愛のあるセックスを、教えて

美凪ましろ

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Temptation Of Erotical Monster/*色魔獣の誘惑*/

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 半信半疑だった。
『ぼくの言うとおりにすれば――』
 果たしてそんなことが起こりうるのだろうか。
 とはいえ、先を進む彼の大きな背に彼女は従う。背中に、汗は滲んでいない。清潔感の漂う白のワイシャツは、ぱりっとしていてとても格好がいい。後ろから抱きしめ頬を擦り寄せられたなら――どんなにか幸せだろう。
 慌てて彼女は自分を戒める。――なにを考えているの、と。
 ホームはいつも彼女の乗る時間に比べれば格段にひとが少ない。電車の本数の多さも手伝ってか。とはいえ、電車を待つひとびとの列がところどころで目に入る。よそ見をしているうちに――現場到着。
『事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!』――青島俊作の名台詞が唐突にリプレイされる。やはり、薬を、飲むべきだ。
 彼女からは例の高校生二人の姿は見えない。『顔は見せちゃだめえ』と言い使っているから。
 彼の提案を脳内で再生する。
『ぼくが――音楽聴いてる高校生の前に来ると、手前の彼の膝を指で軽くノックして、次のように言うわけだ。純朴な高校生はイヤホンを片っぽだけ外すはずだよ』
 後ろ姿だけでも、優しい口調で語りかける彼が、笑みを浮かべているのが彼女には伝わった。
「悪いんだけど、こちらのお嬢さんのお加減があまりよくないものでね。きみのような紳士に譲って頂けると大変ありがたいのだが――」
 彼がかがむとようやく彼女の身長に近くなる。驚きさておき、彼の預言を実行せねば。
『そのタイミングで。ぼくの背にそっと手をかけ、きみは先ず、『顔』だけを出すんだ』
『『顔』だけを? ですか?』不可思議に思い彼女が問いかけると、『そのほうが効果的なんだよ』と彼は甘やかに笑う。
 実際、長身の彼の影からひょっこり顔を覗かせてみる。――三人がけのベンチに学ラン姿の高校生が二人並んで座っている。ほかには老女がひとり。お眠り中のため彼が声をかけるべきでないと判断したのだろう。外側にいる男子がイヤホンで音楽鑑賞中。内側が読書いや読教科書中。こんな時間に電車に乗るとは、しかも代々木上原乗車とは、親がブルジョア。かつ当人が練習熱心なのだろう。やや油性肌の辺り、運動部かと彼女は連想する。そして彼の預言通りイヤホンの彼は片方だけ外しているのを彼女の目は確認した。
『すごぉく、彼は、顔を赤くするはずだよ――』
 魔法のように彼は現実を語る。そして、
『かつ。かつ。とさっきみたく綺麗な歩き方で、ぼくの横に一旦立つと、順番に彼らの顔を眺めやって欲しい。――で。その『太い』胸を空いている方の手でちょっと押さえて、『ん』と苦しそうに言ってみてくれるかな』
『――苦しそう?』彼女は反論した。『そんなの、演技じゃないですか。駄目ですよそんなの』
『きみは二日酔いで苦しい。挙句、色魔獣(エロティカルモンスター)に心奪われていると来た。手を打たないわけにはいかない』
 なるほどその通り。と、いうわけで、いざ実践。
 ヒールを鳴らしつつ彼の横――二人の高校生のあいだの前に立ち、「うっ」と『太い』胸を押さえる。――いや間違えた。『ん』のほうだったか。『失敗したかも』と彼女はちょっぴり眉を歪めるのだが――。
 そのあとの展開は劇的だった。
