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第二部 恋愛編
#02-02.逡巡
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「あの。実は、折り入ってみんなに相談があるんだけど」
夕食のときはテレビを見ず、携帯もいじらず、一家団欒を楽しむ。これは、家族が三人になってから、晴子が提案したルールだ。
それもあって、子どもたちが揃って虹子に目を向ける。「……どしたの」
「ほら、あの……『葉桜』、あるでしょ。……あそこのお店の息子さんが、お母さんの部署の上司で……」
ただの事実を述べるだけなのに、どうして鼓動は加速し、呼吸は苦しく、胸が痛くなってしまうのか。
この感情の正体を虹子は、知っている。
でも、認めるのが――怖い。
「うっそ『葉桜』の!? かりんとまんじゅう死ぬほど美味しいじゃん! 食べたい! 食べたいよー!!」
案の定、食いつくのは晴子だ。しかし、智樹のほうは無表情を貫く。この一点が気にかかるものの、虹子は言葉を繋いだ。「それで。うちの子たちが『葉桜』のファンだって伝えたら、よかったら今度の日曜、お店に来ないか……って誘われたんだけど、晴ちゃん、智ちゃん。……どうする?」
「行くに決まってんじゃーん!」
ばしばしと晴子が智樹の背を叩くのだが、智樹の表情は何故か険しい。
すると彼の整った唇が動く。
「そいつ、……男?」
「……うん?」
反応する晴子には目もくれず、智樹が、淡々と、
「男だよね。読めたよ。そいつ――母さんに、気が、あるんだ。決まっている。気があるから、おれたち子どもを、あまくて美味しい和菓子を使って懐柔しようと思ってんだ。分かるさそんくらい」
すると箸を止めた晴子が智樹に目を向け、
「智樹あんた――妬いてる?」
「違う」憤然と智樹は答える。好物の肉じゃがに箸を伸ばし、「おれは、ただ、母さんが変な野郎に引っかかんないか、そのことだけを心配している。母さんって、しっかりしているように見えて、危なっかしいところがあるからさ」
「だったらなおのこと、わたしたちが会って、ジャッジしたほうがいいんじゃないの」
「晴ちゃんには、いまからおれが言うことが出来る? そいつに、会って。美味い和菓子をたらふくいただいて。たぶん、そいつの両親にも会ってパートさんにも会って、挙句、そいつを拒絶することが――」
「……あ」
合点がいったようだ。
「それに。これから『葉桜』行くたびに、そいつのことが思いだされるのもなんか抵抗あんな。……ふたりで行ってきなよ」
「……智樹」
「ごめん。おれ、すげえ、ガキくせえこと言ってるのは、分かっている。
母さんの人生を束縛する趣味は、おれには、ない。
母さんが新しい恋に落ちるのは、おれは、歓迎だ。
頭では分かっている。母さんは、母さんである前に、西河虹子っていう、ひとりの人間だってことも。それに、おれたちは、いずれ母さんの元を離れていくかもしれないから。そのあとの人生をどう生きるのかも母さん次第。母さんのは母さんの人生がある、それは分かっている。
でも、こころがついていかないんだ……ごめん」
「いいのよ智樹」虹子は涙を滲ませ、微笑んだ。「思ったことはなんだって言ってちょうだい。これからも。遠慮なんかしなくていいのよ。ただ、……お母さん。『葉桜』のことはみんな大好きだから……『葉桜』がまさか石田さんのご実家だなんて思わなくって。それで、……みんなで喜びを分かち合いたかった。それだけなの。ごめんね……晴子。智樹」
「母さんが謝ることないよ。……智樹の気持ちも分からなくもないけど。ま、智樹もまだ中一だもんね。お尻の青いおこちゃまだもんねー」
「……ガキ扱いすんな。背はおれのほうがでけえんだぞ」
「からだは大人! こころは子ども! その名は名探偵――トモキ!」
「はいはいもうあなたたちそのくらいにしなさい」一家団欒は確かに大切なのだが、時間は限られている。これから食事の片づけを済ませ、家族が順番に風呂に入らなければならない、その時間も計算しなくては。「喧嘩をするのならご飯とお風呂と洗濯物を済ませてからになさいね」
「はぁい」
「……はい」
