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第一部 復讐編
#01-03.味方
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『あのひと』は、いまだに、バレていないと思っている。
その能天気ぶりが、憎らしい。――あんなにも苦しめておいて。
忘れもしない、わたしの十三歳の誕生日。中学に進級して初めての誕生日だった。『あのひと』は、遅くに帰ってきた。別にそれは不自然ではなかったんだけど。わたしは部屋でスマホをいじっていた。すると、リビングから『あのひと』たちの会話が聞こえてきた。
「今日、晴子の誕生日だったのよ。メールしたでしょう?」
「いや、忙しくて見てねえよ。おまえ、仕事をなんだと思っているんだ。メールなんか見る暇あるわけねえだろ」
「それでも、言い方ってものが――」
いつもするように、母は口を噤んだ。あーあ。お母さん、言いたいことがあるんなら言えばいいのに。我慢してばっかいると禿げるよ。代わりに言ってやろうかと思ったけど、止めた。せっかくの誕生日を、台無しになんかしたくなかった。
でもわたしは、トイレに行くときに、廊下で『あのひと』とすれ違い、――『あのひと』が帰宅したばかりなのにも関わらず、やけにさっぱりした顔をしていたのを見た。いつもなら油ギッシュな顔をしているのに、シャワーでも浴びたかのような、清潔感が漂っていた。
いま思えば、完全黒だ。セックスのセの字も知らないJCに、ラブホでセックスしているなんかという事実を突きつけられたら、娘がどう思うのか。『あのひと』は考えたこともないのだろう。
『あのひと』は言った。
「おお、誕生日、おめでとう」
「忘れてたくせによく言うよ」
「忘れるわけないだろう。パパは、晴子のパパなんだよ」
「そーゆー都合のいいときだけ父親面するのまじ迷惑なんだけど。やめてくれない?」
「……そうか」
そうやっていかにも自分が被害者ぶるのがいけすかないのよ。くそ親父。実際は加害者のくせして。
智樹と『あのひと』の話をすることはある。早速誕生日の件を打ち明けると、当時小学生の弟は思いのほかクールに、
「でも、母さんはそんな父さんを選んだんだから。母さんは依存してんじゃないかなあ。頼られることに。夫婦のことは夫婦にしか分からないよ晴ちゃん。案外、母さんも、本心では離婚したいって思っていても、いざしてみると抜け殻みたくなるかもしんないよー。スタンフォード大学の監獄実験だっけ? 大学生に看守役と受刑者役をロールプレイングさせたらとんでもない結果になったっていう実験。――おれが思うに、父さんは、暴君役を担うことで憂さ晴らしをしているし、ひょっとしたら母さんは、そんな父さんに服従することに、生きる意味を見出しているのかもしれない」
「だとしたら。そんな歪んだ関係、おかしくない? わたしたちが指摘してやんないと――」
「晴ちゃんがSとMの意味を知るにはまだ――幼すぎるかもね」
母に似た切れ長の目を細めてそんなふうに言うのだから、一瞬わたしは本気で智樹に魅了されそうになる。――わたしは。
可愛いとは言われるけれど、でも、父親由来のこのくりくこまなこがいやで。いやでいやでたまらない。智樹からも、「晴ちゃんのお目目はどんぐりみたいで可愛い」とは言われるけれど。
それにしても、二歳年下で、ずっとずっと子どもだったはずの智樹が大層な大人になったものだ。まだお尻の青いお子様のくせして。身長なんか、わたしよりも高いんだ。生意気な。
話を戻すと、つまり二年前から『あのひと』は浮気しており、どうやらママはそれに気づいている様子で、我慢していた。まあママが我慢するのなんていつものことなんだけど。ほんとにね。
こーいう両親のもとで育つことがどういうインパクトを与えるのか。ちょっとママも真剣に考えたほうがいいと思う。日本てただでさえ超少子高齢化が進んでいるから、わたしたち世代が大人になったとき、結婚して子どもを産んだほうがいいってのにね。労働力人口を確保するためにね。
中学三年に進級すると、流石に高校進学のことを考えざるを得なくなる。わたしは、看護師になりたいと思っていて――いやドラマの影響だとか言われたらそれまでなんだけど。ヘリコプター乗り回す医者とかガチ格好いいじゃん? 憧れるよあーいう世界。
高校卒業したら看護学校に進学して将来はイケメンドクターと結婚。うっわ。幸せ過ぎるんだけどその展開。長身のイケメンに頭ぽんぽんとかされたいー!
