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ブレックファースト2
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二世帯住宅であるオーギュスト家の風呂場は、とにかく広い。平均身長を超える嫡男のシャルルが足を延ばしてもなおスペースが余るのだから、広さは想像つくだろう。祖父が風呂好きで、常に最新のものに切り替えていくから広くて綺麗だ。祖母は花や洋風なものが好きだからか、それも取り入れた風雅な空間が広がっている。
風呂好きな祖父は、温泉も大好きだ。祖母を引き連れて「躰が自由に動くうちに!」と、温泉旅館を巡り歩いており、シャルルはほとんど一人暮らしと変わりがない。家はそこまで大きくもなく掃除もできる範囲内だが、花が好きな祖母のためにやや広い庭があった。
たびたび喧嘩もするが夫婦仲は円満で、とても素晴らしい事だと孫であるシャルルは「ちょっと台湾の温泉に入ってくる」とさらっと告げられても「いってらっしゃーい気をつけてねぇ」とにこやかに笑って見送るだけだ。仕事で忙しく帰って来られない事もままにあるキャリアウーマンの母と気弱なのにふらりとソロキャンプに行く癖を持つ父、お父さん同じくアウトドアが大好きな姉、シャルルの家は家族全員が揃う事は稀だ。
自分以外の家族がいない間は、寂しいとかそういう事を考える暇もない。どうやってこの家に恋人を連れ込もうかと、そんな事ばかりを考えているのだから。
コンロを使う音とニュースを伝えるアナウンサーの声。そして、度々それに混じった聞き覚えのあるハミング。その高い音と低い音が、幽かに覚醒した藤野紫の頭に届き、朝かと躰を起こす。辺りを見回せば、體の痛みと自室ではない部屋の装いに低く声を漏らした。
「お、紫たん起きた? おはよ」
紫が発した言葉にならない声に反応した青年が振り向く。カチューシャと眼鏡を装着済みのシャルルが明るく声をかけるも、未だに覚醒に至れない紫は、眼鏡のないぼやけた視界の中に声の主を収め、じっと見据えている。
「あ、眼鏡? だったらホラ、そのすぐ傍のローテーブルの上に置いてある。たぶん腕伸ばしたら届くから」
紫がゆっくりとした動作で右のローテーブルを見ると、確かに置かれているらしく黒い物体が見えた。眼鏡をかけ、再度辺りを見回す。ほぼ覚醒した頭で今の状況を確認すると、紫が寝ていた場所は少し硬めのソファであり、きっちりと布団がかけられ冷える事はなかったが、いかんせんソファである。通常とは違う就寝方法をしたために発生した、腰を中心とした下半身の鈍痛に紫は起き抜けでも美しい顔を歪ませた。
――そうだ、昨日から、シャルルの家にお邪魔していたのだった。
『家族がさぁ、練習で忙しい息子を置き去りに旅行へ出かけちゃってさぁ、僕ぼっちなんだよねぇ』
そう誘われたのを思い出す。次の日も練習があるならばそういった行為はないだろうとタカをくくり、紫は承諾した。明日の部活がなくなったと連絡が入ったのは、風呂から上がりニュースを眺めていた頃だった。スマートフォンが振動し、先輩からのメールの受信を知らせた。
無論、隣にいたシャルルにも。結局、それならばと、目に優しいはずの碧色をぎらつかせるシャルルに抵抗するも虚しく流され、快楽の海に突き落とされた紫は途中で意識を失い、今、目覚めたのだ。普段ならばとっくのとうに勉学に励んでいるであろう時間だった。
「チッ」
盛大に舌打ち一つ残して、立ち上がる紫は腰に響かぬよう、そろりと歩きシャルルの近くまで進んでいく。
「ちょっと」
「なあに、紫たん。ご飯はまだできないからシャワー浴びてきて大丈夫だよ? 昨日一応タオルで綺麗にしといたけど。あ、紫たんがいつも見てる番組はちゃんと録画してるから安心してね」
