文バレ!③

宇野片み緒

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第九章 唄唄いのピエロ

「ありがとうございました」

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 そして、出番が来た。対峙するのは、あの個性豊かな芸能専修の面々だ。
「新古今の皆さんは、三回戦で負けたよね。おっとこちらは去年の話」
 向かいのコートでピエロが歌う。蛍光ピンクの頭が眩しい。左胸には刺繍されているはずの名前がない。本名を隠すためか、わざわざ糸をほどいたらしい。名前がわからない少年は、校名通りまさに歌うように軽いステップを踏みながら言う。
「それを言ったら僕たちは一回戦で負けていた。去年は去年、今年は今年。そう、文芸バレーボールには未来がある。さあ始めよう、じゃんけんぽん」
 歌の流れで言われたから、タイミングに乗り損ねるところだった。慌てて握りしめた手は、あっけなくピエロに負けていた。このどうしても勝ちたい局面で後攻。方丈戦で運を使い果たしたかもしれない。審判の尺八が高く鳴り、運命を分かつ戦いが始まる。
「唄唄い高等学校 対 新古今高等学校 全国大会四回戦 開始」
 唄唄いが初めのレシーブを打つ。
「不思議の国のアリス」
 好きそうだなあーッ!
 昨日の映像からも分かる通り、こいつらの戦い方は本当に厄介なんだ。一つの作品をぐんぐん掘り下げる。そのくせ得意な作品じゃないと颯爽と話題を変える。身体能力も高く、球の起動が滑らかで速い。ヒイロが受けてトスをする。
「仕掛け絵本」
 広げた。ジョージがアタックを繋ぎ、奴らの手中から逃れるべく作品を変える。
「星の王子さま」
 仕掛け絵本と言えば、不思議の国のアリスと星の王子さまが並んで有名だ。
「ゾウを飲み込んだウワバミ」
 唄唄いは慌てず返してきた。星の王子さまの話の序盤に出てくるエピソードである。語り手が幼少期に描いた、帽子みたいな絵。本当はゾウを飲み込んだウワバミを描いたのに、大人たちは帽子としか思ってくれなかった。挿し絵もあって、やっぱりそれは帽子に見える。
「帽子」
 思いついた言葉のまま打ち返したことを、すぐに後悔させられた。敵陣のエスニックな雰囲気の女子が、ニヤリとこう言ったのだ。
「狂った帽子屋」
 意地でもアリスで行くからな、何が来ても戻してやるからな、という執念を感じる。聖コトバの聖書の時のようなホームグラウンド感。針のように一直線に戻ってきた球を、
「水銀」
 ソウルが返した。俺たちは今、不思議の国から逃れなくてはならない! かつてフェルトを硬くするために、水銀が帽子の製造過程で使われていた。そのため帽子屋の気が狂うのは、しばしば現実にあったのだ。水銀中毒の初期症状である手足の震えは、当時、
「帽子屋の震え」
 と呼ばれていた。やがて舌がもつれ、さらに症状が進むと幻覚や精神錯乱の症状が起こる。キャラクターの話題から時代背景に上手く話を変えられたはずだが、唄唄い高校は掘り下げてきた。ソウルが、違ったかと呟く。戻った球を今度はヒイロが飛ばす。
「Mad as a hatter」
 これは英語の慣用句。直訳すると「帽子屋のように気が狂っている」、使われ方はクレイジーと変わりない。不思議の国のアリスの登場人物「帽子屋」は、この慣用句を元ネタに考えられたという。ここから日本語の慣用句合戦にでも変われば、速見が活躍できる。
「Mad as a March hare(三月うさぎのように気が狂っている)」
 唄唄いのピエロが楽し気に打ち返してきた。チッ、とヒイロ。この言葉も、帽子屋以下同文って感じだ。繁殖期のうさぎが落ち着いていないことが語源。ちくしょう、またアリス。
「エエーイッ、沼!」
 内田が高く跳んで打った。三月うさぎという言葉は、元々は三月(マーチ)ではなく沼(マーシュ)だったという説もあるのだ。うさぎの繁殖期は長く、三月に限っておかしくなるわけじゃない。古い文献にもMad as a Marsh hareとあり、やはりマーシュがマーチに転訛したのではないかと言われている。三月うさぎではなく、沼うさぎ。急に響き悪い。
 焦りからか久々にエエーイを言ってしまった内田。舌を出してはにかんでいる。
「ネットスラング」
 唄唄いは、沼に対しそう返した。ネットスラングで言うところの沼は、ハマったら抜けられない深い魅力のある作品に対して使われる言葉だ。(使用例:キャサリン花子の『アンバーは眠る』沼すぎたから、同じ作者の作品を他のも見てみる。めっちゃ沼。この沼深すぎ♡)
「草生える」
 ソウルがメガネを光らせて返した。申し訳ないけどお前の容姿でそれ言ったら、もんっのすごくオタクっぽい。ちなみにネットスラングで言うところの草だが、WARAIの頭文字Wが草に見えることから、笑っている様子を現している。ただ単純に(笑)と同じような使われ方の時もあれば、軽い嘲笑の時にも使う。これは平成のネット史で学んだ。二千百年代の若者が使うものではないが、文バレ部員は古典が好きなので結構わざと草を生やす(Wを書くことを生やすと言うのだ、草だけに)。母さんからのメールにもたまに生えている。世代はばあちゃんの方が当てはまるのだが、オタクじゃなかったばあちゃんはネットスラングを使わない。
「大草原」
 唄唄いが軽やかに返す。大笑いを表す際Wはほぼ無限に増殖するのだ。Wだらけの字面のことを指して大草原。この説明、自分でも何だそれはという気持ちになってくる。
 ここで大草原という、広げやすい選択。ピエロたちは、これ以上掘り下げたくないのだろうか。本来の意味の大草原と捉えれば容易に変えられる局面。罠か? 話が変わるのを待っている? やつらに都合が悪い返しはどっちだ。奔放するように蛍光ピンク頭が口角を片方あげた。考えるな、俺。そうじゃないだろ。学んだだろ。弱点を狙っている内は勝てない!
「大草原の小さな家」
 どうしても思い浮かんだ小説の題を述べてアンダーを打つ。
「開拓」
 唄唄いはトスを上げた。西部開拓時代のアメリカがこの作品の舞台である。相手コート内で続く言葉はあと二つまで。
「インディアン」「黒人」
