おかしなふたり(5/14更新)

狂言巡

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少し未来/蚊帳の外

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 その日は晴れていた。網膜に焼き付いて暫らく消えそうになさそうな、不健康に思えるその空には太陽と青色しかなかった。そして其処に、浮き立った靄のような薄い雲。それらより頂点に位置し、白金の陽光を纏ってギラギラと輝く太陽。その残照により、じっとりと這い上がってくる熱気。人にもよるが、濃かれ薄かれ反応する躰は汗を分泌して、肌にじっとり嫌な粘り気を遺していく。
 そんな中、渚は学校の裏庭に読書にきていた。其処は学校中で絶好の避暑地だ。彼女の華奢な指に【それ】を見つけた時、神経が図太いと自他認める、さしもの新宮も眩暈と頭痛で吐き気を催した。
 何かが躰の中から、苦いものがせり上がって膨らみ、それでも喉がきゅうと閉まって空気ごと吐き出すのを拒む。視界は奇怪に歪んで、頭の中の繊細な造りに混乱をきたした。初夏の午後。涼風どころか、微塵も吹いてこない風。日に日に濃さと勢いを増していく緑。それらが全て、自分の感情を悪意と敵意を持って逆撫でしてくるようだと、新宮は受け取った。

「それ、エンゲージリング?」

 彼の言葉は少なからずとも棘を含んだ嫌味ったらしいもので、渚は読み耽っていた本から顔を上げて、大いに戸惑った。新宮を不機嫌にさせた物。青い表紙の本で長時間の酸化により黄ばんだページを取る、渚の指に嵌められた、指輪だ。新宮の凶悪な視線に気付いて、挑発でもするかのようにせせら笑っているようだった。
 その指輪というのは、子供の玩具のような、見るから安っぽい代物。装飾のつもりかビーズがと厚かましくくっ付いた小さな硝子球だなんて、粗悪品そのもの! お世辞にも見栄えが宜しいとは言えない【それ】は、妙な存在感を持って嫌な目立ち方をしていた。それがよりにもよって――左手の薬指とは! 最悪な冗談だろうと、新宮は口元に柄の悪そうな笑みを浮かべた。煙草の煙を吐き出すように鼻から呼気を噴き出して、皮肉っぽく口の端をあげれば、完璧な嘲笑の完成だ。

「……何よ?」

 嘲笑に威嚇された渚が所在なく肩を竦めて、珍しく狼狽を表に出している。――勿論これまでに、彼が彼女にそんな態度を取った事が無かったからだ。男女問わずに悪ふざけを吹っかけている延長戦、軽口を叩いて道化さながらの軽い態度で人と接するのが、この少年の常だった。彼は知り合った時から今までずっと同じ。いつでもきゃらきゃらとお調子者の笑顔で、渚に張り付いていたのだ。
 例えば、廊下を歩く彼女の手からさっと荷物を取り上げて、運び屋に近い事をした。そして彼女のお人好しやドジをからかって、怒る顔も可愛いと妙な甘さを注いで囁くのだ。好きだとか。愛しているだとか。あっさり告白じみた事をのたまう日常茶飯事だった。まるで誰かに見せ付けるかのように。なぜか直接的な言葉であればあるほど――言葉はどんどん削れて意味まで薄っぺらなものになっていった。

「え、何で怒っている?」
「当然じゃん? 普段からあんなにアピールしているのにこれじゃァ」
「…………」

 泣きそうな顔をしている渚を、可愛そうだと新宮は思った。こんな訳の解らない言葉を吐き散らす男なんて、気分が乗らない猫のように突っぱねてしまえば済む話なのに――それをしないなんて! 新宮くんには関係ないやんと、普段通りに眉を顰めて、ツーンとそっぽを向けば新宮もいくらかは救われたと言えただろうに。渚は新宮をいつの間にかずっと傷付けていたのだと今更ながら理解した。大降りの刃物で刺されたかのような鋭い痛みを感じ、傷口も開かぬうちに血を流していた。
 ――×××××のために。いいや、少なからずとも彼に情がある所為で。どんなに渚が新宮を邪険に扱っても、彼は優しい態度と甘い言葉で彼女に接し続けた。渚が何を言ってもどんな態度をとっても、新宮はヘラヘラ笑っている、だけのはずだったのだ。その点で渚は全てを理解していた。新宮の心も、自分の心も――その決定的な食い違いも。

「ひどいなァ、」

 囁く声と表情は無表情で、渚は一瞬にして肌が粟立つのを感じた。彼を、ハンサムで軽薄で蘊蓄魔でからかう事が好きな人間だと思い込んでいた。その顔は彼女の前だけの話であって、今までそれ以外の表情を見た事などなかった。新宮が渚の左手首を掴み上げると、緊張で血の気の引いた、冷たい肌の感触。汗でべたつく肌は少女の繊細な肌質もあって、新宮の手に抵抗無く吸い付いてきた。
 ――豊かな睫毛の奥の瞳が、紫煙のようにゆらりゆらり。刑が執行されるように握った指に軽く力が込められて、それだけで少女の顔は痛みに歪む。アーチェリーに鍛えられた新宮の指は、少女の細い手首なんて三本一気に握りつぶせる程の握力を持っている。下品な道具など使わなくても、彼がその気にさえなれば、こんなか弱い少女なんてわけなく縊り殺せるだろう。
 手首で血液が堰き止められて、少しずつ体温を失ってゆく指には、憎しみの源が相変わらず鎮座している。これを眺めていれば、無尽蔵に醜い感情ばかりが溢れ出てきた。そのとんでもない事実に、やっと気が付いたのだろう、渚は助けを請うかのような目で、目の前の新宮を見上げた。愛しい黒曜の虹彩は濡れていて、劣情間際の新宮の心境を酷く掻き立てる。握り締めている部位は皮膚の下はほんの少しの肉しかなくて、クッションにすらならぬ。更に容赦なく力を込めていると――筋と骨が確実に軋む感触すら判った。

「っ、っう……」

 恐怖と痛みに、渚は顔を真っ青にして呻いて、小さく嗚咽を零す。骨を砕かれるような恐ろしい痛みに喘いで、掠れた声は下草を弾み、青空に溶けていく。右手で口元を押さえているのは、溢れそうな悲鳴を押さえ込んでいるのだろう。彼女のプライドがそうさせるのか――悲鳴で駆けつけた人間が新宮を糾弾するのを恐れているのか――おそらく後者なのだろう、新宮は考えた。
 彼女が、弱くはないが決して強いわけではない事も同時に思い出したのだ。思ってしまうと力が抜けるのは早くて、新宮は不機嫌に舌を打って彼女の手首を手放した。あんなに手に吸いつくようだと思っていた肌は簡単に零れ落ちて、少年の掌には例の指輪だけが残る。泣き出す寸前の渚の顔は目尻だけ真っ赤で、それなのに頬は血の気が引いて真っ青だった。

「……やーめた、バカバカしーの」

 自身で呟いた言葉のあまりの空虚さに、今度は新宮自身も肌寒さを覚えた。本当に、馬鹿馬鹿しい話だったのだ。――まるで当然のように渚の傍に居る、羆のような逞しい体格に反して神経質そうで面倒臭そうなあの男。きつい言動が目立つくせに、新宮を本当に突き放せない優しい黒髪の乙女。……こんな瑣末な変化に感情を大きく乱される、自分自身も。
 まるで道化のようだ。というよりも本物の道化だったのだ。在るはずのない壁を作り、玉の上で逆立ちをして、軽快な言葉で喋り散らす悪趣味なオブジェ! 急速な感情の沈静に、耳鳴りがした。そして意思なく勝手に動く足が、渚から遠ざけだした。踵を返した新宮の視界の端に映った渚の細い手首。さすがに折れてはいないだろうが、痛痛しく腫れ上がっている。白い手首に巻き付く、忌忌しい呪詛のような自らの指の赤い痕跡――新宮は虚ろな思考でそれを知覚した。
 それっきり、彼は振り返らずに去って行った。そして歩く道すがら手の中に奪い取った、いいや、残った例の指輪を握り潰してしまおうと試みた。しかし、どんなに力を込めても指輪は曲がりもしなかった。

「お前の方が、よっぽど丈夫だったんだなァ」

 苦笑しながら、新宮は小さなそれをぽいと足元に捨てた。踏み潰される草の音と共に、遠のいていく細身の後ろ姿。安普請の銀細工に、とろり。青空が映っていた。指輪は、空に赤と黒、紺と紫が混ざり始めても、其処に在った。
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