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番外編3 「直後」のふたり――敏感な莉子SIDE

#EX03-19.先ずは、スキンケアという土台から

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「わぁ……すごい。すごいです……」鏡のなかの女は見たことがないほどに麗しい。「すごい。自分の顔だとは思えないくらいです……」

 新宿は、憧れの街だ。内に閉じこもりがちでつい、行動範囲を狭くするわたし。せっかくだからそんな自分を先ず行動から変えようと、連休三日目である本日は朝から新宿にやってきた。課長のお気に入りのファッションブランドの店もあるというから。ルミネエスト、新宿ミロード、マルイ……伊勢丹、三越! 憧れのファッションビルが揃いぶみだ。おのぼりさんみたいにきょろきょろしてしまった。電車の乗り換えの関係上、わたしの立ち寄る東京駅近辺とはまた違った様相で、学生さんらしい若いひとが多い。まさに、若者の街。渋谷ほどギャルっぽくはなく、他方、ハイソな銀座よりも親しみやすい印象。

 デパートのコスメカウンターに来るのはほぼ初めてで。香水の匂いが充満するこの界隈を、自分のいけてなさ加減が気まずくてすり抜けた記憶しかない。美人な店員さんに話しかけられると、気後れしてしまう。がこちらの緊張を解きほぐすかのように、穏やかに店員さんが接客する。化粧を乗せるには土台であるスキンケアを丁寧に行うことが必須とレクチャーを受け、一旦化粧を落としたうえでスキンケアからフルメイクまでしていただいた。

 こちらはいわゆる乳液先行型のスキンケアを提唱するブランドで、課長も愛用しているらしい。洗顔料も使わせて頂いたが、恐ろしいほどに濃密。ファンゴが入っているからこの素晴らしい泡立ちが出来るとのこと。ミネラルもたっぷり。お値段もたっぷり。

 それから、水分を求める洗顔直後の肌にすかさず、美容液を与える。青緑色の綺麗な容器をプッシュすると、やや濁りのある、とろみのある液体が出てきて。手のひらから顔に広げると瞬く間に……肌がもっちもちになる! 値段もすごいけど、お値段のするものにはそれ相応の効果があるのだと、わたしは実感した。

 続いてはコットンに、贅沢にも乳液をノズル型の容器から三プッシュし、たっぷりの乳液でくるくるくる……と、顔に円を描く。乳液といっても一般的な乳液よりも粘度が高い。コットンのうえに乗せても綺麗なパール型を保つくらい。滑らかなコクのある乳液が肌を滑るたび、細胞のひとつひとつが膨らんでいく感じがする。淡いフローラルの香りが心地よい。このスキンケアラインには、保湿と、美白メインの二種類があり、美白効果をうたうほうでも保湿力が落ちないと聞いたので、せっかくなので美白メインにした。

 それから、コットンにびたびたになるくらい化粧水をつけ、しっかり乳液で潤った肌に水分を染み込ませる。化粧水パックも有効なんだとか。乳液とはまた違う、独特の香りが気持ちがいい。

 夜はナイトクリームを塗り、昼間の場合は化粧下地を塗る。ファンデを塗るのは、これらがしっかりと肌に浸透してからじゃないと駄目らしい。ちゃんと染み込んだらどうなるのか、肌の感触までも、レクチャー頂いた。

 魔法のように、店員さんはわたしを変えた。下地や、ファンデを塗るコツ。自分の目のかたちを活かす、アイメイクの仕方までも教え込まれ――そう、ペンシルでインサイドアイライナーを下まぶたに引き、垂れ目っぽく仕上げるのがいまのトレンドらしい。

「お客様は黒目の大きい瞳と、ぷっくりとした涙道が特徴的ですので、それを強調したメイクにさせて頂きました」と店員さん。勿論、彼女自身の化粧も、ものすごく素敵だ。「後は、……眉は、人間の第一印象を決めると言われるくらいに、重要です。弊社のものでなくとも、お手頃なもので構いません。八割方パウダーで済ませ、眉尻だけペンシルで書くようにすると、印象が段違いに変わります」

「なるほどすごいです……」決してケバいというわけではない。むしろナチュラルメイクだ。しかし、彼女の引いた一本一本の線に意味がある。眉と目元をプロの手で施されるだけで、こんなにも違うのか。

「なるほど。勉強になったね莉子ちゃん」後ろで待っていた課長は、どうやら店員さんに向けて、「じゃあ、いま使ったの全部ください。この後服を見て回るので、お支払いだけ済ませ、あとで取りに来ても構いませんか」

「はい。勿論にございます」

 なにを言っているのだろうと驚愕した。……え。嘘でしょ。嘘、嘘……。課長、この合計金額がいったいいくらするか分かっていて言っているの!? このブランドの複数あるスキンケアラインの中堅どころのラインとはいえ、美容液が一万円。乳液一本が七千円するのに、それらをぜ、全部……!?