ぺらぺらと料理を進めつつも器用にしゃべるシャルルに紫はまた舌打ちをし、右手で彼の頭を掴み、ぐりんと無理やり自分の方へ向かせた。
「いっ! てえな、何すんのさー」
「アンタ馬鹿ぁ? アレほどやめろと言ったでしょう!」
アンタのせいでいつものストレッチやなんかが出来なかったどうしてくれるの! というか全身が痛い! などと浮かぶままにどんどん不平不満が投げつけられる、それが鳴り止まぬうちに、シャルルは一歩紫の方へ寄り、溜め息をついた。
仮にもたっぷり愛し合った次の日。それも今。ちょっとした日曜の旦那気分で機嫌良く朝食を作っている時に、ぶちぶちと不満を言われるのには、普段はへらりと笑いながら聞いているシャルルも耳を塞ぎたくなる。
「紫」
名前を読んだことで、真っ直ぐこちらを見る紫の首を無理やり引き寄せ、キスをする。おそらく腰に痛みが走ったのだろう、眉根を寄せた紫にシャルルは心のうちに謝った。唇を離され、突然のキスに呆然としている紫を横目に、朝食準備の作業を再開してシャルルは口を開く。
「トんじゃう寸前、あれだけ足開いてたんだからいいストレッチになったっしょ? それに眼鏡はー、まあ、ね。ぐちゃぐちゃにしちゃった躰も綺麗にして、寝癖防止におさげに編んでナイトキャップも被せてあげたし、布団もかけたし、朝はすぐ眼鏡かけられたじゃん?」
つぎつぎと言われる言葉に昨夜の情事を思い出し、自分のためを思いやってではあるが、意識のない状態で後処理だなんだとされたことを想像してしまい言葉をつまらせる紫にシャルルはまたシャワーを浴びるように促した。
「文句は後で聞いてあげるからね。ご飯あと十分くらいで炊けるから、それまでに出てきてよねー」
ご飯の話題に、紫のいつも以上に引っ込んだ腹がきゅるるると弱い音で鳴れば、あとで言い足りない文句を言ってやると決意をし、鞄から着替えを出し勝手知ったるオーギュスト家の風呂場へと向かう用意を調える。どのタオルを使っていいか、どこにあるか、そんなことはもう聞かずともわかっているのだ。紫は無言ですたすたと奥へ消えていった。
紫が風呂から上がると、炊けたご飯や味噌汁、焼き魚といった和食の匂いが部屋いっぱいに充満しているのを感じ、また腹が鳴った。テーブルの上に並べられた立派な朝食に感心しつつ、自分ができないことをやってのけるシャルルにちょっとした苛立ちを覚える。
「おー、ぴったりじゃん。早く座って飯食べよーよ、僕お腹空いた」
ニコッと笑うシャルルに、私もだと一言返す。自分の分の朝食の前に座ると、自分に見合った量のご飯がよそわれた茶碗を渡され、味噌汁が入った椀を置かれる。自分の分も同じように準備したあと、よっこらせと、紫の前に座ればまた微笑んでくる。朝と朝食と笑うシャルルに、紫は充足してほんの少し微笑んだ。
「んじゃ食べよっかぁ。いっただきまーす」
「いただきます」
あたたかい朝食は格別な味を持っているわけではなかったが、紫は美味しいと素直に思った。炊きたての米も赤だしの味噌汁も焼き魚も、全部食べ慣れた家の味とは違うのにとても美味い。二人で朝を迎え、向い合って朝食を食べるという行為がどこか夫婦のように感じられ、紫はまた笑みをこぼした。
「ねぇ、おいしい?」
「そうね」
「わーお素直だね。シャルルさん頑張ったかいわがあったわん」
「気色悪い口調はやめなさい」
「ひっで」
ふっくらとしたほかほかのご飯を口に入れ、おかずの卵焼きや焼き魚に箸を付ける。ズッと味噌汁をすすればその味が全身に染み渡るような気がした。シャルルといるとよく満たされた気分になるが、朝食を一緒に食べるという行為が、ここまで和やかで幸せな気分を成すと紫は思っていなかった。
満足気な様子でもくもくと自分の作った飯を食べるのを見て、シャルルも胸が満たされ、にこにこと紫を見つめていた。朝食と好きな相手が揃うことでこんなにも満たされることを、二人は初めて知った。
