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急転直下
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「……ないわ……」
綾小路舞鶴は、その事実を受け入れるしかなかった。スクッと立ち上がり、部屋の中を手当たり次第に探し始めた。十分以上経ったであろう。粗方、思いつく場所を探した。だが、結局それは見つからなかった。腕を組んだり、頬に手を当て暫し考える。窓の外は、五月の快晴。俗に言う、五月晴れの日曜日の事であった。
「ねぇ。藤乃ちゃん」
まず最初に声をかけられたのは、リビングでぼんやりとファッション雑誌を見ていた愛川藤乃だった。ソファ越しとはいえ、顔を覗き込まれるのは想定外だったので多少どぎまぎする。この先輩は時折、難解なところがある。しかも普段は、その波打つ前髪の向こうに見える瞳は穏やかだ。それでもここぞという時に強い意志と、光を持つのも知っていた。そして今、自分を見つめる瞳はまさにその力を讃えているの。藤乃は思わず、背筋を正す。
「な、なんです? 綾小路先輩」
「私のあの本、見なかったかしら?」
「あ、あの本、ですか?」
素っ頓狂な声を挙げる藤乃に、事細かに説明する。それを聞いて、藤乃は首を振った。その反応を見て、軽く溜息をつくと。
「そう、ありがとう」
軽く一言置いて、行ってしまう。残された藤乃はポカンとその後ろ姿を眺めていた。次、その次……。寮生一人一人に同じ事を尋ねて歩いたが、誰もその行方は知らない。無駄かもしれないという諦めと、諦められない気持ちが胸の中を渦巻く。最後の頼みの綱、リーズの部屋をノックする。
「リーズちゃん、いる? 開けてもいいかしら?」
「どうぞ」
その答えに、そっとドアを開ける。リーズは窓辺でのんびりと外を見ながら紅茶を飲んでいた。察しの良い彼女はいつもと舞鶴の様子が違う事に、すぐに気付いた。
「どうした?」
部屋の中に歩き出す前に、声をかけてくる。
「リーズちゃん」
舞鶴はツカツカとリーズの側に近寄る。今まで何人に聞いたであろう、同じ言葉を繰り返す。黙って聞いていたが、ふっと笑うとリーズは口を開いた。
「お前が、そんな事をするなんて。珍しい」
「私だって、自分が信じられないわ。でも実際、ないのよ」
「最後に見たのはいつ?」
その問いに、暫らく考え込む。
「……多分、一昨日、試験準備期間に入った日の夕方に見たわ」
「それはお前の部屋で?」
「もちろんよ。あれは、最近は誰にも貸してないもの」
「……ふぅん……」
リーズは前髪を軽く掻き上げると、立ち上がった。
「じゃあ、その足跡はお前の部屋からというワケ」
「多分……」
「じゃ、行こう」
「行く?」
「お前の部屋に」
「もう探したのよ……」
「別な視点で見てみれば、あるかもしれない」
それももっともだと思ったのか。舞鶴は黙って踵を返し、自分の部屋へと向かう。リーズは黙って後を歩いてくる。さて、それから二人で暫く探してみた。やはり、見つからない。
「ない……」
そうリーズが呟くのを聞いて、舞鶴は落胆の溜め息をついた。
「もう……だめかしら……」
「もう、諦める?」
その問いに頭を振る。諦めるのだけは、嫌だった。
「だって、あれは、」
その時、開いたドアから聞こえてきた声が二人の間に入って来た。
「舞鶴ちゃん~、探し物してんの?」
その声に、舞鶴は酷く反応する。恐る恐る振り向くと、そこにはいつもの友人の笑顔。普段なら、真っ先に彼女に聞くはずだ。ただ今回ばかりはそうはいかなかった。しかし、狭い寮内の事である。自然、渚の耳に入るのは予測できない事ではなかった。
「み、ぎわちゃん」
「なに失くしてもたん? うちも手伝っちゃら!」
「それが、この部屋にはなくて」
溜め息をつきながら、リーズが答える。舞鶴は何故か、うつむいてしまっていた。
「サイズどえくらい? 大きい? ちっちゃい?」
「それが……」