 すざばばああああ! と素早く両名ともが立ち上がり。「どどどうぞどうぞどうぞ!」とイヤホンを両方ぶらさげた彼が先ず空いた席を指す。隣の彼が、「とと、とにかくお大事に!」
 ふたりとも坊主。走り去るさまを見送れば、坊主頭の耳までも赤かった。
 ――おっまえいいかっこすんじゃねえよ! おまえもだろっ! ……
 彼らを見送るワイシャツの広くて頼もしい背中。振り返る彼は穏やかな声で、「ご厚意に甘えて――座っちゃおうか」と思いのほかいたずらな感じで舌を出す。歯ブラシでおえっとなっても磨き続ける持田香織の努力に敬服し舌苔をちゃんとケアしているのか、きれいないろをしていた。
 白い手が彼女の前に差し出される。さきほどは掴めなかったあの手が――。
 彼女の右手が彼の左手に重ねられると――すごい衝動が胸のうちを走る。恐るべき色魔獣(エロティカルモンスター)の魔力。しっとりと柔らかくて気持ちがいいのに、心の臓がびりびりと痺れて、顔が赤くなるのを抑えられない。肩で呼吸をする有様だ。本気で休む必要性を感じたので、彼女は彼の導くままに座った。座席にはさきほどの高校生のぬくもりがまだ残されていた。
 座っても彼の手は離されず。じんわーり、とあたたかさが胸のうちに広がっていく。どき、どき、どき……。それでも、さきほどよりは慣れてきた。愛しさと切なさと心強さに支配されているのは変わらずだが。
 ふうと息を吐き、膝頭に自由なほうの手を添える。幸いにして擦り傷ゼロ。日頃の行いが良いせいかもしれない。あの子たちを見習わねば。「なんで、あなたの言うとおりになったんでしょうか……。なんか、学校の時間でも、あったんですかね」
「分っかんないのお?」からかうような彼の調子。「あの二人。きみがめちゃくちゃ可愛いから、びっくりしちゃったんだよ」
「ええ!?」彼女は本気で驚いてしまう。自分の身の程は自覚している。「ありえないですよ。あたし、昔っから全然モテなかったんですよ?」
 ゆったりと彼は頬杖をつく。色魔獣(エロティカルモンスター)は流し目もセクシーだ。「それね。可愛すぎて周りの男連中で牽制し合ったと思われる。たぶんこれぜったい当たってる」
 彼女にはひとつ気になることが。「――あの」
 彼は、分かっていてやっている。しかも恋人つなぎへと移行。ゆっくりと見せつけるように開く繊細な感じの指先。なまじっか流し目で淡々と行うところが憎らしい。……くわっと開いたと思えば迷いなく彼女の肌をきゅうっと捕まえる。密着する素肌。彼女の胸にやさしさが広がる。気持ちいい……。そぉっと開いてはぱくっと捕まえる。開いては――捕まえる。彼の作るリズムに合わせて心臓が収縮する。――きゅう。きゅう。きゅう。きゅうん、きゅうううん……! はあっ、と爆発しそうな胸を押さえ彼女は叫ぶ。「やっ、あぁっ、の!」彼女が声を出してもクールな顔を貫く美男子の動きは継続。向こうを向いたまま冷静に。だが彼女をこれ以上ないほどまでに刺激する。「……駄目です。そのっ、……! ……っあっ」
 ――何故、これを言うと胸が痛むのだろう。
「は、な、して、……くれませんか」
「残念」あっさりと彼の手が離れていく。「ぼく、きみに指摘されるまで永遠に繋いどくつもりだった」
 恐ろしいほどの快楽が逃げていく。
 ――彼女は、学生時代にフォークダンスで男子と手を繋いだことを思い返す。男性の手に触れたのはあのときくらいのもの。異性を意識していた年頃にも関わらず、胸はときめかず。なのにいま――。
「そんなに、苦しい、のかな」
 はっと顔をあげる。鼻の先に彼の唇。色艶がいい。――そそられる。いっそこのまま鼻先にくちづけられたらどんなに幸せだろう。優しい感じで……。
(あ――)
 なに考えてるのよあたし!
