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第八章 神々の戦
「何を……」
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午前十一時。十六チームから八チームに絞られて始まる四回戦。残ったのは、万葉高校、全四季愛護学院、詩吟高校、日本再生大学付属高校という去年の上位がしっかり揃っている。そして唄唄い高校、聖コトバ学院、俺たち新古今高校。それから、二兎学院という聞きなれない校名だった。準々決勝が始まる。始めに収集されたのはニチセイと詩吟だった。もう対戦校が少ないので、アリーナ分割での同時進行はここで終わる。役目を終えた第二アリーナに、心の中で敬礼をして移動する。弱小のレッテルを、フルイを、乗り越えることが出来た場所。
去年の四位と三位の対峙は客席を高揚させた。風神雷神が動き出したとしたら、こんな雰囲気に違いない。第一アリーナに押し寄せた人だかり。歌仙高校と並んでコートを見下ろす。
あの万葉のトキセンが、審判として立っていて目を疑った。協会に所属していたのか。スキンヘッドで厳つい彼は、尺八ではなく笙を持っている。その笙で思い出した。去年も居た。
「尺八って決まりじゃないんですか」内田が俺に聞いた。
「基本尺八。ピーッてなる和楽器なら違ってもいいらしい」
「ふええ、そんなものですか」
でも尺八以外を使っている審判は滅多に居ない。時任先生の笙はかなり浮いている。そこが一匹狼のようで格好良い。第一回全国大会のときも、一人だけ違う楽器の審判が居ると思ったんだった。だがその時は流してしまうくらい薄い印象だった。スキンヘッドではなく、目つきも今ほど怖くなかった。そして万葉高校の先生でもなかった。転勤があったのだろう。万葉のやつらにナメられない為に変わったんだろうか。でも、演じているようには全く見えない。
笙の音が響く。天井に向く管が、神に歯向かう刃のように伸びている。
「日本再生大学付属高等学校 対 詩吟高等学校 全国大会四回戦 開始」
低い呟き声が、ピンマイクを通した音で大きく届く。地声を張る人が多い中、マイクを使っているのも異端だ。あの雰囲気で、トキセンと軽く呼ばれているのも今更ながら妙に思う。
ニチセイの相手となった詩吟高校は、その名のとおり詩吟に強い。体操服は濃緑で、ズボンの裾に補強みたいな黄土色の三角模様が付いている。おなじみの伊賀忍と、敵陣のフロントセンターがじゃんけんをする。遠目で手元は分からない。互いにほくそ笑んだように見えた。どちらが勝ったのだろう。詩吟側が、無理に口角を上げた困惑顔で、語尾を上ずらせて述べた。
「え、なんで笑って? まさか今回に限って負けると勝ちとかそうゆう?」
爽やかなイケメン―茶髪に緑の目で、イタリアあたりの血を引いてそう―だが、苦労人そうな印象を受ける喋り方と表情をする男だ。トキセンがぼそりと述べた。
「先攻 詩吟高校」
詩吟のその人は、あーよかった! と大げさに胸をなでおろした。
「笑ったんは、どんな出題でも余裕で受けて立ついうことでんがな」
忍が堂々と胸を張る。爽やか苦労人は目を丸くして、言うね、と笑う。
詩吟の丸眼鏡の女子が球を上げ、会場の空気が一気に研ぎ澄まされる。濃いブロンドヘアに青目だが、顔立ちや姫カットが日本的な人だった。
「鳥啼く声す 夢覚ませ」
球は一直線に飛んだ。
「見よ明け渡る 東を」
李さんが打ち返した。この詩、なんだっけ。どこかで聞いた。
「空色映えて 沖つ辺に」
「帆船群れゐぬ 靄の中」
爽やか苦労人と、忍の伸びやかな声が連なる。竜が飛ぶあの球。だが詩吟はブロックした。
「新いろは歌!」
そうだ。新いろは歌。通称、鳥鳴歌。この詩は、明治時代に公募された「国音の歌」で一等に選ばれた作品なのだ。かのいろは歌を、旧いろは歌と呼ばせてしまう強い存在感を持つ。
とりなくこゑす ゆめさませ
みよあけわたる ひんかしを
そらいろはえて おきつへに
