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第五章 そして、全国へ
一回戦
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噂の唄唄い高校のやつとすれ違った。去年の派手な蛍光色じゃない。全身銀色の装いだった。シャツのsing ofの文字がなければ気づけなかっただろう。
「おい」つい呼び止めると、そいつは振り向いた。
「用かい」
彼は笑わずに言った。独り言のような、よーかい、ってふうに聞こえる、やる気のなさそうな声だった。昨年の雰囲気とずいぶん違う。第一回全国大会のときは、蛍光ペンの黄色そのものの色をしたシャツで「さあさあ行くぜレリーゴー」とか言ってて、夕方には服が光っていた。それが今年はどうしたことか。別人ではないと思うのだが。
「あのさ。お前のとこが、全国の文バレ部を偵察してたって噂を聞いたんだが」
そう尋ねると銀色の少年は、ウィッグらしい銀髪を揺らし「さ」と一文字、とぼけた。ローラーシューズを履いていたようで、一瞬しゃがんだかと思うと駒を出し素早く去ってしまった。よくわからないやつだ。ああゆうミステリアスなのは不安を煽る。
二回戦進出のチームが決まっていく。強豪校による瞬殺劇が数回あった。万葉、ニチセイが当然のように勝っている。聖コトバも無事、弱点を狙われることなく勝ち進めたようだ。そして心配だった歌仙高校も。あとは唄唄い高校の戦い方が気になったが、タイミング悪く同じ時刻に収集され見れなかった。俺たちは第一アリーナ、唄唄いは第二アリーナ。
我ら新古今高校の一回戦の相手は、昨年はうちと同じく三回戦で敗退していた訳須所高校だった。ここは海外文学に強い。知的な面立ちの選手たちが並ぶ。全部で九人。なんと男女比がほぼ同じだった。先攻は、あっちだ。切れ長の瞳の女子が排球を打った。
「スタンリー・イェルナッツ」
人名ッ! 初っ端から超マニアックな出題をしてきやがった! でもその出題ならば俺はついていけるぜ。これは、ルイス・サッカーの書いた小説「穴」の主人公の名前である。この本、大好きなんだ。伏線回収とはこの作品のためにある言葉じゃないかと思うくらい凄い。
「回文」
ヒイロがアンダーで打ち返した。そう。彼の名は回文になっているのだ。
Stanley Yelnuts だろ? だよな?
しかし敵陣の一人が、その答えを待っていたとばかりに口角を上げた。返って来た言葉は、
「シモードニラップ」
という、普通なら馴染みのない言葉である。速見が「はっ?」と口を真四角にした。内田とジョージが「ええー」と同時に言った。ヒイロは意味は無論分かっているのだろうが、厄介だと感じたように眉間にしわを寄せた。でも、いける、俺に任せろ。
シモードニラップとは、palindromes(回文)を後ろから読んで作られた造語だ。回文と違い、後ろから読むと意味が変わる言葉を指す。例えば、God(神)は Dog(犬)。小学生の頃、スタンリーの名のせいで回文にがっつりハマった時期がある。その延長でシモードニラップのことも知った。そしてこの俺が「小学生の頃」と言えば俺の幼なじみももれなく居ることをぜひ覚えていていただきたい。ソウルを見ると、やつは笑顔で深く頷いた。
くらえ、俺たち幼なじみ組の独壇場を!
「God」と上げたトスを「Dog」とソウルがアタックした。すると敵陣の返答は、あろうことか突然シモードニラップから路線を変えて、こうなった。まさかの、独壇場もう終了。
「先生と老犬とぼく」
訳須所高校のあの女子、さては重度のルイス・サッカーファンだな?