「……晴ちゃんは贅沢だね。あんなにイケメンの弟がいるのに」
学校で進路の話を打ち明けると香帆(かほ)は呆れたように言う。「智樹くんまじ顔面偏差値高いじゃん。あんな弟いたらわたし気絶するよ」
「えーどこがー。目ぇこーんな細いじゃん。蛇顔っていうの? 綾野剛か星野源とか流行ってるけどねーあの系統」
おにぎりをかじりながら香帆は言う。「智樹くん見たさで女子教室覗きに来るの知らないの? すっごい人気なんだよー。むしろ自慢しなって」
まだ、四月のことだった。香帆の言葉を実感するのはそれから、校門や教室外で女の子から手紙を渡されたり、智樹の写真をくださいと言われたこと。えええLINEのIDとか渡すんじゃないの? いまどき手紙? 無論写真は断った。
なーんて思っていたら智樹はアッサリ打ち明けた。「手紙にはLINEのIDと、連絡先が書いてあるよ」
「あらあらぁ……智樹ったら隅に置けないわねえ」
『あのひと』が不在の、金曜日の、平和な夕食の場でのことだった。母は、智樹の人気ぶりに顔を綻ばせる。一方、わたしは、
「でも、智樹。おつき合いする相手は慎重に考えたほうがいいよ。変な女引っかかるとかまじ止めて。あと、わたしの学年の女とつき合うのだけは止めて。まじめんどくさいから」
「えーおれ年上好みなんだけど」
「あんった中一のくせして生意気な……」怒るというより、呆れた。
昔っから智樹は、こうなのだ。精神年齢が高い。だから、同じ年の女の子だと相性が合わない。そういえば、彼の初恋は、保育園の担任のみどり先生だった。……ふつー、同じクラスの女子でしょそこは!
母は、基本的に、積極的には会話には加わらず、わたしたち二人の会話をにこにこと見守っている、あたたかいひとだった。
例えば、智樹に、『相手を選びなよ』と伝えはするけど、『『あのひと』とお母さんみたいにならないように』とは言わなかった。言えば、母を傷つけることになるから。
でも、その日の夜、わたしは廊下で立ち聞きしてしまった。遅く帰ってきた『あのひと』が、風呂に入るタイミングで、洗面所で、母が、話しかけているのを。
「ねえあなた。智樹ったらすごいのよ。女の子に出待ちされたり、手紙を渡されたり……晴子経由で渡されることもあるのよ。ほんっとモテモテで……どうなるのかしら。うふふ。楽しみだわ……あの子わたしに似て綺麗な顔をしているから」
「おまえは、馬鹿か」
「……え?」
「変な女に引っかかるのを阻むのがおまえの役割だろ。馬鹿か。だいたい、智樹は、確かにおまえに似ている。だが、おれは、結婚して以来、おまえのことを一度たりとも、綺麗だとは思ったことは、ない。身の程知らずが。分を弁えろ」
それから間もなく、シャワーの音が響いた。母が出てくる気配があったので、わたしは慌てて自分の部屋に戻った。けれど、台所から音が聞こえた。なにか、ぱりんと割れる音が。
翌朝母は普通の顔をしていたけど、しっかり者に見えて、案外抜けるところの多い母は、割れ物の処理が適当だった。目的のものはすぐ見つかった。ごみ箱の横に、袋に入れられていた。わたしは、なかを覗いた。
これは、確か、二子玉川に行ったときに買った、耐熱性の、茶色いガラスのコップだった。取っ手の部分が残っていたから分かった。カップが変わった台形のかたちをしており、その愛くるしいフォルムを母は気に入っていた。
何気ない風を装い、わたしは母に聞いた。「お母さん、これ割れちゃったの?」
「ああ……それ。うん。残念だよね。昨日落としちゃって……」
わたしは、それ以上の言及を避けた。――『あのひと』は、母の、大切にしているものを打ち砕いたのだ。
白いビニール袋のなかで無惨に散らばるガラスの破片を見て、わたしは、決意した。
この先どんなことが起ころうとも、わたしは、絶対に、母の味方でいよう、と。
*
その能天気ぶりが、憎らしい。――あんなにも苦しめておいて。