「――ねぇ紫たん。僕思ったんだけど、これって何か夫婦っぽくない?」
「どちらかといえば召使いね」
「なーに言ってんのさ、紫たんって意外と奉仕してくれるじゃん?」
「よく朝からそんな話題がしたがるわね。アンタが食事を作る様子は少しだけ、少しだけだけど、母さんに似ていると思ったわ。ただ黙って見ているだけの父に笑いかけながら、時に鼻歌を口ずさむ様子が」
盛大に顔を顰めて不快感を露にする紫に、シャルルは姦しく笑い声をもらす。まさか紫も夫婦だなんだと考えていたのかもしれないと思うと、嬉しくなっていた。ただ黙って見ているだけの父というのもさっきの紫のようでおかしい。ひーひーと笑うシャルルに、紫もまた同じことを考えていたのかとこそばゆい気持ちになった。
「ご飯おかわり、いる?」
「少し」
「お味噌汁は?」
「もらう」
シャルルは紫のその返事に立ち上がり薄桃色の茶碗を受け取って、炊飯器から米をよそう。同様に味噌汁も。紫はこういう時に母を見つめ待っている父の姿を思い出し、シャルルは逆にわざわざ立ち上がりやってくれる母の姿を思い出した。これはやはり、夫婦のようだと。
紫に茶碗を手渡すと思い出したかのようにテレビのリモコンを持ってきて、何やら操作をする。紫は我に返った。微睡みのようにふわふわと気持ちの良い時間を過ごしていて忘れていたが、今日のぬこを確認していないのだ。シャルルは再生ボタンを押す。
「あら……忘れてたわ。私としたことが」
「だね」
今日のぬこは、緑目の白猫が黒猫の躰にマッサージする映像だった。
「なんか僕らみたいじゃない?」
「セクハラで訴えるわよ」
せっかくぬこ二匹の戯れに癒されていたのに台無しされて、紫の朝に相応しくない暴言が飛ぶ。そして次は星座占いだ。
「これが終わった後でさっきの続きをするわよ、まだ言い足りないわ」
「まだあるの!?」
――今日の一位はうお座のあなた! おめでとう! 誰かに……。
「やったー、俺一位じゃん」
「そうね」
「今日なら紫たんにじゃんけん勝てんのかな」
――二位はさそり座のあなた! おだやかな一日! 周りの……。
「やっべこれワンツーフィニッシュじゃね」
「私が二位……ならラッキーアイテムで補正をすれば間違いなく私が勝つわ」
紫はどこか得意げにラッキーアイテムの逆十字のブレスレットを見ながら、シャルルの希望をへし折る。
「えー、僕もラッキーアイテム持とうかなー……聞いてなかったけど」
「常日頃から人事を尽くしている私に、たかが一度ラッキーアイテムを持ったくらいで勝てるわけがないでしょ。……今日のうお座のラッキーアイテムはミルワームね」
「無理無理、うちペット飼ってないし」
虫持ってろとか何の罰ゲームだよと、シャルルは笑いながらテレビを消した。ゆったりと流れていくように感じていた時間は、どうやら食べはじめてから一時間ほど経っていたらしい。
使い終わった自分の食器をシンクへと持っていき、水を張った盥に入れると、また紫の前へ座った。普段はあまり食べない紫が、おかわりまでして食事をしていることに、それを目の前で眺められることに、幾度も幸せを感じている自分に失笑するのだった。
「ごちそうさま。美味しかった」
紫が食器をシンクに持って行ったのを見て、洗い物をしようと立ち上がる。『美味しい』の一言でだるい片付けもやる気になってくる気がした。紫の頬が照れて幽かに赤らむのが可愛いくて愛しくてたまらなくて、首へと腕をまわして優しく引き寄せてキスをする。あわせるだけの軽いキスにわざとリップ音を出して離れると、シャルルはにんまりと笑いスポンジを手に取った。
「シャルル」
呟かれた自身の名前になんだと返して、皿と茶碗を洗っていく。米粒一つ残さず食べられた綺麗な茶碗を泡でこする。自分が作った飯を完食してもらったあとにする洗い物に楽しく機嫌が良くなってしまうとは。今までも食事は極力残さないように食べている。でも、もし母や祖母も同じ気持ちを味わっているとするならば、これからも残さずおいしく食べようと紫は思った。
