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番外編1 彼女がおれに振り向くまで――純情な課長SIDE

のぼりつめ、待ち望んだその日がとうとうやって来た

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 おれが入社したのは九月。

 課長職についたのが入社三年目の四月。どうやらこの年で課長職につくのは異例らしく、……やっかみの混ざった視線に気づかないほど鈍感ではないおれは、慎重に、動いた。

 本当は、大規模な改革にでも乗り出したかったが、時間をかけようと思った。

 まずは前任者と同じくらいやれることを証明し、周囲の信頼を得ること。――この考え方は。


 彼女に対しても、同じだった。


「課長。あの、……頼まれていた資料、サーバに入れておきました。これが印刷したものです。一部でいいですか」

「うん、一部でいい。配る前にチェックするから。サンキュ、桐島さん」

「いえ……」

 課長職についた途端喋る機会が増えたのだから役得だ。

 おれは、嬉しかった。だが彼女の、閉じた貝のような雰囲気は、変わらずだ。


 二年半経っても、あの笑顔を見せてくれることはなかった……。


 おれは、きみに勇気づけられたからこそ、頑張れたっていうのに。



「二岡(におか)さんの同期って誰だっけ」おれは、彼女の様子を探るべく、喫煙室にて、さほど面識のない二岡に、話しかけた。

「田中と鈴木。……二人だけになっちゃったな」とやや自嘲的な感じで二岡は笑う。

「桐島さんて二岡さんの一個しただっけ」

「そうそ」おれは彼の煙草をくゆらす手を見ながら、核心に切り込む。

「桐島さんの、入社した頃の教育担当って二岡さんだったんだよね」彼はその後、経営企画課から別の課に異動している。「彼女。入社した頃からあんな感じだった?」

「あんな感じって?」

 おれは慎重に答えた。「……なんか。笑ってるけど……こころの底から笑ってないような……」

「だね」と二岡は頷いた。「……おれもちょっと心配してる。あの子、入社したての頃はもっと無邪気な感じだったよ。可愛い子猫みたいだったからよく覚えてる。……半年経った頃くらいかなあ、急につき合い悪くなったんだよね。誘われても飲みにも行かなくなったし、……仕事も断んなくなったけど。