がつがつと食事を平らげていく。そのスピードと量に驚かされる。虹子は、子どもを産んでから、食事の量をセーブしている。十代二十代の頃と同じ量を食べていると太るのだ。そして、食事を減らしてみてもまったく痩せない。まだまだ気持ちは若いつもりでも、からだは着実に年を取っていく。
なので、虹子は、毎日運動をしている。軽いストレッチ、ヨガ、ピラティス。気分によってプログラムを変える。いまは、You tubeで動画を再生出来るから、便利だ。書籍など買わなくとも素敵なプログラムを楽しめる。
「ご馳走様ー」
「でした」
「あっ智ちゃんわたしが先ー。一番風呂ぉー」
「晴ちゃんのケチ。たまにはおれに先に入らせろよ。晴ちゃんの受験で散々おれたち我慢させられてたんだからさ」
「……我慢。どこが」
「『無理無理無理絶対無理ー』っておれたちに当たり散らしまくってたじゃん。おれは決意した。受験のプレッシャーがあるからって、家族に当たり散らすような真似だけはしまい」
「智ちゃんのほうが難しい問題をすらすら解いてくんだからまじむかつく。悔しいんだけど!」
「……日本ってどうして飛び級制度がないんだろうねえ? 母さん……」
「えー」背中で子どもたちの会話を受け止めながら、虹子は洗い物を続ける。「出る杭は打たれるって文化が根強いんじゃないかしら? 日本って。空気読むこととかやたら求められるじゃない……社会全体として」
協調性のある平均的な女の子である晴子に比べ、我が強く知能の高い智樹が果たして中学でうまくやっていけるのか――そこを、虹子は心配していたのだが。どうやら彼は、学校での友達付き合いはそこそこにこなし、ネットで趣味の合う人間を探し、彼らと意気投合している。たまにオフ会なんかを開いて楽しく過ごしているようで、母親として虹子は安心した。
「わたしは、智ちゃんみたいなひねくれた生意気な子がどーして学校でうまくやっていけてんのか。不思議でならなーい」
「……使い分けてるから。じゃ、お先」
「あっ……」
すすー、っと廊下を駆け抜ける智樹の後ろ姿を見て、晴子が唇を噛んだ。「ちくしょう……あいつ、なんだかんだいってわたしに気ぃ遣ってんだよね。受験のとき、結構勉強つき合ってくれてたし、嫌がらず教えてくれて、毎回、風呂……譲ってくれるし」
その献身に隠された感情に、まだ若い娘は気づかない。微笑みながら虹子は皿を洗いかごに置く。「感謝してるのなら、ちゃんと言葉にして伝えないとね。たまには。……智樹も智樹なのよね。わざと、あなたをからかって、あなたが反論するように仕向けている……それが、彼の愛情表現なのよね」
「愛情表現んー?」小さく、晴子が吹き出す。「愛情。……愛情って。あいつにそんなものあるー? だってお母さん、あいつの趣味知ってるでしょ! アンジーが好きってどんだけ年上好きなのよ! って」
それも、彼なりの強がりだということを娘は知らない。洗い物を終え、虹子は振り返る。「……ねえ。晴ちゃん。もし、……智樹が――」
「……うん?」
口許に笑みを乗せ、髪を団子に結った娘は気づかない。知るはずがないのだ。弟が、特別な感情を自分に抱いていることなど。
尤も、その感情を『家族愛』の一言で片づけるのは簡単だ。虹子もそうすべきなのか、いまだに迷っている。智樹の直情的な感情を優先すべきか、或いは、晴子の環境を守ることに専心すべきなのか。
――それが、『行動動機』なのか。あのミッションを達成することで精いっぱいだった虹子は、智樹の秘めた情愛にまで気が行かなかった。親失格だと思っている。
けれど。
石田のことを想うと、不思議とからだが熱くなる。
『ぼくたち――運命なんだね』
あの理知的な瞳が女を愛しこむときに、どんなふうに光るのか。
「……お母さん?」
言われて虹子は自分が、迷妄の森に迷い込んでいたことを悟る。果てのない、未開の迷妄の森へと。
胸の奥から吹き出すような情熱に身を焦がされ、想いを絡ませる偉業を達成せねば、自分という人間の有り体を保てぬあの現象を。
「わたし……」虹子は熱くなった胸を押さえる。「あ……その……、なんだろう。なんでしょう? ……晴ちゃんは、好きなひととかいないのかしら?」
「――天堂先生」
分かる。それは、分かるのだが……分かりみが強すぎる。