「忘れてたわ!」
「え、なに突然」
「アンタが性懲りもなく図に乗ったせいでやるべきことが全て後手に回ってしまったことよ! どうしてくれるの!」
「またそこんとこに戻んの! 忘れててくれてよかったのにぃ、ていうか僕も忘れてたのに」
「毎日の努力の積み重ねが大事だと再三言ってるじゃ――」
「ていうかさあ……」
先程シャルルと小さく呟いたはどこへやら。紫は怒気をはらんだ声音で食ってかかると、寝起きに言えず、食事中にも言えなかった文句をつらつらと吐き出そうとする。常に人事を尽くすことをモットーとしている紫が、昨日のことで怒るのもわからないではないが、シャルルにはどうしても関係のないことに思えた。そもそもシャルルの家に二人っきり。この状況からして、イレギュラーなことなのだから。
帰ってからすることも。シャルルの家で夕食を食べることも。朝からシャワーを浴びることも。突然の先輩からの連絡により獣が檻から出され、熱いキスを交わすことも、互いのことしか考えられなくなり激しく求め合ったセックスも、そのまま意識を手放したことも。起きてから今までのことも。全部いつもと違うイレギュラーなことだ。それを今更。
「それにさ。紫たんも見たっしょ、今日の占い。僕が一位で紫たんが二位。おまけに紫たんは今日もちゃあんとラッキーアイテムで運気補正してるしぃ、これで災難があるとかないっしょ! 今日はぜーったい大丈夫だって! 一位のシャルル君が保証するよ☆」
そう言えばいつもならシャルルを小突く手も動かず、黙りこくって考えた末、納得したのか諦めたのか、紫も大きく息を吐いた。そうねと落ち着いたトーンでもらした紫の声は心地良い音だった。
初めて会った奉仕活動の時も、同じ高校に入って同じクラスになった時も、付き合う前までも、こんな声を聞く事はなかった。今でさえこんなにも優しい声は稀有で部活でも学校でもほとんど聞く事ができない。この声を聞く時のほとんどはシャルルに向けられるもので、それをわかっているから、愛おしくて誇らしい。
紫は昔から人に何を言われても自分の行動が揺らぐ事はなかった。だが、今こうしてシャルルによって言いくるめられても、あまり不快感を感じられない事が少し面白く感じてもいた。シャルルに変化させられる事を許す自分がいる事が。自分がこんな風に考えられるようになったのは紛れもなく、シャルルが大きく関わっている事を感じて心が暖められる。
「――紫たん、うちの家族帰ってくるの夜なんだけど、今日出かけたい? それとも家がいい?」
「たまには家の中でゆっくりしたいわ。どこぞの誰かさんのせいで躰のあちこちが痛むもの」
「それはマジごめんってぇ」
見つめ合って微笑みあって。洗い物が終わって冷えた手を紫の頬にそえて、少しの背伸び、紫は少しだけ腰を曲げて。ゆるりとしたペースで互いの唇を塞ぐ。じっくりと相手の味を確かめるように深くキスをすれば感じる同じ味に二人は幸福で満たされ思うのだ。ああ、幸せだ。キスが終わってもまた微笑みあった。
「朝飯の味噌汁の味がする」
「アンタも同じよ。しかも七味を入れるなんて……舌がピリピリする」
「ねぇ紫たん、今思ったんだけどさぁ、これもうブランチじゃない? もうお昼も過ぎてるし」
「…………」
「ていうかブランチって何語? どういう意味? まさか枝じゃないでしょ?」
「そんなわけないでしょ。ブランチは朝食を意味するbreakfastと昼食を意味するlunchとの合成語よ」
「なーるほど。さっすが紫たん、物知りだねえ」
「アンタが知らなさすぎるだけよ」
「ひっどいなー、僕だって別に勉強できないわけじゃないんだけど?」
「知ってるわ」
