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第二十一話 どうやっても叶わないことが、叶って欲しくて
しおりを挟む美咲が、必死に涙を堪えている。
咲子が、美咲に気付かれないように、そっと涙を流している。
元旦の夜。初詣の帰り道。
除夜の鐘も鳴り終わった、深夜の神社。
美咲達は、駐車場の車に向かっていた。
洋平と美咲は、毎年、この神社に初詣に来ていた。今年も一緒に過ごせるよう祈り、帰路についていた。
並んで歩きながら、美咲は、時折腕を絡めてきた。
自分の欲求を抑えるのは大変だったが、洋平にとって、間違いなく幸せな時間だった。
もう二度と取り戻せない時間。
咲子が泣いているのを察知して、洋平は昔を思い出した。美咲と出会ったばかりの頃を。
洋平の自宅近くのアパートに、美咲達が引っ越してきた。洋平が3歳の頃だ。
後になって知ったことだが――あの頃の咲子は職場復帰したばかりで、経済的にも体力的にも余裕がなかった。だから、できるだけ職場の近くで生活したかったそうだ。
咲子達が入居したアパートは保育園からも近く、職場からの送り迎えにも格好の場所だったという。
彼女達が暮らし始めたアパートは、その時点で築30年。冬は、家の中でも厚着をしていた。ストーブは当然のように点けていたが、それでも寒かった。2、3日家を空けたら、トイレの水が凍ったこともあるという。
咲子は弁護士資格を持っているが、世間のイメージとは違い、それだけで裕福な生活ができるわけではない。幼い子供を抱えてフルタイムで働くことが難しい状況では、裕福な生活など望めない。たとえ、どんな資格や能力があったとしても。
美咲が保育園に入園したとき、洋平は、すでにその保育園に通っていた。保育士が「新しいお友達」として美咲を紹介したときに、初めて彼女と出会った。
当時は、まだ3歳。物心は確かについていた。しかし、はっきりとした自我や人格が形成される以前の年齢。
そんな歳にも関わらず、洋平は、美咲をひと目見た瞬間に心を奪われた。
確かに美咲は、洋平と出会った時点で、すでに整った可愛らしい顔立ちをしていた。だが、お互いに、まだ美醜も理解できない年頃だ。
それでも洋平は、美咲に心を奪われた。あっという間に好きになっていた。
なぜ美咲を好きになったのかは、今でも分からない。もしかしたら、三歳にして美咲の綺麗さを理解し、一目惚れしたのかも知れない。あるいは、幼いが故に動物的な本能が働いて、遺伝子レベルで惹かれたのかも知れない。
好きになった理由など、分からない。
好きになった理由など、どうでもよかった。
ただ、美咲を好きになった。美咲が入園したその日から、洋平は、積極的に彼女に話しかけた。幸いにも家が近所だったので、休みの日には遊ぶ約束もした。
子供が一緒に遊べば、親同士が顔を合せる機会も多くなる。女手一つで子供を抱えているというお互いの境遇から、咲子と洋子もすぐに親しくなった。
美咲は、その頃から、表情の変化に乏しかった。ほとんど笑わず、ほとんど怒らず、ほとんど悲しまない。泣くこともない。
幼心に、洋平は不安になった。自分と一緒にいても美咲は楽しくないんじゃないか、と。
だから、一生懸命楽しませようとした。まだ知恵も知識もない洋平は、美咲を楽しませる方法など分からない。だから、自分が楽しそうに笑い、悲しそうに涙を流し、頬を膨らませて怒って見せた。
感情を全面に出して、豊かな表情で美咲に接した。
やがて、洋平は気付いた。美咲は、楽しんでいないのではない。怒っていないのではない。悲しんでいないのではない。感情を表に出すのが、苦手なだけなのだ。
苦手だが、表情には変化があった。ほんのわずかに上がる口角。少しだけ緩む目元。不満そうにキュッと締まる口元。
美咲の表情の変化が分かると、洋平は、ますます彼女が好きになった。ほんのわずかに、けれど楽しそうに口角を上げる彼女の笑顔が、大好きだった。
あれは、5歳くらいのときだっただろうか。来年には小学生になるという時期。
美咲の家で遊んでいたときに、洋平は、一緒にいた咲子に言われた。
「何かあったら、美咲を守ってあげてね」
