39 / 103
番外編3 「直後」のふたり――敏感な莉子SIDE
#EX03-19.先ずは、スキンケアという土台から
しおりを挟む
「わぁ……すごい。すごいです……」鏡のなかの女は見たことがないほどに麗しい。「すごい。自分の顔だとは思えないくらいです……」
新宿は、憧れの街だ。内に閉じこもりがちでつい、行動範囲を狭くするわたし。せっかくだからそんな自分を先ず行動から変えようと、連休三日目である本日は朝から新宿にやってきた。課長のお気に入りのファッションブランドの店もあるというから。ルミネエスト、新宿ミロード、マルイ……伊勢丹、三越! 憧れのファッションビルが揃いぶみだ。おのぼりさんみたいにきょろきょろしてしまった。電車の乗り換えの関係上、わたしの立ち寄る東京駅近辺とはまた違った様相で、学生さんらしい若いひとが多い。まさに、若者の街。渋谷ほどギャルっぽくはなく、他方、ハイソな銀座よりも親しみやすい印象。
デパートのコスメカウンターに来るのはほぼ初めてで。香水の匂いが充満するこの界隈を、自分のいけてなさ加減が気まずくてすり抜けた記憶しかない。美人な店員さんに話しかけられると、気後れしてしまう。がこちらの緊張を解きほぐすかのように、穏やかに店員さんが接客する。化粧を乗せるには土台であるスキンケアを丁寧に行うことが必須とレクチャーを受け、一旦化粧を落としたうえでスキンケアからフルメイクまでしていただいた。
こちらはいわゆる乳液先行型のスキンケアを提唱するブランドで、課長も愛用しているらしい。洗顔料も使わせて頂いたが、恐ろしいほどに濃密。ファンゴが入っているからこの素晴らしい泡立ちが出来るとのこと。ミネラルもたっぷり。お値段もたっぷり。
それから、水分を求める洗顔直後の肌にすかさず、美容液を与える。青緑色の綺麗な容器をプッシュすると、やや濁りのある、とろみのある液体が出てきて。手のひらから顔に広げると瞬く間に……肌がもっちもちになる! 値段もすごいけど、お値段のするものにはそれ相応の効果があるのだと、わたしは実感した。
続いてはコットンに、贅沢にも乳液をノズル型の容器から三プッシュし、たっぷりの乳液でくるくるくる……と、顔に円を描く。乳液といっても一般的な乳液よりも粘度が高い。コットンのうえに乗せても綺麗なパール型を保つくらい。滑らかなコクのある乳液が肌を滑るたび、細胞のひとつひとつが膨らんでいく感じがする。淡いフローラルの香りが心地よい。このスキンケアラインには、保湿と、美白メインの二種類があり、美白効果をうたうほうでも保湿力が落ちないと聞いたので、せっかくなので美白メインにした。
それから、コットンにびたびたになるくらい化粧水をつけ、しっかり乳液で潤った肌に水分を染み込ませる。化粧水パックも有効なんだとか。乳液とはまた違う、独特の香りが気持ちがいい。
夜はナイトクリームを塗り、昼間の場合は化粧下地を塗る。ファンデを塗るのは、これらがしっかりと肌に浸透してからじゃないと駄目らしい。ちゃんと染み込んだらどうなるのか、肌の感触までも、レクチャー頂いた。
魔法のように、店員さんはわたしを変えた。下地や、ファンデを塗るコツ。自分の目のかたちを活かす、アイメイクの仕方までも教え込まれ――そう、ペンシルでインサイドアイライナーを下まぶたに引き、垂れ目っぽく仕上げるのがいまのトレンドらしい。
「お客様は黒目の大きい瞳と、ぷっくりとした涙道が特徴的ですので、それを強調したメイクにさせて頂きました」と店員さん。勿論、彼女自身の化粧も、ものすごく素敵だ。「後は、……眉は、人間の第一印象を決めると言われるくらいに、重要です。弊社のものでなくとも、お手頃なもので構いません。八割方パウダーで済ませ、眉尻だけペンシルで書くようにすると、印象が段違いに変わります」
「なるほどすごいです……」決してケバいというわけではない。むしろナチュラルメイクだ。しかし、彼女の引いた一本一本の線に意味がある。眉と目元をプロの手で施されるだけで、こんなにも違うのか。
「なるほど。勉強になったね莉子ちゃん」後ろで待っていた課長は、どうやら店員さんに向けて、「じゃあ、いま使ったの全部ください。この後服を見て回るので、お支払いだけ済ませ、あとで取りに来ても構いませんか」
「はい。勿論にございます」
なにを言っているのだろうと驚愕した。……え。嘘でしょ。嘘、嘘……。課長、この合計金額がいったいいくらするか分かっていて言っているの!? このブランドの複数あるスキンケアラインの中堅どころのラインとはいえ、美容液が一万円。乳液一本が七千円するのに、それらをぜ、全部……!?
