支障がないと思い彼女は反応した。それでも手はまだ離せない。すると杉崎は彼女の手を愛おしく撫で上げ、
「――最後に。ひとつだけ教えて?
カナちゃんて、どういう字を、書くの……?」
「あー」顔を傾けると涙がこぼれた。言い慣れたタームだからすらすらと言える。「可能の『可』に、奈良の『奈』です……」
「へえ。いい名前……」ひさびさに杉崎の声が弾む。「『奈ら可能』、『奈ら可能』ってね。
ねえ可奈ちゃん」
唄うような杉崎の響き。
愛おしさと懐かしさのあまり、つい、「なんですか」と彼女は訊いてしまう。
たっぷりと杉崎は彼女の注意を引きつけ、
「ぼくたちになら、なんだって、可能だと思わない……?
だってね。
ぼくたちほど、初対面のたった五十九分間で、あれだけどきどきし合えた男女は、世界中どこを探したって、ほかにいないと、思うよ……?」
「杉崎さん」震えを抑えこみ、彼女は言葉を発した。「なぁに?」と優しい彼の語感。
――せめて、これだけは。
愛しているという言葉を用いるのが許されないのなら、せめて。
「あなたの思う、あたしのこころのなかの真実。
きっとそれが、正しい真実、です……」
「可奈ちゃん」とうとう彼が背後から彼女を抱きしめる。「ああ……
好きなんだよ。
愛している……」
何度も、何度も、彼女は頷く。「分かって、ます、でも……」
「それも、分かってる」と杉崎。「だから、ぼくは、この道を、選ぶんだ……。
きみがぼくの、最愛のひとだから……」
泣きじゃくりをあげ、自分に巻き付く彼の愛おしい腕に手を回し、できるかぎりに頬を近づけながら、全身に、彼の愛を感じる。――これで、いい。
これで、充分なのだ。
こんなに愛するひとに出会えただけで、幸せ、なんだから……!
――いったいどれだけ泣いたのだろう。
これ以上泣けないというほどに泣き尽くした頃――。
彼が、息を吐いた。頃合いだと彼女は思った。
彼女は彼にすがる自分の手を離し、静かに自分のバッグを拾い、肩にかけた。――ドアのリーチを気にして彼が後ろに動く気配。
最後に顔だけは見たかったが。でも――。
取っておこう、と思った。
本当に、好きなひとだから。
彼の与えてくれた奇跡が胸のなかに色づいたときにこそ、――
目一杯の愛で。
彼と、向き合いたい。
ドアを開き彼女は別れを告げた。「――さよなら」
「待ってる」と杉崎。
「ぼくは自分を大切にする。
だから、きみも自分を大切にして。
自分の選んだ道をしっかりと歩んでいくんだ。――忘れないで。
ぼくは、きみの味方、なんだから――」
開いたドアにからだを滑りこませる。別れはあと――数秒後。
「最後に可奈ちゃん」反射的に素早くドアを手で押さえた。どうしても期待を捨てきれない。「なんですか」
「おれ、……やらしい男でごめん」恥ずかしげに彼。どうしてだか――表情まで鮮明に思い描ける。「あのね。今度教えて。
おっぱい、なにカップなの……?」
――ふっ。
と彼女は笑いを漏らした。こらえきれず肩を揺らす。――なんという、愛の奇跡なのだろう。『あのとき』抱きしめた杉崎は実はこう言ってくれていたのである。「あー笑ったぁー」後ろから無邪気な声。彼女を救ったどこまでも愛おしい、男の声。
最後に聞こえたのは、
「可奈ちゃん。ぼくはね。
きみの、笑った顔が、大好き、だ」
愛する男の応援を存在を背に。やや明るい通路を進みエレベーターのボタンを押す。乗り込むのはひとり。降りるのもひとり。けれど――
彼女は、決してひとりでは、なかった。
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