29 / 30
第二十一話 どうやっても叶わないことが、叶って欲しくて
しおりを挟む美咲が、必死に涙を堪えている。
咲子が、美咲に気付かれないように、そっと涙を流している。
元旦の夜。初詣の帰り道。
除夜の鐘も鳴り終わった、深夜の神社。
美咲達は、駐車場の車に向かっていた。
洋平と美咲は、毎年、この神社に初詣に来ていた。今年も一緒に過ごせるよう祈り、帰路についていた。
並んで歩きながら、美咲は、時折腕を絡めてきた。
自分の欲求を抑えるのは大変だったが、洋平にとって、間違いなく幸せな時間だった。
もう二度と取り戻せない時間。
咲子が泣いているのを察知して、洋平は昔を思い出した。美咲と出会ったばかりの頃を。
洋平の自宅近くのアパートに、美咲達が引っ越してきた。洋平が3歳の頃だ。
後になって知ったことだが――あの頃の咲子は職場復帰したばかりで、経済的にも体力的にも余裕がなかった。だから、できるだけ職場の近くで生活したかったそうだ。
咲子達が入居したアパートは保育園からも近く、職場からの送り迎えにも格好の場所だったという。
彼女達が暮らし始めたアパートは、その時点で築30年。冬は、家の中でも厚着をしていた。ストーブは当然のように点けていたが、それでも寒かった。2、3日家を空けたら、トイレの水が凍ったこともあるという。
咲子は弁護士資格を持っているが、世間のイメージとは違い、それだけで裕福な生活ができるわけではない。幼い子供を抱えてフルタイムで働くことが難しい状況では、裕福な生活など望めない。たとえ、どんな資格や能力があったとしても。
美咲が保育園に入園したとき、洋平は、すでにその保育園に通っていた。保育士が「新しいお友達」として美咲を紹介したときに、初めて彼女と出会った。
当時は、まだ3歳。物心は確かについていた。しかし、はっきりとした自我や人格が形成される以前の年齢。
そんな歳にも関わらず、洋平は、美咲をひと目見た瞬間に心を奪われた。
確かに美咲は、洋平と出会った時点で、すでに整った可愛らしい顔立ちをしていた。だが、お互いに、まだ美醜も理解できない年頃だ。
それでも洋平は、美咲に心を奪われた。あっという間に好きになっていた。
なぜ美咲を好きになったのかは、今でも分からない。もしかしたら、三歳にして美咲の綺麗さを理解し、一目惚れしたのかも知れない。あるいは、幼いが故に動物的な本能が働いて、遺伝子レベルで惹かれたのかも知れない。
好きになった理由など、分からない。
好きになった理由など、どうでもよかった。
ただ、美咲を好きになった。美咲が入園したその日から、洋平は、積極的に彼女に話しかけた。幸いにも家が近所だったので、休みの日には遊ぶ約束もした。
子供が一緒に遊べば、親同士が顔を合せる機会も多くなる。女手一つで子供を抱えているというお互いの境遇から、咲子と洋子もすぐに親しくなった。
美咲は、その頃から、表情の変化に乏しかった。ほとんど笑わず、ほとんど怒らず、ほとんど悲しまない。泣くこともない。
幼心に、洋平は不安になった。自分と一緒にいても美咲は楽しくないんじゃないか、と。
だから、一生懸命楽しませようとした。まだ知恵も知識もない洋平は、美咲を楽しませる方法など分からない。だから、自分が楽しそうに笑い、悲しそうに涙を流し、頬を膨らませて怒って見せた。
感情を全面に出して、豊かな表情で美咲に接した。
やがて、洋平は気付いた。美咲は、楽しんでいないのではない。怒っていないのではない。悲しんでいないのではない。感情を表に出すのが、苦手なだけなのだ。
苦手だが、表情には変化があった。ほんのわずかに上がる口角。少しだけ緩む目元。不満そうにキュッと締まる口元。
美咲の表情の変化が分かると、洋平は、ますます彼女が好きになった。ほんのわずかに、けれど楽しそうに口角を上げる彼女の笑顔が、大好きだった。
あれは、5歳くらいのときだっただろうか。来年には小学生になるという時期。
美咲の家で遊んでいたときに、洋平は、一緒にいた咲子に言われた。
「何かあったら、美咲を守ってあげてね」
咲子は、どんな意図で洋平に言ったのか。今の洋平には分からない。美咲がいじめられたら洋平だけでも仲良くしてあげて、という意味なのか。美咲が悩んでいたら助けてあげて、という意味なのか。もっと単純に、理不尽な暴力から美咲を守ってあげて、という意味なのか。
咲子の言葉を、洋平は、幼い子供らしい単純な意味で解釈した。一瞬の間もおかずに、力強く頷いた。
――誰と戦っても負けないくらいに強くなって、美咲を守るんだ。
その翌日に、洋子が見ていた朝のニュースで、スポーツの報道がされていた。前の日に行なわれた、プロボクシングの世界タイトルマッチのニュース。圧倒的な強さを誇るボクサーが、相手を1ラウンドでKOするシーン。
これだ、と思った。
――こんなふうに強くなって、どんなときでも美咲を守るんだ。
すぐに洋平は、ボクシングの真似事を始めた。アルバイトを始めると、ボクシングジムに通い始めた。毎日毎日、努力を怠らずに自分を鍛え続けた。