咲子は、どんな意図で洋平に言ったのか。今の洋平には分からない。美咲がいじめられたら洋平だけでも仲良くしてあげて、という意味なのか。美咲が悩んでいたら助けてあげて、という意味なのか。もっと単純に、理不尽な暴力から美咲を守ってあげて、という意味なのか。
咲子の言葉を、洋平は、幼い子供らしい単純な意味で解釈した。一瞬の間もおかずに、力強く頷いた。
――誰と戦っても負けないくらいに強くなって、美咲を守るんだ。
その翌日に、洋子が見ていた朝のニュースで、スポーツの報道がされていた。前の日に行なわれた、プロボクシングの世界タイトルマッチのニュース。圧倒的な強さを誇るボクサーが、相手を1ラウンドでKOするシーン。
これだ、と思った。
――こんなふうに強くなって、どんなときでも美咲を守るんだ。
すぐに洋平は、ボクシングの真似事を始めた。アルバイトを始めると、ボクシングジムに通い始めた。毎日毎日、努力を怠らずに自分を鍛え続けた。
確かに洋平は強くなった。中学高校と、全国レベルで優秀な成績を修めた。腕力は間違いなく付いたし、ボクサーとしても強い部類だろう。
でも。
涙を堪えている美咲。
涙を流している咲子。
後悔ばかりが、洋平の心に降り積もった。空から舞い落ちる雪のように。
あのとき。五味に殺されたとき。
五味は、美咲を呼び出すために洋平のスマートフォンを奪った。
洋平は美咲を守るため、痺れる体を気力だけで動かした。自分のスマートフォンを取り返し、破壊した。
それで美咲を守れたと思った。凄まじい暴行の中でも、満足して死ねた。
でもそれは、ただの自己満足だった。
自分が死ぬことで美咲が悲しむことも、苦しむことも、狂わせてしまうことも、まるで考えていなかった。
たとえ傷害の前科がついたとしても、死んではいけなかったのだ。生きて帰らなければならなかったのだ。
もし傷害で逮捕され、美咲や咲子に迷惑がかかるなら、別れればいいだけだ。実の親子である洋子と縁を切ることはできないが、息子としての責任を果たし、支え続ければよかったのだ。
自己犠牲の精神は美しく見える。残される人の悲しさや苦しさをまったく視野に入れない、自己陶酔に近い美しさだ。赤の他人の評価ばかり求める美しさ。大切な人達の気持ちを無視した、美しさ。
犯罪者になってでも、生きるべきだった。そうすれば、どんなに少なくとも、美咲を守り切ることはできた。
犯罪者となり、美咲に別れを告げられたら、もちろん悲しかっただろう。それでも彼女は、幸せな未来を迎えることができる。
もし美咲が別れを望まなかったら、死ぬ気で支え続ければいい。過去の犯罪歴など払拭できるくらい、必死に生きればいい。後ろめたい理由でついた犯罪歴ではないのだから。
洋平の思考の中で「もしも」が何度も繰り返された。実現することのない仮定。どんなに願っても変えられない過去。洋平はすでに死んでいる。物言わぬ遺体は、冷たい土の下だ。
美咲はすでに2人の人間を殺し、死体をそれぞれ別の場所に遺棄した。
法や社会の正義など、どうでもいい。
五味や六田は、洋平や美咲にとって死ぬべき人間だった。だから、彼等が死んだこともどうでもいい。
時計の針を過去に戻せないのなら。
自分の力で美咲を守ることが、できないのなら。
それならば、せめて未来だけは、美咲の幸せに向かって進んで欲しい。
洋平はひたすら祈った。
倫理や正義なんてどうでもいいから、美咲に幸せな人生を送らせて欲しい。美咲を犯罪者にしないで欲しい。
死体が見つからなければ、美咲の殺人が立証されることはない。誰にも知られなければ、美咲はただの高校生で、これからただの大学生になって、さらに未来はただの社会人になるだろう。洋平を失った傷が癒えれば、ただの妻となり、ただの母親になれるはずだ。
だから、どうか。
お願いだから。
五味や六田の死体は、永久に見つからないで欲しい。彼等の人生なんてどうでもいい。美咲を不幸にしないで欲しい。
考え方によっては理不尽とさえ言える願いを、洋平は繰り返した。もう、それしかできないから。願うことしかできないから。
ひたすら願い、祈り続けた。
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