忘れもしない、わたしの十三歳の誕生日。中学に進級して初めての誕生日だった。『あのひと』は、遅くに帰ってきた。別にそれは不自然ではなかったんだけど。わたしは部屋でスマホをいじっていた。すると、リビングから『あのひと』たちの会話が聞こえてきた。
「今日、晴子の誕生日だったのよ。メールしたでしょう?」
「いや、忙しくて見てねえよ。おまえ、仕事をなんだと思っているんだ。メールなんか見る暇あるわけねえだろ」
「それでも、言い方ってものが――」
いつもするように、母は口を噤んだ。あーあ。お母さん、言いたいことがあるんなら言えばいいのに。我慢してばっかいると禿げるよ。代わりに言ってやろうかと思ったけど、止めた。せっかくの誕生日を、台無しになんかしたくなかった。
でもわたしは、トイレに行くときに、廊下で『あのひと』とすれ違い、――『あのひと』が帰宅したばかりなのにも関わらず、やけにさっぱりした顔をしていたのを見た。いつもなら油ギッシュな顔をしているのに、シャワーでも浴びたかのような、清潔感が漂っていた。
いま思えば、完全黒だ。セックスのセの字も知らないJCに、ラブホでセックスしているなんかという事実を突きつけられたら、娘がどう思うのか。『あのひと』は考えたこともないのだろう。
『あのひと』は言った。
「おお、誕生日、おめでとう」
「忘れてたくせによく言うよ」
「忘れるわけないだろう。パパは、晴子のパパなんだよ」
「そーゆー都合のいいときだけ父親面するのまじ迷惑なんだけど。やめてくれない?」
「……そうか」
そうやっていかにも自分が被害者ぶるのがいけすかないのよ。くそ親父。実際は加害者のくせして。
智樹と『あのひと』の話をすることはある。早速誕生日の件を打ち明けると、当時小学生の弟は思いのほかクールに、
「でも、母さんはそんな父さんを選んだんだから。母さんは依存してんじゃないかなあ。頼られることに。夫婦のことは夫婦にしか分からないよ晴ちゃん。案外、母さんも、本心では離婚したいって思っていても、いざしてみると抜け殻みたくなるかもしんないよー。スタンフォード大学の監獄実験だっけ? 大学生に看守役と受刑者役をロールプレイングさせたらとんでもない結果になったっていう実験。――おれが思うに、父さんは、暴君役を担うことで憂さ晴らしをしているし、ひょっとしたら母さんは、そんな父さんに服従することに、生きる意味を見出しているのかもしれない」
「だとしたら。そんな歪んだ関係、おかしくない? わたしたちが指摘してやんないと――」
「晴ちゃんがSとMの意味を知るにはまだ――幼すぎるかもね」
母に似た切れ長の目を細めてそんなふうに言うのだから、一瞬わたしは本気で智樹に魅了されそうになる。――わたしは。
可愛いとは言われるけれど、でも、父親由来のこのくりくこまなこがいやで。いやでいやでたまらない。智樹からも、「晴ちゃんのお目目はどんぐりみたいで可愛い」とは言われるけれど。
それにしても、二歳年下で、ずっとずっと子どもだったはずの智樹が大層な大人になったものだ。まだお尻の青いお子様のくせして。身長なんか、わたしよりも高いんだ。生意気な。
話を戻すと、つまり二年前から『あのひと』は浮気しており、どうやらママはそれに気づいている様子で、我慢していた。まあママが我慢するのなんていつものことなんだけど。ほんとにね。
こーいう両親のもとで育つことがどういうインパクトを与えるのか。ちょっとママも真剣に考えたほうがいいと思う。日本てただでさえ超少子高齢化が進んでいるから、わたしたち世代が大人になったとき、結婚して子どもを産んだほうがいいってのにね。労働力人口を確保するためにね。
中学三年に進級すると、流石に高校進学のことを考えざるを得なくなる。わたしは、看護師になりたいと思っていて――いやドラマの影響だとか言われたらそれまでなんだけど。ヘリコプター乗り回す医者とかガチ格好いいじゃん? 憧れるよあーいう世界。
高校卒業したら看護学校に進学して将来はイケメンドクターと結婚。うっわ。幸せ過ぎるんだけどその展開。長身のイケメンに頭ぽんぽんとかされたいー!