 ぎゅう、と彼女は自分の胸元のニットを握る。ばく、ばく、ばく、……と鼓動は激しさを増すばかり。
 いったいなにが起きているのだろう。このままでは例の星に連れていかれる羽目になるというのに。
「訊いてもいい?」彼の――繊細な指先が彼女の顎のラインをなぞっている。驚きに目を見張ると、――切なげな彼の瞳に囚われる。まつげがすごく長い。
 愛おしさかなにかの感情に目を細める彼は、
「――きみに起きているのは、ぼくとおなじ現象?」
 愛を唄うように、彼女の真実を語ってみせるのだ。
 彼女は、目が、離せない。心臓が突き破られるように熱くなる。苦しい――。
(あ――)
 彼女は、彼の愛に貫かれる自分を想像した。予想できた。いまのいま、彼女のなかで未来が、開けたのだ。
 震えるほどの余波が彼女を揺らす。「――あ。っあ……」
「……返事がないのなら、自分の都合のいいように解釈しとくよ。ぼくは、無駄にポジティブな色魔獣(エロティカルモンスター)だからね。覚えておいて」
 するり。彼女の下唇のラインを恋人にするように撫でたうえで、もとの位置に戻っていく。彼女にはそのことが惜しまれた。切なく見守っていると、その彼女の様子に気づかぬ彼が、「さて」と向こうを向く。きれいにカットされた襟足が見えた。一点を捉えると彼は立ちあがり、
「――約束通り。ミネラルウォーターを買ってくるよ。銘柄は別になんでもいい?」
「あいえ。行くならあたしが……」と彼女は腰を浮かせかけたのだが、
「いーからきみは座ってな。ぼくもちょっとコーフンして喉が渇いた」と彼が彼女を手で制する。するとまるで教師のような目つきに変わり、「――きみね。ぼくがいないあいだに変な男に声をかけられたら迷わずぼくを呼ぶように。感知する限りではいま居ないけど特に色魔獣(エロティカルモンスター)のたぐいには気をつけて。いいね? そんな遠くに行かないから」
 はい、分かりました、と答えざるを得ない剣幕であった。
 身軽なスーツ姿の彼を見送りふと彼女は思う。
(変な男って……)
 吹き出してしまった。――だって。
(どっちが変な男よ……)
 可笑しくなると止まらない。ひとり、お腹を押さえて笑ってしまった。空いてしまった色魔獣(エロティカルモンスター)のスペースには、下にビジネスバッグが置いてあるから分かると思うけれど、でも念のため、彼女は自分のレース付きハンカチを置いた。そして、また、笑った。こんな気持ちで笑えたのは、思い出せないくらいに久しぶりのことだった。
 軽快な足取りで、水も滴るいい男が戻ってきたので、急いでハンカチをバッグに突っ込んで俯き笑みを口許にしまう。
「――なーんか、面白いこと、あった?」
「いーえ」と彼女は涙を手で拭う。「はいこれ」と彼は手渡しかけるのだが、一旦それを引っ込め、「ちょっと待ってて」
 怪訝に思い彼女が見つめれば、小気味良い音を立てて手早く固いペットボトルを開封し、蓋を手に、「お待たせ」と笑顔で本体を渡す。
 ――きゅん。
 恐ろしい。反射的に胸を押さえる条件反射がいつ自分のなかに、取り込まれた? どんなパブロフの犬だ。
「あ。またそれだ」目ざとく彼が気づく。「きみね、ぼくと出会ってから何回きゅんきゅんしてるの?」
「十回くらい……」言ってから彼女は『しまった』と思った。
 してやったりの彼の笑みが目に入る。「うそ発見器とか引っかかるタイプだね、きみ……」
「どうせ。騙されやすいですよ」言いながらペットボトルを一旦彼とのあいだに置き、バッグのなかの胃腸薬を探す。――とここで気づく。
 いつから、気持ち悪いのが、消えていた?
