ヒト

宇野片み緒

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一つめ

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十日が過ぎた頃、一つめは再び魂を得た。先代の記憶は無事に残っていた。数多のノイズが聞こえる。また心が読めるようになったのだ。大きなヘラジカがまぶたの厚い目で、水面の彼女を見下ろしている。つのだ。一つめは原始生物の姿のまま、心の中で問う。─聞こえる?─ヘラジカが心で返した。─聞こえる─



やっと、通じた。寒く暗い朝だった。「他人のふりをした理由は?」一つめは喉がしまるような心持ちで思う。ヘラジカの、平坦な心の声が返った。「記憶がないと思い込めたほうが、諦めがつくでしょ。あの時つのが僅かでも振り向いていたら君は、覚えているのって尋ねたでしょ。答えが聞こえないくせに」



角がある生き物の主張は続いた。「そうなると君は、つのの返事を勝手に想像して勝手にヒステリーを起こすから厄介でしょ。お互いにストレスでしょ。関わらないのが正解だと思うでしょ。だから心が聞こえる一つめに戻ってくれるまで待つことにしたんだ」その原稿を読むような心の声に、一つめは苛立つ。



─もし生まれ変わった私も、心が読めなければどうしていたの─原始生物の一つめが問い、ヘラジカのつのは立派な首をかしげて返した。─他人のふりを続けていたよ。聞こえてくれないのが最期まで続いたら、残念だけど他人のまま消える気だった─揺れるアワダチソウの焦燥感に気持ちが重なる。─つのが、嫌い─



抑揚をつけない語り口、眠そうな目蓋、何に化けても生えている角、幼い言動、命を軽視する姿勢、悪気なくイルカを殺したこと、生まれ変わりを賭けにする愚かさ。純粋ゆえに間違える、全ての所作にぞっとする。その独白のような本心に、相手は深くうなだれた。─どうして。つのは一つめと仲良くなりたい─



嫌よ、とだけつのには聞こえ、また落ち込んだ。カタツムリが這うように、水まんじゅうの一つめは地に登る。ヘラジカを見上げ、そして、ヒトモドキに化けて口を開いた。「この姿じゃないと、落ち着かなくて」困ったように笑い、続ける。「あなた、心を読むのが下手ね。一番強い感情しか聞き取れてない」



ヘラジカの眠たそうな目が、わずかに開かれた。─どうして笑顔で声をかけてくれるの。つののこと嫌いでしょ─抑揚は弱いけれど、泣き出しそうに震える心の声。ヒトモドキの娘は、深海のように青い瞳を向けて、肩をすくめた。「ええ。どうしても許せない。でもつのは良い子なんだと思う。許せない私が嫌」



薄茶の髪が、微風になびく。つのは、彼女を見下ろした。─良い子じゃないよ。優しくしないで、苦しいでしょ─そう思ってヘラジカは、水まんじゅうに戻った。湖に入り、逃げるように沈んでいく。「ねえ、離れても私には心が聞こえる」一つめが言うと、静かに心が返った。─逆、そっちの心を聞きたくないの─



ヒトモドキの娘は眉根を寄せてから、すぐ湖に飛び込んだ。体の一部として化けている、袖も飾りもない簡素な白のワンピースが、水中で尾ひれのように膨らんだ。肌着は着けていない。張り付く布が不快で、服の変身を解いた。このヒトに似た生き物は性器に何の意味も持たない。裸体は清廉な彫刻のようだ。



器用に泳ぎ、異形の原始生物を両手で優しくつかまえた。追われた意味が分からず、つのは一つめの心を読んだ。単に話し相手が消えるのが寂しかったらしい。読心が上手くないので、きっとそれだけではないのだけれど。─泳ぎにくいからって、服を消したのはどうかと思うよ。水着に変えたらよかったでしょ─



つのが思うと彼女は清らかに、首をかしげた。─化学繊維は作り出せないわ。ヒトになれないのに、ヒトが開発したものになれるわけがないの─そう心の声を紡ぐ姿は全く息苦しそうではなくて、─ねえ息継ぎは?─つのが出し抜けに聞く。一つめの巻き髪が上向きに揺れている。元の姿が水生だから平気と笑った。



「かわいそう。人魚みたい」と、つのの心が弾んだ気配。もう遅かった。止める間もなかった。一つめの前には同じ姿のヒトモドキが浮いていた。─どうして化けたの─尋ねなくても、本当は分かっている。心が聞こえているのだから。つのはただ性懲りもなく興味を持ってしまい、息が出来るかを試しただけだ。



それが一つめには理解不能だった。納得できる説明がほしかった。─どうしてか教えて。あなた、消えたいの?─涙目で思う。ヒトモドキのつのは、勢いよく水面に顔を出した。飛沫があがる。その生き物は肉声で叫んだ。笑っている。「ねえ一つめ。つのね、何もかもを忘れるように願うよ」指先が崩れだした。



一つめは上半身だけを引き上げ、岸辺に手を着いた。頬を伝う水が、涙と混ざった。最早どうしようもない。つのは無くなりながら続ける。「どうか、逃げることを許して。耐えられない……」歪んだ笑みが砂になって崩れていくが湖は濁らない。さよならと唇が動いたようだった。つのの水滴が、波紋を作る。
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