ほふねむれゐぬ もやのうち
素早く戻った排球をニチセイが打つ。
「萬朝報」
その公募が行われた新聞の名。別称の「赤新聞」を返そうとして、詩吟のバックライトが球を取り落とした。一対零とトキセンが淡泊に述べる。目を見張った。知識は追いついているのに技術面で点を落とすというのが珍しくて。拾えたのに言葉が出ないというのは、経験したことがある。だがこれは少ない。ジョージが肩をすくめて苦笑した。
「新聞の歴史まで入っちゃったら俺もうお手上げっすわ」
ヒイロがその横ですっと姿勢を正して言う。
「新聞なら、いける」
落ち着いた物言いだが、若干のドヤ顔。赤毛の後輩は、冷淡で寡黙なはずのやつが普通に会話に入ってきたことにニヤけて目をぱちくりし、すぐに軽口を返した。
「ヒイロさんが言ういけるって別次元のやつじゃねえすか、やだー」
「子供新聞を読んで育った」ドヤッ、ほぼ真顔。
「もうやだー。家庭環境から違うやつじゃねえすかー」軽薄な笑み。いつのもやつ。
萬朝報から試合が再開する。赤新聞という別称は、それに淡紅色の用紙が使われていたところから付いたという。萬朝報は今で言うところのゴシップ誌のような内容を扱っていた。これが語源となり、次第に「赤新聞」は暴露的な内容を扱った低俗な新聞全体を指す言葉として用いられるようになったらしい。安定したラリーで、赤新聞、イエロー・ジャーナリズム、ゴシップ誌と試合の言葉が続く。危なげないやり取りが連続していると、逆に不安が募ってくるのが、この球技の面白みである。いつ仕掛けられるか。
「センセーショナリズム」
ニチセイの攻撃。日本語で言うと扇情主義。大衆を煽る言動をわざとして注目を浴び、思い通りの方向に動かそうとする手法のことを言う。対して詩吟が述べたのは、これだった。
「短くて恐ろしいフィルの時代」
飛躍にゾッとした。小説のタイトルだ。これに登場するフィルという者が、正に扇情主義の具現化のような存在である。でもここで結びつくとは、さすが詩吟高校……。ニチセイのバックレフトが打ち返し「く、ジョッ、ば」と言葉にならない声が聞こえたが、笙は鳴った。
「一対一」
トキセンの低い声が告げる。打った者が梅干を食べたような酸っぱい顔をした。ドンマイと励ましの声が飛び交う。分かる。予想していなかった言葉が来ると、返しの候補が脳裏を渦巻いて、頭文字の羅列みたいなことを言ってしまう時があるのだ。俺も前に、芥川と羅生門で迷った結果「あっくらしょ」とか口走った事あるし。欅平さんがしばらく「よっこらしょ」の代わりに使い、からかい倒してきたあの夏。良い想い出ばかり美化されているけれど、こうして場面場面を思い返せば欅平さんって、素晴らしい先輩であると同時に結構ウザかったな。
梅干し顔くん(こんなあだ名になってしまった)が、詩吟側に排球を転がす。忍の表情が、いつもと違い緊迫しているのに鳥肌が立つ。勝て、勝て、と心の中で幾度も唱えた。
短くて恐ろしいフィルの時代は、設定が非常に面白い。俺の言葉で説明をつらつら並べ立てるより、この本に限っては冒頭を読んでもらうのが一番だから引用しよう。
国が小さい、というのはよくある話だが、〈内ホーナー国〉の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった。
(『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダース著 より引用)
こんなぶっ飛んだ始まり方。そして、外ホーナー人であるフィルが、はみ出ている内ホーナー人のことを侵略などと難癖をつけるところから、物語はあらぬ方向に展開していくのだ。フィルの演説の独裁者っぷり。彼の考え方に心酔していく国民。見事な構成である。
サーブ権は詩吟。短くて恐ろしいフィルの時代、と再びボールが上がる。忍の返しは、
「五十歩百歩」