 悪い意味での子猫ちゃんみたいになっちゃったね。

 ありゃ、相当警戒してるっしょ」

 別の課の人間も同じ印象を抱いていることを聞き出し、おれは、彼女に対する自分の印象を、正しいと認識したのだった。


「分かりました。なんとかしてみせます……」


「頼りにしてるよ。三田課長。んじゃ、おさき」

 おれの肩をぽんと叩き、二岡は喫煙室を出て行く。入社して以来、おれは、敢えて強面な課長像を作り上げた。だから気さくな感じで話しかけることもしなかったのだが――

 話してみないと、ひとは分からない。

 おれは、二岡と話したことをきっかけに、勇気を出すことに決めた。


 * * *


 それでもおれが行動に移すまでに、それから半年、待たなければならなかった。ほかの人間がいるまえで彼女を誘うわけには行かない。

 ちょうど、おれが入社して三年が経った九月。彼女が定時前後に、営業の道中に仕事を頼まれているのを見て――

 きた、と思った。

 なに食わぬ顔をして「おさきに」と帰ったが――


 おれは一時間後には戻ってくる。そのときにいよいよだと思うと、心臓が痛いくらいだった。

 面接よりも緊張した。

 近くのコーヒーショップで煙草を吸う手が震えていたのをよく覚えている。

 戻ってきたときに、彼女が普通に働いていたのを見てほっとしたと同時に、勇気を振り絞る場面に来たことを悟った。

「課長、どしたんすか、忘れものですか」

 ときどき、彼女はこういう言葉遣いをする。『演技』を忘れて素の顔をほんのちょっと出す。

 おれはもっときみが知りたい。

 逸るこころを抑えつつ、「まーそんなとこ」と答えた。勿論、嘘っぱちだ。

 強いて言うなら、三年前のきみを取り戻すために来た。

 適当に、自分のデスクの引き出しを開け閉めし、忘れものを取りに来た様子を演じる。引き出しを無意味に開け閉めする自分が、滑稽だった。

「あと何分で終わる」

 話しかけられても、彼女はディスプレイから視線を譲らない。集中している。「十五分ですかね。このマクロ流し終わってチェックだけ終わったらさっさと帰ります」

「分かった」持っているバッグを自分の椅子に置いた。

 そして、なけなしの勇気を振り絞って、彼女を誘った。

「桐島さん。それ終わったら寿司食いに行こう」

 PCのまえで頬杖をついていた彼女が、ゆっくり顔をあげおれを捉える。

 彼女の瞳に、ありありと驚愕のいろが浮かんでいた。

 なんでわたしを、と。

「……わたしと課長、サシ飲みなんかする間柄でしたっけ」

 つんと、生意気な感じで彼女がディスプレイに視線を戻す。その感じが、欲しい、というおれの欲求を加速させる。

 おれは、彼女に畳み掛ける。

「カウンターの寿司屋。超うめえぞ」

 彼女の大好物が寿司だというのは派遣さん情報だ。「……人生一度でもカウンターのお寿司屋さん入ってみたいなー」とぼやいていたらしい。

 いまが、そのときだ。

「おれのおごりだ」と、おれこそぶっきらぼうな感じで言う。「言っておくが恩に着せるつもりはない。ひとりじゃ入りにきーからついでに連れてくだけだ」

 彼女の黒い瞳が、おれを捉える。

 欲しいという感情をありありと移した瞳。

「頑張ったご褒美だ。好きなもんを好きなだけ食え」

「わ、かりました……ちょっと、待っててください」頬を赤くした彼女はおそらく印刷ボタンを押した。

 * * *


 夢のような時間だった。

 ずっと憧れ続けていた彼女と向き合って話せる。

 おれは確かに手応えを感じた。こちらがフランクに接すれば、彼女も直球で返す。このやりとりが永遠に続いて欲しいとおれは、願った。

 だが、その時間は、予想外に早く終了した。

 夢の世界へと旅だった彼女を見つめるおれに、板のシゲさんが声をかける。

「お連れさん、お疲れの様子ですね……なんかかけるもの取ってきましょうか」

「ああ。頼む」

 カウンターに突っ伏して眠る彼女。自分の手の甲に左の頬を預け寝顔をぞんぶんにおれにさらけ出している。

 その顔は、勿論会社で見せる様子とは違って、おれの胸を、苦しくさせた。


 警戒をほどいた顔を。いまの素直な自分を。

 もっと、おれにさらけ出して欲しい――。


 眠る彼女を見守る時間は、幸せなひとときだった。だが同時に切なかった。

 彼女が眠り始めて三十分ほど経った頃だろうか。

「……あり。わたし」顔をあげた彼女が目をぱちくりさせる。「寝てた。寝てました? うっわ……」

 慌てて前髪を整えようとする彼女が、可愛い。

「疲れてるんだよ」とおれは答えた。ところが彼女は、

「あーすんごい喉乾いた。ちょっと頂きます」

「ちょっと待てそれおれの……!」止めようとしたが遅かった。おれの飲みかけの日本酒の入ったグラスをぐいーっと豪快に飲み干した。

 ぷっはーと唇を拭う。……そんなキャラだっけか。

 唖然とするおれをよそに彼女はきひひと笑う。「課長。どしたんすか、ボー然として」

 その目は、完全、酔っぱらいの目だ。おれは……

 彼女を口説く機会が消失したのを、悟った。

 ふわああ、と彼女は大きなあくびをする。「ああ、ねっむぅ」

「ちょっと待て。ここで、寝るな、寝るな! ……シゲさんお勘定」

「ありがとうございましたぁああ」威勢のよい返事が返ってくる。タクシーを呼んでもらい、おれは、彼女と一緒に乗り込んだ。

「桐島。起きろ。起きろ……」おれは彼女を揺さぶった。

 とろん、とした目がおれを捉える。

 焦っておれは訊く。「おまえのマンション、どこだっけ」

「さーどっこでしょ。簡単には教えらんないっす、きひひ」

「茶化してる場合じゃないだろ。……送ってくから、教えろ」

「お客さん、どちらまで」迷惑そうにタクシーの運転手が訊く。とりあえず、おれは「葛西臨海公園まで」と答えた。彼女の住む駅の数駅隣だ。それまでに起きてくれればどうにかなる。

 ――と、思っていたが。

 寝息を立てて本格的に眠り始めた……。

 寿司屋でも車内でも眠る彼女。段々、起こすのも不憫になってきた……。

「お客さん、着きましたよ」迷っているうちに、おれの住むマンションに着いた。

「桐島。おれは……」

 口を開けて眠る無防備な彼女。

 この距離でも彼女の酒臭さが匂う。……なんにせよ、このまま彼女が自分のマンションに帰ったところで、介抱する相手がいない。酔って転んで怪我でもされたら大変だ。

 とりあえずおれのマンションに運ぶことにした。

 抱きかかえて運ぶ心境は犯罪者のものと似ていた。――いや、他意は無い。誓って手は出さない。一晩眠らせて、酒の抜けた彼女を、そのまま家に返すだけだ。

 女を抱いたまま部屋の鍵を開けるのに難儀をした。彼女の履いていたハイヒールは、玄関に適当に落っことした。細身に見えても、タクシーを出てから自分の部屋のベッドに運ぶまでが、なかなかしんどかった。

「手ぇ痛え……」

 おれは腕をさする。

 目下には、ベッドのうえで大の字に眠る彼女。

 のんきなものだ。よくも知らない男の部屋に運ばれているというのに。

 と。

 気がついたら、ベッドに膝をついて身を乗り出す自分がいた。

 彼女の息はあいも変わらず酒臭い。こんなにお酒が弱いとは、心配だ。思えば彼女は飲み会の席でいつも酒を作っていた。致命的に弱いのを自覚してのことか。

 視線を顔から胸元に移す。

 紺の布地に覆われた胸が、呼吸に合わせて上下している。

 DかEくらいの、触り心地のいいに違いない、膨らみが。

 手のひらに包み込んで揉んでみたら、どんなに気持ちがいいだろう。

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 男を誘惑するように目前の距離にある乳房。

 女なんか、この四年触れていない……。

 正直に言うと、見ているだけで、おれは股間が固くなるのを感じていた。

 たとえ抱きしめたとて、きっとすぐに彼女は起きやしない。が……

 首を振った。何度か深呼吸をし、欲望を抹殺する。それは、彼女が望んでいない限り絶対にしてはならないことだった。

 その目が、突如として開いた。……しかし、焦点が合っていない。

「あっれえ……」彼女が上体を起こし、頭をかく。おれは咄嗟にベッドから身を引いた。

「あーねっむ。服きっつ」と言うやいなや。

 いきなり、着ている服を脱ぎだした。

 ライム色のブラジャーに揃いのショーツ。

 平らで白いお腹。

 思った通り、豊かな胸には谷間がくっきり刻まれている。

 いや。見ている場合じゃなくって!

「これ!」おれは慌ててクローゼットに走りこみ、適当に取り出したTシャツを手渡した。無論彼女をまともに見れるはずなど無い。「服、着ろ! とにかく着ろ!」

「あーもーおかーさんてば、うるさいなぁあ……」おれは背を向けて待った。見たら自制心など吹っ飛ぶ。ただでさえ彼女の下着姿がくっきりと目に焼きついてどうしようもないってのに。

 ……どうやら彼女は服を着た様子。

 ばたん、と音がして。

 急に、静かになった。

 てか。またしても、……

「寝るのかよおい……」

 なんか彼女、いろいろとすごい。

 ひとまずおれは、彼女に掛け布団をかけて、一旦部屋を出て行くと、コップに水を入れてサイドテーブルに置いてやり、自分はリビングへと戻り、ソファーで寝たのだった。


 同じ屋根のしたに彼女が居るという現実がおれを落ち着かせず、また、彼女のなまめかしい下着姿が強烈に焼きついて悶々としてどうしようもなかったおれは、その晩、途切れ途切れにしか眠れなかった。


 *
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