「……晴ちゃんは贅沢だね。あんなにイケメンの弟がいるのに」
学校で進路の話を打ち明けると香帆(かほ)は呆れたように言う。「智樹くんまじ顔面偏差値高いじゃん。あんな弟いたらわたし気絶するよ」
「えーどこがー。目ぇこーんな細いじゃん。蛇顔っていうの? 綾野剛か星野源とか流行ってるけどねーあの系統」
おにぎりをかじりながら香帆は言う。「智樹くん見たさで女子教室覗きに来るの知らないの? すっごい人気なんだよー。むしろ自慢しなって」
まだ、四月のことだった。香帆の言葉を実感するのはそれから、校門や教室外で女の子から手紙を渡されたり、智樹の写真をくださいと言われたこと。えええLINEのIDとか渡すんじゃないの? いまどき手紙? 無論写真は断った。
なーんて思っていたら智樹はアッサリ打ち明けた。「手紙にはLINEのIDと、連絡先が書いてあるよ」
「あらあらぁ……智樹ったら隅に置けないわねえ」
『あのひと』が不在の、金曜日の、平和な夕食の場でのことだった。母は、智樹の人気ぶりに顔を綻ばせる。一方、わたしは、
「でも、智樹。おつき合いする相手は慎重に考えたほうがいいよ。変な女引っかかるとかまじ止めて。あと、わたしの学年の女とつき合うのだけは止めて。まじめんどくさいから」
「えーおれ年上好みなんだけど」
「あんった中一のくせして生意気な……」怒るというより、呆れた。
昔っから智樹は、こうなのだ。精神年齢が高い。だから、同じ年の女の子だと相性が合わない。そういえば、彼の初恋は、保育園の担任のみどり先生だった。……ふつー、同じクラスの女子でしょそこは!
母は、基本的に、積極的には会話には加わらず、わたしたち二人の会話をにこにこと見守っている、あたたかいひとだった。
例えば、智樹に、『相手を選びなよ』と伝えはするけど、『『あのひと』とお母さんみたいにならないように』とは言わなかった。言えば、母を傷つけることになるから。
でも、その日の夜、わたしは廊下で立ち聞きしてしまった。遅く帰ってきた『あのひと』が、風呂に入るタイミングで、洗面所で、母が、話しかけているのを。
「ねえあなた。智樹ったらすごいのよ。女の子に出待ちされたり、手紙を渡されたり……晴子経由で渡されることもあるのよ。ほんっとモテモテで……どうなるのかしら。うふふ。楽しみだわ……あの子わたしに似て綺麗な顔をしているから」
「おまえは、馬鹿か」
「……え?」
「変な女に引っかかるのを阻むのがおまえの役割だろ。馬鹿か。だいたい、智樹は、確かにおまえに似ている。だが、おれは、結婚して以来、おまえのことを一度たりとも、綺麗だとは思ったことは、ない。身の程知らずが。分を弁えろ」
それから間もなく、シャワーの音が響いた。母が出てくる気配があったので、わたしは慌てて自分の部屋に戻った。けれど、台所から音が聞こえた。なにか、ぱりんと割れる音が。
翌朝母は普通の顔をしていたけど、しっかり者に見えて、案外抜けるところの多い母は、割れ物の処理が適当だった。目的のものはすぐ見つかった。ごみ箱の横に、袋に入れられていた。わたしは、なかを覗いた。
これは、確か、二子玉川に行ったときに買った、耐熱性の、茶色いガラスのコップだった。取っ手の部分が残っていたから分かった。カップが変わった台形のかたちをしており、その愛くるしいフォルムを母は気に入っていた。
何気ない風を装い、わたしは母に聞いた。「お母さん、これ割れちゃったの?」
「ああ……それ。うん。残念だよね。昨日落としちゃって……」
わたしは、それ以上の言及を避けた。――『あのひと』は、母の、大切にしているものを打ち砕いたのだ。
白いビニール袋のなかで無惨に散らばるガラスの破片を見て、わたしは、決意した。
この先どんなことが起ころうとも、わたしは、絶対に、母の味方でいよう、と。
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