――ああ、もう、天才。似たり寄ったりという意味のことわざだ。描かれている内ホーナー人と外ホーナー人の戦争は、結局のところ五十歩百歩と描写できる、箱庭的で皮肉な構図なのだ。それを踏まえて、得意な分野に一瞬で持ち込んだニチセイの実力。
「ことわざ」
咄嗟にそう返した詩吟。ジャンルを大きくする程、相手が有利になる。客席が、詩吟がミスをしたとざわつく。今のニチセイは、ことわざなら何でも言っていい状況だ。
「覆水盆に返らず(やりなおせないねえ)」
ここぞとばかりに詩吟を煽ったニチセイに少し笑ってしまった。あいつ、俺たちとの練習試合の時に、一生懸命(がんばってるねえ)って言ってきた野郎。明朗快活なニチセイにも、性格がちょっぴり悪い程度の憎めないキャラはいるのだ。
「It's no use crying……」
詩吟の、丸眼鏡の女生徒が述べた。似た意味の英語のことわざである。クオーター感のある生徒が多い詩吟、得意分野かもしれない。彼女が上げた球を爽やか苦労人が打つ。
「over spilt milk」
拾おうとした少年が、あろうことか大混乱の様子で口パクになり、台詞が出なかった。
「一対二」
笙が鳴り響く。ニチセイらしくもない、全く知識が追い付かなかったような失点だった。客席はまた、意味を変えてざわつく。あの忍が笑顔じゃない。いつも人懐こい犬のような雰囲気の彼が、今は敵陣を睨みつけていて、獰猛な番犬のようだ。ソウルが小さく言った。
「ニチセイってもしかして、英語が弱点?」
「今拾おうとしたあの子が、だけならいいよな」
願望混じりの返答をした。そこで十五分の太鼓がなった。トキセンは、使う太鼓も風変わりで、エイサー用みたいなものだった。あの人いちいち目立つぜ、と速見が独り言ちた。
ニチセイは、こそこそと何か打ち合わせた様子だったが、メンツは替えなかった。
「It's no use crying over spilt milk」
詩吟が改めて打った球に対し、李さんが自信なさげな声で、英語のことわざを一つ返した。
「Time is money(時は金なり)」
その素人みたいな言動で、悪い予感は的中したかに思えた。ニチセイはやはり、英語が。詩吟の連中が表情を明るくする。現状やつらはマッチポイントだ。しかも弱点を見つけた。
いや、まだ分からない、弱点かはまだ分からない! 詩吟は気を抜いている。
「Failure teaches success(失敗は成功のもと)」
詩吟の爽やか苦労人が、それ以外どうせ知らないんだろ、何か言い返してみろ、と言うような態度で簡単な球を打った。不意に、さっき落とした少年が、報われたような息を吐いた。
「ほら、油断しタ」
李さんのカタコトが聞こえた。
「ヘースト イズ フロム ザ デビル(急いては事を仕損じる)」
そう述べてバックライトがトスを上げた。発音は贔屓目に言っても下手。高く上がった排球を忍が、似たり寄ったりなカタカナ英語で打ち込む。発音はクソだが、良い笑顔だった。
「エブリー ドッグ ハズ イッツ デイ(どんな犬にも良い日はやって来る)」
竜を乗せたボールが、敵陣を噛みつきに行く。そしてそれは、華麗に決まった。
「二対二」
「ちょ、ちょ待てよ英語、弱点じゃないの」
困ったような爽やかな笑みを浮かべ、詩吟の人が忍に聞いた。ニチセイのキャプテン、伊賀忍は白い歯を見せて、強さを絵にしたような目つきの笑みを浮かべる。
「ホンマに英語あかんのは、さっき慌てて点落としてもうた、小寺くん一人だけですねん。仲花の言うたタイムイズマネーは、そこから思いついた、油断させるための作戦でんがな」
淡々と、落ち着いた声色で語る。忍って、集中するほど静かになっていくタイプなのか。見たことのない様子に俺は身震いした。あの本気をぶつけられたことが、未だない。忍は、ふうと息をついてから、仲間達を見る。「あわわわ」みたいな表情になっている小寺くんに言った。
「あ、言うてしもた。君むっちゃ狙われるんちゃう? がんばってな! アハハハ」
「忍さんひどい!」「勉強怠ったん誰ェ?」「文バレの試合で英語来る思わんでしょうがあ」
互いにマッチポイントになった局面。李さんがレシーブを打った。
「Every dog has its day」
彼女の発音は綺麗だ。詩吟の丸眼鏡の女性がいじわるな表情で、小寺くんの方に打った。
「The end justifies the means(終わり良ければすべて良し)」
「Pride will have a fall(驕れる者久しからず)」
少年の前に躍り出て、他のやつが打ち返した。詩吟、かばわれる小寺くん、の構図でラリーが続く。忍は小寺くんからは対角に居て手出しできず。見ていた内田が、ウヘエと呻いた。
「ウヘエて。どうした」
「今の小寺くんの状況が、聖書戦の時の自分とモロ被りしていて、頭痛が」
そういえば。あの練習試合から半年以上も経っていることに、感嘆が漏れた。
「確かにあの時の聖コトバ酷かったよな。ふええ、速見さあん、助けてくださあーいっ」
裏声での大げさな物真似に、風船みたいにむくれる内田。
「僕あの時、分からないのに狙われ続けて、すごくつらかったんですからねっ」
「だよな」
同意が来るとは思っていなかったようで、後輩はきょとんと俺を見た。
「いや、俺だって一年生の頃は敵から的にされること何度もあったし。分かる」
ものすごく当然のことだが、内田は驚いた顔をして、あ、そっか、と呟いた。
その間にも、ことわざラリーは続いている。行き来する球。怯えた表情で周りを見る小寺くん。知っている英文を暗唱する面々。お約束みたいに、小寺くんをかばうことを挟んでのループ。ついに忍が眉根を寄せて「何を……」と呟いた。コートを突っ切り速い球に追いつく。
「何を思考停止しとんねん、お前ら!」
完全に、文芸に関係ない感情を乗せて白い竜が天に昇った。会場中が、ぎょっとした。トキセンも一瞬目を見開いて、秒読みのため時計を見る。あの忍が、ひどく怒っている。
「英文のことわざ挙げてく遊びしてるんか。文芸バレーボールしてるんちゃうんか」
朗々と響く声。風を切る音がする。表情を和らげて、彼はきっぱり告げた。
「分からんなりに考えて、自分に来た球は打たなあかんて。小寺くん」
落ちてくる排球を、ニチセイの他のメンツはもう打とうとせずに頷いた。伊賀忍の指示の下、大いなる信頼を持って見守っている。小寺くんが目に涙をためて打った。
「翻訳」
という、あまりにも単純で、正しい言葉を乗せて。会話発生から一分間の秒読みは、とっくに止まっていた。隣からすすり泣きが聞こえる。
「いやなんでお前は泣いてんの」
「助けてくださーいって甘えた過去の自分が情けなさ過ぎて」
「そんなもんだろ、一年の初めは。お前ほんと自分のこと責めすぎるよな。気い抜けよ」
さらりと言ってから、痛すぎるブーメランに気づいてしまった。勝手に背負い込んで思い込んで泣く癖あるのは、俺もだ。「はい」と言った内田の声にかぶせて、はい、と思った。
「字幕翻訳」「ハコ切り」「スポッティング」
話題を変えて試合は続いた。ハコ切りとは、翻訳前のセリフやナレーションの、どこからどこまでを一つの字幕にするのかを決めていく作業のことだ。そしてスポッティングは、ハコ切りで決めたとおりに映像を区切り、セリフの文字数を決めていく作業のこと。字幕というものは、一秒の映像に対して四文字程度と定められている。それ以上になると目が追い付かない。例えば英文のことわざにあるEasy come, easy go(簡単に手に入る物は簡単に離れていく)だって、もし字幕だったらこんなに長い翻訳じゃいけない。例えば映画中のセリフなら、前後の場面にもよるけど(けっ、安物め)とかになるのかも。
まさにニチセイが、そのことを述べて打った。せこいとも取れる。策略とも取れる。
「一秒四文字」
それに対して返せる言葉なんて、あまりにも限られている。詩吟は返せなかった。どんな強豪だって、これはきっとむりだ。潔い諦めだった。排球が床に転がり、笙が鳴る。
「二対三。勝者、日本再生大学付属高等学校」
いつもなら敵をあっという間に倒し、ホンッマ楽しい試合やったがな、などと余裕で笑う忍が珍しく、疲労と喜びを噛み締めた表情で、やったあああとアリーナ中に響く声で叫んだ。部員たちの雄叫びが続く。去年の三位決定戦で負かされたチームに勝てたのだ。喜びは計り知れない。そして詩吟の面々も、心から悔しい表情をしている。顔を覆ったり、へたりこんだり、声を凝らして号泣している者もいた。これが強豪の試合。これが、四回戦以上の世界。
去年の四位と三位の対峙は客席を高揚させた。風神雷神が動き出したとしたら、こんな雰囲気に違いない。第一アリーナに押し寄せた人だかり。歌仙高校と並んでコートを見下ろす。
あの万葉のトキセンが、審判として立っていて目を疑った。協会に所属していたのか。スキンヘッドで厳つい彼は、尺八ではなく笙を持っている。その笙で思い出した。去年も居た。
「尺八って決まりじゃないんですか」内田が俺に聞いた。
「基本尺八。ピーッてなる和楽器なら違ってもいいらしい」
「ふええ、そんなものですか」
でも尺八以外を使っている審判は滅多に居ない。時任先生の笙はかなり浮いている。そこが一匹狼のようで格好良い。第一回全国大会のときも、一人だけ違う楽器の審判が居ると思ったんだった。だがその時は流してしまうくらい薄い印象だった。スキンヘッドではなく、目つきも今ほど怖くなかった。そして万葉高校の先生でもなかった。転勤があったのだろう。万葉のやつらにナメられない為に変わったんだろうか。でも、演じているようには全く見えない。
笙の音が響く。天井に向く管が、神に歯向かう刃のように伸びている。
「日本再生大学付属高等学校 対 詩吟高等学校 全国大会四回戦 開始」
低い呟き声が、ピンマイクを通した音で大きく届く。地声を張る人が多い中、マイクを使っているのも異端だ。あの雰囲気で、トキセンと軽く呼ばれているのも今更ながら妙に思う。
ニチセイの相手となった詩吟高校は、その名のとおり詩吟に強い。体操服は濃緑で、ズボンの裾に補強みたいな黄土色の三角模様が付いている。おなじみの伊賀忍と、敵陣のフロントセンターがじゃんけんをする。遠目で手元は分からない。互いにほくそ笑んだように見えた。どちらが勝ったのだろう。詩吟側が、無理に口角を上げた困惑顔で、語尾を上ずらせて述べた。
「え、なんで笑って? まさか今回に限って負けると勝ちとかそうゆう?」
爽やかなイケメン―茶髪に緑の目で、イタリアあたりの血を引いてそう―だが、苦労人そうな印象を受ける喋り方と表情をする男だ。トキセンがぼそりと述べた。
「先攻 詩吟高校」
詩吟のその人は、あーよかった! と大げさに胸をなでおろした。
「笑ったんは、どんな出題でも余裕で受けて立ついうことでんがな」
忍が堂々と胸を張る。爽やか苦労人は目を丸くして、言うね、と笑う。
詩吟の丸眼鏡の女子が球を上げ、会場の空気が一気に研ぎ澄まされる。濃いブロンドヘアに青目だが、顔立ちや姫カットが日本的な人だった。
「鳥啼く声す 夢覚ませ」
球は一直線に飛んだ。
「見よ明け渡る 東を」
李さんが打ち返した。この詩、なんだっけ。どこかで聞いた。
「空色映えて 沖つ辺に」
「帆船群れゐぬ 靄の中」
爽やか苦労人と、忍の伸びやかな声が連なる。竜が飛ぶあの球。だが詩吟はブロックした。
「新いろは歌!」
そうだ。新いろは歌。通称、鳥鳴歌。この詩は、明治時代に公募された「国音の歌」で一等に選ばれた作品なのだ。かのいろは歌を、旧いろは歌と呼ばせてしまう強い存在感を持つ。
とりなくこゑす ゆめさませ
みよあけわたる ひんかしを
そらいろはえて おきつへに
ほふねむれゐぬ もやのうち
素早く戻った排球をニチセイが打つ。
「萬朝報」
その公募が行われた新聞の名。別称の「赤新聞」を返そうとして、詩吟のバックライトが球を取り落とした。一対零とトキセンが淡泊に述べる。目を見張った。知識は追いついているのに技術面で点を落とすというのが珍しくて。拾えたのに言葉が出ないというのは、経験したことがある。だがこれは少ない。ジョージが肩をすくめて苦笑した。
「新聞の歴史まで入っちゃったら俺もうお手上げっすわ」
ヒイロがその横ですっと姿勢を正して言う。
「新聞なら、いける」
落ち着いた物言いだが、若干のドヤ顔。赤毛の後輩は、冷淡で寡黙なはずのやつが普通に会話に入ってきたことにニヤけて目をぱちくりし、すぐに軽口を返した。
「ヒイロさんが言ういけるって別次元のやつじゃねえすか、やだー」
「子供新聞を読んで育った」ドヤッ、ほぼ真顔。
「もうやだー。家庭環境から違うやつじゃねえすかー」軽薄な笑み。いつのもやつ。
萬朝報から試合が再開する。赤新聞という別称は、それに淡紅色の用紙が使われていたところから付いたという。萬朝報は今で言うところのゴシップ誌のような内容を扱っていた。これが語源となり、次第に「赤新聞」は暴露的な内容を扱った低俗な新聞全体を指す言葉として用いられるようになったらしい。安定したラリーで、赤新聞、イエロー・ジャーナリズム、ゴシップ誌と試合の言葉が続く。危なげないやり取りが連続していると、逆に不安が募ってくるのが、この球技の面白みである。いつ仕掛けられるか。
「センセーショナリズム」
ニチセイの攻撃。日本語で言うと扇情主義。大衆を煽る言動をわざとして注目を浴び、思い通りの方向に動かそうとする手法のことを言う。対して詩吟が述べたのは、これだった。
「短くて恐ろしいフィルの時代」
飛躍にゾッとした。小説のタイトルだ。これに登場するフィルという者が、正に扇情主義の具現化のような存在である。でもここで結びつくとは、さすが詩吟高校……。ニチセイのバックレフトが打ち返し「く、ジョッ、ば」と言葉にならない声が聞こえたが、笙は鳴った。
「一対一」
トキセンの低い声が告げる。打った者が梅干を食べたような酸っぱい顔をした。ドンマイと励ましの声が飛び交う。分かる。予想していなかった言葉が来ると、返しの候補が脳裏を渦巻いて、頭文字の羅列みたいなことを言ってしまう時があるのだ。俺も前に、芥川と羅生門で迷った結果「あっくらしょ」とか口走った事あるし。欅平さんがしばらく「よっこらしょ」の代わりに使い、からかい倒してきたあの夏。良い想い出ばかり美化されているけれど、こうして場面場面を思い返せば欅平さんって、素晴らしい先輩であると同時に結構ウザかったな。
梅干し顔くん(こんなあだ名になってしまった)が、詩吟側に排球を転がす。忍の表情が、いつもと違い緊迫しているのに鳥肌が立つ。勝て、勝て、と心の中で幾度も唱えた。
短くて恐ろしいフィルの時代は、設定が非常に面白い。俺の言葉で説明をつらつら並べ立てるより、この本に限っては冒頭を読んでもらうのが一番だから引用しよう。
国が小さい、というのはよくある話だが、〈内ホーナー国〉の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった。
(『短くて恐ろしいフィルの時代』ジョージ・ソーンダース著 より引用)
こんなぶっ飛んだ始まり方。そして、外ホーナー人であるフィルが、はみ出ている内ホーナー人のことを侵略などと難癖をつけるところから、物語はあらぬ方向に展開していくのだ。フィルの演説の独裁者っぷり。彼の考え方に心酔していく国民。見事な構成である。
サーブ権は詩吟。短くて恐ろしいフィルの時代、と再びボールが上がる。忍の返しは、
「五十歩百歩」
――ああ、もう、天才。似たり寄ったりという意味のことわざだ。描かれている内ホーナー人と外ホーナー人の戦争は、結局のところ五十歩百歩と描写できる、箱庭的で皮肉な構図なのだ。それを踏まえて、得意な分野に一瞬で持ち込んだニチセイの実力。
「ことわざ」
咄嗟にそう返した詩吟。ジャンルを大きくする程、相手が有利になる。客席が、詩吟がミスをしたとざわつく。今のニチセイは、ことわざなら何でも言っていい状況だ。
「覆水盆に返らず(やりなおせないねえ)」
ここぞとばかりに詩吟を煽ったニチセイに少し笑ってしまった。あいつ、俺たちとの練習試合の時に、一生懸命(がんばってるねえ)って言ってきた野郎。明朗快活なニチセイにも、性格がちょっぴり悪い程度の憎めないキャラはいるのだ。
「It's no use crying……」
詩吟の、丸眼鏡の女生徒が述べた。似た意味の英語のことわざである。クオーター感のある生徒が多い詩吟、得意分野かもしれない。彼女が上げた球を爽やか苦労人が打つ。
「over spilt milk」
拾おうとした少年が、あろうことか大混乱の様子で口パクになり、台詞が出なかった。
「一対二」
笙が鳴り響く。ニチセイらしくもない、全く知識が追い付かなかったような失点だった。客席はまた、意味を変えてざわつく。あの忍が笑顔じゃない。いつも人懐こい犬のような雰囲気の彼が、今は敵陣を睨みつけていて、獰猛な番犬のようだ。ソウルが小さく言った。
「ニチセイってもしかして、英語が弱点?」
「今拾おうとしたあの子が、だけならいいよな」
願望混じりの返答をした。そこで十五分の太鼓がなった。トキセンは、使う太鼓も風変わりで、エイサー用みたいなものだった。あの人いちいち目立つぜ、と速見が独り言ちた。
ニチセイは、こそこそと何か打ち合わせた様子だったが、メンツは替えなかった。
「It's no use crying over spilt milk」
詩吟が改めて打った球に対し、李さんが自信なさげな声で、英語のことわざを一つ返した。
「Time is money(時は金なり)」
その素人みたいな言動で、悪い予感は的中したかに思えた。ニチセイはやはり、英語が。詩吟の連中が表情を明るくする。現状やつらはマッチポイントだ。しかも弱点を見つけた。
いや、まだ分からない、弱点かはまだ分からない! 詩吟は気を抜いている。
「Failure teaches success(失敗は成功のもと)」
詩吟の爽やか苦労人が、それ以外どうせ知らないんだろ、何か言い返してみろ、と言うような態度で簡単な球を打った。不意に、さっき落とした少年が、報われたような息を吐いた。
「ほら、油断しタ」
李さんのカタコトが聞こえた。
「ヘースト イズ フロム ザ デビル(急いては事を仕損じる)」
そう述べてバックライトがトスを上げた。発音は贔屓目に言っても下手。高く上がった排球を忍が、似たり寄ったりなカタカナ英語で打ち込む。発音はクソだが、良い笑顔だった。
「エブリー ドッグ ハズ イッツ デイ(どんな犬にも良い日はやって来る)」
竜を乗せたボールが、敵陣を噛みつきに行く。そしてそれは、華麗に決まった。
「二対二」
「ちょ、ちょ待てよ英語、弱点じゃないの」
困ったような爽やかな笑みを浮かべ、詩吟の人が忍に聞いた。ニチセイのキャプテン、伊賀忍は白い歯を見せて、強さを絵にしたような目つきの笑みを浮かべる。
「ホンマに英語あかんのは、さっき慌てて点落としてもうた、小寺くん一人だけですねん。仲花の言うたタイムイズマネーは、そこから思いついた、油断させるための作戦でんがな」
淡々と、落ち着いた声色で語る。忍って、集中するほど静かになっていくタイプなのか。見たことのない様子に俺は身震いした。あの本気をぶつけられたことが、未だない。忍は、ふうと息をついてから、仲間達を見る。「あわわわ」みたいな表情になっている小寺くんに言った。
「あ、言うてしもた。君むっちゃ狙われるんちゃう? がんばってな! アハハハ」
「忍さんひどい!」「勉強怠ったん誰ェ?」「文バレの試合で英語来る思わんでしょうがあ」
互いにマッチポイントになった局面。李さんがレシーブを打った。
「Every dog has its day」
彼女の発音は綺麗だ。詩吟の丸眼鏡の女性がいじわるな表情で、小寺くんの方に打った。
「The end justifies the means(終わり良ければすべて良し)」
「Pride will have a fall(驕れる者久しからず)」
少年の前に躍り出て、他のやつが打ち返した。詩吟、かばわれる小寺くん、の構図でラリーが続く。忍は小寺くんからは対角に居て手出しできず。見ていた内田が、ウヘエと呻いた。
「ウヘエて。どうした」
「今の小寺くんの状況が、聖書戦の時の自分とモロ被りしていて、頭痛が」
そういえば。あの練習試合から半年以上も経っていることに、感嘆が漏れた。
「確かにあの時の聖コトバ酷かったよな。ふええ、速見さあん、助けてくださあーいっ」
裏声での大げさな物真似に、風船みたいにむくれる内田。
「僕あの時、分からないのに狙われ続けて、すごくつらかったんですからねっ」
「だよな」
同意が来るとは思っていなかったようで、後輩はきょとんと俺を見た。
「いや、俺だって一年生の頃は敵から的にされること何度もあったし。分かる」
ものすごく当然のことだが、内田は驚いた顔をして、あ、そっか、と呟いた。
その間にも、ことわざラリーは続いている。行き来する球。怯えた表情で周りを見る小寺くん。知っている英文を暗唱する面々。お約束みたいに、小寺くんをかばうことを挟んでのループ。ついに忍が眉根を寄せて「何を……」と呟いた。コートを突っ切り速い球に追いつく。
「何を思考停止しとんねん、お前ら!」
完全に、文芸に関係ない感情を乗せて白い竜が天に昇った。会場中が、ぎょっとした。トキセンも一瞬目を見開いて、秒読みのため時計を見る。あの忍が、ひどく怒っている。
「英文のことわざ挙げてく遊びしてるんか。文芸バレーボールしてるんちゃうんか」
朗々と響く声。風を切る音がする。表情を和らげて、彼はきっぱり告げた。
「分からんなりに考えて、自分に来た球は打たなあかんて。小寺くん」
落ちてくる排球を、ニチセイの他のメンツはもう打とうとせずに頷いた。伊賀忍の指示の下、大いなる信頼を持って見守っている。小寺くんが目に涙をためて打った。
「翻訳」
という、あまりにも単純で、正しい言葉を乗せて。会話発生から一分間の秒読みは、とっくに止まっていた。隣からすすり泣きが聞こえる。
「いやなんでお前は泣いてんの」
「助けてくださーいって甘えた過去の自分が情けなさ過ぎて」
「そんなもんだろ、一年の初めは。お前ほんと自分のこと責めすぎるよな。気い抜けよ」
さらりと言ってから、痛すぎるブーメランに気づいてしまった。勝手に背負い込んで思い込んで泣く癖あるのは、俺もだ。「はい」と言った内田の声にかぶせて、はい、と思った。
「字幕翻訳」「ハコ切り」「スポッティング」
話題を変えて試合は続いた。ハコ切りとは、翻訳前のセリフやナレーションの、どこからどこまでを一つの字幕にするのかを決めていく作業のことだ。そしてスポッティングは、ハコ切りで決めたとおりに映像を区切り、セリフの文字数を決めていく作業のこと。字幕というものは、一秒の映像に対して四文字程度と定められている。それ以上になると目が追い付かない。例えば英文のことわざにあるEasy come, easy go(簡単に手に入る物は簡単に離れていく)だって、もし字幕だったらこんなに長い翻訳じゃいけない。例えば映画中のセリフなら、前後の場面にもよるけど(けっ、安物め)とかになるのかも。
まさにニチセイが、そのことを述べて打った。せこいとも取れる。策略とも取れる。
「一秒四文字」
それに対して返せる言葉なんて、あまりにも限られている。詩吟は返せなかった。どんな強豪だって、これはきっとむりだ。潔い諦めだった。排球が床に転がり、笙が鳴る。
「二対三。勝者、日本再生大学付属高等学校」
いつもなら敵をあっという間に倒し、ホンッマ楽しい試合やったがな、などと余裕で笑う忍が珍しく、疲労と喜びを噛み締めた表情で、やったあああとアリーナ中に響く声で叫んだ。部員たちの雄叫びが続く。去年の三位決定戦で負かされたチームに勝てたのだ。喜びは計り知れない。そして詩吟の面々も、心から悔しい表情をしている。顔を覆ったり、へたりこんだり、声を凝らして号泣している者もいた。これが強豪の試合。これが、四回戦以上の世界。
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