 驚きに手を止める。が、恐る恐るそれを取り出す。やや白目を開かせたまま、震える手で胃腸薬を持ち、右手でペットボトルを掴む。
 ――飲む必要ないんじゃない?
「ノンノン」と彼の声。――思考を読めるのか!? 「あのねえ。お仕事を始めてから気持ち悪くなったら大変だから、いまのうちに飲んでおいたほうがいいよ……さっきも言った通り、鉄は熱いうちに打てって言うからね」
 助言に従うわけではないが。ひとまず開封し、うえを向いてざーっと流しこむ。細粒タイプは効きが速いぶん、苦い。彼女が顔をしかめ、急いでペットボトルを閉めてベンチに戻すと、
「はいこれー」
 新たなるペットボトルが差し出される。ミニッツメイドのカシス&グレープ味。正直、とても、ありがたい。迷わず彼女は口にする。心臓がやたら暴れ狂い山本リンダのごとくどうにも止まらないので、彼女は勢いを手伝って一気に飲み干した。上を向いて、ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ、ごきゅうん! と思い切り喉を鳴らし。
(あ、行儀悪いかな)こっそり濡れた唇を指で拭う。あ、垂れてきた。ぺろ、ぺろ。ちゅぱ、ちゅぱ。
(やだあたし子どもみたい)二本の指でこれ以上垂れぬようしっかりとやわらかな唇を押さえこんだままで慌ててバッグを探ろうとすれば――
 視線がかち合った。右にからだを捻る体勢の彼女は、はっきりと、彼の顔を確かめた。
「その、い、まの……」なぜかかたかたと彼は震えて彼女を指差す。顔も尋常じゃなく赤いし彼の方こそ大丈夫なのだろうか。あやっぱ垂れた。間に合わない。下唇からうえにかけてふるん、と指二本で拭ってみると、「うああ」とどうしてだか彼が声をあげた。
 急いでバッグに手をかけ取り出したハンカチで彼女は唇を拭く。あーやっぱついちゃった。残念。くっきりと唇のあと。内側に折りたたんで隠してから再び彼女は彼をしたから覗きこむ。――狭いスペースに両手をつけ両の腕で豊かな胸を挟み込んでいる状態が男にどんな効果を生み出すのかについても彼女自身まったく気づかない。彼女の着ている綺麗ないろの薄手のニットにしっかりと縦の線が入り、無意識にかるく腰をくねらすときた。動きに合わせて長い髪がさらさらと流れていく。「どうしたんですか? あの。具合でも……」適当に突っ込んだゆえハンカチが二人のあいだに落ちる。拾う彼女。ぐっと前方にからだを寄せ、……一突き。おっぱいがふるん、と揺れる。髪の毛さらさら……。どう見てもそれは女が男のうえにいるときの――
「うあああ! ナナナなんでもないなんでもないましてやナニでもない!」ばっ、と大きな手で顔を覆いうずくまり、「ふはっ、……ぼ、く、……これをきみに言ったらたぶん嫌われ……無、理だ……あんなもの見……ああぁ! くっ、そお、静まれ、静まれぇええ……ぼ、く、のアルテマウェポンんんん! ふ、ふ、ふぅううう……し、静かにしてくれぇえええ……た、の、むぅ……アルテマぁ! け、け、け、ケフカぁ! ○たないで○たないでジョー! 頼むオダギリぃ! ぼくに手を貸してくれえええ!」……いったいさきほどまでの余裕はどこへやら。呪詛のような声をあげている。霊媒師には見えない、色魔獣(エロティカルモンスター)に違いないのに。
 よっ、と彼女はからだを前に戻す。ぽっ、とハンカチを今度こそ落ちないようにバッグにしまい、
 ――まあいい。誰にだって微笑みかけられてかくんと腰が抜けそうになったり駅で突然、色魔獣(エロティカルモンスター)に介助され心臓が病気になったかのように暴れ狂う現象がある――はず。いやないが。なので他人の言動は優しく見守るべきなのだ。
 そういえば他人。めちゃめちゃ優しいのに他人。