「あ、いえ課長。もう少し検討しましょうよ。この後欲しいものとか出てくるかもしれませんし。それに、こんなお高いものを全額課長にお出しいただくわけには……」
「莉子。おれたち運命共同体なの。忘れてる? きみが欲しいものはおれの欲しいもの。お金のことなんか気にしなくてもいいんだ。おれが、したくてしているわけなんだから……」
課長は、わたしの肩に手を添え、顔を寄せると声を潜め、
「それに。こういうところでこういう物言いをするってこと自体、ちょっと恥ずかしいじゃない。……ねえ莉子。ここは素直におれに従って。莉子は、これが欲しくないの?」
間近に迫る課長に対する、言いようのない違和感がじわじわと広がっていく。わたしは首を振った。
「あ、いえわたし……。そんなつもりじゃ……。えっと、欲しいは欲しいですけど、自分には分不相応じゃないかと……」
「いまの自分をもう一度見てごらんよ。きみは――美しい。美しいからこそ欲しいものを手に入れる資格がある」
裏を返せば、もしわたしが美しくなければ、これらの素晴らしい商品を受け取る資格がないということか。……あれ、なんでこんなふうに考えちゃうんだろう……。
黙り込むわたしを見かねてか、店員さんが助け舟を出してくれる。「在庫はございますし、お取り置きも可能です。もし、他をご覧になられてから検討されるということでしたら、後程お立ち寄り頂ければ、すぐにご用意致します。
ただ、正午を過ぎますとこちらは混雑して参ります。連休中にございますので……。いまが一番空いている時間にございます。他にお試しされたいものなどございましたら是非、いまのうちにタッチアップなどをさせて頂ければと」
「あ、じゃあ、違うアイシャドウとか是非――」
「――課長。いえ、いいですほんとに。それはまた次の機会に……」
総額何万円になるのかというチョイスに、更に上積みをかけようとする思想が恐ろしい。いえ、商売でそれを行っているのは分かっているけれど、でも、課長……。本当にそれでいいの?