リーズが説明しようとした時。舞鶴が珍しく大きな声をあげる。
「りっ……リーズちゃん! 渚ちゃん、ごめんなさい、もう大丈夫だから、探さなくていいわ!」
「舞鶴ちゃん……?」
普段大声を出さない舞鶴が出した声に、渚は目を丸くし、リーズも先程と打って変わった舞鶴の態度に不振気な表情を見せている。
「あ、りがとう、ホントに、もういいから」
二人の背中を押すように、ドアの近くへ。そこに、藤乃がやってきた。
「綾小路先輩、ありました? ピーターラビットの原作?」
彼女の言葉に、舞鶴の目が大きく見開かれて、二人を押していた手がそっと下がる。唇を噛み締めると、再びうつむいてしまった。
「ピーターラビットの……? 舞鶴ちゃん。もしかして」
うつむいたままの、舞鶴の細い肩に渚が手をかけようとした途端。弾かれたように、舞鶴は一歩下がった。今にも、泣き出しそうな薄紅の瞳。真一文字に結ばれた赤い唇は、軽く震えていた。
「舞、鶴ちゃん」
「……渚ちゃん。ごめんなさい。でも……。でも、私だって、失くすつもりなんて全然なかったのよ……」
何かと必死で戦うような、そんな顔は初めて見たかもしれない。リーズも、藤乃も舞鶴の顔から眼が離せなかった。過密なスケジュールにも、決していつも弱音は吐かなかったのに。試合で負けても、どこかいつも吹っ切れたような顔で笑っていた。
「次に、繋げればいいわ」
いつも、そんな風に前向きだった。けれど今、目の前にいる舞鶴は別人のようだ。いつもよりも、小さく見える。それはまるで幼子のような友人を、渚がそっと手を伸ばした。舞鶴はそれを見て、ぎゅっと目を瞑って躰を硬くする。渚の手は、そっと頭の上に置かれた。ポンポンと、軽く二回。舞鶴はそっと目を開けて、渚を見た。そこには、いつもの友達の笑顔。
「舞鶴ちゃんが、本を大切にするの。うちゃ、ちゃんと解っちゃーるよ」
その言葉に、リーズと藤乃は目を合わせた。とりあえず、今は二人を見守るしかない。
「失くしてまうよな、その辺りに置きっぱなしにせーへん事も。一冊一冊、これでもかって程、大切に大切に扱うんも。みんなみーんな、うちゃしっかり見てたよ」
舞鶴は目を見開いたまま、瞬きもせず渚を見つめていた。迎える、渚の大きな双眸は。限りなく優しい光に満ちている。
「だから、きっと、今、舞鶴ちゃんのトコにピーターラビットが居らんけど。きっと戻ってくら。舞鶴ちゃんのトコに。あれだけ、大切にしてくれちゃーる人が、恋しくなってくるで、絶対に。そやさけ」
そこで、渚は舞鶴の頭の上から、手を下ろす。そして、その手は。そっと、舞鶴の陶器肌の頬に当てられた。
「もうそんな自分を責めやんといて。舞鶴ちゃんが一番悲しい事ぐらい、理解っちゃーるよ」
その一言に。舞鶴の薄紅の瞳から耐えていたものが溢れ出す。ボロボロと、大きな音を立てそうなくらいの、涙の粒。何もいわなくても、理解る。失くした本人が、一番つらくて、一番悔しくて、一番恋しい事くらい。
無言で泣き続ける舞鶴の頭を、渚はそっと抱き寄せた。渚の小さな肩に顔を埋めて泣き続ける少女。強いだけの、人じゃなかったんだ。藤乃は、そう思った。人それぞれながら、誰しも弱い一面がある。リーズと藤乃は、言葉もかけられずただ立ち尽くす。今は、渚が一番何かをしてやれる。だから、そっとその場を去ろうと後に下がった時。
「あれれ、何、どうしたの?」
普段聞き慣れているが、この寮では聞く事のない声。藤乃は背中に当たった人物の顔を、見上げる。
「飛鳥先輩」
その藤乃の声にリーズも振り向き、その手に持っている物を凝視した。
「あ、すか。それは」
「ああ、」
指差された自分の手を見て、飛鳥はサラリと続けた。
「まっちゃん、ごめんね急に借りちゃって。面白かったよ」
その声に、涙を拭きながら、渚の肩から顔を上げ飛鳥の方を見る。目の前に差し出されていたのは。今の今まで探していた、一冊の絵本。
『Peter Rabbit』
舞鶴の目が見開かれ、渚が抗議の声を挙げようと口を開けより先に、響き渡る怒涛の声。