 彼女は過去、ときどき変な男に声をかけられた現象を思い返す。顔や胸をじろじろ見られていやな気持ちになった。こちらの紳士があのタイプの人間だとは思えないが、でも急に、心配になってきた。
 というわけで飲み口を覗く。「なんか、……悪いものとか、入ってないですよね」
「信頼してよ」どうやら普段の彼を取り戻したようだ。眉を下げて笑い、両の手のひらを彼女に見せつける。近づいて手相を見たくなったのは自粛。「……ぼく、変わった男だけど、変なひとじゃないよ。信用して。正直、間接キスしたいなって思ったけど、頑張って我慢したんだ。褒めて?」
 笑ってしまうのを彼女はこらえた。略して笑コラ。さりげに仲睦まじげなビートたけし相手ではなく楠田枝里子と喋るときにだけ見られるクールなフェイスのほうの所さんを意識してポーカーフェイスを作り、彼にまるみえの容器を返す。「……クン〇星への移住要請はたまたエステの勧誘かなんかですか。言っておきますけどあたし、街でティッシュとか受け取らないひとですよ」
「ん、んー」と彼は甘ったるい声でレスポンス。――なにそれ!? と彼女は驚愕する。普通『ぶ、ぶー』でしょうよなにその無駄に色っぽい響き! 彼は後ろ手をつき、顎をかるくあげ、目を瞑り、ひなたぼっこでもしているみたいに気持ちよさげに自分の喉を響かせる。――それはまるで男の『恍惚』。あのときだけに見せる――
(きゃああああっ!)
 内心で絶叫して彼女は頭を抱えた。がくがく震えつつ、「そ、れ、……やめてくださいっ」と小さく叫ぶ。「んんーぅなにが」と彼。また来た! うわこのひとなんなんだ。とぼけたって無駄だ。そういう男の恍惚でいったいどれほどの『太い』胸の女を虜にしてきたのか。――負けてはならない。ここは、絶対に。
 ひとまず、両耳を塞いだ状態で身を起こせば――近い。近い近い近い。キスをする気でもあるというのか。ここ、小田急線のホームですよお兄さん。
 間近に見ても彼の瞳には星が輝いており――美しい。
 とくん、とくん、……と、甘い鼓動が打ち始める。さきほどまでの爆発的なものとは裏腹に、気づけば彼女の手は耳から離れていた。
 ――声が、聞きたい。
 本能には抗えない。行動主体たる彼はすうと目を眇め、「そう、……その調子」やさしく彼女の髪を撫でる。その動きにぞくりと自分の開かれぬなにかが反応する。「だ、め、……いやぁ」しかしながら彼女の声は弱々しい。
 彼は、彼女から目を逸らさない。それだけで――撃ちぬかれるよう。さきほどの未来への想像が膨らんでいく。
 彼の大きな手がそっと彼女の頬に添えられる。――直前だった。熱い彼の手の存在を数ミリ近くにまで感じる。気持ちいい。と彼女の脳が判断を下した。このまま――抱きしめられたならどんなに幸せだろう。蕩けそうな感覚とともにとうとう彼女はまぶたを下ろす。
 なのに。
 彼は、自分から離れていってしまった。あとすこし――あとすこしだったのに。
 目を開くと涙が流れる。――と、彼は、落ち着いた声で「ごめんね」と詫びる。
「まだ――その段階にはないんだよ、ぼくたちは」
「どういう、……意味ですか」取り残された快楽に傷めつけられつつ彼女は鼻をすする。と、まっすぐに彼は彼女を見据え、
「ぼくには、しなければならないことがひとつ、ある。
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 ぼくは、きみがどうしてもどうしてもぼくが欲しいって状態に至るまで、徹底的にきみのことを満たさなければならないんだ。
 それを成し遂げるまで、ぼくは、絶対に、きみに、触れてはならない……」
 涙を拭い彼女は訊く。「……あなた。本当に色魔獣(エロティカルモンスター)なんですか……?」と。