ひとまず、手持ちのスキンケアラインがまだまだあるので。とろみのある化粧水でなければ、こちらの商品と合わせて使うことは可能……なので、乳液と、ナイトクリームと、タッチアップして貰った、ブルーのグラデーションのアイシャドウパレットを購入した。いや、ご購入いただいた。
最初につけた美容液については迷ったが、……ううん出来ることなら欲しかったけど、一万円。一万円だよ! 一ヶ月半持つと言われたが、美容液に三ヶ月で二万円自分の肌に投資するという思想がわたしにはない。
それに。そこまで課長に求めるのは違うと思うんだよね。まるでからだを売り渡す売春婦のような……いえ、からだを売ることが悪いとは一概には言い難いけど。でも、課長と生計を共にするわけでもない、一介の恋人に過ぎないわたしがそこまで要求するのはなあ。
美容液については、デパートを出て、バーガーショップでササッとお昼を食べて、課長のお気に入りのファッションブランドの店に向かう途中でも話し合ったけど、いまいち噛み合わず。彼は、『欲しいなら買おうよねえ莉子』と言うばかりで、ちっともわたしの気持ちなんか理解してくれない。
『なんで我慢するの? 金なんか遣うためにあるんだから』
……課長。会社で着ているのは清潔感のあるスーツで、激安のものではないが、激高のものでもない。会社の役員さんが、オーダーメイドのスーツを着ているから、そういうひとは見れば分かるのだ。スーパーで買い物したり、外でご飯を食べたり。あくまで恋人同士になって一緒に過ごした限りでは、やや裕福ではあるが、ものすごく金銭感覚に疎いブルジョア、という感じもしなかったのに。
落としどころが見つからぬまま目的のビルに到着。するとこの美観のお陰で、急速にもやもやが小さくなっていく。こうしてファッションビルに来るのなんていつぶりだろう? 清水の舞台から飛び降りる勢いであのクラシカルなワンピースを買って以来か。結婚式に出席するのでドレスを買おうと思って。そこで見かけたワンピースに一目惚れをして。他のフロアも見たけど結局戻ってきて。店員さんには微笑された。
……そんなにも気に入って頂いて嬉しいです、と。
スタイリッシュな内装にも魅せられつつ、エスカレーターをのぼり、目的地に到着する。「ここが、おれのお気に入りのブランドの店」
「……わあ」
広々とした作りが目を引く。入り口の上方にある黒く入ったブランドのロゴが出迎えてくれる。縦横方向に黒のラインを入れて、アクセントを効かせた店内。明るい木の色の床がナチュラルな印象。棚やそこかしらに配置された服が、カラフルでとても可愛くって。入り口に置かれたマネキンが着る服なんかも最高。ゆるっとした淡いブルーのロンTに、ギンガムチェックの、マーメイドラインとでもいうのか? 斜めに同じ生地のフリルが入った、変わった作りをしている。正直これ、一目惚れ。
「あああ……すごく可愛い……!」
一瞬でこの世界観に虜になった。見れば見るほど、可愛い。可愛い……! ちょっと、ミロード自体、わたし世代というより、もうちょっと若い子向けの気がするけど。ああでも、こういうゆるっとしたラインの服、街でよく見かけるけど、自分には似合わないと思い込んでいて、買ったことがなかったんだ。
ラベンダーのオフショルダーのトップス。晴れた空を思わせるロンT。ミントグリーンのワッフルのトップス。茶色いワイドパンツ……秋の深まりを思わせる、ワインカラーや焦げ茶色の、スウェットパーカー! ああ、迷う……。この店内のものが全部欲しい!
はっ、と気が付いた。わたしはいったいなんのために、誰とここに来ている?
申し訳なさとともに、振り返った。「課長。あの……。色々見てきていいですか」
ペンギンのときと同じで、好きなものを見ると暴走する癖がある。わたしは店内をうろついた後に、課長を置き去りにしていたことに気づいた。そんなわたしには慣れっこなのか、課長は別段驚いた様子もなく、
「いいよー。じゃ、おれ、メンズのものを見てくるわ。ある程度見てきたら戻るから、きみはこの店内にいてね。あ、試着するときは声かけてね。おれも見たいから」
「はい。分かりました……」
メンズラインもあったらしい。そういえば、入り口に飾られた写真にはおしゃれな男女が映っていた。
そして、再び、わたしはこのお店の提供する世界観に浸る。いろんな服を見て、自分のなかから生まれる高揚した気分に向き合う。……どうしよう、結構斬新なラインだけれど、似合うのかな。着こなせるのかな……不安と期待が入り混じった気持ちを感じる。イタい女じゃない? わたし……。手持ちの服とも合わせられるか、考えてみないと……。
あっちゃこっちゃ手に取り、店員さんに悪いと思いつつ、綺麗に畳まれた服を次々手に取り、鏡の前で当てるのを繰り返す。昨日のパーソナルカラー診断の結果が生きてくる。自然と、自分の顔色を引き立たせるものばかりを選んでいる。幸いにして、このお店の洋服は、わたしに似合う色で満載だ。
課長は、十分足らずで戻ってきた。わたしは驚いた。「……え。課長。なんか戻ってくるの早くないですか」
「や、おれはあんま迷わないから」と課長。「長年ここの服は愛用してるから、大体分かっている。それに、今日はきみが主役なんだから。……気に入ったものはあったかい?」
「ああ……ええと」わたしは店内を見回す。「そうですね……自分に着こなせるのかまでは分からないですが。ワイン色か焦げ茶色のスウェットパーカー、マネキンの来ているギンガムチェックのロングスカートと水色のトップス……ラベンダーのニットに、ミントグリーンのワッフル素材のトップス、……ですかね」
「ボトムスが少ないけど。ボトムス買わなくていいの?」
「それが、その……。着こなせるか自信がなくて。わたし、普段は、膝丈のスカートかスキニーパンツですし。似合うんですかね? こういうの……」
見ていると特にワイドパンツを推しているようで、幅が太いものが多い。それからスカートもロング丈ばかり。こういうの、わたしみたいな女の子が着ても、不自然じゃないだろうか?
「似合うかどうかは、着てみないと分からないんじゃないかな? おいで。莉子。片っ端から試着してみよう……。気に入ったものを全部着てみて、それで、決めるんだ」
その言葉の意味するところはつまり。わたしは多少の不安を覚えたものの、課長の進言に従っていた。
「……分かりました」
*
新宿は、憧れの街だ。内に閉じこもりがちでつい、行動範囲を狭くするわたし。せっかくだからそんな自分を先ず行動から変えようと、連休三日目である本日は朝から新宿にやってきた。課長のお気に入りのファッションブランドの店もあるというから。ルミネエスト、新宿ミロード、マルイ……伊勢丹、三越! 憧れのファッションビルが揃いぶみだ。おのぼりさんみたいにきょろきょろしてしまった。電車の乗り換えの関係上、わたしの立ち寄る東京駅近辺とはまた違った様相で、学生さんらしい若いひとが多い。まさに、若者の街。渋谷ほどギャルっぽくはなく、他方、ハイソな銀座よりも親しみやすい印象。
デパートのコスメカウンターに来るのはほぼ初めてで。香水の匂いが充満するこの界隈を、自分のいけてなさ加減が気まずくてすり抜けた記憶しかない。美人な店員さんに話しかけられると、気後れしてしまう。がこちらの緊張を解きほぐすかのように、穏やかに店員さんが接客する。化粧を乗せるには土台であるスキンケアを丁寧に行うことが必須とレクチャーを受け、一旦化粧を落としたうえでスキンケアからフルメイクまでしていただいた。
こちらはいわゆる乳液先行型のスキンケアを提唱するブランドで、課長も愛用しているらしい。洗顔料も使わせて頂いたが、恐ろしいほどに濃密。ファンゴが入っているからこの素晴らしい泡立ちが出来るとのこと。ミネラルもたっぷり。お値段もたっぷり。
それから、水分を求める洗顔直後の肌にすかさず、美容液を与える。青緑色の綺麗な容器をプッシュすると、やや濁りのある、とろみのある液体が出てきて。手のひらから顔に広げると瞬く間に……肌がもっちもちになる! 値段もすごいけど、お値段のするものにはそれ相応の効果があるのだと、わたしは実感した。
続いてはコットンに、贅沢にも乳液をノズル型の容器から三プッシュし、たっぷりの乳液でくるくるくる……と、顔に円を描く。乳液といっても一般的な乳液よりも粘度が高い。コットンのうえに乗せても綺麗なパール型を保つくらい。滑らかなコクのある乳液が肌を滑るたび、細胞のひとつひとつが膨らんでいく感じがする。淡いフローラルの香りが心地よい。このスキンケアラインには、保湿と、美白メインの二種類があり、美白効果をうたうほうでも保湿力が落ちないと聞いたので、せっかくなので美白メインにした。
それから、コットンにびたびたになるくらい化粧水をつけ、しっかり乳液で潤った肌に水分を染み込ませる。化粧水パックも有効なんだとか。乳液とはまた違う、独特の香りが気持ちがいい。
夜はナイトクリームを塗り、昼間の場合は化粧下地を塗る。ファンデを塗るのは、これらがしっかりと肌に浸透してからじゃないと駄目らしい。ちゃんと染み込んだらどうなるのか、肌の感触までも、レクチャー頂いた。
魔法のように、店員さんはわたしを変えた。下地や、ファンデを塗るコツ。自分の目のかたちを活かす、アイメイクの仕方までも教え込まれ――そう、ペンシルでインサイドアイライナーを下まぶたに引き、垂れ目っぽく仕上げるのがいまのトレンドらしい。