シャルルと紫は、いつものように他愛もない話をしながら、ゆうるりと二人の時間を過ごすのだ。毎日訪れる朝食の時間も、お互いがいるだけで、それだけで格別な時間になる。そんなささやかな幸せに喜びを感じながら。
風呂好きな祖父は、温泉も大好きだ。祖母を引き連れて「躰が自由に動くうちに!」と、温泉旅館を巡り歩いており、シャルルはほとんど一人暮らしと変わりがない。家はそこまで大きくもなく掃除もできる範囲内だが、花が好きな祖母のためにやや広い庭があった。
たびたび喧嘩もするが夫婦仲は円満で、とても素晴らしい事だと孫であるシャルルは「ちょっと台湾の温泉に入ってくる」とさらっと告げられても「いってらっしゃーい気をつけてねぇ」とにこやかに笑って見送るだけだ。仕事で忙しく帰って来られない事もままにあるキャリアウーマンの母と気弱なのにふらりとソロキャンプに行く癖を持つ父、お父さん同じくアウトドアが大好きな姉、シャルルの家は家族全員が揃う事は稀だ。
自分以外の家族がいない間は、寂しいとかそういう事を考える暇もない。どうやってこの家に恋人を連れ込もうかと、そんな事ばかりを考えているのだから。
コンロを使う音とニュースを伝えるアナウンサーの声。そして、度々それに混じった聞き覚えのあるハミング。その高い音と低い音が、幽かに覚醒した藤野紫の頭に届き、朝かと躰を起こす。辺りを見回せば、體の痛みと自室ではない部屋の装いに低く声を漏らした。
「お、紫たん起きた? おはよ」
紫が発した言葉にならない声に反応した青年が振り向く。カチューシャと眼鏡を装着済みのシャルルが明るく声をかけるも、未だに覚醒に至れない紫は、眼鏡のないぼやけた視界の中に声の主を収め、じっと見据えている。
「あ、眼鏡? だったらホラ、そのすぐ傍のローテーブルの上に置いてある。たぶん腕伸ばしたら届くから」
紫がゆっくりとした動作で右のローテーブルを見ると、確かに置かれているらしく黒い物体が見えた。眼鏡をかけ、再度辺りを見回す。ほぼ覚醒した頭で今の状況を確認すると、紫が寝ていた場所は少し硬めのソファであり、きっちりと布団がかけられ冷える事はなかったが、いかんせんソファである。通常とは違う就寝方法をしたために発生した、腰を中心とした下半身の鈍痛に紫は起き抜けでも美しい顔を歪ませた。
――そうだ、昨日から、シャルルの家にお邪魔していたのだった。
『家族がさぁ、練習で忙しい息子を置き去りに旅行へ出かけちゃってさぁ、僕ぼっちなんだよねぇ』
そう誘われたのを思い出す。次の日も練習があるならばそういった行為はないだろうとタカをくくり、紫は承諾した。明日の部活がなくなったと連絡が入ったのは、風呂から上がりニュースを眺めていた頃だった。スマートフォンが振動し、先輩からのメールの受信を知らせた。
無論、隣にいたシャルルにも。結局、それならばと、目に優しいはずの碧色をぎらつかせるシャルルに抵抗するも虚しく流され、快楽の海に突き落とされた紫は途中で意識を失い、今、目覚めたのだ。普段ならばとっくのとうに勉学に励んでいるであろう時間だった。
「チッ」
盛大に舌打ち一つ残して、立ち上がる紫は腰に響かぬよう、そろりと歩きシャルルの近くまで進んでいく。
「ちょっと」
「なあに、紫たん。ご飯はまだできないからシャワー浴びてきて大丈夫だよ? 昨日一応タオルで綺麗にしといたけど。あ、紫たんがいつも見てる番組はちゃんと録画してるから安心してね」
ぺらぺらと料理を進めつつも器用にしゃべるシャルルに紫はまた舌打ちをし、右手で彼の頭を掴み、ぐりんと無理やり自分の方へ向かせた。
「いっ! てえな、何すんのさー」
「アンタ馬鹿ぁ? アレほどやめろと言ったでしょう!」
アンタのせいでいつものストレッチやなんかが出来なかったどうしてくれるの! というか全身が痛い! などと浮かぶままにどんどん不平不満が投げつけられる、それが鳴り止まぬうちに、シャルルは一歩紫の方へ寄り、溜め息をついた。