 すると彼はやや眉を歪めて笑う。「二つね。きみの知っている情報にはおそらく誤解がある。先ず一つ」と彼は指を一本立てる。彼女の注意を引きつけておいて彼は、
「色魔獣(エロティカルモンスター)は、一部を除けば、もう、あの星に未練はない。
 田宮良子とおんなじでね。母性愛に目覚めちゃってさ、人間として生きていくことを望む色魔獣(エロティカルモンスター)も珍しかない。ラストのミギーみたいな選択をする者もね。やっぱ地球がいいやってひとたちが地球に残る。一方で故郷で生きることを欲す者があの星に戻る。どっちもアリなわけだよ。
 ぼくも、戻ることは、選ばない。――だってさ。せっかく同じ時代に生まれたんだからさ――これも縁なわけだよ。出会った人間のひとりひとりを。与えてくれた財産を。大切にしてぼくは生きていきたい。
 憎しみを見出して傷つけるんじゃなく。笑い合って楽しく――生きていく道を模索したい。性善説大いに結構。でもぼくは実は性悪説派なんだけどね。きみ、ラノベは読むほう?」
 いいえ、と彼女が答えると、「いまも昔もラノベってのはすごいんだよー」と彼。ぼくコバルト時代も読んでたんだよーと。……ひょっとしたら話が合うかもしれない、と彼女は思ったのだが、彼の口から出るのは『いま』のほうだった。
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 というわけで、『必ずやアノ星に連れて帰る』説は、覆された……」
 あ言っておくけど、と彼は立てた指を自分の唇に添える。しぃーっ、と。
 ――アノ星の名前。あんまり簡単に声に出しちゃあ、いけないよ。そこらに潜んでいるかもしれない色魔獣(エロティカルモンスター)を刺激しかねない。別に彼らに攻撃意欲はなくとも、本能に基づいてきみのもとへとまっしぐらに駆けつける。とするとあとあと面倒だ。なんせきみは――
 シリアス一転。「魅力的な『太い』胸の持ち主だからね」と白い歯を見せて笑う。すると彼女は、
「二点目は、なんですか……」
 ここで彼は声を低くする。「ぼくたちは、『人間』を食べなくても生きていける。人間とおんなじものを食べて生活していけるんだ。曽祖父の代辺りまでは『違った』みたいだけどね。やっぱね。一緒にいると人間にも愛着が湧いてくるじゃん。なもんで、ぼくは泉新一のごとく戦う必要はないわけだよ。……今日び、ふっつーに、色魔獣(エロティカルモンスター)が寄生した人間と、寄生されておらぬ人間同士が結婚、なんてこともあるのさ。なお、生まれた人間は『寄生』されておらぬことが100パーセント実証されている……。十一月に公開の例の映画とはきっと違うところだね……。きみは漫画で読んだひと?」
「高校生の頃に、友達から……」彼女が赤くなった頬を押さえる。「『あの』シーンがすごく、印象的でした。休み時間ごとに読んでて、で、『あれ』を学校で読んでいいのかってすっごく、周りに男子がいないか、恥ずかしくなって、でも止められなくって……」
「漫画史に残る名シーンだよねあれは」と彼は断言する。「あのね。生きることは死ぬこととイークォール。愛憎が表裏一体なのと同じでね。愛の交換は死に近づくことも意味するわけだよ。本来は、命を生み出す尊い行為だからね……」
 見知らぬ男の語るセックス観に魅せられる自分がいる。――この男は、なにかが違う。
 しかしながら時間は限られている。――なので彼女は質問を重ねた。「あなたが、あたしに対して、『しなければならない』と言ったのは、なんですか……」
 すると彼は彼女のほうへとからだを向け、――チェックメイト。
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「――二文字。だね……?」
 ――何故それが!