「お客様は黒目の大きい瞳と、ぷっくりとした涙道が特徴的ですので、それを強調したメイクにさせて頂きました」と店員さん。勿論、彼女自身の化粧も、ものすごく素敵だ。「後は、……眉は、人間の第一印象を決めると言われるくらいに、重要です。弊社のものでなくとも、お手頃なもので構いません。八割方パウダーで済ませ、眉尻だけペンシルで書くようにすると、印象が段違いに変わります」
「なるほどすごいです……」決してケバいというわけではない。むしろナチュラルメイクだ。しかし、彼女の引いた一本一本の線に意味がある。眉と目元をプロの手で施されるだけで、こんなにも違うのか。
「なるほど。勉強になったね莉子ちゃん」後ろで待っていた課長は、どうやら店員さんに向けて、「じゃあ、いま使ったの全部ください。この後服を見て回るので、お支払いだけ済ませ、あとで取りに来ても構いませんか」
「はい。勿論にございます」
なにを言っているのだろうと驚愕した。……え。嘘でしょ。嘘、嘘……。課長、この合計金額がいったいいくらするか分かっていて言っているの!? このブランドの複数あるスキンケアラインの中堅どころのラインとはいえ、美容液が一万円。乳液一本が七千円するのに、それらをぜ、全部……!?
「あ、いえ課長。もう少し検討しましょうよ。この後欲しいものとか出てくるかもしれませんし。それに、こんなお高いものを全額課長にお出しいただくわけには……」
「莉子。おれたち運命共同体なの。忘れてる? きみが欲しいものはおれの欲しいもの。お金のことなんか気にしなくてもいいんだ。おれが、したくてしているわけなんだから……」
課長は、わたしの肩に手を添え、顔を寄せると声を潜め、
「それに。こういうところでこういう物言いをするってこと自体、ちょっと恥ずかしいじゃない。……ねえ莉子。ここは素直におれに従って。莉子は、これが欲しくないの?」
間近に迫る課長に対する、言いようのない違和感がじわじわと広がっていく。わたしは首を振った。
「あ、いえわたし……。そんなつもりじゃ……。えっと、欲しいは欲しいですけど、自分には分不相応じゃないかと……」
「いまの自分をもう一度見てごらんよ。きみは――美しい。美しいからこそ欲しいものを手に入れる資格がある」
裏を返せば、もしわたしが美しくなければ、これらの素晴らしい商品を受け取る資格がないということか。……あれ、なんでこんなふうに考えちゃうんだろう……。
黙り込むわたしを見かねてか、店員さんが助け舟を出してくれる。「在庫はございますし、お取り置きも可能です。もし、他をご覧になられてから検討されるということでしたら、後程お立ち寄り頂ければ、すぐにご用意致します。
ただ、正午を過ぎますとこちらは混雑して参ります。連休中にございますので……。いまが一番空いている時間にございます。他にお試しされたいものなどございましたら是非、いまのうちにタッチアップなどをさせて頂ければと」
「あ、じゃあ、違うアイシャドウとか是非――」
「――課長。いえ、いいですほんとに。それはまた次の機会に……」
総額何万円になるのかというチョイスに、更に上積みをかけようとする思想が恐ろしい。いえ、商売でそれを行っているのは分かっているけれど、でも、課長……。本当にそれでいいの?
ひとまず、手持ちのスキンケアラインがまだまだあるので。とろみのある化粧水でなければ、こちらの商品と合わせて使うことは可能……なので、乳液と、ナイトクリームと、タッチアップして貰った、ブルーのグラデーションのアイシャドウパレットを購入した。いや、ご購入いただいた。
最初につけた美容液については迷ったが、……ううん出来ることなら欲しかったけど、一万円。一万円だよ! 一ヶ月半持つと言われたが、美容液に三ヶ月で二万円自分の肌に投資するという思想がわたしにはない。
それに。そこまで課長に求めるのは違うと思うんだよね。まるでからだを売り渡す売春婦のような……いえ、からだを売ることが悪いとは一概には言い難いけど。でも、課長と生計を共にするわけでもない、一介の恋人に過ぎないわたしがそこまで要求するのはなあ。
美容液については、デパートを出て、バーガーショップでササッとお昼を食べて、課長のお気に入りのファッションブランドの店に向かう途中でも話し合ったけど、いまいち噛み合わず。彼は、『欲しいなら買おうよねえ莉子』と言うばかりで、ちっともわたしの気持ちなんか理解してくれない。
『なんで我慢するの? 金なんか遣うためにあるんだから』
……課長。会社で着ているのは清潔感のあるスーツで、激安のものではないが、激高のものでもない。会社の役員さんが、オーダーメイドのスーツを着ているから、そういうひとは見れば分かるのだ。スーパーで買い物したり、外でご飯を食べたり。あくまで恋人同士になって一緒に過ごした限りでは、やや裕福ではあるが、ものすごく金銭感覚に疎いブルジョア、という感じもしなかったのに。
落としどころが見つからぬまま目的のビルに到着。するとこの美観のお陰で、急速にもやもやが小さくなっていく。こうしてファッションビルに来るのなんていつぶりだろう? 清水の舞台から飛び降りる勢いであのクラシカルなワンピースを買って以来か。結婚式に出席するのでドレスを買おうと思って。そこで見かけたワンピースに一目惚れをして。他のフロアも見たけど結局戻ってきて。店員さんには微笑された。
……そんなにも気に入って頂いて嬉しいです、と。
スタイリッシュな内装にも魅せられつつ、エスカレーターをのぼり、目的地に到着する。「ここが、おれのお気に入りのブランドの店」
「……わあ」
広々とした作りが目を引く。入り口の上方にある黒く入ったブランドのロゴが出迎えてくれる。縦横方向に黒のラインを入れて、アクセントを効かせた店内。明るい木の色の床がナチュラルな印象。棚やそこかしらに配置された服が、カラフルでとても可愛くって。入り口に置かれたマネキンが着る服なんかも最高。ゆるっとした淡いブルーのロンTに、ギンガムチェックの、マーメイドラインとでもいうのか? 斜めに同じ生地のフリルが入った、変わった作りをしている。正直これ、一目惚れ。
「あああ……すごく可愛い……!」
一瞬でこの世界観に虜になった。見れば見るほど、可愛い。可愛い……! ちょっと、ミロード自体、わたし世代というより、もうちょっと若い子向けの気がするけど。ああでも、こういうゆるっとしたラインの服、街でよく見かけるけど、自分には似合わないと思い込んでいて、買ったことがなかったんだ。
ラベンダーのオフショルダーのトップス。晴れた空を思わせるロンT。ミントグリーンのワッフルのトップス。茶色いワイドパンツ……秋の深まりを思わせる、ワインカラーや焦げ茶色の、スウェットパーカー! ああ、迷う……。この店内のものが全部欲しい!
はっ、と気が付いた。わたしはいったいなんのために、誰とここに来ている?