日本国民女子のほとんどが、天堂沼に沈んでいる。虹子の目から見ても、彼は危険すぎる。
そして、晴子は――知らないのだ。
髪型や仕草など、『似せて』いることを。
『ばーか。おれがおまえに惚れる可能性なんか、0.000000001パーセント……』
健気な努力を知る虹子は、「あらあらぁ」とほくそ笑む。「でも、彼はフィクションの存在だから、晴ちゃんもね。真剣に、愛せるひとが見つかるといいわねえ……」
でも、まだ、娘は、中学生だ。間もなく高校生になるとはいえど、本当の愛を知るには、ちょっと幼い。
いろんな経験を積んで、いろんな出会いを重ね、辛い涙も流すことで見えてくるものもあるだろう。かつて自分も経験したように。
「風呂あがったー」
「はやっ!」
お団子の髪に手をやった晴子が目を剥く。「えちょっと智ちゃん速すぎない? もいっかい浸かってきなよー」
「……なんでおれが二度風呂に入らなきゃならないんだ。めんどくせ」
そうやって毒づくところが、年相応だと虹子は思う。
「さっさと入れ。母さんが入れねえだろ」
「分ーかってるーって。べーだ!」
あっかんべーをし、居間を出て行く晴子を見て、智樹と目を見合わせて笑う。
「あいっつほんと……なんでああなんだろうなあ?」
「さーあ」
ダイニングチェアを引き、座ろうとする虹子を見て、智樹が言う。「母さんなんか飲む?」
冷蔵庫から誰かが物を取り出すたび、つい、前夫のことを思いだしてしまう。……あのひとは、何度言っても、ペットボトルに直接口をつける癖を改めなかった。自然と沸きあがるものを抑えこもうとし、
「じゃあ、ポカリが飲みたいな……」
「分かった」
はきはきと答える調子に、ああこの子は大人になったなあ、と思う。ついこのあいだまで、『ママがいい! ママがいい!』と泣いてわめく幼子だったのに……。
虹子が直視するのを恐れる感情と、この子は向き合っている。
ならば、自分も向き合うべきではないのか――。
天啓のごとく、ある考えが舞い降りた。
ふるえとともに、虹子は、その結論を受け止める。
なにも知らずに、清涼飲料水入りのマグカップを手渡す、息子に、虹子は告げた。しっかりとその目を見据え、
「……お母さん、自分の気持ちに素直になってみてもいいかしら……」
*
夕食のときはテレビを見ず、携帯もいじらず、一家団欒を楽しむ。これは、家族が三人になってから、晴子が提案したルールだ。
それもあって、子どもたちが揃って虹子に目を向ける。「……どしたの」
「ほら、あの……『葉桜』、あるでしょ。……あそこのお店の息子さんが、お母さんの部署の上司で……」
ただの事実を述べるだけなのに、どうして鼓動は加速し、呼吸は苦しく、胸が痛くなってしまうのか。
この感情の正体を虹子は、知っている。
でも、認めるのが――怖い。
「うっそ『葉桜』の!? かりんとまんじゅう死ぬほど美味しいじゃん! 食べたい! 食べたいよー!!」
案の定、食いつくのは晴子だ。しかし、智樹のほうは無表情を貫く。この一点が気にかかるものの、虹子は言葉を繋いだ。「それで。うちの子たちが『葉桜』のファンだって伝えたら、よかったら今度の日曜、お店に来ないか……って誘われたんだけど、晴ちゃん、智ちゃん。……どうする?」
「行くに決まってんじゃーん!」
ばしばしと晴子が智樹の背を叩くのだが、智樹の表情は何故か険しい。
すると彼の整った唇が動く。
「そいつ、……男?」
「……うん?」
反応する晴子には目もくれず、智樹が、淡々と、
「男だよね。読めたよ。そいつ――母さんに、気が、あるんだ。決まっている。気があるから、おれたち子どもを、あまくて美味しい和菓子を使って懐柔しようと思ってんだ。分かるさそんくらい」
すると箸を止めた晴子が智樹に目を向け、
「智樹あんた――妬いてる?」
「違う」憤然と智樹は答える。好物の肉じゃがに箸を伸ばし、「おれは、ただ、母さんが変な野郎に引っかかんないか、そのことだけを心配している。母さんって、しっかりしているように見えて、危なっかしいところがあるからさ」
「だったらなおのこと、わたしたちが会って、ジャッジしたほうがいいんじゃないの」
