君のかけら fragment

黒遠

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 エンマの母親、みちるさんが亡くなったのは、みちるさんが四十三歳で、エンマが十九歳の時だった。

 だからエンマは四十三歳になった時、俺が死んでしまったら、という話をしてきた。俺はそんな話聞きたくないと言った。でも彼は母親のことがあるから、いつどうなるかわからない、どうしても聞いておいてほしい、と言った。エンマがこんな風に言い出したら聞かないから、聞くことにはした。なんとなく嫌な予感がした。

「この家はくおんにもらってほしい。二人の家だから。ソーマも息子だと思っているから、俺のものは二人で分けて」

 じゃあ、俺もそうすると言ったら、くおんは全部ソーマでいい、と言われた。そんなわけあるか。俺が先に死ぬことだってあるだろう。でもエンマは、俺は稼げるからさ、別に何もいらない。ただ指輪はもらうかもしれない、と言った。

 エンマはちゃんと顧問弁護士に相談して、遺言書も作った。写しを見せてもらった。別にこんなもの、と思った。その時は。縁起でもない。でもエンマはこういうことはちゃんとしないと、と言った。

 くおんには血のつながったソーマがいる。でも俺はだれとも戸籍上はつながってないから、俺が死んだらすごく面倒なことになる。絶対に作っておいた方がいい。それから、ちゃんと約束しよう。どっちが先に死んでしまっても、ソーマを一人にはしないって。母親はいきなり死んでしまった。でも母は全部ちゃんとしておいてくれた。あんな風でないと残された方が困っただろうなって思う。だから俺もちゃんとしておきたいんだ。くおん、俺だってお前だっていつ死ぬかわからない。心の準備はしておいて。

 それから一年。

 準備期間が短すぎるだろ。準備できてませんけど。

 約束通り、カナエが何よりもまず俺に電話してくれた。
 でも電話の調子で、もうだめそうだな、というのはなんとなくわかった。ものすごく声が震えていた。それでもとりあえず、会社を飛び出して病院に行った。
 病院にはカナエもいた。病室の横のベンチで頭を抱えていて、その足元で作業服の男がカナエに向かって土下座していた。横目に見ながら病室に飛び込んだけど、やはりというか、すべての機器がエンマの体から取り外されて、看護師さんが一人で体の見えるところをガーゼで拭いているだけだった。行ってしまった。

 経過を聞きたくて病室を出ると、カナエが先ほどから変わらない姿勢で肩を震わせていた。作業服でヘルメットの男はまだ床に頭を擦りつけている。

「申し訳ございません! 申し訳ございません!」

 違うだろ。と思った。俺だよ。俺に土下座しろ。俺の、俺のエンマだったんだ。

「あんたがやったのか?」

 男がばっと顔を上げた。そしてぐうっと変な音を出してまた突っ伏した。こいつだ。掴みかかろうとした時、カナエが後ろから俺を羽交い締めにした。

「まっ! 待ってくれ先輩! こらえてくれ…その人も俺たちの仲間なんだよ……」

 カナエはガタガタ震えていた。

「ここで……ここで暴れたら……摘み出されちまうよ……先輩…」

 ソーマを一人にしないで。

 エンマとの約束が頭を過ぎった。ふっと力が抜けた。

「大野さん! この人……謝るんなら、この人に謝ってくれ……この人が、エンマの、一番大事な……い、一番…近くにいた人だ」
「くーっうっう……すみません! すみません!」

 男は俺に向かって米搗きバッタみたいに頭を下げた。熊みたいな男がぐしゃぐしゃに泣いている。

 もういい。病室に戻ると、看護師さんが居心地悪そうに「ご家族の方ですか? お支度をしていいですか」と言った。お支度?

「お体を綺麗にする処置を……」

 なんとなく、いじられる前にソーマに会わせたいと思った。

「まだ会わせたい人がいるので、もう少し待ってもらえますか」
「あの……申し訳ないんですが、二時間くらいでお体が……固まってしまうので……」

 二時間。松井度のキャンパスのソーマは間に合うだろう。それでいいですと言うと、看護師さんは後ほど、と言って出て行った。

 エンマのほおに触れた。まだ温かかった。でもこちらの体温を吸い取るような、不思議な感じがした。
 紙のように白い。閉じられたまぶた。ただ色を失って眠っているだけのように見える。シーツの中から左手を出してみた。こちらも体温を少しずつなくしていく。エンマの命のなごりが少しずつ消えていく。指先がもう冷たかった。
 俺のと同じ指輪。指輪はもらうかも知れない、とエンマは言った。どうしようかな。どうすればいい、エンマ。俺に持っていてほしいか?

 俺はさ。お前にずっと持っていてほしい。俺と同じものを身につけていてほしい。その方がいつも繋がっている感じがするだろ。それでいいか?

 返事はない。手を両手で挟んで温めてみる。ぬくもりは戻らない。行ってしまったんだな。

 ソーマが部屋に入ってきた。間に合ったな。間に合ってないか。ソーマはしばらくエンマの顔を眺めた後、黙って部屋を出て行った。誰も間に合わなかった。一人で行かせてしまったな。せめて息を引き取る時は一緒にいたかった。

 くおんより先に死にたい。と言われていた。なんで、と聞いた。俺こそお前より先に死にたい。残されるなんて絶対やだね。

「だって、俺は他に葬式あげてくれる人いないだろ。それにさ」

 好きな人が死ぬのを見たくないだろ。エンマはそう言った。そうだな。その通りだ。好きな人が死ぬのなんて見たくなかったよ。だからお前は誰も待たなかったのかな。死んでいくところを見せたくなかったのか。

 でも俺はお前に言いたいことがたくさんあった。もっと一緒にいられると思ってたからさ。言ってなかったことが山ほどあった。いつか言おうと思ってたことが。

 どうしたらいい? いつ言えばいいんだよ。困るだろ。お前の親父のことも俺はまだ言ってない。俺はさ、お前とよぼよぼのじじいになってさ、二人でいることすら忘れちまうくらい一緒にいるつもりだったんだよ。俺にとっては地続きの未来だったのにな。そんなに難しい話じゃないと思ってた。

 失礼します、とさっきの看護師さんが入ってきた。仕方ないから部屋を出る。カナエが泣きながら社葬にしたいと言った。葬式のことは「カナエに任せて」とエンマから言われていた。

「好きにしていい」

 それがエンマの意思だから。

 カナエはぐすぐすと鼻を鳴らしながら、葬儀社に電話してあれこれ手配を始めた。感情的なのにやることはやる。これができるからエンマはカナエに任せろと言ったのだろう。

「エンマは火葬までエンマの家で安置でいいですか? エンマも家に帰りたいと思う……」

 頷く。これはこれで寂しい。結婚できてたら俺が喪主だったよな。もしもの話はするだけ無駄ってエンマに言ったのは俺だけど。

 二時間ほどで今度は搬出になる。霊柩車でなく、普通のバンタイプの寝台車だった。カナエは事務所に寄ってから来るというので、俺とソーマで家に帰った。エンマのいないエンマの家。

 どこに遺体を置くか、という話になって、普通なら仏間か故人の部屋だと言われた。でも俺は俺とソーマ以外の人間に、もうエンマが触れることのないエンマのものを触られたくなくて、俺の部屋に入れてもらった。

 白いシーツに包まれて横たわるエンマの体は完全にただのモノだった。蝋人形みたい。冷気を感じるくらい冷たい。社葬にする場合、まず先に家族葬をすると言うことで、俺たちとカナエの一家で火葬までやることになった。火葬は明後日。社葬の日程はまた坊さんの都合で決める。

 こんなことに詳しくさせんなよなあ。俺は自分のじじばばの葬式もろくに覚えてないのにさ。

 葬式は全部お前がらみだよ。お前のお袋さんと。あの時はばたばただったよな。お前は全然泣かなかった。でもわかったよ。わかるよ。涙なんて出ない。出る人もいるんだろうけど、もう何年も泣いてないもんで、泣き方が今さらわからない。

 あの時おまえ、葬式が終わってから泣いたな。な? 一人じゃなかっただろ。そこは感心してほしいね。

 お前が泣くのを見たのは何回あったかな。お前は結構泣いた。俺が泣かせたってのもあったけど。受験でもう会わないって言われた時。自分で言ったくせに泣くから。あれはかわいかったな。次が葬式の時。そして一回別れた時。

 俺、振られるプロだったのにあれはやられた。一番派手に豪快に振られた。あん時もほんときれいだったよ。あればっかりは本当に落ち込んだ。

 あとは仲直りした時か。仲直りって言うのかな? まあ少なくとも俺はずっと仲直りしたかった。別れてる間もお前のことしか考えてなかった。おかしいよな。別れたら忘れろっての。お前がその間女の子と付き合ってたって聞いて、あーこいつは前に進んでたんだなって思ったよ。未練タラタラなのは俺だけかって。

 でも好きだったんだ。あんなひどいことをお前にしてしまって、どうにかして許してほしいってずっと思ってた。許してくれたんだっけ? 覚えてないな。力づくでなんとかしてしまった気がする。ぶん殴られたよな。

 後にも先にも、そんなのはあれっきり。俺の悪いとこをがーっと言われた。でも最高に嬉しかった。お前が本心をちゃんと口に出すことなんてめったになかったからさ。もう二度とバカなことはしないって思ったね。

 なあ。好きだよ。
 
 





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