 ばく、ばく、ばく、……と心臓が波打つ。「ふぅん」と冷徹にも彼。じゃあ二問目、と表情を変えず、
「かつ、二文字とも、母音が、『あ』……」
 ――なんでなんでなんで!?
 驚愕に彼女は目を見開いた。この男は――近頃ご活躍のメンタリストDaiGoさんのはたまた斉木楠雄の能力の継承者かなにかですか?
「ああ分かった」ふ、と息を吐けばたちまち空気が変わる。彼女は――安堵した。やわらかい笑み。あたたかな彼の雰囲気を感じられたから。
 安堵する彼女に彼の白い手が差し伸べられる。
「よろしくね――『カナ』ちゃん……」
 ――許されるならば彼に抱きついていた。
(なんで? どうして? 分かったの? あたしの名前――)
 自分の名前がこれほど尊いものだとは知らなかった。愛する両親が授けてくれたものとはいえ、実感としてそれを味わいながら生きていくほどではなかった。だが彼が――変えて、くれた。
 どれほどまでに大切なのか。
 彼女は両手をそっと組み合わせ、訪れる震えを抑えこみ、涙を浮かべる。「どうして、あなた……」
「からくりは結構簡単」女の子だからね、と彼はつぅ、と彼女の涙を指先で拭う。伝わる――あたたかみ。「女の子の名前は二文字か三文字が多いでしょう? 四文字もあるけれど、この場合、確率の高い方から『攻める』……」彼の説明によると。
 たとえば、『四文字』→違う。『三文字』→違う。『なら二文字』→と巡回すると……女の子は『冷めて』しまう。
 あとは山かけ。なんとなく『二文字』って予感がしたから言ってみた。で『当たり』だったからそのルート。仮に違ってたら、「……なーんてね。ほんとは三文字」とヨユーな感じで勿体つければ済む話。
 で。
 きみは、たびたび『あなた』と言った。なんかそれ聞くたびね、『母音』の『あ』に愛着のある人物じゃないかなあと想像がついたわけだよ。全部『あ』でしょ。なかでも、……『な』と発音するときにね、ちょっと舌の引っかかる感じが若干、――注意を払わなければならないほどの微細な程度だけれど、執着心のようなものを感じたんだ。
 というわけで。
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 2要素の配列変数。箱の一個目に入るのは『K』のつく文字。score[5]とscore[50]……小文字はまあナシにしよう一旦は。『かあ』『かい』『かう』……おっと。『な』に愛着のある前提もあったよね。――ファイナルアンサー。
『KAな』ちゃん……と。
「どうして『K』がつくと……」指摘される前に彼女は気がついた。ショルダーバッグにつけているシルバーのバッグチャームに。
「そ」と彼は笑う。「頭文字を普通取るわけよ。なもんで、最初っからきみを見たときに、『か』行のつく名前ってのはまるわかりだったのさ」
「……外したほうが、いいんですかね、これ……」俯く彼女に対し、「違うよ」と彼。
「うーんと。警戒させちゃってたらごめんね。でも、ここまで分析できるのは色魔獣(エロティカルモンスター)たるぼくくらいのもんだよ。限られる。それにね。ぼくはきみに、自分の名前を誇りに思って欲しいと、そう思っているんだよ」
 ――ああ。
 たまらず彼女は彼に手を伸ばした。その手をやさしく包み込むと彼は、「……止まん、ないよね、どうしよう……」
 こくこくと彼女は頷く。涙などもう、拭う気力すら起きない。感動に奪われてしまっていて。
 ふたつのぬくもりが合わさり、手のひらをしっかりと、彼に包み込まれている。距離も近い。なんだか――いいにおいがする。香水といったたぐいではなく、彼特有の――フェロモン。
(さっすが、色魔獣(エロティカルモンスター)。フェロモンも半端ないわね……)
 ちょっと彼女は笑った。その隙に、彼は身を屈め、あるものを取り出し、胸ポケットから取り出した万年筆で裏にさらさらと書いてすぐに彼女に見えるように示す。
 彼女が受け取ろうとするとぱっと彼は引っ込めていたずらに笑う。「――当てたい?」
「無理です」と彼女は苦笑いを漏らす。しかしながら理知的な表情へと切り替わり、「……でも。例えば、あなたの『留学先』を当てるというのは、どうでしょう……?」
 思わぬ提案に彼の目が見開いた。

 * * *

 手を握ったまま、と彼女には注文をつけられた。
「気になっていたんですよ――あなた。『エロティカルモンスター』って発音するとき。例えるなら宇多田ヒカルさんが英語と日本語使い分けるときのような、ジャパニーズイングリッシュに『変える』じゃないですか。だから、あなたも『そう』なんだろうなあって、あたしにはピーンと来たんです」
 なかなか『追われる』側というのは緊張をするものだ。じわりと脇に汗が滲む。普段汗なんてそんなにかかないので汗わきパッドなんて無論用意していない。ごめん小林製薬。
「先ず一問目。
 I can't speak English.
 ……って、発音してくれますか」
 言われた通りに彼は実行。「ふーん」と彼女は顎を摘まむ。
「やっぱり、……ヨーロッパ圏内でもオーストレイリアンでもないと来た……」
 ――どきり。
 彼の反応を彼女は面白がって鼻で笑う。可愛らしすぎる小悪魔め。どっちが色魔獣(エロティカルモンスター)なんだか。「ほんとに、……可愛いんですね、あなたって……。いじるのが好きに見えて本当はM、だったり、して……?」
「ぼくを星野源と一緒にするなよ」
「あたし。好きですよ。あのひと……声も演技もいいし。あんなにかっこよくって面白くって演技もできてって星野源っていったい何者なんですかね。彼こそ色魔獣(エロティカルモンスター)じゃないですか」
「違う。きみは彼の正体を知らない。詳しくは『蘇える変態』を読んでくれ……」
「第二問」と彼女はスルー。
「言ってみてくださいますか」
 ――really ridiculous.
 なめらかな発音で彼は答えた。――日本語が母語の人間が英語を学習するときに必ずぶつかる『r』と『l』の発音の壁。マリオの『キラー』のようなものだ。容赦なくプレイヤーに向かってくる爆弾をジャンプして避けるテクを体得せねば英語を会得したことにはならない。なお、『ridiculous』はハリーポッターシリーズのアズカバンの囚人で放たれた呪文とのこと。出典Yahoo! JAPAN知恵袋。
「あー」と彼女。宙を見据え、「なんか、……問題は東か西かってところですね。南部ではありえません。性格が明るくて穏やかだから西? っぽい気もするし……」
 ――誘導尋問。その手には乗らないぞ。
「じゃあ東」と面白がっているかのように彼女は笑う。「ニューヨーク、で、どうでしょう……」
 ――ほぼ正解。
 と言いたいところであったが……。それに、『前提』を伝えなかったのは自分のずるさゆえ。よって彼は「ごめんね」と先ず彼女に頭を下げる。「あのね、ぼく……。二回、留学してんの。高校時代と大学時代の二回。一年ずつ。因みに高校んときは三年生のときに行って、いっこ留年してんの。同級生と一緒に卒業できなかったのは心残りだったなあ。……で、二回目の大学時代の留学先が、ボストン」
 すばやく周囲に気を払い気づかれぬうちにキス。――唇にしたかったが自粛。「だから、……そっち系の影響が強いわけ、ぼくの発音は……」声が震えるのはどうしようもできなかった。
 すると彼女はそっと感触の残る頬に触れ、「……ご褒美。ください」
 涙の浮かんだ瞳で彼女は聖女のように笑む。
「あたし。あなたの名前が、知りたいの……」
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