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哀毀骨立
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夏休みに入るなり、藤野篝火は父方の親戚が所有する別荘で過ごす事になった。その別荘は遠方にあり、電車をいくつも乗り継いでやっと辿り着いた。
「学校が始まるまで帰ってこないで」
そうやって厄介払いされるのは初めてではないが、一人で行かされるのは初めてだった。だが休みに入るたびに何度か連れてこられたことはあり、一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいたので足取りは軽かった。
その日は、珍しく、蝉があまり鳴いていなかった。その別荘の近くで見知らぬ少女に出会った。ゆるやかな傾斜丘の上にある木に寄りかかっている。その手には、大きなスケッチブック。傍らには絵の具を散らかして、パレットにさまざまな色を落としていた。
彼女は後ろから蜘蛛のように近付いている篝火に気付かず、一心不乱に絵筆を動かしている。何となく好奇心が湧いて少女の後ろに立った。少女は相変わらず後ろを見ようともしない。まだずいぶんと小さな背中が、一際幼く見えた。そっと少女の手元を覗き込むと、そこには淡い淡い色彩が広がっていた。それは、見慣れない、象牙色の空だった。
「何だ、そりゃ」
思わず篝火は口に出した。だが少女はかけられた言葉に少し顔を上げただけで、視線はすぐスケッチブックへと戻る。
「おい、何なんだ、その空は」
「なにってなに」
少女がようやく口を開いた。その声はひどく温度を持たない声で、篝火は思わず眉を顰めた。
「何で空をそんな色で塗っているんだ」
「そらじゃない」
間髪入れず、少女は答えた。そしてゆっくりと篝火の方に振り返る。左右色違いの双眸の奥には、光がなかった。
「だって、わたしには、せかいがこんないろにみえる」
その言葉には、減らず口の篝火も二の句が継げなくなる。少女はそれだけを吐き捨てると、完全に顔を背けてしまう。よく見ればその系統の絵の具だけ異様に減っている事に、篝火は気付いた。
それから篝火は何度か少女に目撃した。
牛乳をとりにいく朝。
プールに行く昼。
バーベキューに行く夕方。
少女はやはり来る日も来る日も、同じ色だけを使って絵を描いていた。やがて陽が落ちれば真夏の暑さは鳴りを潜め、代わりに秋の香りを乗せた風が躰の隙間を通り過ぎる頃。まるまる一月の休みの終わりが近づいた時、少女の姿を一切見かけなくなった。
そして、篝火の別荘の近くにあるサナトリウムで療養していた幼い少女が息を引き取ったと聞いたのは、それから少し経ってからの事だった。身の回りの物を片づけて実家に帰る日、篝火はもう一度だけその場を訪れた。そこにはもう、あの少女も、あの奇妙な色合いをした空もない。
「……馬鹿が」
独り言ちながら、ハンカチの包みを木の下に置く。中身は、いくつかの色鮮やかな絵の具のチューブだった。
「その気になりゃ、もっと別の色も見えたかもしれねぇのによ」
どこか悲しそうに呟きながら、篝火は静かに空を仰いだ。
彼の前に青い空が広がって、白い羊雲が風に乗って流れていくのが見えた。
「学校が始まるまで帰ってこないで」
そうやって厄介払いされるのは初めてではないが、一人で行かされるのは初めてだった。だが休みに入るたびに何度か連れてこられたことはあり、一人で切符を買うことや道の訊き方について、それほど困らないだけの経験を積んでいたので足取りは軽かった。
その日は、珍しく、蝉があまり鳴いていなかった。その別荘の近くで見知らぬ少女に出会った。ゆるやかな傾斜丘の上にある木に寄りかかっている。その手には、大きなスケッチブック。傍らには絵の具を散らかして、パレットにさまざまな色を落としていた。
彼女は後ろから蜘蛛のように近付いている篝火に気付かず、一心不乱に絵筆を動かしている。何となく好奇心が湧いて少女の後ろに立った。少女は相変わらず後ろを見ようともしない。まだずいぶんと小さな背中が、一際幼く見えた。そっと少女の手元を覗き込むと、そこには淡い淡い色彩が広がっていた。それは、見慣れない、象牙色の空だった。
「何だ、そりゃ」
思わず篝火は口に出した。だが少女はかけられた言葉に少し顔を上げただけで、視線はすぐスケッチブックへと戻る。
「おい、何なんだ、その空は」
「なにってなに」
少女がようやく口を開いた。その声はひどく温度を持たない声で、篝火は思わず眉を顰めた。
「何で空をそんな色で塗っているんだ」
「そらじゃない」
間髪入れず、少女は答えた。そしてゆっくりと篝火の方に振り返る。左右色違いの双眸の奥には、光がなかった。
「だって、わたしには、せかいがこんないろにみえる」
その言葉には、減らず口の篝火も二の句が継げなくなる。少女はそれだけを吐き捨てると、完全に顔を背けてしまう。よく見ればその系統の絵の具だけ異様に減っている事に、篝火は気付いた。
それから篝火は何度か少女に目撃した。
牛乳をとりにいく朝。
プールに行く昼。
バーベキューに行く夕方。
少女はやはり来る日も来る日も、同じ色だけを使って絵を描いていた。やがて陽が落ちれば真夏の暑さは鳴りを潜め、代わりに秋の香りを乗せた風が躰の隙間を通り過ぎる頃。まるまる一月の休みの終わりが近づいた時、少女の姿を一切見かけなくなった。
そして、篝火の別荘の近くにあるサナトリウムで療養していた幼い少女が息を引き取ったと聞いたのは、それから少し経ってからの事だった。身の回りの物を片づけて実家に帰る日、篝火はもう一度だけその場を訪れた。そこにはもう、あの少女も、あの奇妙な色合いをした空もない。
「……馬鹿が」
独り言ちながら、ハンカチの包みを木の下に置く。中身は、いくつかの色鮮やかな絵の具のチューブだった。
「その気になりゃ、もっと別の色も見えたかもしれねぇのによ」
どこか悲しそうに呟きながら、篝火は静かに空を仰いだ。
彼の前に青い空が広がって、白い羊雲が風に乗って流れていくのが見えた。
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