口承怪談(2/1更新)

狂言巡

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人形2

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「あれは――そうだな、大学生だった時の話だ」





 その日、御山孫四郎おやままごしろうはちょっとした用事があって、車を使うには近すぎるが、歩いて行くのには少し遠いという半端な場所に用事が出来た。大きな仕事ではなかったので祖父の自転車を借りる事にした。
 家を出るとすでに辺りは真っ暗で、ライトを点けてこぎだした。その日は霧が少し出ていたが、孫四郎からすれば大した事はない。何の問題もなく走っていた。暫らくの間は。





 どれくらい進んだ頃だっただろうか。突然、地面の上に何かが横たわっているのが見えた。暗闇と霧のコンボ技というのはなかなか恐ろしいもので、どんなに薄いものだろうと一旦出ると視界の確保が一メートル先でも危うい。
 だからその時も、どうして見えたのか。ともかく、最初それが猫か何か、そういう動物の類いだと思った。
 自転車から降りて拾い上げたそれは、人形だった。

「身長は握りこぶしを縦に二個くっつけたくらいで、ビスクドールっていう……ええとなんだ? 精工に作られた球体関節人形、っていう認識で構わないよ。綺麗な人形でな、白い肌にブルーの瞳、黒髪の巻き毛のボブカットが良く映えていてフリルが付いた白のブラウスとたくさんひらひらした、なんて言うんだろ? ……ああ、ギャザーが付いた青色のスカートを着て、薄い青色の薔薇が付いた帽子を被ってた。そいつが道端に落ちていた」

 棄てられたという風には見えなかった。どちらかというと、どこかのご息女様が車で通りかかって窓から落としてしまいましたという方がしっくり来るような。そんな良い人形だった。

「俺はちょっと悩んだけど、結局連れていってやることにした。あ、拾得物を警察に届けるのは当然のことで、義務でもあり……変な趣味は無いからな!」

 孫四郎は人形をカゴに寝かせるとまた漕ぎ始めた。
 霧は相変わらずだったが、それでもまだ問題ではなかった。問題は、路面の方にあった。よくよく知っている道だからこそ余計にまずかったのかもしれない。
 早い話、気が弛んでいたのだ。だからそこの道には軽い傾斜がついていて、砂利が散らばり、更には霧のせいでそれらが濡れて普段以上にスリップしやすい状態である事を失念していた。
 ガリガリガリッ!
 タイヤが砂利を噛んで空回る嫌な音がして、あっと思った時にはもう、硬いコンクリートの上に放り出されていた。いや、叩きつけられたと言った方が正しいか。
 すぐに起き上がろうとしたが、地面についたはずの右腕や自転車の下敷きになった右足の感覚がどうにも覚束なくなるぐらいだったから、相当なダメージを負ったのだろう。指は動いたから折れてないというのは分かったが、それで安心している場合でもなかった。
 孫四郎の故郷では道路法規上、自転車は車道を走らなきゃならない事になっている。つまり、寝そべってたのは車道のど真ん中で、いつ後続車がきて自分を踏みつけていくかも判らない状態だった。加えて、その日は霧が出ていたわけで。
 車を運転出来るかどうかはこの際関係ない。助手席だろうが後部座席だろうが、とにかく車に乗った経験があるなら車のタイヤ付近がどれだけの死角になるのか、想像するのは簡単だろう。普段でさえそれなのだ。これが夜、しかも霧でライトが足元をしっかり照らせていないような状態で。何を轢きながら走るか判ったもんじゃない。
 孫四郎は何とかその危険地帯から脱しようと、満足に動かない躰で自転車をどかそうとした。しかし、悪い時には悪いことが重なるもので、こちらに向かって来る車のライトを見つけてしまった。そして道を伝う振動と重低音から、それがかなりの大型車というところまで――知りたくもなかったが、気づいた。
 呑気者の孫四郎も焦った。自転車をどうこうするのは二の次にして、とにかくまずは脱出することに専念した。
 だが、どういうわけなのか、どんなに動かしても自転車の下から足を抜く事ができない。ひょっとして足に力が入っていないことを疑って無事な左手も使って足を引っ張ったんだが、それでもまだびくともしない。真っ暗かつ霧が出ているので何も見えなかったが、どうやら何かがズボンの裾を固定してしまっているらしい。たぶんペダル辺りだろう。重要なのは、そこから逃げられないという点だ。
 車のライトは先程よりもずっと大きくなっていた。自分のところまで届いているのだから、いい加減気づいてスピードを落とすなり回避行動を始めてくれても良さそうなのに、その気配は全くない。ただ真っ直ぐに前進してくる。
 いよいよ勝負のジャッジが迫ってきているのを感じた。
 孫四郎とにかく気づいてもらおうとムチャクチャ叫びながら、自転車ごと躰を引きずる事にした。もう逃げている時間なんてない。端に寄るのではなくて、一か八か、その大型車の下を潜れるように体勢を調整した。
 大きな車はタイヤも大きいから、必然的に車高も高くなっている。勝算は限りなく低かったが、それでも全くのゼロというわけでもない。後はひたすら神に祈り運に頼るだけだ。
 孫四郎は少しでも五体満足の生存率をあげるために、ぼんやりとした車のシルエットを睨み付けて隙間を探り続けた。
 そしてついに、ライトの明かりが孫四郎の目を潰しかねないほど近くまで来た時だった。
 信じられないことに、誰かが孫四郎の前に飛び出した。

「……先に言っとくけど幻覚なんかじゃないぞ。逆光のせいでよくは見えなかったけど、そいつは両手を広げてまるで俺のことを守ろうとしてるみたいだった。それで確か、青くてヒラヒラしたものも見えたような気がする」

 もっと他にもあったはずだった気もするが、とにかく一瞬の事で、孫四郎はパニックでそれぐらいしか判らなかった。

 すぐに耳をつんざく甲高い音がした。その車のブレーキ音だ。車というか、工事現場でよく見るトラックだった。
 鼓膜が破れるかと思ったが、孫四郎は何とか轢かれずに済んだ。

「けど、車が軋みながら停まった時に吐き出された熱風が顔面に直撃した――こう言えばどれくらいやばかったか分かるか? ……分かりづらいか。分かった、言いなおす」

 孫四郎は、車両の下に潜り込むのをギリギリで免れた状態だったんだ。
 間近で見てゾッとした。車と地面の間にある隙間は自分の躰でギリギリ、自転車なんてとてもじゃないが通れそうになかった。

「もしあのまま自転車と仲良く引きずられたら……考えるだけでちょっとしたホラーだよな」

 そうこうしているうちにドアの開く音がして運転手が慌ただしく走り出てきた。
 そして車の前に回りこんで来るなり叫んだ。

「あんた、いきなり飛び出すたァ危ないじゃないか、お嬢ちゃん!」





「――どうだ、お前ら。さっき俺が見たのは幻覚じゃないって分かっただろう? いいか、そこんとこをよく覚えておけよ」

 孫四郎を見つけた時の運転手のオネエサンの顔は、そりゃあ凄かった。あんな顔を出来るのはおそらく、今世紀最高のマジックショーを見せつけられた観客ぐらいだろう。

「まぁ無理もないっちゃ無理もないか。女が飛び出して来たかと思えば転がってるのはどう見ても男で、しかも轢く寸前だったんだからな。そりゃ驚くだろ」

 運転手はすぐに駆け寄って来た。……実は既に轢いたあとだと勘違いして、そのまま逃げを打つんじゃないのかと少しだけ疑ったが、それは杞憂に終わった。
 孫四郎は差し出された手を有り難く借りて躰を起こした。どれだけ引っ張ろうとビクともしなかった足も、すんなりと抜けた。

「不思議なもんだ、運転手も俺もまだ自転車には触れていなかったのに。けどまぁ、さっきはかなり焦ってたわけだし、冷静になればそんなもんなのかもな」

 それから孫四郎はなぜか車の前に落ちていた人形を回収して、痛む躰を引きずりながら運転手と一緒に飛び出して来た少女を探した。
 思いつくところは全て見て回った。車の前方から側面から車体の下から……タイヤの下まで。だけど、どこにも居ない。ここまで探しても居ないというのは、流石におかしい。ひょっとしたら何か見落としている事があるのかもしれない。
 そこで孫四郎は改めて運転手に訊ねたんだ。

「その少女はどんな感じだったんですか」
「……黒髪の巻き毛ボブで、」

 運転手は青い顔で、起こした自転車のカゴに入れておいた彼女を指差して言った。

「そこの人形と、良く似た格好の娘さんだったよ」





 ……その後、孫四郎と運転手は別れたが、最後までその場所には自分達二人しかいなかった。それ以外には、誰もいなかった。

「……とまぁ俺の話はこんなところだな。ま、信じる信じないはお前ら次第だけどな。あー、別に怖い話ってわけでもなかったか。どっちかっていうと不思議系で――ん? 人形? ああそうだな」

 結局、その日はそのまま家まで連れて帰った。警察まで寄る気力も体力も残っていなかったから。
 それで翌朝、彼女は載せておいたテーブルの上から跡形もなく消えていた。以来、どこを探しても見当たらなくて、仕方がないからそれっきり。
 ただ、それから何度か色んな死にそうだったり危ない場にに遭遇したが、そのたびに優しそうな微笑みを浮かべた彼女を見かけた。

「……きっとまた、俺のことを守ってくれてたんだろうな。そうだ、良ければ今度彼女に会いに来なよ。客が来ると結構な確率で彼女も出てくるし」
「――歓迎するぞ?」
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