うつくしきこと

黒遠

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 それから久治はしばしば禁足の森を訪れた。

 山に慣れた彼にとっては、何度か通えばいかに獣道が多かろうとも迷うことはない。家の手伝いを終え、自由に過ごせる時間になれば、山菜でも摘んでくると言って出るのは簡単だった。実際、森までの行き来にきのこや山菜はたんとあったので、帰る頃にはそれらを土産にすることができた。

 炎は久治が来るのをとても喜んでいるようだった。さすがに毎日通うわけにはいかないが、帰る頃になると「次はいくつ寝たらいい?」と聞いてくるようになった。今まで余程よほど寂しかったのだろう。

「今日は駒を持ってきたよ。弟たちの使い古しだが」

 久治が古い駒を炎に渡した。炎はおもちゃで遊んだ記憶がほとんど無く、こんなものでも目を輝かせて喜ぶ。その代わり、読み書きができるので久治は炎から読み書きを習った。

「俺に読み書きができるようになったら、親父たちは驚くだろうな」
「そうなのか?」
「そうだよ。読み書きできるのは都にもそうはいない。それこそ、司祭や貴族くらいじゃないか。お前は身分が高いのかも知れないな」

 どこぞの位の高い人の隠し子とか、そういうことで閉じ込められているのかも知れない。本当なら自分など近寄れないような。久治はそっとその美しい横顔を見た。白い細い指が、絵巻物の文字をなぞる。

「でもここに来るまでは、他の兄弟と親と暮らしていたと思うよ。ある日宮司様が来て、われをここに連れて来たのだ。巫子になるべき子どもだと」

 宮司様か。宮司の姿を見るのは年に一度の神社の祭りの時だけだ。いつも黒装束で、顔の印象がない。まもなく今年の祭りの季節が来るが、その時に宮司もやってくるだろう。

 春と夏のあいだ、稲穂が伸びようという頃、稲妻を呼ぶための祭りが行われる。その時は炎も外に出られるのだろうか? でもこれまでの祭で炎を見たことはなかった。宮司の方も、正月にも来ているらしいが、その時は神社の中にしかいないので姿を見ることはない。

「せをはやみ……いわにせかるるたきがはの、われてもすゑにあはむとぞ思ふ。読める?」
「うん。でも意味がわからない」
「せは浅瀬のこと。浅瀬の流れが速くて、岩に堰き止められる滝川の水が、分かれてもまたいつか同じ一つの流れになりますように、といううただよ」
「どうして一つの流れになったらいいのだろう? 川の水だろう?」
「われにもわからぬ。こういうものなんだ」

 次を開こうとして、はらりと炎の膝から巻物が滑り落ちる。あっと二人で伸ばした手が触れる。ひんやりとした白い手。思いがけず、炎が久治の手をそのまま取った。

「おまえの手は熱いな」

 久治はどきりとした。

「巻物が濡れる」

 拾って炎に渡す。季節は夏になろうとしている。

「帰らなければ。次はいつ晴れる?」
「しばらくは晴れが続く」
「では明後日」

 これも習慣になった。炎は不思議なほど天気を当てることができる。なぜと聞くと、いつのころからか不思議とただわかるようになったのだという。こころに空気が入り込んでくる、と炎は言った。雨の日は外で会えないので、晴れの日に待ち合わせる。やはりなんらかの神がかりなのだろうか。

 自分からは遠い人なのだと思うと、久治はなぜか胸が痛んだ。獣道は久治が通るので、少しだけ他の道より踏み分けられてきている。そろそろ道を変えなければ。誰かが見つけると困る。

 ──俺だけが知っている美しい人。

 ふと気がつくと、いつもいつも炎のことを考えている。

「松太郎はそろそろだれか嫁を貰わねば。松が片付かないと久治も片付けられん」

 夕餉を囲んでいると、父が急に言った。兄の話をすることはままあったが、久治のことに触れたのは初めてだった。

「久治も数えで十七だろう。遅すぎるくらいだ。松が嫁を取ったら、久はどうするか考えなければならん。養子に出す歳でもないし……」
「里に奉公にでも出しますか?」
「つい松をゆっくりさせてしまったな……」

 うちは豊かな村にあっても、生活に困りこそしないものの、次男を分家させるほどの財力はない。三男となる弟は幼いうちに死んだが、四男の末次はまだ十になったばかり。次男の久治はどうでも家を出るしかない。里に奉公に出られればましなほうで、どこも行き先がなければ一生家の中で嫁も取れず畑も持てず、兄夫婦の手伝いをして終わる。そういう者を幾人いくたりも見てきた。

「体格はいいから、どこぞで使ってもらえればなあ」
「庄屋さんに話してみましょうかね」

 そんな歳になったのだなと思う。幼なじみたちもぽつぽつと身を固めたり、どこかの下男に入ったりし始めた。嫁を取ると言っても、歳が合う女を当てがわれるといった調子で、好きな女と添わせてもらえるわけではない。

 炎のことがちらと頭を掠めた。なぜかはわからなかった。里に出たら会えなくなる。なるべくそばにいたいと思った。



 稲妻を呼ぶ今年の祭りの時期になった。まだ稲穂は若く、花も咲いていない。普段は誰もいない神社の境内が村人たちで賑わっている。

 久治は幼なじみたちと見に来て、里から来た出店を眺めた。そっと見回して炎の姿を探したが見当たらない。宮司が正装し水の神と雷の神に祈る。炎も時期がきたらこんなことをするのだろうか。

 ふと、炎に会いたくなった。今日は炎にも役目があるのではないかと思ったから約束はしていない。幼なじみたちに帰ると言い、いつもの神社の下の山道から、入り組んだ獣道を伝って禁足地の森に入った。いつもは無音なのに、今日は水の音が聞こえる。誰かがあの泉で何かしている。誰が? 炎しかいない。

「炎?」

 泉に近づくと、普段よりますます青白い顔の炎がはっと顔を上げた。泉に浸かって水を浴びていたらしく、細身の白い体が水面に映っている。やけにその姿が目に焼き付いた。平らな胸元。その時初めて久治は炎が男であることを確信した。

「久治……」
「どうした? 顔色がよくない」
「なんでもない。今日来るとは思わなかった」

 ぷいと顔を背けて近くにあった着物を羽織った炎を見て、久治は気に障ったかと尋ねた。

「そうではない。祭りの日は……このところ嫌なことがあって」

 いつも二人で並んで座る、横倒しの木に腰をかけた炎は震えていた。久治は炎の青ざめた手に触れた。とても冷たかった。温めてやりたくて、その手を両手で包んだ。

「何があった? おまえは巫子としてやることがあるのではないのか?」
「……話せないことがある。寒い……」

 炎がそっと体を寄せた。久治の肩から腕にかけて、炎の冷えた体が沿う。濡れた髪が喉元に触れる。遠目からはわからなかったが、炎の体に点々と赤いあざが鮮やかについている。

「それは? あざか?」
「見ないで」

 着物を強く掻き合わせ、炎は俯いている。久治はそっとその細い肩を抱いた。肩も冷えている。炎がぽつりと言った。

「お前はあたたかいな」
「お前は冷たい」
「しばらくこうしていてもいいか?」
「いいとも」

 彼はずっと眠っているように目を閉じてじっとしていた。ゆっくりと体は温まり、やがて唇に薄紅色が戻ってきた。

「ありがとう、久治。今日お前が来てくれて良かった。でも今日は人も多いから、もう祭りの日は来なくていい……」
「お前は祭りの日にこそ嫌なことがあるんだろう? なら俺もここに来て気を紛らわそう。お前のそばにいて勇気づけよう」

 炎がゆっくりと顔を上げた。こんなに間近で顔をよくよく見たのは初めてだった。大きな目、不思議な色の左の瞳。まだ青ざめた頬、透き通るような唇。こんな美しいものは女子おなごにもいない。久治は改めて炎に見惚れた。

「お前にこそ見られたくないのだ」

 炎はそう言って細い指で久治の日焼けした張りのあるほおに触れた。家に帰ってからも、触れられた場所から指の感触が消えなかった。





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