「飛鳥っ! 貴様はー!」
真っ先に落ちるリーズの雷に一瞬の間を置いて。舞鶴が声を挙げて笑い始める。その顔を見て、渚と藤乃もつられて。そして、痩せた肩で息をしていたリーズも。舞鶴の表情を見て取ると、珍しく、声を挙げて笑いはじめる。訳の判らない飛鳥だけが、きょとんとしていた。
「……あーそう言う訳だったんだ。ごめんね、あーちゃん」
ダイニングでリーズの入れたお茶を飲みながら、飛鳥が納得する。自分に向かって深々と頭を下げる友人に、舞鶴は頭を振って柔らかく微笑んだ。
「いいのよ、飛鳥ちゃん。こうやって、私の手元に戻ってきたんだから。気にしないで頂戴」
「全くもう、毎回人騒がせな奴。飛鳥、人から物を借りる時は……」
途中でリーズの声を苦笑しながら遮る。
「うん、本当に悪かったよ。僕もつい、借りるよって言ったつもりになっててさ」
あの日。地理の範囲確認と、舞鶴とお互いの予想を検討する為に女子寮に飛鳥は立ち寄った。舞鶴の部屋の、棚から出ていたピーターラビットに興味を示して手にして読んでいた。そして声をかけられ、違う事をはじめたので、持っていた本を自分の荷物と一緒についついそのまま持ち帰ってしまった。次の日に、その事を言おうと思いつつもすっかり忘れてしまったのだ。
とにかく、無事に丸く収まった場を見届けた藤乃はホッとしながら、お茶を飲む。今日の先輩達は、自分が思っていたのとほんの少し、違った。顔が照れくさいような、眩しいような、そんな気持ちで見えた。一歩だけ、側に行けた気がしたのも事実。付き合っている年月は短い。一年にも満たないけれど、生活を共にしている所為であろうか。藤乃にとっても、先輩達は家族と同じように感じられた。
だから先輩達にも、そんな風にこの場所を思ってもらえたらなぁ……。嬉しそうに談笑する先輩達を見ながら、そんな思いを胸に抱いて、お茶の時間はゆっくり過ぎていった。五月の、ある一日の存在感。
後日。舞鶴が飛鳥から貰った包みの中には、うさぎのぬいぐるみが入っていたと言う。そのぬいぐるみは、今でも舞鶴の枕元にちょこんと鎮座している。
綾小路舞鶴は、その事実を受け入れるしかなかった。スクッと立ち上がり、部屋の中を手当たり次第に探し始めた。十分以上経ったであろう。粗方、思いつく場所を探した。だが、結局それは見つからなかった。腕を組んだり、頬に手を当て暫し考える。窓の外は、五月の快晴。俗に言う、五月晴れの日曜日の事であった。
「ねぇ。藤乃ちゃん」
まず最初に声をかけられたのは、リビングでぼんやりとファッション雑誌を見ていた愛川藤乃だった。ソファ越しとはいえ、顔を覗き込まれるのは想定外だったので多少どぎまぎする。この先輩は時折、難解なところがある。しかも普段は、その波打つ前髪の向こうに見える瞳は穏やかだ。それでもここぞという時に強い意志と、光を持つのも知っていた。そして今、自分を見つめる瞳はまさにその力を讃えているの。藤乃は思わず、背筋を正す。
「な、なんです? 綾小路先輩」
「私のあの本、見なかったかしら?」
「あ、あの本、ですか?」
素っ頓狂な声を挙げる藤乃に、事細かに説明する。それを聞いて、藤乃は首を振った。その反応を見て、軽く溜息をつくと。
「そう、ありがとう」
軽く一言置いて、行ってしまう。残された藤乃はポカンとその後ろ姿を眺めていた。次、その次……。寮生一人一人に同じ事を尋ねて歩いたが、誰もその行方は知らない。無駄かもしれないという諦めと、諦められない気持ちが胸の中を渦巻く。最後の頼みの綱、リーズの部屋をノックする。
「リーズちゃん、いる? 開けてもいいかしら?」
「どうぞ」
その答えに、そっとドアを開ける。リーズは窓辺でのんびりと外を見ながら紅茶を飲んでいた。察しの良い彼女はいつもと舞鶴の様子が違う事に、すぐに気付いた。
「どうした?」
部屋の中に歩き出す前に、声をかけてくる。
「リーズちゃん」
舞鶴はツカツカとリーズの側に近寄る。今まで何人に聞いたであろう、同じ言葉を繰り返す。黙って聞いていたが、ふっと笑うとリーズは口を開いた。
