死を招く愛~ghostly love~

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第十五話② 地獄に堕ちて、地獄に落とす(後編)

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 五味が眠ったことを確認し、美咲は、静かにベッドから抜け出した。彼を起こさないように。

 体を密着させていた美咲がいなくなって、五味は寝返りを打った。ベッドの上で仰向けになった。

 五味の体からはだけた羽毛布団を、美咲は、そっと彼の体に掛けた。それはまるで、恋人が風邪などひかないよう気遣っているようにも見えた。

 けれど、違う。美咲は、そんな理由で五味に羽毛布団を掛けたのではない。

 放心状態だった洋平の意識は、はっきりと覚醒した。むしろ、先ほど地獄を見ていたときよりも、明確に。

 美咲は、足音を立てないように歩いた。ベッドの脇の、自分の鞄のところまで。五味の様子を伺いながら、鞄の中を探った。もちろん音を立てないように。二重にした鞄の底から、潜めていた物を取り出した。

 サバイバルナイフ。

 刃を小指側にして、美咲はしっかりとナイフを握った。ナイフを握る右手に、思い切り力を込めている。そのまま、満足気に眠っている五味のもとへと戻った。

 物音は立てない。ゆっくりとした動作。

 時間がやけに長く感じた。けれど、まばたきのように一瞬でもあった。

「駄目だ!」

 声にならない声を、洋平は張り上げた。

「駄目だ! 殺すな! 人殺しなんてしたら――殺人犯になったら、お前の人生は……!」

 心が握り潰された。これ以上ない苦痛を味わった。それでもなお、洋平は、美咲の幸せを願っていた。

 この先、美咲の夫となり、彼女を抱く男がいたとしても。夢に描いていた美咲との将来が、自分以外の男のものになったとしても。たとえ、全身を焼かれるような嫉妬に身を焦がしても。

 それでも、美咲には幸せになって欲しい。

 人を殺すという行為は、将来を捨てることだ。自分の人生を、完全に壊す行為だ。

 洋平は、幾度となく美咲に呼び掛けた。声が届かないと分かっていても。止めることなどできないと、分かっていても。

 美咲が不幸になることが、洋平にとって、何よりも辛いから。

 美咲が、五味の前で大きくナイフを振り上げた。

 洋平は叫び続けた。

「俺のことなんてどうでもいい! 俺が殺されたことなんて、恨まなくていい! 悲しまなくてもいい!」

 洋平の声は、美咲には届かない。

「そんなことをするくらいなら、いっそ忘れてくれ! 俺のことなんて、忘れてくれ!」

 時間がゆっくり流れる。美咲の動きが、洋平にはスローモーションのように感じた。まるで、生前の試合で数回だけ経験した、ゾーンのように。

 ゆっくりと振り下ろされる、美咲の腕。

 ナイフが、羽毛布団に届いた。勢いのついたナイフの先端は、柔らかい羽毛布団を簡単に突き破った。

 羽毛布団の下にいる五味に、吸い込まれるように刺さった。

 ドンッ、という鈍い音が響いた。人の腹に拳を叩き付けたような音。

 衝撃で、五味は目を覚ました。

「……? 美咲……?」

 五味は、状況が理解できていないようだった。無理もない。ほんの一瞬前まで、幸せの絶頂の中で眠っていたのだから。

 美咲が、五味の腹からナイフを引き抜いた。
 羽毛布団に、瞬く間に血の染みが広がった。

「あれ……? なん……だ……?」

 急激な出血のせいで、五味は、横になりながら目眩めまいと貧血に襲われているようだ。まだ意識はあるが。

 美咲は、凍るような冷たい目で五味を見下ろしていた。演技の仮面は完全に脱ぎ捨てている。五味への本心が明確に表れた目。彼女にしては珍しく、感情がはっきりと表に出ていた。

 美咲は、口元に薄い笑みを浮かべていた。それは決して、作り笑いではない。氷のような、という表現がぴったりと当てはまる、冷たい笑み。見る者の全身に鳥肌を立たせ、恐怖を感じさせる笑み。彼女の整った綺麗な顔が、その笑みの凄みを際立たせていた。

 綺麗だからこそ、恐ろしい。

「あんたとのセックス、最低だった。洋平の方が、ずっと気持ちよかった」

 大声ではない。しかし、間違いなく耳に届く、美咲の声。

 五味は目を見開いた。血が失われ、顔色は貧血で青くなっている。それでも彼は、美咲の言葉の意味をはっきりと理解しているようだった。

「下手くそ」

 唾のように、美咲は吐き捨てた。

 五味は目元を引きつらせて、泣きそうな顔になっていた。
 
 洋平は、美咲を抱いたことなどない。
 洋平と比べて五味がどうだったかなど、美咲に分かるはずがない。
 五味を絶望させるための嘘。天国から地獄に叩き落とすための嘘。
 
 洋平には、美咲の意図が容易に分かった。

 言いたいことを言うと、美咲は、再びナイフを振り下ろした。衝撃で、五味の体がベッドの上で揺れた。今度はナイフをすぐに引き抜き、またすぐに振り下ろした。

 五味の口から血が流れてきた。胃から逆流した血だろう。貫かれた羽毛布団から、赤く染まった羽が散っている。

 何度も何度も、美咲はナイフを振り下ろした。呼気を漏らしながら、何度も何度も。ナイフを叩き付けるたびに、ドンッという鈍い音が鳴った。

 五味の鼻や口から血が流れ、目からは光が失われ、明らかに意識がなくなっても、美咲は手を止めなかった。刺し続けた。怒りと憎しみを込めて、刺し続けた。

 美咲の腕が疲労で震え始め、やがて、握力も失われた。血で手が滑り、ナイフを床に落とした。ベッドや羽毛布団は、血でベトベトになっていた。

 五味は、もうとっくに死んでいた。
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