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雨天相見
しおりを挟む「えっと、これはいつもより遠くのお店まで買い物に出かけたことなんだけど……」
その日は雨が降っていたが、構わず春朝すずめは外に出た。最近値段が上がり続けている小麦粉とバターの特売があったのだ。あまりに慌てていたものだから、間違って弟の傘を持って家を出てしまった。
この傘はお揃いで買った物で、明るい緑色に白のラインの縁取り、取っ手は木製でとても洒落ている。違うのは大きさだけだった。幼稚園の子が使う物だ、当然自分のより二回りくらい小さい。踏み切りに引っかかって、待っている間に傘を差そうとして気づいたのだ。まぁもう戻るのも面倒だしいいやと思って、そのまま小さな傘を差していく事にした。
それが、全ての始まりだった。
近道となる公園を突っ切ろうとした時、一人の女の子とすれ違った。鶯色のワンピースを着た、弟と同世代くらいの幼い少女。彼女は傘を――すずめの傘と同じような、緑色の傘を持っていた。そして、まるでダンスのステップを踏むみたいに水たまりの中をクルクルと跳びはねていた。まるで可愛いアマガエルのように。
すずめは思わず立ち止まった。それは、怖いものを感じたわけではない。それは、もっと穏やかで優しいものだ。自分にも経験があったから。
自分も小さな頃、親に初めて傘を買ってもらった時、とても嬉しかったのを覚えている。暫らくの間、家の中でも天気が良い時でもいつも傘を差したがった。雨の日が待ち遠しくて仕方がなかった。実際に雨が降った時は、目の前の女の子と同じようににはしゃいでいた気がする。昔の、懐かしい思い出だった。
その瞬間。彼女と目が合ったような気が、して――
キキーッ!
大きくて甲高い音が周囲に響き渡った。車の急ブレーキ音だ。すずめは反射的に道路の方を見た。
けど、それらしい物はなかった。どの車もスムーズに走っている。ここから見えない場所なのだろうか。いいや、違う。音は、もっと別の場所から聞こえた。
音がした場所、それは女の子がいた場所。そこにはもう、女の子はいなかった。
これは、危険な状況だ。歯はカチカチと鳴り、傘を握る手は震えていたのに、足だけが勝手に動いた。
こっちへおいで……誰かが、自分を呼んでいる!
頭の片隅では、一秒でも早くこの場から離れるべきなんだという事を十分に理解していた。でも、心の大部分が真実を確かめなくてはいけないという考えに支配されていた。
行ってはいけない。でも、真実を知りたい。真実って何だろう。自分は、何を知りたいのだろう。
小さな女の子がいたはずの水たまり。大きくもなく深そうでもなく水たまりの前で、すずめは深呼吸をした。
落ち着かないと、しっかりしないと、殺されてしまう――いいや、どういう事だ。そもそも『殺される』なんて……。
そこに、真実への糸口があった。
すずめは『殺される』という言葉に違和感を持った。そうなのだ。消える前の女の子からは、少しも恐怖を感じなかった。それどころか、痛みも憎しみも伝わってこなかった。届いたのは、幸せな思い出に繋がる、穏やかで優しい感情。
そんな彼女が、誰かを殺す為に現れたとは思えない。彼女じゃ、ない!