申し訳なさとともに、振り返った。「課長。あの……。色々見てきていいですか」
ペンギンのときと同じで、好きなものを見ると暴走する癖がある。わたしは店内をうろついた後に、課長を置き去りにしていたことに気づいた。そんなわたしには慣れっこなのか、課長は別段驚いた様子もなく、
「いいよー。じゃ、おれ、メンズのものを見てくるわ。ある程度見てきたら戻るから、きみはこの店内にいてね。あ、試着するときは声かけてね。おれも見たいから」
「はい。分かりました……」
メンズラインもあったらしい。そういえば、入り口に飾られた写真にはおしゃれな男女が映っていた。
そして、再び、わたしはこのお店の提供する世界観に浸る。いろんな服を見て、自分のなかから生まれる高揚した気分に向き合う。……どうしよう、結構斬新なラインだけれど、似合うのかな。着こなせるのかな……不安と期待が入り混じった気持ちを感じる。イタい女じゃない? わたし……。手持ちの服とも合わせられるか、考えてみないと……。
あっちゃこっちゃ手に取り、店員さんに悪いと思いつつ、綺麗に畳まれた服を次々手に取り、鏡の前で当てるのを繰り返す。昨日のパーソナルカラー診断の結果が生きてくる。自然と、自分の顔色を引き立たせるものばかりを選んでいる。幸いにして、このお店の洋服は、わたしに似合う色で満載だ。
課長は、十分足らずで戻ってきた。わたしは驚いた。「……え。課長。なんか戻ってくるの早くないですか」
「や、おれはあんま迷わないから」と課長。「長年ここの服は愛用してるから、大体分かっている。それに、今日はきみが主役なんだから。……気に入ったものはあったかい?」
「ああ……ええと」わたしは店内を見回す。「そうですね……自分に着こなせるのかまでは分からないですが。ワイン色か焦げ茶色のスウェットパーカー、マネキンの来ているギンガムチェックのロングスカートと水色のトップス……ラベンダーのニットに、ミントグリーンのワッフル素材のトップス、……ですかね」
「ボトムスが少ないけど。ボトムス買わなくていいの?」
「それが、その……。着こなせるか自信がなくて。わたし、普段は、膝丈のスカートかスキニーパンツですし。似合うんですかね? こういうの……」
見ていると特にワイドパンツを推しているようで、幅が太いものが多い。それからスカートもロング丈ばかり。こういうの、わたしみたいな女の子が着ても、不自然じゃないだろうか?
「似合うかどうかは、着てみないと分からないんじゃないかな? おいで。莉子。片っ端から試着してみよう……。気に入ったものを全部着てみて、それで、決めるんだ」
その言葉の意味するところはつまり。わたしは多少の不安を覚えたものの、課長の進言に従っていた。
「……分かりました」
*
0
お気に入りに追加
1,200
あなたにおすすめの小説
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
イケメン仏様上司の夜はすごいんです 〜甘い同棲生活〜
ななこ
恋愛
須藤敦美27歳。彼氏にフラれたその日、帰って目撃したのは自分のアパートが火事になっている現場だった。なんて最悪な日なんだ、と呆然と燃えるアパートを見つめていた。幸い今日は金曜日で明日は休み。しかし今日泊まれるホテルを探す気力がなかなか起きず、近くの公園のブランコでぼんやりと星を眺めていた。その時、裸にコートというヤバすぎる変態と遭遇。逃げなければ、と敦美は走り出したが、変態に追いかけられトイレに連れ込まれそうになるが、たまたま通りがかった会社の上司に助けられる。恐怖からの解放感と安心感で号泣した敦美に、上司の中村智紀は困り果て、「とりあえずうちに来るか」と誘う。中村の家に上がった敦美はなおも泣き続け、不満や愚痴をぶちまける。そしてやっと落ち着いた敦美は、ずっと黙って話を聞いてくれた中村にお礼を言って宿泊先を探しに行こうとするが、中村に「ずっとお前の事が好きだった」と突如告白される。仕事の出来るイケメン上司に恋心は抱いていなかったが、憧れてはいた敦美は中村と付き合うことに。そして宿に困っている敦美に中村は「しばらくうちいれば?」と提案され、あれよあれよという間に同棲することになってしまった。すると「本当に俺の事を好きにさせるから、覚悟して」と言われ、もうすでにドキドキし始める。こんなんじゃ心臓持たないよ、というドキドキの同棲生活が今始まる!
