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 鉄製の葡萄のつたのデザインの屋根飾りに色を塗る。とても細かい細工だ。親方が作った。最近ではこんな高級なものの注文はめったに入らない。グランが葡萄の粒を塗り、アントンが葉を緑に塗る。
「こないだ、女を買ったんだよ、久々に」
「……へえ、そうですか」
 アントンは飲む打つ買うは全部やる。確かに鍛冶屋の給料では大変かもしれない。
「前に贔屓にしてた子がいたからさ。でもあっちはすっかり忘れてやがったね。かなりがっかりしたぜ。そりゃ、長いことご無沙汰だったけどさ」
「別な女だったのかも」
 アントンは笑って「そうだったかも」と言った。
「お前は女買わないの?恋人がいるの?」
「…うーん……」
 買わないし恋人でもない。でも抱く相手はいる。話したくはない。
「……相手がキスはダメって言うのって何ですかね」
「ははは!そりゃ簡単」
 アントンが手を叩いて言った。
「娼婦のよくやるやつさ。恋人に操を立ててんだ。キスは恋人にしか許さないってね」



 ああ。そう。



 エマがやって来た。傾いてきた日差しがすっかり夏になって、エマを照らす。この時期はみんな薄着なので、エマはあまり男娼に見えない。
「暑くってさ。立ちんぼがつらいよ。最近では暑すぎてエスと二人で窓の中にいるんだ。たまに二人一緒に買われる。おかげで知りたくもないのにエスの黒子の位置までわかっちゃった」
 エマの髪もずいぶん伸びて、無造作に一つに束ねている。後れ毛が色っぽい。
 食事が終わると、エマは今日は膝の上に乗って首に腕を回してきた。恋人みたいに。
「しよ?」
 こつんとひたいを合わせてくる。体を抱き寄せた。
「キスは?」
「ダメ」
「なんで?」
「ふふ……なんでも。キス以外なら何でもしてあげる……」
 華奢な体。さらさらした髪に指を埋める。
「ふーん……」
 そのまま、エマを捕まえたまま無理矢理キスする。こんな細身の少年なんてどうとでもできる。
「ん!んー!」
 エマがかなり抵抗する。背中をこぶしで叩かれる。肩に爪を立てられる。首をそらそうとする。でも離さない。だんだん静かになる。抵抗しなくなったところで離してやると、エマは泣きべそをかいていた。
「……だめだって言ってるじゃん!どうして……」
「エマ、キスもできないような男に抱かれようとすんなよ。俺は客じゃないんだよ。お前を金で買ってる奴らと同じ扱いすんな。俺は男娼のお前なんか抱きたくないんだよ」
「そんな……」
 見る間に大きな目が潤んで雫がこぼれる。涙がぽろぽろと頬を伝う。エマが手の甲でそれを拭う。華奢な肩が震えている。
「……ひどいよグラン…俺の気も知らないで……」
 エマは椅子に乗っていた自分の服を掴むと、グランの着古しの、家に来ると部屋着にしているシャツ一枚のまま部屋を出て行った。
 もう来ないだろうな。
 だって腹が立つだろ。俺はエマを特別に思ってるのに、あっちはその他大勢だと思ってる。特別な人にやることをやってくるから勘違いしてしまう。毎回夢から覚めた後が苦しい。もしキスしてもいい恋人がいるんなら、そっちに抱いて貰ってくれ。
 そうじゃないか?エマ。お前のお客じゃないんだよ。そんなのと一緒にするなよ。そんなものになるくらいならもう会わないほうがましだ。俺にもプライドがあるんだよ。

 グランはワインをコップに注いだ。いくら飲んでも酔う気がしなかった。








 その翌週はやはりエマは来なかった。これはこれで気楽だなと思った。でもそのうち、アパルトマンの前に人影があったり、風でドアが鳴ったりすると目を留めてしまう自分に気がついた。馬鹿だな。もともと野良猫だ。しかも他に飼い主がいる。来なくなったらそれまでだろ……。自分で追い払ったんだから。
 ふうとため息をつく。単調な毎日が本当につまらなくなった。エマが来ていた頃は良きにつけ悪しきにつけ感情が動いたが、今はまるで海の底にいるみたいだ。
 アントンが兵隊に志願した。親方と三人で飲みに行くことになった。
「お前が兵隊なんてね」
 親方が肩を落として言った。アントンはもう八年近く親方についていたので、かなり寂しそうだった。
「戦争が終わったら戻ってきますから」
 戦争がまもなく始まるだろうというのはみんな言っていた。バルカン半島の方ではオーストリアがもう戦争を始めていて、ドイツが何かしたらこの国も参戦するだろうと言われていた。
「生きて帰ってきてくれるんだろうね?」
「そのつもりです」
 親方はうんうんと頷きながら目尻に涙を浮かべた。アントンは明日、ロレーヌの方の実家に帰って入隊まで家族と過ごすことになる。
 三人は言葉少なに飲んで、別れた。アントンはまた街に行こうとしていたので、どこに行くのか聞くと、例のアントンのことをすっかり忘れていた娼婦のところだと言った。
「最後になるかも知れないだろ?」
 金で買う愛もあるのか。アントンはにっこり笑って手を振って、売春街に消えて行った。



 フランスもついに開戦したという知らせが街中に流れた日、急にエマがやって来た。いつもの通り家に帰り、一階のじいさんに声を掛けて、何をしようかなと思いながら階段を上ったら、エマが部屋の前に座り込んでいた。
「……エマ?」
 エマはひたいに汗をびっしょりかいて、紙のように白い顔をしていた。どう見ても尋常ではない。
「……手、見せて」
「まず部屋に入れよ。具合悪いんだろ?」
 エマの白くて細い手を引いて部屋に入ると、エマはすぐに椅子に腰を下ろした。立っているのが辛いみたいだ。
「何か飲むか?」
「…水」
 明かりの下で見るとますます痩せている。目の下に青いくまが出ていて、唇も赤みがない。水もほんの少し口に入れたが、すぐに飲むのをやめた。
「辛そうだな。横になりな」
「いいよ……俺まだあんたに怒ってんだから」
 俺もまだ傷ついてる。でもエマの顔を見ると嬉しいとまだ思ってしまった。
「じゃ、何で来た?もう来ないと思った」
「手」
 エマが手を突き出す。白い細い指の手だ。手のひらを乗せてやるとまたしつこいくらいに見つめる。
「何で手を見たがるんだ?」
「……」
 エマは手のひらを眺め終わると、テーブルに突っ伏した。顔色が本当に悪い。グランはエマを抱えるように抱き上げてベッドに運んだ。エマも今度は抵抗しなかった。
「どうした?風邪?」
「ううん、違う。なんでもない」
「なんでもないって感じじゃないな」
「なんでそんなにグランは質問ばっかりするの?」
「聞かなきゃ言わないからだよ。聞いても言わないけどな、お前は」
 エマの額に手を置く。熱はないようだ。汗がひたいから流れ落ちる。エマがその手に手を重ねる。冷たい手。
「弱ってるとうちに来るんだな」
「……悪いと思ってる……」
「いや、いいよ。スープくらい食うか?すごい痩せたな」
「もうちょっとしたらでいい?」
 いいよと言うと、エマはグランの手を掴んだまま気絶するみたいに眠ってしまった。
 なんだろうな。こうして頼られると手を振り払うことができない。都合よく使われているなと頭の隅で思っても、どこかでそれすら喜んで受け入れてしまう。結局のところ、俺は彼の虜なんだ。思い知らされる。
 小一時間ほどしてから、エマがふっと目を開けた。少し顔色が良くなっている。
「何か飲むか?」
「いや、いらない…グランは?ずっとここにいたの?」
「……何か飲んだ方がいいし、食べた方がいい。立てる?ここで食べる?」
 エマは頭を抱えながらゆっくり立ち上がってテーブルに付き、切り分けたパンを少しとスープを食べた。唇に少し赤みが差してきた。
「ここに来るとシャワー浴びたくなる……」
「使っていい」
 水の音を聞きながらタオルを出してやっていると、いつもエマの部屋着にしていた服をエマが持ったままだと気がついた。仕方がないから普段着ているシャツを渡す。
「そうだった。借りっぱなしだった」
 エマがすぽっと頭から被る。くすんだグリーンのシャツがよく映える。また少し元気になった感じがする。
「ふふ。こっちの方がグランのにおいがする」
「貸さねーぞ」
 エマは笑ってベッドに倒れ込んだ。
「早く寝ろよ」
「グランは?」
 グランはベッドに背を向けた椅子に逆向きに座り、少し首を傾げた。
「まだ寝ないから。気にしないで寝な」
 エマはうつ伏せに寝転んで目を上げた。
「寝るまで一緒にいて」
 エマの顔を見る。まだ顔色は悪いが悪戯っ子のような顔をしている。かわいいなと思う。白い手が伸びて、グランの服の裾を掴む。そういうことをするから。
「お前の恋人は何してんの?」
 エマが裾を引くのを止めた。
「いるんだろ?なんでお前は困ったり辛くなったときにうちに来んの?お前の恋人は助けてくれねえの?」
 エマは手を引っ込めて、ぷいと窓の方に顔を向けてしまった。しばらくして、寝たかなと思った頃、エマがぽつりと言った。
「…だって、男娼がさ……恋人だなんて、嫌だろ」
 鼻声だった。寄って前髪に触れると、髪も頬もシーツもぐっしょりと濡れていた。エマは声を殺して泣いていた。
「お前、それで我慢してんのか。かわいいやつだな…」
 髪をくしゃくしゃと撫でて隣に潜り込んだ。
「ごめんな。無理にキスして」
「……うっ……え…」
 鳴咽するエマの背中をさすってやると、そのうちエマがしゃくり上げながら寝息を立て始めた。好きなんだな、恋人が。どんな人なんだろう。男娼だから会いに行けないとなれば、やっぱり客の一人なんだろうか。男なのか女なのか。
 いいなあ。
 心臓の下のあたりがじくじくと疼く。その人はエマの唇にキスして、エマの体を抱いて、あの甘い声を聞くんだろう。それがどんなに俺にとって貴重なのか想像もしないで。
 やっぱり苦しい。エマがいると世界に色がつく。全てが息を吹き返す。でもその反面、痛みや苦しみも勢いよく襲いかかってくる。他の人を好きになれたら。世界を彩ってくれる別な人が現れたらどんなにか楽だろうに。
 浅い眠りとごちゃごちゃした夢から覚めると、明け方だった。まだやっと東の空が薄桃色になってきたところで、鳥の声が聞こえた。隣のエマはすやすやと眠っている。少しは体の具合も良くなるといい。
 エマの、黎明の光を受けてオレンジ色に輝く髪に触れる。エマがこちら向きに寝返りを打つ。久々に間近で見るエマの顔。痩せた。夏だというのに抜けるように白い。長い睫毛。見とれていると、エマのまぶたが震え、ゆっくりと色の違う瞳が現れた。ブルーとヘーゼル。
「まだ寝てな」
「うん」
 エマがニコッと笑った。そしてグランの腕に抱きつくように手を絡めると、またうとうとと眠り出した。




 
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