先生と老人とぼく。サッカーの著作のタイトルだ。マーヴィンシリーズの内の一冊で、主人公のマーヴィンが、先生が留守にする間、彼女の飼い犬ウォルドーの世話を任される巻。
ファンがいるならば、内容を掘り下げていく出題は避けるべきだ。俺もサッカーの作品はかなり好きだが、Dogからウォルドーを連想してしまうほどではない。彼女は俺とは比べ物にならない筋金入りのファンと見た。強敵だ。ここから話を変えるには、何と言えば。
「一週間」
と打ち、敵陣ではなく上に送った。マーヴィンがウォルドーの世話を任された期間である。これで話が変わるという保証はない。丸投げで本当に申し訳ないが、ヒイロあたりが上手く逸らしてくれるのを期待している。だから上に打った。そのヒイロはというと、一週間と聞いた瞬間、なんと息を飲みガッツポーズをした。しかも微かに笑い「ありがとうな」とまで呟いた。いや、まじか。俺そんなに良いパスしたのか。天才の思考がわからない。ヒイロは、初めに登場人物名で来られたのをやり返すように、剛速球の球でこう打った。
「小松修吉」
相手はその速さに、ひっ、と身を縮ませた。コートを白い球が叩き、尺八が鳴る。
「一対零」
「ふええ、さっすが池原さあん」
ぬかりなく先輩を立てる内田の図。我らのヒーローは、心なしか嬉し気に客席を見上げ、欅平さんと美々実さんを見つけて小さく片手を振った。参観日の子供か。そして内田は無視か。それから、よほど機嫌がいいのか親切に解説を語り出した。
「井上ひさしの小説に、一週間という題のものがある。遺作で、小松修吉は主人公の名だ」
「あー、どうりで嬉しそうに打ったなあと思った」
ソウルが微笑んだ。ヒイロの井上ひさし好きは、欅平さんの影響で始まった。欅平さんは舞台を見に行くのが趣味だ。空虚な目をしていた一年生の頃のヒイロを、ある休日に芝居小屋へ連れて行ったのが欅平さんである。連れ回したと言う方が正しいかもしれない。後に欅平さんに聞いた話だが、ヒイロときたら何を見ても「起承転結」だの「要約」だの国語のテストみたいな観点でしか捉えられなかったらしい。欅平さんは「そうじゃあない! これでもか! これでもか! 心で見ろ!」と言いながら何作も何作も見せたそうだ。双方くたびれて、
「もういいです。俺の感受性は死んでるんです」
「池おめえ、なんて悲しいこと言いやがる! まだまだァ!」
「死んでるんですってば……」「生きろォ!」
とかよくわからない会話をするほど疲弊したときに見たのが、井上ひさし脚本の舞台だったという。その一本が、やっと琴線に触れたらしい。全く、欅平さんもよく付き合ったものだ。
「お前ほんと井上ひさし好きだよな」
「うん。読んでみろ、面白いから」
無表情ではあるが答えてくれた。最近、舌打ちされることが減っている。素直に嬉しい。
小松修吉の名で試合が再開する。が、敵陣はそれが誰なのかわかっていないらしい。一か八かのように、フロントセンターの神経質そうな細身の少年が、
「男」
と打ち返してきた。審判が一瞬眉間にしわを寄せたが、試合は止まらなかった。登場人物の性別も、文学を形成する重要要素の一つであることに違いはない。男、という幅広い出題。ソウルがメガネの位置を一瞬で正してから、こう打ち返した。
「或る男」
武者小路実篤が書いた、こんな内容の詩のタイトルだ。
私は五十六になるが
時々心のうちで言ふ
今にすばらしい人間になってやる。
すばらしい人間になるとは
すばらしい小説をかくと言ふのか。
すばらしい画をかくと言ふのか
人類を救うと言ふのか、
私は知らない。
たださう言つて見るので
自分が若々しく元気になれ
希望がもてるのを感じるばかりだ。
私は今にすばらしい人間になつてやる。
訳須所高校の面々は、海外文学に強い。だから、或る男と聞いて間違えたのも無理はない。
「グレード・ギャツビー」
そう向こうが返した途端、尺八が鳴った。
「二対零」
「なんで」九人が泣きそうに、めくられて現れた二を見る。
審判が、困ったように微笑み、呟いた。六十代くらいの、学がありそうな方だった。
「或る男の一生、という映画の原作タイトルなら、グレート・ギャツビーだ。別物だよ」
あ、あ、あ、と相手は身を震わせた。決して弱いわけじゃない。偶然、出題が海外文学から外れたため不利になっている。どうかこのまま、流れよ変わるな。三点目に繋げ。
「或る男」ソウルが改めてサーブを打った。
敵のバックレフトにいた男子が、くちびるを噛んで叫んだ。
「今にすばらしい人間になってやる」
レシーブが飛んでくる。意思がこもっていた。それに対して、
「武者小路実篤」
内田が著者名を返してしまった。お前、もう、いい加減にしろ。全国大会でまで。
「トルストイ」
実篤はトルストイについての伝記を残しているのだ。海外文学に戻された。ちくしょう、あと一点だったのにッ!
だがミスをしたように見えた内田は、意外にもしたり顔をした。
「そう返しますよね、訳須所高校さんなら」
呟いて、低く構える。鋭い眼光で、ニヤと笑った。小さな後輩が球を拾う。まさか。
「イヴン王国」
これはトルストイの書いた民族的小説「イワンの馬鹿」に登場する国の名である。そして。
「イーハトーヴ」
ラリーを繋いだのはヒイロだった。内田は再び、さすが池原さん、と言い微笑んだ。最後に、
「北東」
そう声を張り、うちの賢治ファンは相手コートへ一直線にアタックをぶち込んだ。
「な、なんで、北東?」「繋がってない」「失点でしょ?」「何の話だ……」「なんで……?」
敵陣は何も返せずにボールを落とした。尺八が鳴る。
「三対零。勝者、新古今高等学校」
なんで、なんで、と絶望的にくり返す訳須所高校に、内田が告げた。
「トルストイの書いた民族的小説は、宮沢賢治に影響を与えたと言われているんですよ。イーハトーヴの位置は、イヴン王国の遥か北東だって、賢治が書き残しているんです」
きゅるんっとどんぐり眼で笑う。
「えへへ、僕ってば詳しくってごめんなさあいっ」
調子に乗る内田を思いっきり一発はたいておいた。
「こいつウザくて本当ごめんなさい」
いえ、と初めにスタンリー・イェルナッツで試合を始めた切れ長の瞳の女子が苦笑した。ありがとうございました、とコートの下から彼女が手を出す。この子がキャプテンだったのか。
「ありがとうございました。あの、ルイス・サッカーの穴、すっげー面白いよな」
好きな本がかぶると、言っときたくなるのが文バレ。彼女はパッと表情を明るくして、
「えーっ、うん! うんうんうん! ぎゃー嬉しい、えええ、うん、うん、超面白いよね好き、うわーありがとうございました! ひえー! えっ語りたいめっちゃ語りたいうわわわわ」
握手をブンブン振った。見た目からクール系と思っていたんだが、どうも違う。一息に言ってから彼女は我に帰り「はっ。すみません」と手を離した。
客席に戻ると欅平さんがフッと笑い、例のごとく意味の分からないことを言い出した。
「よお、見てたぜ。春が来たってかい?」
いや、なんか、例のごとくっていうか、いつにも増して意味が分からないな。
「まだ三月中旬だから、桜が咲き始めんのはまだじゃないですかね」
と返しておいた。
「はっはは小野ちゃん、何言ってんだ?」
あんたが何言ってんだ?
ひとまず、俺たち新古今高校は一回戦を突破したのだ。
「おい」つい呼び止めると、そいつは振り向いた。
「用かい」
彼は笑わずに言った。独り言のような、よーかい、ってふうに聞こえる、やる気のなさそうな声だった。昨年の雰囲気とずいぶん違う。第一回全国大会のときは、蛍光ペンの黄色そのものの色をしたシャツで「さあさあ行くぜレリーゴー」とか言ってて、夕方には服が光っていた。それが今年はどうしたことか。別人ではないと思うのだが。
「あのさ。お前のとこが、全国の文バレ部を偵察してたって噂を聞いたんだが」
そう尋ねると銀色の少年は、ウィッグらしい銀髪を揺らし「さ」と一文字、とぼけた。ローラーシューズを履いていたようで、一瞬しゃがんだかと思うと駒を出し素早く去ってしまった。よくわからないやつだ。ああゆうミステリアスなのは不安を煽る。
二回戦進出のチームが決まっていく。強豪校による瞬殺劇が数回あった。万葉、ニチセイが当然のように勝っている。聖コトバも無事、弱点を狙われることなく勝ち進めたようだ。そして心配だった歌仙高校も。あとは唄唄い高校の戦い方が気になったが、タイミング悪く同じ時刻に収集され見れなかった。俺たちは第一アリーナ、唄唄いは第二アリーナ。
我ら新古今高校の一回戦の相手は、昨年はうちと同じく三回戦で敗退していた訳須所高校だった。ここは海外文学に強い。知的な面立ちの選手たちが並ぶ。全部で九人。なんと男女比がほぼ同じだった。先攻は、あっちだ。切れ長の瞳の女子が排球を打った。
「スタンリー・イェルナッツ」
人名ッ! 初っ端から超マニアックな出題をしてきやがった! でもその出題ならば俺はついていけるぜ。これは、ルイス・サッカーの書いた小説「穴」の主人公の名前である。この本、大好きなんだ。伏線回収とはこの作品のためにある言葉じゃないかと思うくらい凄い。
「回文」
ヒイロがアンダーで打ち返した。そう。彼の名は回文になっているのだ。
Stanley Yelnuts だろ? だよな?
しかし敵陣の一人が、その答えを待っていたとばかりに口角を上げた。返って来た言葉は、
「シモードニラップ」
という、普通なら馴染みのない言葉である。速見が「はっ?」と口を真四角にした。内田とジョージが「ええー」と同時に言った。ヒイロは意味は無論分かっているのだろうが、厄介だと感じたように眉間にしわを寄せた。でも、いける、俺に任せろ。
シモードニラップとは、palindromes(回文)を後ろから読んで作られた造語だ。回文と違い、後ろから読むと意味が変わる言葉を指す。例えば、God(神)は Dog(犬)。小学生の頃、スタンリーの名のせいで回文にがっつりハマった時期がある。その延長でシモードニラップのことも知った。そしてこの俺が「小学生の頃」と言えば俺の幼なじみももれなく居ることをぜひ覚えていていただきたい。ソウルを見ると、やつは笑顔で深く頷いた。
くらえ、俺たち幼なじみ組の独壇場を!
「God」と上げたトスを「Dog」とソウルがアタックした。すると敵陣の返答は、あろうことか突然シモードニラップから路線を変えて、こうなった。まさかの、独壇場もう終了。
「先生と老犬とぼく」
訳須所高校のあの女子、さては重度のルイス・サッカーファンだな?
先生と老人とぼく。サッカーの著作のタイトルだ。マーヴィンシリーズの内の一冊で、主人公のマーヴィンが、先生が留守にする間、彼女の飼い犬ウォルドーの世話を任される巻。
ファンがいるならば、内容を掘り下げていく出題は避けるべきだ。俺もサッカーの作品はかなり好きだが、Dogからウォルドーを連想してしまうほどではない。彼女は俺とは比べ物にならない筋金入りのファンと見た。強敵だ。ここから話を変えるには、何と言えば。
「一週間」
と打ち、敵陣ではなく上に送った。マーヴィンがウォルドーの世話を任された期間である。これで話が変わるという保証はない。丸投げで本当に申し訳ないが、ヒイロあたりが上手く逸らしてくれるのを期待している。だから上に打った。そのヒイロはというと、一週間と聞いた瞬間、なんと息を飲みガッツポーズをした。しかも微かに笑い「ありがとうな」とまで呟いた。いや、まじか。俺そんなに良いパスしたのか。天才の思考がわからない。ヒイロは、初めに登場人物名で来られたのをやり返すように、剛速球の球でこう打った。
「小松修吉」
相手はその速さに、ひっ、と身を縮ませた。コートを白い球が叩き、尺八が鳴る。
「一対零」
「ふええ、さっすが池原さあん」
ぬかりなく先輩を立てる内田の図。我らのヒーローは、心なしか嬉し気に客席を見上げ、欅平さんと美々実さんを見つけて小さく片手を振った。参観日の子供か。そして内田は無視か。それから、よほど機嫌がいいのか親切に解説を語り出した。
「井上ひさしの小説に、一週間という題のものがある。遺作で、小松修吉は主人公の名だ」
「あー、どうりで嬉しそうに打ったなあと思った」
ソウルが微笑んだ。ヒイロの井上ひさし好きは、欅平さんの影響で始まった。欅平さんは舞台を見に行くのが趣味だ。空虚な目をしていた一年生の頃のヒイロを、ある休日に芝居小屋へ連れて行ったのが欅平さんである。連れ回したと言う方が正しいかもしれない。後に欅平さんに聞いた話だが、ヒイロときたら何を見ても「起承転結」だの「要約」だの国語のテストみたいな観点でしか捉えられなかったらしい。欅平さんは「そうじゃあない! これでもか! これでもか! 心で見ろ!」と言いながら何作も何作も見せたそうだ。双方くたびれて、
「もういいです。俺の感受性は死んでるんです」
「池おめえ、なんて悲しいこと言いやがる! まだまだァ!」
「死んでるんですってば……」「生きろォ!」
とかよくわからない会話をするほど疲弊したときに見たのが、井上ひさし脚本の舞台だったという。その一本が、やっと琴線に触れたらしい。全く、欅平さんもよく付き合ったものだ。
「お前ほんと井上ひさし好きだよな」
「うん。読んでみろ、面白いから」
無表情ではあるが答えてくれた。最近、舌打ちされることが減っている。素直に嬉しい。
小松修吉の名で試合が再開する。が、敵陣はそれが誰なのかわかっていないらしい。一か八かのように、フロントセンターの神経質そうな細身の少年が、
「男」
と打ち返してきた。審判が一瞬眉間にしわを寄せたが、試合は止まらなかった。登場人物の性別も、文学を形成する重要要素の一つであることに違いはない。男、という幅広い出題。ソウルがメガネの位置を一瞬で正してから、こう打ち返した。
「或る男」
武者小路実篤が書いた、こんな内容の詩のタイトルだ。
私は五十六になるが
時々心のうちで言ふ
今にすばらしい人間になってやる。
すばらしい人間になるとは
すばらしい小説をかくと言ふのか。
すばらしい画をかくと言ふのか
人類を救うと言ふのか、
私は知らない。
たださう言つて見るので
自分が若々しく元気になれ
希望がもてるのを感じるばかりだ。
私は今にすばらしい人間になつてやる。
訳須所高校の面々は、海外文学に強い。だから、或る男と聞いて間違えたのも無理はない。
「グレード・ギャツビー」
そう向こうが返した途端、尺八が鳴った。
「二対零」
「なんで」九人が泣きそうに、めくられて現れた二を見る。
審判が、困ったように微笑み、呟いた。六十代くらいの、学がありそうな方だった。
「或る男の一生、という映画の原作タイトルなら、グレート・ギャツビーだ。別物だよ」
あ、あ、あ、と相手は身を震わせた。決して弱いわけじゃない。偶然、出題が海外文学から外れたため不利になっている。どうかこのまま、流れよ変わるな。三点目に繋げ。
「或る男」ソウルが改めてサーブを打った。
敵のバックレフトにいた男子が、くちびるを噛んで叫んだ。
「今にすばらしい人間になってやる」
レシーブが飛んでくる。意思がこもっていた。それに対して、
「武者小路実篤」
内田が著者名を返してしまった。お前、もう、いい加減にしろ。全国大会でまで。
「トルストイ」
実篤はトルストイについての伝記を残しているのだ。海外文学に戻された。ちくしょう、あと一点だったのにッ!
だがミスをしたように見えた内田は、意外にもしたり顔をした。
「そう返しますよね、訳須所高校さんなら」
呟いて、低く構える。鋭い眼光で、ニヤと笑った。小さな後輩が球を拾う。まさか。
「イヴン王国」
これはトルストイの書いた民族的小説「イワンの馬鹿」に登場する国の名である。そして。
「イーハトーヴ」
ラリーを繋いだのはヒイロだった。内田は再び、さすが池原さん、と言い微笑んだ。最後に、
「北東」
そう声を張り、うちの賢治ファンは相手コートへ一直線にアタックをぶち込んだ。
「な、なんで、北東?」「繋がってない」「失点でしょ?」「何の話だ……」「なんで……?」
敵陣は何も返せずにボールを落とした。尺八が鳴る。
「三対零。勝者、新古今高等学校」
なんで、なんで、と絶望的にくり返す訳須所高校に、内田が告げた。
「トルストイの書いた民族的小説は、宮沢賢治に影響を与えたと言われているんですよ。イーハトーヴの位置は、イヴン王国の遥か北東だって、賢治が書き残しているんです」
きゅるんっとどんぐり眼で笑う。
「えへへ、僕ってば詳しくってごめんなさあいっ」
調子に乗る内田を思いっきり一発はたいておいた。
「こいつウザくて本当ごめんなさい」
いえ、と初めにスタンリー・イェルナッツで試合を始めた切れ長の瞳の女子が苦笑した。ありがとうございました、とコートの下から彼女が手を出す。この子がキャプテンだったのか。
「ありがとうございました。あの、ルイス・サッカーの穴、すっげー面白いよな」
好きな本がかぶると、言っときたくなるのが文バレ。彼女はパッと表情を明るくして、
「えーっ、うん! うんうんうん! ぎゃー嬉しい、えええ、うん、うん、超面白いよね好き、うわーありがとうございました! ひえー! えっ語りたいめっちゃ語りたいうわわわわ」
握手をブンブン振った。見た目からクール系と思っていたんだが、どうも違う。一息に言ってから彼女は我に帰り「はっ。すみません」と手を離した。
客席に戻ると欅平さんがフッと笑い、例のごとく意味の分からないことを言い出した。
「よお、見てたぜ。春が来たってかい?」
いや、なんか、例のごとくっていうか、いつにも増して意味が分からないな。
「まだ三月中旬だから、桜が咲き始めんのはまだじゃないですかね」
と返しておいた。
「はっはは小野ちゃん、何言ってんだ?」
あんたが何言ってんだ?
ひとまず、俺たち新古今高校は一回戦を突破したのだ。
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