Sweet Healing~真摯な上司の、その唇に癒されて~
汐埼ゆたか
恋愛
絶え間なく溢れ出る涙は彼の唇に吸い取られ
慟哭だけが薄暗い部屋に沈んでいく。
その夜、彼女の絶望と悲しみをすくい取ったのは
仕事上でしか接点のない上司だった。
思っていることを口にするのが苦手
地味で大人しい司書
木ノ下 千紗子 (きのした ちさこ) (24)
×
真面目で優しい千紗子の上司
知的で容姿端麗な課長
雨宮 一彰 (あまみや かずあき) (29)
胸を締め付ける切ない想いを
抱えているのはいったいどちらなのか———
「叫んでも暴れてもいい、全部受け止めるから」
「君が笑っていられるなら、自分の気持ちなんてどうでもいい」
「その可愛い笑顔が戻るなら、俺は何でも出来そうだよ」
真摯でひたむきな愛が、傷付いた心を癒していく。
**********
►Attention
※他サイトからの転載(2018/11に書き上げたものです)
※表紙は「かんたん表紙メーカー2」様で作りました。
※※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
私の婚活事情〜副社長の策に嵌まるまで〜
みかん桜(蜜柑桜)
恋愛
身長172センチ。
高身長であること以外はいたって平凡なアラサーOLの佐伯花音。
婚活アプリに登録し、積極的に動いているのに中々上手く行かない。
名前からしてもっと可愛らしい人かと…ってどういうこと? そんな人こっちから願い下げ。
−−−でもだからってこんなハイスペ男子も求めてないっ!!
イケメン副社長に振り回される毎日…気が付いたときには既に副社長の手の内にいた。
お前を必ず落として見せる~俺様御曹司の執着愛
ラヴ KAZU
恋愛
まどかは同棲中の彼の浮気現場を目撃し、雨の中社長である龍斗にマンションへ誘われる。女の魅力を「試してみるか」そう言われて一夜を共にする。龍斗に頼らない妊娠したまどかに対して、契約結婚を申し出る。ある日龍斗に思いを寄せる義妹真凜は、まどかの存在を疎ましく思い、階段から突き落とす。流産と怪我で入院を余儀なくされたまどかは龍斗の側にはいられないと姿を消す。そこへ元彼の新が見違えた姿で現れる。果たして……
合意的不倫関係のススメ《R-18》
清澄 セイ
恋愛
三笹茜二十六歳。私には、二つ年上の夫・蒼が居る。
私達は、一見何の変哲もない夫婦だ。子供はいないけれど、二人で穏やかに毎日を過ごしていた。
けれどその穏やかな毎日は、ある“暗黙の了解”から成り立っているもので……
私達は確かに、お互いを愛してる。
それだけは、真実。
※別名義で他サイトにも掲載しています。
恋に焦がれて鳴く蝉よりも
橘 弥久莉
恋愛
大手外食企業で平凡なOL生活を送っていた蛍里は、ある日、自分のデスクの上に一冊の本が置いてあるのを見つける。持ち主不明のその本を手に取ってパラパラとめくってみれば、タイトルや出版年月などが印刷されているページの端に、「https」から始まるホームページのアドレスが鉛筆で記入されていた。蛍里は興味本位でその本を自宅へ持ち帰り、自室のパソコンでアドレスを入力する。すると、検索ボタンを押して出てきたサイトは「詩乃守人」という作者が管理する小説サイトだった。読書が唯一の趣味といえる蛍里は、一つ目の作品を読み終えた瞬間に、詩乃守人のファンになってしまう。今まで感想というものを作者に送ったことはなかったが、気が付いた時にはサイトのトップメニューにある「御感想はこちらへ」のボタンを押していた。数日後、管理人である詩乃守人から返事が届く。物語の文章と違わず、繊細な言葉づかいで返事を送ってくれる詩乃守人に蛍里は惹かれ始める。時を同じくして、平穏だったOL生活にも変化が起こり始め………恋に恋する文学少女が織りなす、純愛ラブストーリー。
※表紙画像は、フリー画像サイト、pixabayから選んだものを使用しています。
※この物語はフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる