怪奇拾遺集(7/4更新)

狂言巡

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湿熱の悪夢

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 アゲート・クガツは目を覚ました。はあはあ……。やけに荒い呼吸が頭に響く。ぬるぬるとした脂汗が全身を這っている。噎せ返る程の熱気が体中に纏わりついていた。首の骨が駄目になってしまったようで視界がぐらついて安定しない。猛烈な吐き気を催しても咽の奥に競り上がってくるのは酸だけだった。生理的な涙が頬から顎へ落下していく。顔を覆った。自分は魘されていたらしい。何か、何かとても禍々しい何かが自分を観察しているような何とも言えない焦燥があって、とにかく落ち着かない。時計は、午前二時を指している。

「……あっちぃ」

 がたっ。
 窓と雨戸が大きく震えた。嵐だ。眉を顰める。この時期の嵐は作物殺しだ。後二日も経てば収穫できるのに。舌打ちした。せめてネットを張らないと作物が全て飛んでしまう。最悪、今何時だと思ってるんだよ。恨みがましく外の天気に悪態を吐く。どうせ誰も聴いては居ないから。諦めてベットから降りる。ベットマットは柔らかく軋んだ。汗にまみれたのシャツがじっとりと背に張りつく。撫でられているみたいだ。
 サンダルを引っ掛けて畑に出れば案の定、凄まじい豪雨と暴風。分厚くて濃い灰色の雲がずうっと向こうまで空を包んでいた。一歩土を踏むたびにジュプジュプと湿った音がする。剥きだしの脚の爪がみるみる泥砂に染まっていく。サンダルの裏は細やかな砂利に満ちていた。緩慢に農具入れから暴風避けネットを引きずり出す一連の作業。屠殺した豚や牛から内腑を引き出す作業に似ていた。そこまで考えて暴風の音で我に返る。どちくしょう何考えてるんだ。寝ぼけすぎだろ。

「……んああ……」

 気の抜けるような自分の声。豪雨に混じって奥の小さい倉庫がキキキと開く音がした。振り返ってみたら掌ほどの真白な顔がこちらを視ている、ように見えた。がしゃっ。枯れ木を踏んだような音がして一拍おいて、それから膝を突いた。ぬかるんだ泥が勢いよく跳ねてずぶぬれの頬に水玉を打つ。息が荒い。心臓が撥ねている。ハハハ何だ今の。ハハハ。真っ暗な曇天の中にネットと一緒に取り残されて、本当に独りぼっちだった。怖いよう。子供みたいに膝を抱えてしまいたい。もう立つ事も座る事も、何にもかも恐ろしかった。
 背後で開けっ放しの倉庫の扉がギイイイと軋んだ。心臓が跳ねる。真っ暗な農具入れの奥の奥で真っ白い顔がにたにた笑う絵面が眼底に滑り込む。嫌だ。まるで虐められているみたいに喚いた。恐ろしいものをみてしまったのだ。まだあの奥の隙間からあの白い顔が自分を視ているのだ。おぞましい。逃げなければ。おぞましい! 頭を掻き毟ってしまいたいような、どうしようもないムカムカとした衝動が咽を競り上がる。
 逃げるように追われるように泥塗れで走った。ネットが暴風に煽られてはためく。何度もつんのめって泥塗れになる。畑にネットを被せてそいでそいで走ってベットマットに沈んだらそれでいいのだ。そいでそいで朝になれば何も怖くない。泣きながら走っているのだと思っていたが、もしかしたら頬を流れたのはただの雨粒だったのかもしれない。雨でぬかるんだ畝を踏み締めた。
 四つあるうちの一番左のトマトの畝。もう既にいくつか飛散していた。血のように赤い作物にネットを被せていく。一つめ、二つめ。そういえばさっきまで履いていたサンダルはどこへいったのだろう。三つめの畝にネットをかぶせようとして手を止めた。適当に盛られた土に寄り添うようにして若い女が転がっていた。半端に毟られた衣服。いやに生白い脚が丸太のように転がっている。薄緑色の目は半開きのまま静止している。割合に長い睫毛にはいくつもの水滴が玉になっている。いつも結われている髪は解かれてざんばらに散らばっていた。

「姉ちゃん!」

 叫んだつもりの声は声でなく低い喘ぎ声だった。姉の半端に引き毟られた上着から除く胸部に農具用の鋏がしっかり刺さっている。トマト色の汁が鋏の刺さった辺りから染み出してきていた。
 姉はぴくりとも動かない。恐る恐る触れようとした。だって、死んでるわけないのに。触れた頬は弾力があったが冷たかった。雨に濡れた姉の髪の毛がその白い顔に一部落ちた。真紫の唇はぴくりともしない。刃物が生白い胸を貫く絵面はどことなくシュールだった。くたりと脱力したその首をゆっくり持ち上げていく。姉の上向いた口から白っぽい何かが一筋だけ零れたが雨に流されてすぐに見えなくなった。

「姉ちゃん?」

 くったりと脱力したその首を優しく抱えて呼びかける。だって死んでるわけないのに。けれど持ち手が錆びた鋏はしっかりと姉の胸を貫いていた。苛立ち紛れに引き抜こうとしたら少しだけ血が噴き出してきて、めげずに鋏を引いていたら奥の方で死亡の束に鋏の先端が引っ掛かっているのが胸の穴ごしにちらりと見えた。
 ああ、だめだこれ死んでる。呆けたように口の中で呟く。心臓が潰れて、躰も冷えているし死んでから相当時間が経っているだろう。そう思い至り、ぺったりと腰が抜けた。抱えたままだった姉の頭と一緒にぬかるんだ畝に倒れ込む。
 心臓が脈打っていた。苦しくて、いっそ爆ぜてしまえと思ったくらいだ。混乱していた。抱き締めた姉の肌に温かみは無い。目を強く瞑ろうとしたらさっきのあの、小さくて白い顔の穴みたいな真っ黒な眼孔を思い出してしまって半ばで目を閉じる事をやめた。抱え込んだ姉の半開きの目は生々しい緑色に発光している。曇天が世界を覆う。焦燥に駆られて彼女の目元に触れたらてらてら光る緑の眼球がごろりと押し出されるように飛び出た。

「うわあ!」

 叫ぶしかなかった。顔を覆う。ざあざあ。びゅおうびゅおうびゅおう。豪雨と暴風が何もかもを躙って首元を抜けていく。走った。今度こそ自分は泣いていたと思う。しゃくりあげながら走った。そういえばサンダルはどこへ行ったのだったか。素足に砂利が纏わりつき、地面に擦れて痛む。ネットが風に煽られて手からすり抜ける。どこへ飛んでいくのかだなんて知ったこっちゃない。泥塗れのままぬかるんだ畑の中を疾走する。ネットを被せた作物以外はほとんど潰れているようだったが全く気にならない。
 走る走る走る。文字通り追われていた。恐怖に追われていた。逃げ切らないと、逃げ切らないと自己を啜られてしまう。恐ろしさに骨を抜かれてしまう。
 ばたん!
 玄関をくぐった。自室はすぐそこだ。走る。大丈夫大丈夫布団に潜り込んだら何も怖くない。寝てしまったら何もかも、きっと元通りだ。廊下の隅の暗闇にあの小さい白い顔がぎっちり詰まっているような気がしてなるべく暗いところは視ないようにして走った。階段を駆け上がったらほら、元通りの自分の部屋だ。息をついた。まだ外では豪雨が暴れているようだ。改めて安心したら何だか膝の力が抜けた。そういえば、農具を入れてある倉庫の前を通り過ぎたはずだったのに何も怖くなかった。雨足がざあっといきなり弱くなったのが壁越しに聞こえた。
 なあんだ、元通りじゃないか。ドアノブを回す。目の前の、ドアを引いた、薄暗い自室の闇の中に。ぎっっっちりと白い顔が詰まっていた。絶叫する。半狂乱になった拍子に階段から脚を踏み外していた。視界が一回転二回転三回転四回転。床に叩き付けられて脳が揺れる。

「ぎゃあ!」

 狂乱していた。がばりと仰ぎ見た階段の上の闇には、一層増えた小さくて真っ白な顔がみっちり詰まっている。真っ暗な幾百の眼孔がじいいいっと、じいっと自分を視つめていた。目に喰われる。けれど目を閉じたらいけないと思った。だってだって目を閉じたら瞼の裏にあの白い顔が見えてしまうだろう。階段の隅の闇を伝ってたくさんの顔が、少しずつ少しずつ距離をつめてくる。四隅の闇から白い顔が沸いてくる。
 爪が割れたのか足先に鈍い痛みが走った。自分の爪先をばっくりと割れた白く小さい顔が呑み込んでいる。足の指をぬるついた虫が這う感覚が脳天まで響く。半分ほどはみ出た眼球がじっとりと湿った視線で自分を見上げていた。
 嫌だ! 声が裏返る。泣き喚く余裕なんて無かった。そういえばさっきから自分は何を握りしめているのだろう。だらりと垂れ下がった自分の手を恐る恐る開くとそこにはぐちゃぐちゃに潰れた緑の眼球が一つ握りしめられていた。

(視ちゃいけないよ)

 誰かの窘める声がした、姉とよく似た。反射的に目を閉じて、しまったと思う間もなく瞼の裏を見てしまった。瞼の裏に予想通り、小さくて真っ白いな顔がみっっっちりと詰まっていた。瞼の中で白い顔がぱくぱくと口を開けた。泣き喚く。駄目だこのままでは食べられてしまっ、





「……うっ」

 アゲートは目を覚ました。はあ、はあ……。やけに荒い呼吸が頭に響く。ぬるぬるとした脂汗が体中を這っている。噎せ返るほどの熱気が全身に絡みついていた。首の骨が駄目になってしまったようで視界がぐらついて安定しない。猛烈な吐き気を催しても咽の奥に競り上がってくるのは酸だけだった。生理的な涙が頬から顎へ落下していく。顔を覆った。自分は魘されていたらしい。何か、何かとても禍々しい何かが自分を観察しているような何とも言えない焦燥があって、とにかく落ち着かない。時計は、午前二時を指していた。
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