仮にもたっぷり愛し合った次の日。それも今。ちょっとした日曜の旦那気分で機嫌良く朝食を作っている時に、ぶちぶちと不満を言われるのには、普段はへらりと笑いながら聞いているシャルルも耳を塞ぎたくなる。
「紫」
名前を読んだことで、真っ直ぐこちらを見る紫の首を無理やり引き寄せ、キスをする。おそらく腰に痛みが走ったのだろう、眉根を寄せた紫にシャルルは心のうちに謝った。唇を離され、突然のキスに呆然としている紫を横目に、朝食準備の作業を再開してシャルルは口を開く。
「トんじゃう寸前、あれだけ足開いてたんだからいいストレッチになったっしょ? それに眼鏡はー、まあ、ね。ぐちゃぐちゃにしちゃった躰も綺麗にして、寝癖防止におさげに編んでナイトキャップも被せてあげたし、布団もかけたし、朝はすぐ眼鏡かけられたじゃん?」
つぎつぎと言われる言葉に昨夜の情事を思い出し、自分のためを思いやってではあるが、意識のない状態で後処理だなんだとされたことを想像してしまい言葉をつまらせる紫にシャルルはまたシャワーを浴びるように促した。
「文句は後で聞いてあげるからね。ご飯あと十分くらいで炊けるから、それまでに出てきてよねー」
ご飯の話題に、紫のいつも以上に引っ込んだ腹がきゅるるると弱い音で鳴れば、あとで言い足りない文句を言ってやると決意をし、鞄から着替えを出し勝手知ったるオーギュスト家の風呂場へと向かう用意を調える。どのタオルを使っていいか、どこにあるか、そんなことはもう聞かずともわかっているのだ。紫は無言ですたすたと奥へ消えていった。
紫が風呂から上がると、炊けたご飯や味噌汁、焼き魚といった和食の匂いが部屋いっぱいに充満しているのを感じ、また腹が鳴った。テーブルの上に並べられた立派な朝食に感心しつつ、自分ができないことをやってのけるシャルルにちょっとした苛立ちを覚える。
「おー、ぴったりじゃん。早く座って飯食べよーよ、僕お腹空いた」
ニコッと笑うシャルルに、私もだと一言返す。自分の分の朝食の前に座ると、自分に見合った量のご飯がよそわれた茶碗を渡され、味噌汁が入った椀を置かれる。自分の分も同じように準備したあと、よっこらせと、紫の前に座ればまた微笑んでくる。朝と朝食と笑うシャルルに、紫は充足してほんの少し微笑んだ。
「んじゃ食べよっかぁ。いっただきまーす」
「いただきます」
あたたかい朝食は格別な味を持っているわけではなかったが、紫は美味しいと素直に思った。炊きたての米も赤だしの味噌汁も焼き魚も、全部食べ慣れた家の味とは違うのにとても美味い。二人で朝を迎え、向い合って朝食を食べるという行為がどこか夫婦のように感じられ、紫はまた笑みをこぼした。
「ねぇ、おいしい?」
「そうね」
「わーお素直だね。シャルルさん頑張ったかいわがあったわん」
「気色悪い口調はやめなさい」
「ひっで」
ふっくらとしたほかほかのご飯を口に入れ、おかずの卵焼きや焼き魚に箸を付ける。ズッと味噌汁をすすればその味が全身に染み渡るような気がした。シャルルといるとよく満たされた気分になるが、朝食を一緒に食べるという行為が、ここまで和やかで幸せな気分を成すと紫は思っていなかった。
満足気な様子でもくもくと自分の作った飯を食べるのを見て、シャルルも胸が満たされ、にこにこと紫を見つめていた。朝食と好きな相手が揃うことでこんなにも満たされることを、二人は初めて知った。
「――ねぇ紫たん。僕思ったんだけど、これって何か夫婦っぽくない?」
「どちらかといえば召使いね」
「なーに言ってんのさ、紫たんって意外と奉仕してくれるじゃん?」
「よく朝からそんな話題がしたがるわね。アンタが食事を作る様子は少しだけ、少しだけだけど、母さんに似ていると思ったわ。ただ黙って見ているだけの父に笑いかけながら、時に鼻歌を口ずさむ様子が」
盛大に顔を顰めて不快感を露にする紫に、シャルルは姦しく笑い声をもらす。まさか紫も夫婦だなんだと考えていたのかもしれないと思うと、嬉しくなっていた。ただ黙って見ているだけの父というのもさっきの紫のようでおかしい。ひーひーと笑うシャルルに、紫もまた同じことを考えていたのかとこそばゆい気持ちになった。
「ご飯おかわり、いる?」
「少し」
「お味噌汁は?」
「もらう」
シャルルは紫のその返事に立ち上がり薄桃色の茶碗を受け取って、炊飯器から米をよそう。同様に味噌汁も。紫はこういう時に母を見つめ待っている父の姿を思い出し、シャルルは逆にわざわざ立ち上がりやってくれる母の姿を思い出した。これはやはり、夫婦のようだと。
紫に茶碗を手渡すと思い出したかのようにテレビのリモコンを持ってきて、何やら操作をする。紫は我に返った。微睡みのようにふわふわと気持ちの良い時間を過ごしていて忘れていたが、今日のぬこを確認していないのだ。シャルルは再生ボタンを押す。
「あら……忘れてたわ。私としたことが」
「だね」
今日のぬこは、緑目の白猫が黒猫の躰にマッサージする映像だった。
「なんか僕らみたいじゃない?」
「セクハラで訴えるわよ」
せっかくぬこ二匹の戯れに癒されていたのに台無しされて、紫の朝に相応しくない暴言が飛ぶ。そして次は星座占いだ。
「これが終わった後でさっきの続きをするわよ、まだ言い足りないわ」
「まだあるの!?」
――今日の一位はうお座のあなた! おめでとう! 誰かに……。
「やったー、俺一位じゃん」
「そうね」
「今日なら紫たんにじゃんけん勝てんのかな」
――二位はさそり座のあなた! おだやかな一日! 周りの……。
「やっべこれワンツーフィニッシュじゃね」
「私が二位……ならラッキーアイテムで補正をすれば間違いなく私が勝つわ」
紫はどこか得意げにラッキーアイテムの逆十字のブレスレットを見ながら、シャルルの希望をへし折る。
「えー、僕もラッキーアイテム持とうかなー……聞いてなかったけど」
「常日頃から人事を尽くしている私に、たかが一度ラッキーアイテムを持ったくらいで勝てるわけがないでしょ。……今日のうお座のラッキーアイテムはミルワームね」
「無理無理、うちペット飼ってないし」
虫持ってろとか何の罰ゲームだよと、シャルルは笑いながらテレビを消した。ゆったりと流れていくように感じていた時間は、どうやら食べはじめてから一時間ほど経っていたらしい。
使い終わった自分の食器をシンクへと持っていき、水を張った盥に入れると、また紫の前へ座った。普段はあまり食べない紫が、おかわりまでして食事をしていることに、それを目の前で眺められることに、幾度も幸せを感じている自分に失笑するのだった。
「ごちそうさま。美味しかった」
紫が食器をシンクに持って行ったのを見て、洗い物をしようと立ち上がる。『美味しい』の一言でだるい片付けもやる気になってくる気がした。紫の頬が照れて幽かに赤らむのが可愛いくて愛しくてたまらなくて、首へと腕をまわして優しく引き寄せてキスをする。あわせるだけの軽いキスにわざとリップ音を出して離れると、シャルルはにんまりと笑いスポンジを手に取った。
「シャルル」
呟かれた自身の名前になんだと返して、皿と茶碗を洗っていく。米粒一つ残さず食べられた綺麗な茶碗を泡でこする。自分が作った飯を完食してもらったあとにする洗い物に楽しく機嫌が良くなってしまうとは。今までも食事は極力残さないように食べている。でも、もし母や祖母も同じ気持ちを味わっているとするならば、これからも残さずおいしく食べようと紫は思った。
「忘れてたわ!」
「え、なに突然」
「アンタが性懲りもなく図に乗ったせいでやるべきことが全て後手に回ってしまったことよ! どうしてくれるの!」
「またそこんとこに戻んの! 忘れててくれてよかったのにぃ、ていうか僕も忘れてたのに」
「毎日の努力の積み重ねが大事だと再三言ってるじゃ――」
「ていうかさあ……」