(やっとみつけたいとしいこ)
すぐ後ろで声が聞こえた。涙でとけたような、ねっとりと、絡みつくような声だった。
(ごめんなさい、ママがわるかったわ)
(ほんのすこしあいだ、あなたからめをはなしてしまったばっかりに)
(たいせつにしていたかさ、こわれてしまったわね)
(だいすきなパパが、かってくれたかさなのに)
(かなしかったでしょう、でもわたしもかなしかった)
(パパだけでなく、あなたまでどこかへいってしまったから)
(でも、みつかってよかったわ)
(もうぜったい、こんどこそはなしはしないから)
ゴポッ……。
水溜まりの真ん中から、音を立てて赤い液体が噴き出した。それはまるで、鮮血のようだった。そして、青白い手がすずめの足を掴んで水たまりへと引きずり込もうとする。
――楽しそうに踊る女の子。車の急ブレーキの音。止まない雨。ぐしゃぐしゃの傘。女の子も歪んで。ワンピースが赤く染まっていく。びゅううと強い風が吹いて、すずめは思わず傘を手放してしまった。ライトグリーンの傘は、くるくると宙に舞った。
傘の行方を見つめながら、ようやく思い出した。そういえば、自分が差していたのは子供用のサイズだったということを。彼女を遠くから見た時には、同じような色をしている事しか判らなかったけれど。たぶん、サイズまでが一緒の完全に同じ傘。
「――だから、女の子のお母さんは自分を選んだんだよ」
真実に辿り着いた瞬間に、すずめの意識は途絶えた。
気がついた時、すずめはまだ公園にいた。水たまりがあった場所に立ち尽くしていた。それはもう、水たまりと呼べる水量ではなかった。傘もなくなっていた。空は雲一つ無い青空。とても雨が降っていたようには思えない、清々しい程の晴天だった。公園は人の楽しそうな声で溢れ返り、いつもと変わらない日常の中に、すずめは存在していた。
けれど、すずめはもうその場にいる事が出来なかった。早く家に帰りたい。傘はどこかに行ってしまったしタイムサービスの時間は過ぎていた。弟達には申し訳ない事だらけだ。正直な話、それどころではなかった。
来た道を駆け足で戻りながら、すずめは助かった理由を考えた。運が良かったのかもしれない。母親はすずめが傘を離したことで、自分の娘ではないと気づいてくれたから。
そう、傘が決め手だったのだ。きっと、あの母親は覚えていない。娘が何歳で亡くなって、どんな顔立ちだったのかも。そうでなければ、どう見ても成人してる私の前には現れなかったはずだ。だとしたら……あの母親にとって壊れた子供用の傘の存在だけが、娘の唯一思い出という事になる。
「何だか、悲しい話だよね」
そう、すずめは話を締め括った。窓の向こうから、啜り泣きのような雨音が聞こえている。
その日は雨が降っていたが、構わず春朝すずめは外に出た。最近値段が上がり続けている小麦粉とバターの特売があったのだ。あまりに慌てていたものだから、間違って弟の傘を持って家を出てしまった。
この傘はお揃いで買った物で、明るい緑色に白のラインの縁取り、取っ手は木製でとても洒落ている。違うのは大きさだけだった。幼稚園の子が使う物だ、当然自分のより二回りくらい小さい。踏み切りに引っかかって、待っている間に傘を差そうとして気づいたのだ。まぁもう戻るのも面倒だしいいやと思って、そのまま小さな傘を差していく事にした。
それが、全ての始まりだった。
近道となる公園を突っ切ろうとした時、一人の女の子とすれ違った。鶯色のワンピースを着た、弟と同世代くらいの幼い少女。彼女は傘を――すずめの傘と同じような、緑色の傘を持っていた。そして、まるでダンスのステップを踏むみたいに水たまりの中をクルクルと跳びはねていた。まるで可愛いアマガエルのように。
すずめは思わず立ち止まった。それは、怖いものを感じたわけではない。それは、もっと穏やかで優しいものだ。自分にも経験があったから。
自分も小さな頃、親に初めて傘を買ってもらった時、とても嬉しかったのを覚えている。暫らくの間、家の中でも天気が良い時でもいつも傘を差したがった。雨の日が待ち遠しくて仕方がなかった。実際に雨が降った時は、目の前の女の子と同じようににはしゃいでいた気がする。昔の、懐かしい思い出だった。
その瞬間。彼女と目が合ったような気が、して――
キキーッ!
大きくて甲高い音が周囲に響き渡った。車の急ブレーキ音だ。すずめは反射的に道路の方を見た。
けど、それらしい物はなかった。どの車もスムーズに走っている。ここから見えない場所なのだろうか。いいや、違う。音は、もっと別の場所から聞こえた。
音がした場所、それは女の子がいた場所。そこにはもう、女の子はいなかった。
これは、危険な状況だ。歯はカチカチと鳴り、傘を握る手は震えていたのに、足だけが勝手に動いた。
こっちへおいで……誰かが、自分を呼んでいる!
