悪の種子

ひよこ1号

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呼べない、名前

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領地に着く前にエルフィアは近隣の者達に手紙を出していた。
挨拶も兼ねて、シヴィアと屋敷の者達の家庭教師を探すためだ。
礼儀作法の教師から、専門的な知識を教える教師まで様々な教師を。
事故の衝撃と、度重なる虐待でカッツェは言葉を失っている。
読み書きは出来るが、言葉を発する事は無い。
医者に診せたものの、心が原因であると言われてしまえば、領地での暮らしに心を癒されてくれればと願うしかなかった。
幸い、シヴィアや使用人達と学びながら、笑顔を見せるようになってきたので、公爵も少しの安堵を覚えたのである。

食事もしっかり摂れるようになり、剣と馬術を習えば日に日にカッツェの活力も増していき、シヴィアも負けじと同じ訓練をするようになった。
まるで姉と弟のように寄り添い、切磋琢磨する様を見て、最初はシヴィアの見た目から警戒していた使用人も心を開いていく。
ディアドラのように理不尽で怒鳴る事はないし、何よりカッツェに対して優しいシヴィアを見れば、今は亡きヒルシュとフローラを思い出して使用人達は涙を禁じえなかった。

夜は不安になるのか、叫んだり泣いたりする事もある不安定なカッツェを、シヴィアがその手を握って添い寝をする。
小間使いを不寝番に置いて、扉を開けたままにしておけば、問題ないとシヴィアが命じた。

「本当はわたくしの色を見ると不安でしょう?でもいつか乗り越えなければいけないのなら、今乗り越えてしまいましょう、カッツェ。いつかは戦わねばいけない相手ですもの」

手を握って小さく言えば、シヴィアの言葉にカッツェは小さく首を振った。
何かを言おうとして、言葉が出ずに、口を閉ざす。

「いいのよ。今は強くなることに力を注いで。言葉はその内話せるようになるわ」


***

あっという間に2年の月日が流れた。
近隣の領地の人々とは穏やかに交流を重ねて、晩餐会に訪れる人々も増えてきている。
相変わらずディアドラの残した負の遺産は大きいが、シヴィアの知的な美しさと優しさに人々は打ち解けていった。
背の伸びたカッツェも、訪れた令嬢の目を奪う位に美しく成長して、エルフィアも自慢できる孫達を抱えて幸せな日々を過ごしている。

言葉が話せない分、シヴィアとカッツェの間には身振りや手ぶりで行動を知らせる暗号を用いていて、ある日突然お忍びで訪れたアルシェン王子もその中に混ざったのである。

「息抜きに来たのに、君達と居たら全然息抜きにならないな」
「あら、失礼ですこと」

身体を投げ出して草原に横になったアルシェンに、シヴィアが心外そうに言えば、カッツェが音もなく笑う。
乗馬をして、剣の稽古をして、領地の勉強をして、また狩りに出てと目まぐるしく過ごしたのである。

「何時王都に戻るんだ?シヴィ」

ここに来て過ごすようになってからアルシェンはシヴィアを愛称で呼ぶようになっていた。
名前さえ呼べない、カッツェの胸はちくりと痛む。

「お祖父様が元気なうちは、留まる心算よ。学ぶことはまだまだ沢山あるし、それに領地に来てからお祖父様の具合も宜しいの。出来るだけ長く、生きていて頂かないと」

アルシェンがちらりとカッツェに目を遣った。

「確かにな。だが、令嬢として次期公爵として活動をするなら王都で社交する必要もある。従兄殿の地位を盤石にするなら猶更だ」

「殿下も、立派に大人になられたのね」

愛称で呼ばれるようになって、シヴィアの口調も砕けていることにアルシェンは密かに喜びを感じていた。
それに、アルシェンにはアルシェンの計画もあったのである。

「明日、殿下のお見送りを兼ねて盛大に晩餐会を開くのですって。近隣の領主たちも集まるそうよ」
「ふむ、それは良い事を聞いた。公爵令嬢殿は、ダンスはお得意かな?」

悪戯っぽく訊かれて、ツン、としました顔でシヴィアは答えた。

「ええ、まあ、一通りは」
「では、ダンスを申し込もう。心の準備をしておいてくれ」
「ご配慮有難う存じます。小さな心臓が潰れずに済みましたわ」

軽口を叩いてクスクスと笑う二人を見て、カッツェはどうしようもなく胸が痛んだ。
何故、友人となったアルシェンも姉弟のように過ごしているシヴィアも大好きなのに、大好きな二人が笑い合う事が胸を痛ませるのか、カッツェには分からなかった。
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