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いつものように
12.遠い日のこと
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暦は師走の初めに差し掛かった。路地の庭木は揃って葉を落とし侘しい。快晴だが太陽光は柔い。寒空のずいぶん高くに、鱗雲が薄く長く伸びている。
飴色のブリキ戸がきしみ、流木のドアチャイムが埃っぽく鳴る。喫茶エプロンの入店合図。ようこそ、と奥の厨房から聞こえた掠れ声に、蹄を思わせる音が重なっていた。インドの民芸品のような辛子色の杖をつきながら、奥から店主が歩いてきた。澤口は目を丸くする。松虫が足をずっているのは普段からだが、杖を使う姿は初めて見た。
「足どうしたんですか」
眉間に皺を寄せて聞く。店主は決まりが悪そうに微笑み、肩をすくめる。
「や、冬が来ると毎年こうです。古傷が痛むので」
古傷という言葉に青年はたじろいだ。
「てっきり──」
歩き方の癖かと、が本音だったが、かろうじて心に留める。傘を机に引っかけて席に着く。
「──階段から落ちて骨を折ったとか?」
半ば、どうせそうだろうと決めつけて問う。いつもと変わらない声色で応答があった。
「学生の頃、雪崩に巻き込まれましてね」
澤口は仰天して松虫の顔を見た。店主は首をかしげる。変なことを申しましたでしょうか、とでも言いたげに。彼にとって、その原因は秘密でも悲劇でもないらしい。日常会話の一部のように混ざってきた衝撃の告白。認識の差が落ち着かなかった。天文と船が好きだと聞いていたので登山趣味は腑に落ちる。しかし、まさか雪崩とは。今更ながら本棚にはネイチャー誌が多い。
ご注文は、と店主はいつも通り穏やかに問う。世間話のように話された非運な過去が、澤口には重すぎた。気になるが、事故の詳細を掘り下げて聞くのは憚られる。慌てて相槌を返し、自分が打ち直したメニューを開く。ペーパーエイドで貼られている悪筆の追記。それでふと仮説が浮かんだ。急に答え合わせをされた心地だ。あらゆる不器用さに納得がいく。知らん顔が出来る性ではなく、切羽詰まった疑念は飛び出していく。
「字がこうなのは後遺症ですか」
席から見上げて心許なく問う。机の傍らに立つ店主は目を丸くしてから、困ったふうにきょろきょろした。澤口は血の気が引いた。跳ぶように席を立ち、最敬礼で大声を張り謝罪する。
「申し訳ありませんでした! 何も知らなくて失礼なことばかり言いました。本当に……」
急な威勢に臆してよろけた店主の、杖の音がカツンと一つ。叫びながら立った人と、驚いて後ずさった人。皮肉なデジャヴにめまいがした。出会った時の志鶴空さんと俺やんけ、と澤口はどこか脳の違うところで思う。しばしの沈黙のあと、松虫が笑い声を零した。
「何ですか」
気難しい目の青年は怪訝に顔を上げる。杖の店主は言い淀んで背を丸めてから、微笑んだ。
「足が悪いだけ。手に後遺症はありません」
青年は無意識に止めていた呼吸を再開した。形容しがたい感情を長い息に乗せ、席に落ちる。
「勘弁してくださいよ」
その苦情は理不尽極まりない。
「紛らわしい字でしょう」
笑顔で肩をすくめる店主。字だけちゃうわ、という心の声はしまっておく。
「ご注文のお伺い、まだでしたね」
松虫は再び柔らかく尋ねた。澤口はごちゃつく心情を隠すようにメニューに目を落とした。右下の手書き。悪筆のひらがな四文字が増えている。
いつものように遊んでいいのか迷ったが、しない方が失礼だろう。変に緊張して声が震えた。
「はらまき」
正解ならば感づいている。はるまき。
松虫はえくぼを浮かべて頷き、杖に頼りながら厨房へと向かった。
薄焼き卵がぐるりと帯のように巻かれた、大きな揚げ春巻が登場した。動物の目鼻口に見立てた海苔がついている。腹巻きをして眠っている犬のような、笑える可愛さ。それを主役にして、周りには一口サイズのサラダ春巻きが六つ。半透明の下に見える色は味がそれぞれ異なるようでカラフルだった。白いワンプレートで、ご飯とスープもついている。キャラクター弁当がそのままメニューになったような軽やかな雰囲気。この料理の腕を思えば、彼の手に麻痺がある可能性など皆無だった。考えなしな発言をしたことを恥じ入り、澤口は耳を赤くして苦笑した。
「お医者さんも、同じことを仰ったんですよ」
と、松虫が告げた。
「同じこと?」
春巻を箸でつまみながら聞き返す。店主は怒る素振りなど一切なく、朗らかに話した。
「ええ。私が回復してきて、いざリハビリを始めますって時に。名前を書いてみてくださいって紙とペンを渡されたんですね。それで私、こんな字でしょう。残念ながら……なんて言われてしまって。それでね、元からですって言いました。ふふふ」
「それ笑えるの凄すぎますよ。もし俺が松虫さんだったら、医者に頭突きかましてます」
「やりそうですね」
「おい! あ、おいとか言ってもた、すみません」
いえいえ、と心から楽しげに笑う松虫。店内は少し寒かった。冬隣の冷風が、ブリキ戸や窓を容易にすり抜けて入ってきている。暖房買わなきゃ、と店主は杖をずりながら小さく零した。
飴色のブリキ戸がきしみ、流木のドアチャイムが埃っぽく鳴る。喫茶エプロンの入店合図。ようこそ、と奥の厨房から聞こえた掠れ声に、蹄を思わせる音が重なっていた。インドの民芸品のような辛子色の杖をつきながら、奥から店主が歩いてきた。澤口は目を丸くする。松虫が足をずっているのは普段からだが、杖を使う姿は初めて見た。
「足どうしたんですか」
眉間に皺を寄せて聞く。店主は決まりが悪そうに微笑み、肩をすくめる。
「や、冬が来ると毎年こうです。古傷が痛むので」
古傷という言葉に青年はたじろいだ。
「てっきり──」
歩き方の癖かと、が本音だったが、かろうじて心に留める。傘を机に引っかけて席に着く。
「──階段から落ちて骨を折ったとか?」
半ば、どうせそうだろうと決めつけて問う。いつもと変わらない声色で応答があった。
「学生の頃、雪崩に巻き込まれましてね」
澤口は仰天して松虫の顔を見た。店主は首をかしげる。変なことを申しましたでしょうか、とでも言いたげに。彼にとって、その原因は秘密でも悲劇でもないらしい。日常会話の一部のように混ざってきた衝撃の告白。認識の差が落ち着かなかった。天文と船が好きだと聞いていたので登山趣味は腑に落ちる。しかし、まさか雪崩とは。今更ながら本棚にはネイチャー誌が多い。
ご注文は、と店主はいつも通り穏やかに問う。世間話のように話された非運な過去が、澤口には重すぎた。気になるが、事故の詳細を掘り下げて聞くのは憚られる。慌てて相槌を返し、自分が打ち直したメニューを開く。ペーパーエイドで貼られている悪筆の追記。それでふと仮説が浮かんだ。急に答え合わせをされた心地だ。あらゆる不器用さに納得がいく。知らん顔が出来る性ではなく、切羽詰まった疑念は飛び出していく。
「字がこうなのは後遺症ですか」
席から見上げて心許なく問う。机の傍らに立つ店主は目を丸くしてから、困ったふうにきょろきょろした。澤口は血の気が引いた。跳ぶように席を立ち、最敬礼で大声を張り謝罪する。
「申し訳ありませんでした! 何も知らなくて失礼なことばかり言いました。本当に……」
急な威勢に臆してよろけた店主の、杖の音がカツンと一つ。叫びながら立った人と、驚いて後ずさった人。皮肉なデジャヴにめまいがした。出会った時の志鶴空さんと俺やんけ、と澤口はどこか脳の違うところで思う。しばしの沈黙のあと、松虫が笑い声を零した。
「何ですか」
気難しい目の青年は怪訝に顔を上げる。杖の店主は言い淀んで背を丸めてから、微笑んだ。
「足が悪いだけ。手に後遺症はありません」
青年は無意識に止めていた呼吸を再開した。形容しがたい感情を長い息に乗せ、席に落ちる。
「勘弁してくださいよ」
その苦情は理不尽極まりない。
「紛らわしい字でしょう」
笑顔で肩をすくめる店主。字だけちゃうわ、という心の声はしまっておく。
「ご注文のお伺い、まだでしたね」
松虫は再び柔らかく尋ねた。澤口はごちゃつく心情を隠すようにメニューに目を落とした。右下の手書き。悪筆のひらがな四文字が増えている。
いつものように遊んでいいのか迷ったが、しない方が失礼だろう。変に緊張して声が震えた。
「はらまき」
正解ならば感づいている。はるまき。
松虫はえくぼを浮かべて頷き、杖に頼りながら厨房へと向かった。
薄焼き卵がぐるりと帯のように巻かれた、大きな揚げ春巻が登場した。動物の目鼻口に見立てた海苔がついている。腹巻きをして眠っている犬のような、笑える可愛さ。それを主役にして、周りには一口サイズのサラダ春巻きが六つ。半透明の下に見える色は味がそれぞれ異なるようでカラフルだった。白いワンプレートで、ご飯とスープもついている。キャラクター弁当がそのままメニューになったような軽やかな雰囲気。この料理の腕を思えば、彼の手に麻痺がある可能性など皆無だった。考えなしな発言をしたことを恥じ入り、澤口は耳を赤くして苦笑した。
「お医者さんも、同じことを仰ったんですよ」
と、松虫が告げた。
「同じこと?」
春巻を箸でつまみながら聞き返す。店主は怒る素振りなど一切なく、朗らかに話した。
「ええ。私が回復してきて、いざリハビリを始めますって時に。名前を書いてみてくださいって紙とペンを渡されたんですね。それで私、こんな字でしょう。残念ながら……なんて言われてしまって。それでね、元からですって言いました。ふふふ」
「それ笑えるの凄すぎますよ。もし俺が松虫さんだったら、医者に頭突きかましてます」
「やりそうですね」
「おい! あ、おいとか言ってもた、すみません」
いえいえ、と心から楽しげに笑う松虫。店内は少し寒かった。冬隣の冷風が、ブリキ戸や窓を容易にすり抜けて入ってきている。暖房買わなきゃ、と店主は杖をずりながら小さく零した。
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