「晴ちゃんには、いまからおれが言うことが出来る? そいつに、会って。美味い和菓子をたらふくいただいて。たぶん、そいつの両親にも会ってパートさんにも会って、挙句、そいつを拒絶することが――」
「……あ」
合点がいったようだ。
「それに。これから『葉桜』行くたびに、そいつのことが思いだされるのもなんか抵抗あんな。……ふたりで行ってきなよ」
「……智樹」
「ごめん。おれ、すげえ、ガキくせえこと言ってるのは、分かっている。
母さんの人生を束縛する趣味は、おれには、ない。
母さんが新しい恋に落ちるのは、おれは、歓迎だ。
頭では分かっている。母さんは、母さんである前に、西河虹子っていう、ひとりの人間だってことも。それに、おれたちは、いずれ母さんの元を離れていくかもしれないから。そのあとの人生をどう生きるのかも母さん次第。母さんのは母さんの人生がある、それは分かっている。
でも、こころがついていかないんだ……ごめん」
「いいのよ智樹」虹子は涙を滲ませ、微笑んだ。「思ったことはなんだって言ってちょうだい。これからも。遠慮なんかしなくていいのよ。ただ、……お母さん。『葉桜』のことはみんな大好きだから……『葉桜』がまさか石田さんのご実家だなんて思わなくって。それで、……みんなで喜びを分かち合いたかった。それだけなの。ごめんね……晴子。智樹」
「母さんが謝ることないよ。……智樹の気持ちも分からなくもないけど。ま、智樹もまだ中一だもんね。お尻の青いおこちゃまだもんねー」
「……ガキ扱いすんな。背はおれのほうがでけえんだぞ」
「からだは大人! こころは子ども! その名は名探偵――トモキ!」
「はいはいもうあなたたちそのくらいにしなさい」一家団欒は確かに大切なのだが、時間は限られている。これから食事の片づけを済ませ、家族が順番に風呂に入らなければならない、その時間も計算しなくては。「喧嘩をするのならご飯とお風呂と洗濯物を済ませてからになさいね」
「はぁい」
「……はい」
がつがつと食事を平らげていく。そのスピードと量に驚かされる。虹子は、子どもを産んでから、食事の量をセーブしている。十代二十代の頃と同じ量を食べていると太るのだ。そして、食事を減らしてみてもまったく痩せない。まだまだ気持ちは若いつもりでも、からだは着実に年を取っていく。
なので、虹子は、毎日運動をしている。軽いストレッチ、ヨガ、ピラティス。気分によってプログラムを変える。いまは、You tubeで動画を再生出来るから、便利だ。書籍など買わなくとも素敵なプログラムを楽しめる。
「ご馳走様ー」
「でした」
「あっ智ちゃんわたしが先ー。一番風呂ぉー」
「晴ちゃんのケチ。たまにはおれに先に入らせろよ。晴ちゃんの受験で散々おれたち我慢させられてたんだからさ」
「……我慢。どこが」
「『無理無理無理絶対無理ー』っておれたちに当たり散らしまくってたじゃん。おれは決意した。受験のプレッシャーがあるからって、家族に当たり散らすような真似だけはしまい」
「智ちゃんのほうが難しい問題をすらすら解いてくんだからまじむかつく。悔しいんだけど!」
「……日本ってどうして飛び級制度がないんだろうねえ? 母さん……」
「えー」背中で子どもたちの会話を受け止めながら、虹子は洗い物を続ける。「出る杭は打たれるって文化が根強いんじゃないかしら? 日本って。空気読むこととかやたら求められるじゃない……社会全体として」
協調性のある平均的な女の子である晴子に比べ、我が強く知能の高い智樹が果たして中学でうまくやっていけるのか――そこを、虹子は心配していたのだが。どうやら彼は、学校での友達付き合いはそこそこにこなし、ネットで趣味の合う人間を探し、彼らと意気投合している。たまにオフ会なんかを開いて楽しく過ごしているようで、母親として虹子は安心した。
「わたしは、智ちゃんみたいなひねくれた生意気な子がどーして学校でうまくやっていけてんのか。不思議でならなーい」
「……使い分けてるから。じゃ、お先」
「あっ……」
すすー、っと廊下を駆け抜ける智樹の後ろ姿を見て、晴子が唇を噛んだ。「ちくしょう……あいつ、なんだかんだいってわたしに気ぃ遣ってんだよね。受験のとき、結構勉強つき合ってくれてたし、嫌がらず教えてくれて、毎回、風呂……譲ってくれるし」
その献身に隠された感情に、まだ若い娘は気づかない。微笑みながら虹子は皿を洗いかごに置く。「感謝してるのなら、ちゃんと言葉にして伝えないとね。たまには。……智樹も智樹なのよね。わざと、あなたをからかって、あなたが反論するように仕向けている……それが、彼の愛情表現なのよね」
「愛情表現んー?」小さく、晴子が吹き出す。「愛情。……愛情って。あいつにそんなものあるー? だってお母さん、あいつの趣味知ってるでしょ! アンジーが好きってどんだけ年上好きなのよ! って」
それも、彼なりの強がりだということを娘は知らない。洗い物を終え、虹子は振り返る。「……ねえ。晴ちゃん。もし、……智樹が――」
「……うん?」
口許に笑みを乗せ、髪を団子に結った娘は気づかない。知るはずがないのだ。弟が、特別な感情を自分に抱いていることなど。
尤も、その感情を『家族愛』の一言で片づけるのは簡単だ。虹子もそうすべきなのか、いまだに迷っている。智樹の直情的な感情を優先すべきか、或いは、晴子の環境を守ることに専心すべきなのか。
――それが、『行動動機』なのか。あのミッションを達成することで精いっぱいだった虹子は、智樹の秘めた情愛にまで気が行かなかった。親失格だと思っている。
けれど。
石田のことを想うと、不思議とからだが熱くなる。
『ぼくたち――運命なんだね』
あの理知的な瞳が女を愛しこむときに、どんなふうに光るのか。
「……お母さん?」
言われて虹子は自分が、迷妄の森に迷い込んでいたことを悟る。果てのない、未開の迷妄の森へと。
胸の奥から吹き出すような情熱に身を焦がされ、想いを絡ませる偉業を達成せねば、自分という人間の有り体を保てぬあの現象を。
「わたし……」虹子は熱くなった胸を押さえる。「あ……その……、なんだろう。なんでしょう? ……晴ちゃんは、好きなひととかいないのかしら?」
「――天堂先生」
分かる。それは、分かるのだが……分かりみが強すぎる。
日本国民女子のほとんどが、天堂沼に沈んでいる。虹子の目から見ても、彼は危険すぎる。
そして、晴子は――知らないのだ。
髪型や仕草など、『似せて』いることを。
『ばーか。おれがおまえに惚れる可能性なんか、0.000000001パーセント……』
健気な努力を知る虹子は、「あらあらぁ」とほくそ笑む。「でも、彼はフィクションの存在だから、晴ちゃんもね。真剣に、愛せるひとが見つかるといいわねえ……」
でも、まだ、娘は、中学生だ。間もなく高校生になるとはいえど、本当の愛を知るには、ちょっと幼い。
いろんな経験を積んで、いろんな出会いを重ね、辛い涙も流すことで見えてくるものもあるだろう。かつて自分も経験したように。
「風呂あがったー」
「はやっ!」
お団子の髪に手をやった晴子が目を剥く。「えちょっと智ちゃん速すぎない? もいっかい浸かってきなよー」
「……なんでおれが二度風呂に入らなきゃならないんだ。めんどくせ」
そうやって毒づくところが、年相応だと虹子は思う。
「さっさと入れ。母さんが入れねえだろ」
「分ーかってるーって。べーだ!」
あっかんべーをし、居間を出て行く晴子を見て、智樹と目を見合わせて笑う。
「あいっつほんと……なんでああなんだろうなあ?」
「さーあ」
ダイニングチェアを引き、座ろうとする虹子を見て、智樹が言う。「母さんなんか飲む?」
冷蔵庫から誰かが物を取り出すたび、つい、前夫のことを思いだしてしまう。……あのひとは、何度言っても、ペットボトルに直接口をつける癖を改めなかった。自然と沸きあがるものを抑えこもうとし、
「じゃあ、ポカリが飲みたいな……」
「分かった」
はきはきと答える調子に、ああこの子は大人になったなあ、と思う。ついこのあいだまで、『ママがいい! ママがいい!』と泣いてわめく幼子だったのに……。
虹子が直視するのを恐れる感情と、この子は向き合っている。
ならば、自分も向き合うべきではないのか――。
天啓のごとく、ある考えが舞い降りた。
ふるえとともに、虹子は、その結論を受け止める。
なにも知らずに、清涼飲料水入りのマグカップを手渡す、息子に、虹子は告げた。しっかりとその目を見据え、
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