「お前が、そんな事をするなんて。珍しい」
「私だって、自分が信じられないわ。でも実際、ないのよ」
「最後に見たのはいつ?」
その問いに、暫らく考え込む。
「……多分、一昨日、試験準備期間に入った日の夕方に見たわ」
「それはお前の部屋で?」
「もちろんよ。あれは、最近は誰にも貸してないもの」
「……ふぅん……」
リーズは前髪を軽く掻き上げると、立ち上がった。
「じゃあ、その足跡はお前の部屋からというワケ」
「多分……」
「じゃ、行こう」
「行く?」
「お前の部屋に」
「もう探したのよ……」
「別な視点で見てみれば、あるかもしれない」
それももっともだと思ったのか。舞鶴は黙って踵を返し、自分の部屋へと向かう。リーズは黙って後を歩いてくる。さて、それから二人で暫く探してみた。やはり、見つからない。
「ない……」
そうリーズが呟くのを聞いて、舞鶴は落胆の溜め息をついた。
「もう……だめかしら……」
「もう、諦める?」
その問いに頭を振る。諦めるのだけは、嫌だった。
「だって、あれは、」
その時、開いたドアから聞こえてきた声が二人の間に入って来た。
「舞鶴ちゃん~、探し物してんの?」
その声に、舞鶴は酷く反応する。恐る恐る振り向くと、そこにはいつもの友人の笑顔。普段なら、真っ先に彼女に聞くはずだ。ただ今回ばかりはそうはいかなかった。しかし、狭い寮内の事である。自然、渚の耳に入るのは予測できない事ではなかった。
「み、ぎわちゃん」
「なに失くしてもたん? うちも手伝っちゃら!」
「それが、この部屋にはなくて」
溜め息をつきながら、リーズが答える。舞鶴は何故か、うつむいてしまっていた。
「サイズどえくらい? 大きい? ちっちゃい?」
「それが……」
リーズが説明しようとした時。舞鶴が珍しく大きな声をあげる。
「りっ……リーズちゃん! 渚ちゃん、ごめんなさい、もう大丈夫だから、探さなくていいわ!」
「舞鶴ちゃん……?」
普段大声を出さない舞鶴が出した声に、渚は目を丸くし、リーズも先程と打って変わった舞鶴の態度に不振気な表情を見せている。
「あ、りがとう、ホントに、もういいから」
二人の背中を押すように、ドアの近くへ。そこに、藤乃がやってきた。
「綾小路先輩、ありました? ピーターラビットの原作?」
彼女の言葉に、舞鶴の目が大きく見開かれて、二人を押していた手がそっと下がる。唇を噛み締めると、再びうつむいてしまった。
「ピーターラビットの……? 舞鶴ちゃん。もしかして」
うつむいたままの、舞鶴の細い肩に渚が手をかけようとした途端。弾かれたように、舞鶴は一歩下がった。今にも、泣き出しそうな薄紅の瞳。真一文字に結ばれた赤い唇は、軽く震えていた。
「舞、鶴ちゃん」
「……渚ちゃん。ごめんなさい。でも……。でも、私だって、失くすつもりなんて全然なかったのよ……」
何かと必死で戦うような、そんな顔は初めて見たかもしれない。リーズも、藤乃も舞鶴の顔から眼が離せなかった。過密なスケジュールにも、決していつも弱音は吐かなかったのに。試合で負けても、どこかいつも吹っ切れたような顔で笑っていた。
「次に、繋げればいいわ」
いつも、そんな風に前向きだった。けれど今、目の前にいる舞鶴は別人のようだ。いつもよりも、小さく見える。それはまるで幼子のような友人を、渚がそっと手を伸ばした。舞鶴はそれを見て、ぎゅっと目を瞑って躰を硬くする。渚の手は、そっと頭の上に置かれた。ポンポンと、軽く二回。舞鶴はそっと目を開けて、渚を見た。そこには、いつもの友達の笑顔。
「舞鶴ちゃんが、本を大切にするの。うちゃ、ちゃんと解っちゃーるよ」
その言葉に、リーズと藤乃は目を合わせた。とりあえず、今は二人を見守るしかない。
「失くしてまうよな、その辺りに置きっぱなしにせーへん事も。一冊一冊、これでもかって程、大切に大切に扱うんも。みんなみーんな、うちゃしっかり見てたよ」
舞鶴は目を見開いたまま、瞬きもせず渚を見つめていた。迎える、渚の大きな双眸は。限りなく優しい光に満ちている。