確かに洋平は強くなった。中学高校と、全国レベルで優秀な成績を修めた。腕力は間違いなく付いたし、ボクサーとしても強い部類だろう。
でも。
涙を堪えている美咲。
涙を流している咲子。
後悔ばかりが、洋平の心に降り積もった。空から舞い落ちる雪のように。
あのとき。五味に殺されたとき。
五味は、美咲を呼び出すために洋平のスマートフォンを奪った。
洋平は美咲を守るため、痺れる体を気力だけで動かした。自分のスマートフォンを取り返し、破壊した。
それで美咲を守れたと思った。凄まじい暴行の中でも、満足して死ねた。
でもそれは、ただの自己満足だった。
自分が死ぬことで美咲が悲しむことも、苦しむことも、狂わせてしまうことも、まるで考えていなかった。
たとえ傷害の前科がついたとしても、死んではいけなかったのだ。生きて帰らなければならなかったのだ。
もし傷害で逮捕され、美咲や咲子に迷惑がかかるなら、別れればいいだけだ。実の親子である洋子と縁を切ることはできないが、息子としての責任を果たし、支え続ければよかったのだ。
自己犠牲の精神は美しく見える。残される人の悲しさや苦しさをまったく視野に入れない、自己陶酔に近い美しさだ。赤の他人の評価ばかり求める美しさ。大切な人達の気持ちを無視した、美しさ。
犯罪者になってでも、生きるべきだった。そうすれば、どんなに少なくとも、美咲を守り切ることはできた。
犯罪者となり、美咲に別れを告げられたら、もちろん悲しかっただろう。それでも彼女は、幸せな未来を迎えることができる。
もし美咲が別れを望まなかったら、死ぬ気で支え続ければいい。過去の犯罪歴など払拭できるくらい、必死に生きればいい。後ろめたい理由でついた犯罪歴ではないのだから。
洋平の思考の中で「もしも」が何度も繰り返された。実現することのない仮定。どんなに願っても変えられない過去。洋平はすでに死んでいる。物言わぬ遺体は、冷たい土の下だ。
美咲はすでに2人の人間を殺し、死体をそれぞれ別の場所に遺棄した。
法や社会の正義など、どうでもいい。
五味や六田は、洋平や美咲にとって死ぬべき人間だった。だから、彼等が死んだこともどうでもいい。
時計の針を過去に戻せないのなら。
自分の力で美咲を守ることが、できないのなら。
それならば、せめて未来だけは、美咲の幸せに向かって進んで欲しい。
洋平はひたすら祈った。
倫理や正義なんてどうでもいいから、美咲に幸せな人生を送らせて欲しい。美咲を犯罪者にしないで欲しい。
死体が見つからなければ、美咲の殺人が立証されることはない。誰にも知られなければ、美咲はただの高校生で、これからただの大学生になって、さらに未来はただの社会人になるだろう。洋平を失った傷が癒えれば、ただの妻となり、ただの母親になれるはずだ。
だから、どうか。
お願いだから。
五味や六田の死体は、永久に見つからないで欲しい。彼等の人生なんてどうでもいい。美咲を不幸にしないで欲しい。
考え方によっては理不尽とさえ言える願いを、洋平は繰り返した。もう、それしかできないから。願うことしかできないから。
ひたすら願い、祈り続けた。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
【完結】捨てられ正妃は思い出す。
なか
恋愛
「お前に食指が動くことはない、後はしみったれた余生でも過ごしてくれ」
そんな言葉を最後に婚約者のランドルフ・ファルムンド王子はデイジー・ルドウィンを捨ててしまう。
人生の全てをかけて愛してくれていた彼女をあっさりと。
正妃教育のため幼き頃より人生を捧げて生きていた彼女に味方はおらず、学園ではいじめられ、再び愛した男性にも「遊びだった」と同じように捨てられてしまう。
人生に楽しみも、生きる気力も失った彼女は自分の意志で…自死を選んだ。
再び意識を取り戻すと見知った光景と聞き覚えのある言葉の数々。
デイジーは確信をした、これは二度目の人生なのだと。
確信したと同時に再びあの酷い日々を過ごす事になる事に絶望した、そんなデイジーを変えたのは他でもなく、前世での彼女自身の願いであった。
––次の人生は後悔もない、幸福な日々を––
他でもない、自分自身の願いを叶えるために彼女は二度目の人生を立ち上がる。
前のような弱気な生き方を捨てて、怒りに滾って奮い立つ彼女はこのくそったれな人生を生きていく事を決めた。
彼女に起きた心境の変化、それによって起こる小さな波紋はやがて波となり…この王国でさえ変える大きな波となる。
ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました
宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。
ーーそれではお幸せに。
以前書いていたお話です。
投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと…
十話完結で既に書き終えてます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる