読めない喫茶店

宇野片み緒

文字の大きさ
上 下
12 / 15
いつものように

12.遠い日のこと

しおりを挟む
 暦は師走の初めに差し掛かった。路地の庭木は揃って葉を落とし侘しい。快晴だが太陽光は柔い。寒空のずいぶん高くに、鱗雲が薄く長く伸びている。
 飴色のブリキ戸がきしみ、流木のドアチャイムが埃っぽく鳴る。喫茶エプロンの入店合図。ようこそ、と奥の厨房から聞こえた掠れ声に、蹄を思わせる音が重なっていた。インドの民芸品のような辛子色の杖をつきながら、奥から店主が歩いてきた。澤口は目を丸くする。松虫が足をずっているのは普段からだが、杖を使う姿は初めて見た。
「足どうしたんですか」
 眉間に皺を寄せて聞く。店主は決まりが悪そうに微笑み、肩をすくめる。
「や、冬が来ると毎年こうです。古傷が痛むので」
 古傷という言葉に青年はたじろいだ。
「てっきり──」
 歩き方の癖かと、が本音だったが、かろうじて心に留める。傘を机に引っかけて席に着く。
「──階段から落ちて骨を折ったとか?」
 半ば、どうせそうだろうと決めつけて問う。いつもと変わらない声色で応答があった。
「学生の頃、雪崩に巻き込まれましてね」
 澤口は仰天して松虫の顔を見た。店主は首をかしげる。変なことを申しましたでしょうか、とでも言いたげに。彼にとって、その原因は秘密でも悲劇でもないらしい。日常会話の一部のように混ざってきた衝撃の告白。認識の差が落ち着かなかった。天文と船が好きだと聞いていたので登山趣味は腑に落ちる。しかし、まさか雪崩とは。今更ながら本棚にはネイチャー誌が多い。
 ご注文は、と店主はいつも通り穏やかに問う。世間話のように話された非運な過去が、澤口には重すぎた。気になるが、事故の詳細を掘り下げて聞くのは憚られる。慌てて相槌を返し、自分が打ち直したメニューを開く。ペーパーエイドで貼られている悪筆の追記。それでふと仮説が浮かんだ。急に答え合わせをされた心地だ。あらゆる不器用さに納得がいく。知らん顔が出来る性ではなく、切羽詰まった疑念は飛び出していく。
「字がこうなのは後遺症ですか」
 席から見上げて心許なく問う。机の傍らに立つ店主は目を丸くしてから、困ったふうにきょろきょろした。澤口は血の気が引いた。跳ぶように席を立ち、最敬礼で大声を張り謝罪する。
「申し訳ありませんでした! 何も知らなくて失礼なことばかり言いました。本当に……」
 急な威勢に臆してよろけた店主の、杖の音がカツンと一つ。叫びながら立った人と、驚いて後ずさった人。皮肉なデジャヴにめまいがした。出会った時の志鶴空さんと俺やんけ、と澤口はどこか脳の違うところで思う。しばしの沈黙のあと、松虫が笑い声を零した。
「何ですか」
 気難しい目の青年は怪訝に顔を上げる。杖の店主は言い淀んで背を丸めてから、微笑んだ。
「足が悪いだけ。手に後遺症はありません」
 青年は無意識に止めていた呼吸を再開した。形容しがたい感情を長い息に乗せ、席に落ちる。
「勘弁してくださいよ」
 その苦情は理不尽極まりない。
「紛らわしい字でしょう」
 笑顔で肩をすくめる店主。字だけちゃうわ、という心の声はしまっておく。
「ご注文のお伺い、まだでしたね」
 松虫は再び柔らかく尋ねた。澤口はごちゃつく心情を隠すようにメニューに目を落とした。右下の手書き。悪筆のひらがな四文字が増えている。



 いつものように遊んでいいのか迷ったが、しない方が失礼だろう。変に緊張して声が震えた。
「はらまき」
 正解ならば感づいている。はるまき。
 松虫はえくぼを浮かべて頷き、杖に頼りながら厨房へと向かった。

 薄焼き卵がぐるりと帯のように巻かれた、大きな揚げ春巻が登場した。動物の目鼻口に見立てた海苔がついている。腹巻きをして眠っている犬のような、笑える可愛さ。それを主役にして、周りには一口サイズのサラダ春巻きが六つ。半透明の下に見える色は味がそれぞれ異なるようでカラフルだった。白いワンプレートで、ご飯とスープもついている。キャラクター弁当がそのままメニューになったような軽やかな雰囲気。この料理の腕を思えば、彼の手に麻痺がある可能性など皆無だった。考えなしな発言をしたことを恥じ入り、澤口は耳を赤くして苦笑した。
「お医者さんも、同じことを仰ったんですよ」
 と、松虫が告げた。
「同じこと?」
 春巻を箸でつまみながら聞き返す。店主は怒る素振りなど一切なく、朗らかに話した。
「ええ。私が回復してきて、いざリハビリを始めますって時に。名前を書いてみてくださいって紙とペンを渡されたんですね。それで私、こんな字でしょう。残念ながら……なんて言われてしまって。それでね、元からですって言いました。ふふふ」
「それ笑えるの凄すぎますよ。もし俺が松虫さんだったら、医者に頭突きかましてます」
「やりそうですね」
「おい! あ、おいとか言ってもた、すみません」
 いえいえ、と心から楽しげに笑う松虫。店内は少し寒かった。冬隣の冷風が、ブリキ戸や窓を容易にすり抜けて入ってきている。暖房買わなきゃ、と店主は杖をずりながら小さく零した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

処理中です...