「だから、きっと、今、舞鶴ちゃんのトコにピーターラビットが居らんけど。きっと戻ってくら。舞鶴ちゃんのトコに。あれだけ、大切にしてくれちゃーる人が、恋しくなってくるで、絶対に。そやさけ」
そこで、渚は舞鶴の頭の上から、手を下ろす。そして、その手は。そっと、舞鶴の陶器肌の頬に当てられた。
「もうそんな自分を責めやんといて。舞鶴ちゃんが一番悲しい事ぐらい、理解っちゃーるよ」
その一言に。舞鶴の薄紅の瞳から耐えていたものが溢れ出す。ボロボロと、大きな音を立てそうなくらいの、涙の粒。何もいわなくても、理解る。失くした本人が、一番つらくて、一番悔しくて、一番恋しい事くらい。
無言で泣き続ける舞鶴の頭を、渚はそっと抱き寄せた。渚の小さな肩に顔を埋めて泣き続ける少女。強いだけの、人じゃなかったんだ。藤乃は、そう思った。人それぞれながら、誰しも弱い一面がある。リーズと藤乃は、言葉もかけられずただ立ち尽くす。今は、渚が一番何かをしてやれる。だから、そっとその場を去ろうと後に下がった時。
「あれれ、何、どうしたの?」
普段聞き慣れているが、この寮では聞く事のない声。藤乃は背中に当たった人物の顔を、見上げる。
「飛鳥先輩」
その藤乃の声にリーズも振り向き、その手に持っている物を凝視した。
「あ、すか。それは」
「ああ、」
指差された自分の手を見て、飛鳥はサラリと続けた。
「まっちゃん、ごめんね急に借りちゃって。面白かったよ」
その声に、涙を拭きながら、渚の肩から顔を上げ飛鳥の方を見る。目の前に差し出されていたのは。今の今まで探していた、一冊の絵本。
『Peter Rabbit』
舞鶴の目が見開かれ、渚が抗議の声を挙げようと口を開けより先に、響き渡る怒涛の声。
「飛鳥っ! 貴様はー!」
真っ先に落ちるリーズの雷に一瞬の間を置いて。舞鶴が声を挙げて笑い始める。その顔を見て、渚と藤乃もつられて。そして、痩せた肩で息をしていたリーズも。舞鶴の表情を見て取ると、珍しく、声を挙げて笑いはじめる。訳の判らない飛鳥だけが、きょとんとしていた。
「……あーそう言う訳だったんだ。ごめんね、あーちゃん」
ダイニングでリーズの入れたお茶を飲みながら、飛鳥が納得する。自分に向かって深々と頭を下げる友人に、舞鶴は頭を振って柔らかく微笑んだ。
「いいのよ、飛鳥ちゃん。こうやって、私の手元に戻ってきたんだから。気にしないで頂戴」
「全くもう、毎回人騒がせな奴。飛鳥、人から物を借りる時は……」
途中でリーズの声を苦笑しながら遮る。
「うん、本当に悪かったよ。僕もつい、借りるよって言ったつもりになっててさ」
あの日。地理の範囲確認と、舞鶴とお互いの予想を検討する為に女子寮に飛鳥は立ち寄った。舞鶴の部屋の、棚から出ていたピーターラビットに興味を示して手にして読んでいた。そして声をかけられ、違う事をはじめたので、持っていた本を自分の荷物と一緒についついそのまま持ち帰ってしまった。次の日に、その事を言おうと思いつつもすっかり忘れてしまったのだ。
とにかく、無事に丸く収まった場を見届けた藤乃はホッとしながら、お茶を飲む。今日の先輩達は、自分が思っていたのとほんの少し、違った。顔が照れくさいような、眩しいような、そんな気持ちで見えた。一歩だけ、側に行けた気がしたのも事実。付き合っている年月は短い。一年にも満たないけれど、生活を共にしている所為であろうか。藤乃にとっても、先輩達は家族と同じように感じられた。
だから先輩達にも、そんな風にこの場所を思ってもらえたらなぁ……。嬉しそうに談笑する先輩達を見ながら、そんな思いを胸に抱いて、お茶の時間はゆっくり過ぎていった。五月の、ある一日の存在感。
後日。舞鶴が飛鳥から貰った包みの中には、うさぎのぬいぐるみが入っていたと言う。そのぬいぐるみは、今でも舞鶴の枕元にちょこんと鎮座している。
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