「あ、いえ課長。もう少し検討しましょうよ。この後欲しいものとか出てくるかもしれませんし。それに、こんなお高いものを全額課長にお出しいただくわけには……」

「莉子。おれたち運命共同体なの。忘れてる? きみが欲しいものはおれの欲しいもの。お金のことなんか気にしなくてもいいんだ。おれが、したくてしているわけなんだから……」

 課長は、わたしの肩に手を添え、顔を寄せると声を潜め、

「それに。こういうところでこういう物言いをするってこと自体、ちょっと恥ずかしいじゃない。……ねえ莉子。ここは素直におれに従って。莉子は、これが欲しくないの?」

 間近に迫る課長に対する、言いようのない違和感がじわじわと広がっていく。わたしは首を振った。

「あ、いえわたし……。そんなつもりじゃ……。えっと、欲しいは欲しいですけど、自分には分不相応じゃないかと……」

「いまの自分をもう一度見てごらんよ。きみは――美しい。美しいからこそ欲しいものを手に入れる資格がある」

 裏を返せば、もしわたしが美しくなければ、これらの素晴らしい商品を受け取る資格がないということか。……あれ、なんでこんなふうに考えちゃうんだろう……。

 黙り込むわたしを見かねてか、店員さんが助け舟を出してくれる。「在庫はございますし、お取り置きも可能です。もし、他をご覧になられてから検討されるということでしたら、後程お立ち寄り頂ければ、すぐにご用意致します。

 ただ、正午を過ぎますとこちらは混雑して参ります。連休中にございますので……。いまが一番空いている時間にございます。他にお試しされたいものなどございましたら是非、いまのうちにタッチアップなどをさせて頂ければと」

「あ、じゃあ、違うアイシャドウとか是非――」

「――課長。いえ、いいですほんとに。それはまた次の機会に……」

 総額何万円になるのかというチョイスに、更に上積みをかけようとする思想が恐ろしい。いえ、商売でそれを行っているのは分かっているけれど、でも、課長……。本当にそれでいいの?

 ひとまず、手持ちのスキンケアラインがまだまだあるので。とろみのある化粧水でなければ、こちらの商品と合わせて使うことは可能……なので、乳液と、ナイトクリームと、タッチアップして貰った、ブルーのグラデーションのアイシャドウパレットを購入した。いや、ご購入いただいた。

 最初につけた美容液については迷ったが、……ううん出来ることなら欲しかったけど、一万円。一万円だよ! 一ヶ月半持つと言われたが、美容液に三ヶ月で二万円自分の肌に投資するという思想がわたしにはない。

 それに。そこまで課長に求めるのは違うと思うんだよね。まるでからだを売り渡す売春婦のような……いえ、からだを売ることが悪いとは一概には言い難いけど。でも、課長と生計を共にするわけでもない、一介の恋人に過ぎないわたしがそこまで要求するのはなあ。

 美容液については、デパートを出て、バーガーショップでササッとお昼を食べて、課長のお気に入りのファッションブランドの店に向かう途中でも話し合ったけど、いまいち噛み合わず。彼は、『欲しいなら買おうよねえ莉子』と言うばかりで、ちっともわたしの気持ちなんか理解してくれない。

『なんで我慢するの? 金なんか遣うためにあるんだから』

 ……課長。会社で着ているのは清潔感のあるスーツで、激安のものではないが、激高のものでもない。会社の役員さんが、オーダーメイドのスーツを着ているから、そういうひとは見れば分かるのだ。スーパーで買い物したり、外でご飯を食べたり。あくまで恋人同士になって一緒に過ごした限りでは、やや裕福ではあるが、ものすごく金銭感覚に疎いブルジョア、という感じもしなかったのに。

 落としどころが見つからぬまま目的のビルに到着。するとこの美観のお陰で、急速にもやもやが小さくなっていく。こうしてファッションビルに来るのなんていつぶりだろう? 清水の舞台から飛び降りる勢いであのクラシカルなワンピースを買って以来か。結婚式に出席するのでドレスを買おうと思って。そこで見かけたワンピースに一目惚れをして。他のフロアも見たけど結局戻ってきて。店員さんには微笑された。

 ……そんなにも気に入って頂いて嬉しいです、と。

 スタイリッシュな内装にも魅せられつつ、エスカレーターをのぼり、目的地に到着する。「ここが、おれのお気に入りのブランドの店」

「……わあ」

 広々とした作りが目を引く。入り口の上方にある黒く入ったブランドのロゴが出迎えてくれる。縦横方向に黒のラインを入れて、アクセントを効かせた店内。明るい木の色の床がナチュラルな印象。棚やそこかしらに配置された服が、カラフルでとても可愛くって。入り口に置かれたマネキンが着る服なんかも最高。ゆるっとした淡いブルーのロンTに、ギンガムチェックの、マーメイドラインとでもいうのか? 斜めに同じ生地のフリルが入った、変わった作りをしている。正直これ、一目惚れ。

「あああ……すごく可愛い……!」

 一瞬でこの世界観に虜になった。見れば見るほど、可愛い。可愛い……! ちょっと、ミロード自体、わたし世代というより、もうちょっと若い子向けの気がするけど。ああでも、こういうゆるっとしたラインの服、街でよく見かけるけど、自分には似合わないと思い込んでいて、買ったことがなかったんだ。

 ラベンダーのオフショルダーのトップス。晴れた空を思わせるロンT。ミントグリーンのワッフルのトップス。茶色いワイドパンツ……秋の深まりを思わせる、ワインカラーや焦げ茶色の、スウェットパーカー! ああ、迷う……。この店内のものが全部欲しい!

 はっ、と気が付いた。わたしはいったいなんのために、誰とここに来ている?

 申し訳なさとともに、振り返った。「課長。あの……。色々見てきていいですか」

 ペンギンのときと同じで、好きなものを見ると暴走する癖がある。わたしは店内をうろついた後に、課長を置き去りにしていたことに気づいた。そんなわたしには慣れっこなのか、課長は別段驚いた様子もなく、

「いいよー。じゃ、おれ、メンズのものを見てくるわ。ある程度見てきたら戻るから、きみはこの店内にいてね。あ、試着するときは声かけてね。おれも見たいから」

「はい。分かりました……」

 メンズラインもあったらしい。そういえば、入り口に飾られた写真にはおしゃれな男女が映っていた。

 そして、再び、わたしはこのお店の提供する世界観に浸る。いろんな服を見て、自分のなかから生まれる高揚した気分に向き合う。……どうしよう、結構斬新なラインだけれど、似合うのかな。着こなせるのかな……不安と期待が入り混じった気持ちを感じる。イタい女じゃない? わたし……。手持ちの服とも合わせられるか、考えてみないと……。

 あっちゃこっちゃ手に取り、店員さんに悪いと思いつつ、綺麗に畳まれた服を次々手に取り、鏡の前で当てるのを繰り返す。昨日のパーソナルカラー診断の結果が生きてくる。自然と、自分の顔色を引き立たせるものばかりを選んでいる。幸いにして、このお店の洋服は、わたしに似合う色で満載だ。

 課長は、十分足らずで戻ってきた。わたしは驚いた。「……え。課長。なんか戻ってくるの早くないですか」

「や、おれはあんま迷わないから」と課長。「長年ここの服は愛用してるから、大体分かっている。それに、今日はきみが主役なんだから。……気に入ったものはあったかい?」

「ああ……ええと」わたしは店内を見回す。「そうですね……自分に着こなせるのかまでは分からないですが。ワイン色か焦げ茶色のスウェットパーカー、マネキンの来ているギンガムチェックのロングスカートと水色のトップス……ラベンダーのニットに、ミントグリーンのワッフル素材のトップス、……ですかね」

「ボトムスが少ないけど。ボトムス買わなくていいの?」

「それが、その……。着こなせるか自信がなくて。わたし、普段は、膝丈のスカートかスキニーパンツですし。似合うんですかね? こういうの……」

 見ていると特にワイドパンツを推しているようで、幅が太いものが多い。それからスカートもロング丈ばかり。こういうの、わたしみたいな女の子が着ても、不自然じゃないだろうか?

「似合うかどうかは、着てみないと分からないんじゃないかな? おいで。莉子。片っ端から試着してみよう……。気に入ったものを全部着てみて、それで、決めるんだ」

 その言葉の意味するところはつまり。わたしは多少の不安を覚えたものの、課長の進言に従っていた。

「……分かりました」

 *
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