頭の片隅では、一秒でも早くこの場から離れるべきなんだという事を十分に理解していた。でも、心の大部分が真実を確かめなくてはいけないという考えに支配されていた。
行ってはいけない。でも、真実を知りたい。真実って何だろう。自分は、何を知りたいのだろう。
小さな女の子がいたはずの水たまり。大きくもなく深そうでもなく水たまりの前で、すずめは深呼吸をした。
落ち着かないと、しっかりしないと、殺されてしまう――いいや、どういう事だ。そもそも『殺される』なんて……。
そこに、真実への糸口があった。
すずめは『殺される』という言葉に違和感を持った。そうなのだ。消える前の女の子からは、少しも恐怖を感じなかった。それどころか、痛みも憎しみも伝わってこなかった。届いたのは、幸せな思い出に繋がる、穏やかで優しい感情。
そんな彼女が、誰かを殺す為に現れたとは思えない。彼女じゃ、ない!
(やっとみつけたいとしいこ)
すぐ後ろで声が聞こえた。涙でとけたような、ねっとりと、絡みつくような声だった。
(ごめんなさい、ママがわるかったわ)
(ほんのすこしあいだ、あなたからめをはなしてしまったばっかりに)
(たいせつにしていたかさ、こわれてしまったわね)
(だいすきなパパが、かってくれたかさなのに)
(かなしかったでしょう、でもわたしもかなしかった)
(パパだけでなく、あなたまでどこかへいってしまったから)
(でも、みつかってよかったわ)
(もうぜったい、こんどこそはなしはしないから)
ゴポッ……。
水溜まりの真ん中から、音を立てて赤い液体が噴き出した。それはまるで、鮮血のようだった。そして、青白い手がすずめの足を掴んで水たまりへと引きずり込もうとする。
――楽しそうに踊る女の子。車の急ブレーキの音。止まない雨。ぐしゃぐしゃの傘。女の子も歪んで。ワンピースが赤く染まっていく。びゅううと強い風が吹いて、すずめは思わず傘を手放してしまった。ライトグリーンの傘は、くるくると宙に舞った。
傘の行方を見つめながら、ようやく思い出した。そういえば、自分が差していたのは子供用のサイズだったということを。彼女を遠くから見た時には、同じような色をしている事しか判らなかったけれど。たぶん、サイズまでが一緒の完全に同じ傘。
「――だから、女の子のお母さんは自分を選んだんだよ」
真実に辿り着いた瞬間に、すずめの意識は途絶えた。
気がついた時、すずめはまだ公園にいた。水たまりがあった場所に立ち尽くしていた。それはもう、水たまりと呼べる水量ではなかった。傘もなくなっていた。空は雲一つ無い青空。とても雨が降っていたようには思えない、清々しい程の晴天だった。公園は人の楽しそうな声で溢れ返り、いつもと変わらない日常の中に、すずめは存在していた。
けれど、すずめはもうその場にいる事が出来なかった。早く家に帰りたい。傘はどこかに行ってしまったしタイムサービスの時間は過ぎていた。弟達には申し訳ない事だらけだ。正直な話、それどころではなかった。
来た道を駆け足で戻りながら、すずめは助かった理由を考えた。運が良かったのかもしれない。母親はすずめが傘を離したことで、自分の娘ではないと気づいてくれたから。
そう、傘が決め手だったのだ。きっと、あの母親は覚えていない。娘が何歳で亡くなって、どんな顔立ちだったのかも。そうでなければ、どう見ても成人してる私の前には現れなかったはずだ。だとしたら……あの母親にとって壊れた子供用の傘の存在だけが、娘の唯一思い出という事になる。
「何だか、悲しい話だよね」
そう、すずめは話を締め括った。窓の向こうから、啜り泣きのような雨音が聞こえている。
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