 声高らかに述べられて、ボールは滑らかに来た。開拓によって追いやられた先住民たちの描写もあるのだ。この作品の、静かに激動を描く雰囲気はとても良い。
 打ち返したのはジョージだった。
「ちびくろサンボ」
 いや待てーッ! 唐突に作品を変えやがったので、目を点にして見てしまった。黒人の少年が主人公の絵本。無論、ちびくろサンボも超良作だが、俺は今は大草原の小さな家を語りたかったのだ。おのれ遠道常侍。視線に気づいて、やつは苦笑いで「あ、さーせん」と長身を雑に振った。切り替えていこう。ソウルがアタックを続ける。
「絶版措置になりかけた」
 念のため「なりかけた」を足したのに性格が出ている。審判によっては間違いと捉えかねない。ちびくろサンボは、黒人差別と言いがかりをつけられて出版が自粛された時期がある作品なのだ。実際に絶版措置が取られたわけではないが、一時どの書店からも姿を消した。問題とされたのは、サンボという名が英国における黒人に対する蔑称と共通していること、サンボが百六十九枚のパンケーキを平らげる描写が大喰らいの黒人を馬鹿にしているのではないか、サンボの派手なファッションは黒人の美的センスを見くびっているなど。
 サンボという言葉は、南アメリカにおいてはインディオと黒人の混血という意味らしい。また、シェルパ族という民族の間では一般的な名でもあるそうだ。
 パンケーキの件も、インドにはクレープのように薄いパンケーキがあるので多分それのこと。まあいずれにしろ百枚以上は食べすぎだが、ユーモアを込めた表現である。馬鹿にしていると言うのは解釈がひねくれすぎではないだろうか。
 派手な服のことにしても、ファッションは個人の自由。言いがかりをつけたやつらこそ、差別してる張本人だと俺は思う。
 そんなことを考えながら、「差別」「インド」「パンケーキ」とラリーは続いた。
「逃げ出したパンケーキ」
 唄唄いのピエロがそう言った瞬間に、十五分経過の小太鼓が鳴った。まだ一点も奪えていないが、一点も渡していない。逃げ出したパンケーキはノルウェーの民話だ。食いしん坊な子供たちから、パンケーキがタイトル通り逃げ出す。ころころころころ。ころ、ころ、ころ。
 三分。再開。ころ、ころ、ころ、ころ。
「逃げ出したパンケーキ」
 ニット帽の男が楽し気に打った。それに対しヒイロが、ハッとした顔で言いアタックした。
「橋のない川!」
 想定外の切り口に、俺たち新古今までぎょっとした。逃げ出したパンケーキの終盤に、橋のない川が登場するのだ。渡れなくて、これ以上逃げられないと困っているパンケーキに「乗せて渡ってあげるよ」と心優しく声を掛けたブタ。ブタさんいいやつ~と思いきや、鼻に乗せた途端に、ブタは「しめしめ騙された」とパンケーキを食べてしまいましたっていう結末。いきなり話が変わればつい作者名を言ってしまうという、文バレの罠を張ったつもりだったろう。だが唄唄いのピエロは賢かった。素早く飛んで行った球を受け、確かに、橋のない川が登場する別のメジャーな作品を挙げてのけた。流麗な弧を描いて球が返ってくる。
「走れメロス」
 残念ながら、ヒイロが期待したであろう方向には移らなかった。舌打ちが聞こえる。ヒイロの好きな小説に『橋のない川』というタイトルがあるのだ。こちらは1900年代の被差別部落の生活をリアルに描いたもので、邦画にもなっている隠れたロングセラー作品。それで攻めて点を取る作戦だったに違いない。我らのヒーローが、完全に揚げ足を取られた。『走れメロス』なら教科書に出てくる作品なので、続けやすくはなる。だがそれは全員同じ条件。様子見のようなスムーズなラリーがしばらく続いたが、徐々に豆知識合戦になる。そしてまた十五分経過の小太鼓。客席からもれる、緊張が一瞬解けた息の嵐。
 そこでヒイロが目を曇らせて「いや……、は?」と眉をしかめた。時間差で『橋のない川』を語れなかった悔しさや、作戦失敗のショックが来た様子。彼はいつものように善戦していたが、ルート検索をし直すカーナビのように、無難で模索する解が続いていた。
「何てことなんだぜ。話を変えないとマズい感じなんだぜ」
 速見が頭を抱える。ジョージが顔をしかめて続けた。
「パンケーキからなら、しろくまちゃんとか、ぐりとぐらに繋げられたんすけどね、俺が」
「突然の『橋のない川』でしたね。メロスに行ったのでまだ着いていけてますけど」
 内田もむくれる。いつもは頼りになるヒイロの独断と無双が、ついに仇となった瞬間だった。
「悪い。打開策を考える」
 やつは素直にこうべを垂れ、切れ長の目を伏せた。ソウルが過呼吸になりそうにうつむいている。純文学方面にいくと、強いのはソウルだ。順調にラリーが続いたものの、豆知識合戦になってからは対応回数にムラがあり過ぎた。
 走れメロスの大まかなあらすじ。暴君が罪のない民衆をどんどん処刑しているという噂を聞いて激怒したメロス、暴君を暗殺しようとしたら見つかって捕まる。処刑を言い渡されるが妹の結婚式が明後日。ちゃんと処刑を受けに戻るから、結婚式だけは行かせてほしいと王に懇願。友人のセリヌンティウスを人質に置いて、メロスが帰らなければ代わりにセリヌンティウスが殺されるというトンデモ約束で一時解放されたメロス。それで家と城を往復して潔く殺されるつもりが、葛藤と弊害がすごい話。川に橋がなかったり、寝坊したりする。ちなみに裏切らず戻って、その友情に感激した王が心を改めて、どちらも殺されない感動エンド。
 さて、試合再開だ。「シチリア」「ギリシャ人」とメロスのプロフィールを上げ、まだまだ物語を掘り下げる姿勢の唄唄い。必死で残っているネタを探す。「人質」が来た時、俺は意を決して叫んだ。連想ゲームとして成り立つが、話を変えられるもの。
「借金」
 メロスは勇敢に舞い戻ったが、作者の太宰治は戻らなかった逸話からである。この『走れメロス』には元ネタになったエピソードがあるのだ。宿代が足りず、友人を人質に置いて借りに走った太宰、戻らなかった。
「働けど働けど……」
 とソウルが続けて、ヒイロが「ぐっ」と笑いをこらえる声を漏らした。確かに、太宰治の借金話から、そこに繋げるのは笑う。大きく飛躍したボールが送られる。

  働けど働けど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る

「石川啄木」
 相手コートから著者名が返ってきた。妻子を顧みずに遊びにお金を費やし、多額の借金を持ちながらも天才歌人だった複雑な人物だ。そこから歌人に話題が移って長く続く。時代を行ったり来たりして、どんどん経つ時間。あと少しで四十五分。意識が遠のき始める。
「サラダ記念日」
 内田の声だった。しゃきっとした言葉が冷水のように響く。

  「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 俵万智の第一歌集で、後の近代短歌に大きな影響を与えた本だ。また尺八の長い音。
「くそっ。まだゼロゼロかよ」
 ぼやく。ここからどう自分たちのフィールドに持ち込むか、三分間で話し合う。
「短歌なら、メジャーなとこは学んだんだぜ。小林一茶とか松尾芭蕉」
 速見が眉間に皺を寄せながら、サムアップせずに言う。
「あんま自信ないんじゃねえか」
「おっと、顔に出てたんだぜ?」
 苦笑して角刈り頭をかく速見。ヒイロが真剣な顔で時計を睨んだ。
「賢治さんを呼びますか?」内田。
「梶さんもいるよ」ソウル。
「友だちかッ! いや、そうだな、詳しいとこでぶつけるしか……」
 高く尺八がなり、ラスト十五分。もうそこからは、どう動いたかも、何を言ったかも、よく覚えていない。不要な音が遠のいて知識の引き出しを出しては閉めるビジョンが脳裏を占めていた。ただ負けたくない一心で、がむしゃらに排球を叩き、知識を絞った。有利な話題を奪い合いながら、零対零のまま──気づけば、一時間が経過していた。長い尺八の音で我に返る。
「引き分け」
 審判が、止めていた息を思いっきり吐きだすように叫んだ。タイムスリップから戻ったかのように、世界が広く見えた。俺たちはたった一時間で、何百年の文学史を駆けただろうか。ピエロは、少し汗を浮かべてにこりとした。猫を思わせる黒目がちなつり目が、まるで文字を隙間なく書き込んだ半紙のようだ。重心を崩して立ち、彼はコートの下から手を伸ばした。
「ありがとうございました」
 リズムがついていない台詞に違和感。
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