タダで済むと思うな

美凪ましろ

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第三部 青春編

#03-01.同盟

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「大体、きみがぼくを呼び出した理由は見当がつくけれど……」
 室内を見回し、石田は、二度目の訪問となるカフェでナイフを手に取った。注文したものも、前回と同じだ。――いや、石田は、今回はミニサイズではない、普通サイズの小倉ノワールを注文した。よって石田の前には山のように高い、ソフトクリームがそびえている。
「今日お呼び立てしたのは、他でもない。……母と、それから、圭三郎くんの件です」
 にやりと、石田の口許が弧を描く。「……会ったの?」
「会いました。正確には昨日、圭三郎くんの学校に行って、話しました」
「智樹くんて温厚そうに見えて案外せっかちなのね。……で。どうだった?」
 コーヒーを一口含み、智樹は答える。「この際だからはっきり言いますと。姉貴は、圭三郎くんに惚れてます。純真な姉貴を食い物にしようとしている圭三郎くんは、おれの敵です」
「そっかそっかいよいよ本当の敵に出会えたかー」前回よりも慣れた手つきで小倉ノワールを切り分ける石田。「うんうんきみたち二人が出くわしたら、めっちゃめちゃ仲がよくなるか、或いは野村沙知代と浅香光代ばりに犬猿の仲になるのか、どっちかだろうって思ってたんだけど、そっか。『そっち』か……」
「あなたは、――圭三郎くんの、正体に、気づいているんです?」
 甥っ子を悪く言う叔父がいるはずないと、慎重に、智樹は言葉を選ぶのだが、
「――仕事柄、人間観察が趣味なもので。一筋縄ではいかない子だってのには、気づいているよ」
 さらりと、石田は受け流す。その表情に、智樹は、確信を得る。――あの発言は、正しかった。
『ぼくには本当に甥がいるんだけど、もっともっとお子様だよ。やんちゃで、自分のことしか考えてなくて、きみとは随分タイプが違う――』
 あれは、石田圭三郎のことを言っていたのだ。つまり、石田は、甥である圭三郎の正体に気づいていたと見なすのが妥当だ。
 今日、智樹がこのカフェに石田を呼び出した目的は、そこにある。知っているのならば、味方は、ひとりでも多いほうがよい。
 あの真夏の太陽のような姉の笑みを守るためならば、おれは、悪魔にだって魂を売ってやる。――そう、智樹は、決意した。
「取引の時間です」と智樹は石田の目を見て手を合わせた。祈る人間のように、「おれは、石田さん。あなたと、母さんである西河虹子の交際がうまくいくように、息子としてサポートします」
 取引という語感に惹かれてか、石田の瞳が無邪気な光を宿す。「……それと引き換えにきみはなにが欲しいの?」
「石田圭三郎の情報、……です。あなたの知る限りでの、石田圭三郎に関する、すべての情報を、ぼくに叩き込んでくれませんか」

「遅いなあ……智ちゃん」
 たまには、弟に一番風呂を譲ってやろうと思うのに。そんなときに限って弟の姿は、ない。
 洗い物をする母に声をかけ、風呂に入ることにした。
 湯船のなかで、みずみずしい伸びやかな肉体に触れる。――かつて、ここを、どんなふうに愛されたのか。姉の肌を貪る弟の野性的な表情を思い返すたびに、感じたことのない衝動が沸き起こる。
(ああ……もう。我慢出来ない……!)
 オナニーとは無縁で過ごしてきたはずの晴子の胎内に、植え付けられたあの衝動。弟の太く熱いペニスの感触……。自分の細い指をいくら動かしてみても、あれだけの恍惚を再生出来ない。自分の気持ちの何割かは満たされるものの、大部分が虚しいだけの時間を過ごす。
 それでも、到達することは可能であり――実を言うと弟に抱かれてからというものの、何度も自分を慰めている。ある程度の快楽を得て、ある程度の悲しみを得る。虚しい作業だ。
 風呂上がりの自分に向き合うと、自分が、なにかとんでもない過ちを犯したのだと思ってしまう。表面上は、なにも変わらない、ごくごく平凡な、女の子だというのに。
 いや、実際、自分は、犯したのだ。
 おかしなことに、実弟とセックスをした事実よりも、あれから何十回も、自慰行為をしていることのほうに、罪悪を感じている。このからくりが、理解出来ない。けれど、また――。
(ああ……もう……)
 あの弟の切なげな笑みを思い返すたびに、ここが、濡れてしまう。
 鏡のなかで女が泣きそうな顔をしている。洗面台の前で、自分の顔を見つめ、あの麗しい弟の恍惚を脳裏に蘇らせながら、また、晴子は、自身を導いていく。
 風呂からあがったばかりだというのに。なるべく性的な意識を取り外すようにし、義務的に自分のからだを洗い流し、タオルで拭くと、自分の肌に、触れる。
『そんなに好きなら、いつでも遊びにおいで?』
 どうして、ここで、『彼』の顔が思いだされる。
 ややウェーブがかった長めの前髪を真ん中で分け、清潔感漂う広い額を見せ、その下に潜む理知的な瞳――自分には、『資格』がないことが分かっているのに。こころのなかで、まっすぐな部分があのひとを求めている。
 なんという、淫売なのだろう、自分は。
 実弟に性を明け渡した挙句、他の男に、恋慕するとは……。
 人知れず、晴子は、悩みを抱える。父親とは離れて暮らし、たったひとりの肉親である虹子にすら打ち明けられない悩みを宿すのは、初めてのことだった。
 いままでなら、どんなことだって相談出来た。母は、母である前に、頼れる親友だった。
 けれど、自分は、そんな母の信頼を裏切る行為をしでかしたのだ。
 もう――頼れない。
 言葉通りの社交辞令を真に受けるほうが馬鹿なのだと思う。それに、圭三郎は受験生だと聞いている。間違っても彼の受験を邪魔してはならないのだ。もし、彼が受験にでも失敗しようものなら、それこそ春江が黙ってはいない。
 ――会いに行くのが駄目なら、せめて。
 そうだ、と晴子は閃いた。溝の口。駅からさほど遠からずの距離に、確か、神社があったはず……。そこでお守りを買って、渡すだけならどうだろう。迷惑にならないのではないか?
 部屋に戻り、首からかけたタオルで長い髪を拭きながら、スマホで調べる。受験合格祈願のお守りがあるかまでは分からなかったが、『勝御守』というものがあるらしい。お守りは百種類以上あるのだとか。なんとも心強い。
「晴ちゃーん。次、ママ、ドライヤー使いたい」
 部屋の外から母の声がし、「分かったあと五分!」
 ドライヤーで髪を乾かすことも忘れ、調べることに没頭していたことに気づく。せっかちな母はお風呂もせっかちだ。長風呂をせず、すぐに風呂を出てしまう。温泉や銭湯に行くときは別として。
 銭湯という言葉を聞くだけで、秘めた女の部分が疼く肉体に変えられてしまった。弟との愛の行為を通じて。
 いつ、どんなときに、芽を出すのか分からない性の欲望を抑え込みながら、晴子は、表面上は、いままでと変わらぬ生活を続ける。変わったのはそう、弟への想いとそれから――圭三郎という新しい存在に対する想い、だった。

「あのー。……こんにちは」
「あらぁー晴ちゃん。いらっしゃい」
 早速翌日、放課後に、『葉桜』に立ち寄ると、前回来訪時に接したパートさんが気づいた。「……朝江さんならちょっとね。咳が酷くって……奥で休んでいるわ」
「えっ大丈夫なんですか」
 思わぬ事態に、晴子は顔を曇らせる。だがそんな晴子を安心させるかのように、パートさんは笑顔で、
「朝江さん、元々喘息持ちだから。移ることはないけれど、でも、ほら、客商売だから遠慮しちゃって……。でも、晴ちゃんが来てくれたと知ったら、喜ぶわ……」
 ――朝江さんのぶんも、お守りを買って来ればよかった。
 そうか。とそのとき晴子は思い立った。――鉄は熱いうちに打て。西河家の家訓をいまこそ、実行すべきときだ。
「わたし、ちょっと寄るところあって。後でまた来ます!」
「え? 晴ちゃん、ちょっと……」
 パートさんが呼び止めるのも聞かず、晴子は、ひた走る。
 行き先は、先ほど行ったばかりの神社だ。もう一度お賽銭を投げて、朝江さんの健康を祈って、健康祈願のお守りを買おう。あんなにもよくしてくれた朝江さんが、すこしでも元気になるように……。
 息を弾ませ、神社の境内に足を踏み入れ、砂利を鳴らしたときだった。
「――あれ」
(――嘘……!)
 まさかの再会に、晴子は、胸をときめかせる。
 ブレザーの制服姿に身を包むそのひとは、他の誰でもない、石田圭三郎、そのひとだった。

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