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番外編3 「直後」のふたり――敏感な莉子SIDE

#EX03-26.母の矜持

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「……お母さんは、どうしてお父さんと結婚したの」

 あらあら、とグラスのなかの氷を揺らしながら母が言う。「お母さんの話なんていいのに。莉子ちゃんの話をしてちょうだいな」

「わたしの物事を解決する際のアプローチをお母さんは知っているでしょう?」わたしはわたしで、無糖炭酸水の入ったグラスを揺らし、「……他人の言動や体験から、自分のそれとを比較し、……検証する」

「……まあ。お母さんの話で参考になるのなら。いいわ。話すわ」

 母はあぐらをかいて座り直し、

「……お父さんは、お母さんにベタ惚れだったのよ。……前にもちらっと話したとは思うけれど。出会ったのは新入社員になりたての頃で。合コンで、一目惚れだったっていうのよ。

 そっからお父さんのアプローチがすごくってね。……わたしいまはこんなだけど、若い頃はすごくモテたのよ。それまでは全然モテなかったのにね。だから、いろんなひとと飲み歩いたりしたわ。いま思えば、あの頃後悔の残らないように、飲み歩いて正解だったと思う。……莉子が生まれる頃には、やり残したことなんかなかったもの……」

 中野さんも同じように感じているといいのだが。わたしは、母の弁に耳を傾ける。

「何年か……三年くらいかな。じっくり、いろんなひととの語りを重ね……そうね、いわゆるサシ飲みをいろんな男性と繰り返して。お父さんともいい雰囲気で……友達以上恋人未満の関係でね。

 お父さんは、焼きもちを焼いているようだった。そりゃそうよね。自分といい感じの女の子が他の男と飲み歩いていたら、いい気持ちはしないわよね。でも、お母さんは、お父さんを傷つけているという自覚がなく。それに、男の人ってちやほやしてくれるから、飲んでいても楽しいのよね。すっごく。もてはやされるその気持ちのいい感覚に酔いしれていたわ……。

 お母さん、女友達なんか全然いなかったから。莉子ちゃんと同じかしらね。ある年齢になると、結婚出産が絡んでくるから、急に、新しく同性の友達を作るのが難しくなる。……飲み友達の男たちは、お母さんの空白を埋めてくれた。男たちはわたしの前では饒舌だった。仕事……恋愛、人生のなにに重きを置いて生きているのか……話してくれて。新しい価値観でいっぱいになって、……満たされたわ」

 もし……わたしがレイプ被害に遭っていなければ。或いは、課長と出会っていなければ。母と同じ道を歩んでいたかもしれない。母を責めることは出来ない。

「でも、あるとき……物静かで、言ってはなんだけど、女性慣れしてない会社の先輩とふたりで飲んだことがあったのね。そのとき、帰り際に、『また会ってくださいますか?』って言われたのね。そのときになって初めて、お母さん、自分が相手の男性に酷いことをしているんだ、……て分かって。

 そのときまでまるで無自覚だったのね。自分が男を誘うことで……自分はそのつもりはなくっても、相手からすると、『女として誘惑している』……真実はひとつではあるけれど、見解は常に複数あるのね。お母さんの無自覚で奔放な言動が、相手をその気にさせて、傷つけている……そのときになってようやく気づいて。……で。

 大黒摩季の歌じゃないけれど、全員……男友達を捨てて。お父さんと一緒になることを、選んだの。……こんなにも極端なことをしなくてもよかったかもしれないけれど。実はずっとずっと……お父さんは我慢しててくれたのね。自分から気づいて、こちらを向くのを待ってくれている……そのお父さんの誠意が分かったから、気持ちに応えたくて。

 一度、ちらっと言われたことはあるの。『おれがもし、女の子とふたりで飲み歩いていたら、おまえ、いやな気持ちになるだろう』……お父さんに言われたときは、その意味が分からなかったけれど、先輩の件があって初めて……分かったの。お母さんは、お父さんにも、相手の男のひとたちにも、酷いことをしていたんだな、って……」

「それで……お母さんは、お父さんひとりに絞ったんだね」

「そう」と母は頷き、「知ってる? ……恋愛って、残酷さを伴うものなのね。たったひとりを選ぶためにその他大勢を切り捨てる……この行為を、残酷という以外になにがあるかしら……」

 広河さんのことが思い出された。……たったひとり。課長のことが好きだったと気づいた以上、彼の誠意に応えることは出来ない。

「交際がスタートしてから、お母さんたちは順調だったの?」

「まあ、同棲生活が始まってからは順調だったんだけど、結婚してからが酷くて……」母は顔を歪める。「急に、あれこれ要求するようになって。部屋の片づけ、洗濯物、……料理。すべて行き届いてないと当たり散らすようになったのね。知っての通り、お父さん、お惣菜が大嫌いだから。手作りじゃないと許さないのね。結婚したのを後悔したのは、そのときと……あと、産後ね……」

「産後もお父さん酷かったんだ?」

「……そうね」過去のものとして水に流したのか。母の表情はやわらかい。「自分だけ、ゲームやサッカーに現を抜かして。あの通り、リビングで大音量でゲームなんかやっているから、『うるさい!』って絶叫して、泣き止まない莉子を抱いて部屋に逃げ込んだこともあったわ。お母さんも、初めての子育てでいっぱいいっぱいで……。助けて、と素直に言える余裕がなかったのね。あの頃はお父さんのことが憎かった。

 妊娠しても、男は種付けだけをして終わりでしょう? 女のひとは、そこから永遠に続くの。子育てという永遠の道が、この心臓が動くのを止める日まで。

 飲むものや食べるものに気を遣い……出産してからも授乳があるからね。お酒も何年も我慢して……お父さん、普段はお酒なんかそんな飲まないのに、親戚で集まるときにがばがば飲むのね。あーあれには腹が立った。

 なんで、女ばっか。どうして女ばかりがこんなに我慢しなきゃならないのか……ってすごく、理不尽に感じたわ。娘であるあなたにこんな話をするのは酷かもしれないけれど。でも、いま、……あなたが愛に目覚めたいまだからこそ、話しておきたかったの……」

 わたしの事情など、母には筒抜けということか。わたしの眼差しを受け止めると母は微笑した。「やっぱり、そうなのね……。ねえ、どんなひと?」

「……すごく格好よくって、頭もよくて、語学が堪能で……」神がきまぐれでこしらえた彫像のような、課長の容姿を脳裏に蘇らせる。「熱くって……熱くなりやすくて。一生懸命で、……でも、意地っ張りなところもあって。そこも含めてすごく魅力的なひと……」

「そんな素敵なひととどうしてあなたは別れたの?」

「……お母さん」

「分かるわよそのくらい」と、母はわたしの頭を撫でる。課長がするように、やさしく。「莉子。ふとしたときにすごく、辛そうな顔をしているもの。たぶん、あなたのその変化は、周りにいるひとたちにも伝わっているでしょうね……。こころを痛めていなければよいのだけれど」

「価値観の違い、ってあるじゃない……お母さん」とわたしは飲み物で喉を潤し、「どうしても、ここだけは譲れないってところ……それが食い違うと、結局、うまくいかない気がするの……」

「価値観の違いねえ」うーん、と母は顎先を摘まむと、「そんなの、どの夫婦にだってあるわよ? うちだって、見ての通り、価値観なんか違いまくりよ。うちは喧嘩しないほうだけれど、たまに、派手にやるわよ? お父さんったら、本当に頭でっかちで、妻の気持ちを思いやらないひとなんだから……でもね、莉子が成長して、自分から話すようになって、変わった。

 莉子が反抗したことで、彼の頑なな考えもすこしは、変わった。……あのね。目の前の現実だけで判断してはいけないわ。相手を変えるのが難しいのならば、自分が変わるしかないのだけれど。

 お父さんは多少変なところはあるけれど、わたしの足りないところを補ってくれる存在でもあるの。わたしには見えないものが見えているのね。ああ見えて、莉子の気持ちをすごく分かっているの。過ごしている時間は短いにしても……。

 それに、お父さん、クレーマーなところがあるから。誰かひとり、そういうひとがいたら、ガツンと注意してやらなきゃならないじゃない? もしお母さんがお父さんを捨てたら、お父さんの暴走を止める人間がいなくなる……だからね、お母さん、死ぬまでお父さんに言いたいことは言う、って決めているの。

 お母さん的には、恋人がうまくいく条件は、食の好み。笑いのツボ……なにに対して怒りを感じるか、怒りの沸点を感じるポイント。その三点さえ合えば基本的にはうまくいくものだと思うわ」

「そっかぁ。そうかもしれないね」

 わたしが課長とは、少なくとも食の好みと笑いのツボ、この二点が合うことを思い返していると、母は、

「そんなにも好きになれるひとと巡り合えたのなら。……相手が既婚者でもない限りは、素直に想いをぶつけなさい。思い出にするのは、ぶつかりあって、それでも駄目だと分かってから……ねえあなた、気持ちを伝えはしたの? 分かり合うための努力はした?」

 わたしは思い返す。わたしは――

『今日って、特別なんですか? わたしを喜ばせるために特別に散財したんですか?』

 わたしのために買ってくれてありがとう。お礼を言うことすらせず――詰問口調。

『これ以上なにを話しても平行線だと思いますし、お互い……冷静になって考える必要があると思うんです……』

 課長の、気持ちを理解しようともせず、自分から突き放した。

 あのときの自分の言動を、後悔することがある。……もし、あのとき。突き放した態度を取らず、課長に理解を示していたら……。

 いや待てよ。あのとき……あのときは、ショックばかり受けていて、思い至らなかったけれど――わたしはこう思うから、こうして欲しいと……やわらかい言葉で伝えていたら、どうなっていただろう。

 思いだせ。

 課長は、苦しむわたしに――どんな言葉をかけてくれた?

『過去の傷に苦しめられるためにきみは生きているんじゃない。
 幸せになるんだ。
 おれと一緒に沢山笑おう。
 うまいものも食おう。映画館でポップコーン食って腹抱えて笑おう』

 わたしが不安に駆られたときに、かけてくれた言葉群の真摯な響き。

『やさしく……するから。おれを信じて』

『頼りないと思うところもあったのに。自分でちゃんと答えを見出す――ますますきみのことが好きになったよ莉子。悩みがちなところも、自分ひとりで背負いがちなところも、――そこも含めて好きなんだ。
 けど、おれはきみの味方だから――この先どんなことがあっても、おれはきみの味方だから。
 迷ったときには、おれという存在がいることを、思い出して欲しい……。
 おれは、たったひとり、誰よりも深くきみを愛する人間のひとりなのだから――』

 ――ああ。なんて馬鹿だったんだろうわたし……。課長のことを理解しようともせず、自分の考えを押しつけて、突き放して……。あんなに追い詰めさえしなければ、課長から別れを切り出されることなんてなかったのに……。馬鹿だ、わたし……。

「莉ー子。大丈夫。やり直せるわよあんたなら……」涙にむせぶわたしの肩を母が抱く。母のぬくもりを感じながら、「いま気づいたんでしょう? 気づけたなら……勇気を出して。お母さんは応援している。きっと……きっとうまくいくわよ絶対」

 いつぶりか思い出せないくらいに昔のことを思い返しながら、母のぬくもりのなかで、自分の内部に秘めた真実を、直視する。わたし、本当は……。

 * * *

 長く感じられる六日間が過ぎた。

 母には、すぐ行っていいのよ、と言ってはくれたが、せっかくの実家。父も、楽しみにしてくれていたようであるので、実家にはたっぷり六日間帰省した。当初の予定通り。

 そして、待ちに待った一月四日。例年の自分であれば、正月休み明けがかったるく感じられるはずが、このときばかりは楽しみでならなくって。不安も感じるけれど――思い切って、課長にぶつけてみよう。お金の件は、……そうだな。課長の変えられないところは仕方がないかもしれないけれど、話し合って、お互いに妥協点を見つけて、解決出来るんなら、それでいいと――呑気にもわたしは考えていたのだ。

 課長の姿を見かけないからおかしいとは思っていたものの。溜まっていたメールチェックなどの作業に忙殺される。そして、就業時間を迎え、部長たちが年始の挨拶を済ませたあと――驚くべき事実が伝えられた。

「三田くんであるが、肺炎をこじらせていて、今日は休むということだよ。皆も、大事にしてくれたまえ」

 目の前が真っ暗になる感覚があった。

 *
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