先程シャルルと小さく呟いたはどこへやら。紫は怒気をはらんだ声音で食ってかかると、寝起きに言えず、食事中にも言えなかった文句をつらつらと吐き出そうとする。常に人事を尽くすことをモットーとしている紫が、昨日のことで怒るのもわからないではないが、シャルルにはどうしても関係のないことに思えた。そもそもシャルルの家に二人っきり。この状況からして、イレギュラーなことなのだから。
帰ってからすることも。シャルルの家で夕食を食べることも。朝からシャワーを浴びることも。突然の先輩からの連絡により獣が檻から出され、熱いキスを交わすことも、互いのことしか考えられなくなり激しく求め合ったセックスも、そのまま意識を手放したことも。起きてから今までのことも。全部いつもと違うイレギュラーなことだ。それを今更。
「それにさ。紫たんも見たっしょ、今日の占い。僕が一位で紫たんが二位。おまけに紫たんは今日もちゃあんとラッキーアイテムで運気補正してるしぃ、これで災難があるとかないっしょ! 今日はぜーったい大丈夫だって! 一位のシャルル君が保証するよ☆」
そう言えばいつもならシャルルを小突く手も動かず、黙りこくって考えた末、納得したのか諦めたのか、紫も大きく息を吐いた。そうねと落ち着いたトーンでもらした紫の声は心地良い音だった。
初めて会った奉仕活動の時も、同じ高校に入って同じクラスになった時も、付き合う前までも、こんな声を聞く事はなかった。今でさえこんなにも優しい声は稀有で部活でも学校でもほとんど聞く事ができない。この声を聞く時のほとんどはシャルルに向けられるもので、それをわかっているから、愛おしくて誇らしい。
紫は昔から人に何を言われても自分の行動が揺らぐ事はなかった。だが、今こうしてシャルルによって言いくるめられても、あまり不快感を感じられない事が少し面白く感じてもいた。シャルルに変化させられる事を許す自分がいる事が。自分がこんな風に考えられるようになったのは紛れもなく、シャルルが大きく関わっている事を感じて心が暖められる。
「――紫たん、うちの家族帰ってくるの夜なんだけど、今日出かけたい? それとも家がいい?」
「たまには家の中でゆっくりしたいわ。どこぞの誰かさんのせいで躰のあちこちが痛むもの」
「それはマジごめんってぇ」
見つめ合って微笑みあって。洗い物が終わって冷えた手を紫の頬にそえて、少しの背伸び、紫は少しだけ腰を曲げて。ゆるりとしたペースで互いの唇を塞ぐ。じっくりと相手の味を確かめるように深くキスをすれば感じる同じ味に二人は幸福で満たされ思うのだ。ああ、幸せだ。キスが終わってもまた微笑みあった。
「朝飯の味噌汁の味がする」
「アンタも同じよ。しかも七味を入れるなんて……舌がピリピリする」
「ねぇ紫たん、今思ったんだけどさぁ、これもうブランチじゃない? もうお昼も過ぎてるし」
「…………」
「ていうかブランチって何語? どういう意味? まさか枝じゃないでしょ?」
「そんなわけないでしょ。ブランチは朝食を意味するbreakfastと昼食を意味するlunchとの合成語よ」
「なーるほど。さっすが紫たん、物知りだねえ」
「アンタが知らなさすぎるだけよ」
「ひっどいなー、僕だって別に勉強できないわけじゃないんだけど?」
「知ってるわ」
シャルルと紫は、いつものように他愛もない話をしながら、ゆうるりと二人の時間を過ごすのだ。毎日訪れる朝食の時間も、お互いがいるだけで、それだけで格別な時間になる。そんなささやかな幸せに喜びを感じながら。
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いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
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