読めない喫茶店

宇野片み緒

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いつものように

11.サイコロ入り

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 玄関を出ると、どこからか秋刀魚を焼く匂いが漂っていた。澤口は不思議に思いつつアパートの階段を下る。水曜日の昼。行き先は、いつもの場所。
 黄色いヘルメットの中年たちが道路の真ん前で、声を張り合いながら働いていた。そういえば工事を告知する紙がポストに。澤口は肩を落とす。喫茶エプロンは目の前だが、そこへの動線は設けられていない。いつもは左手に数メートル歩くだけの所を、右に進んで迂回する。首に鈴がある茶トラが二匹、視界を横切った。猫だなあ、と呑気に思い見送った。
 曇天がなじむ古びた住宅街だ。昭和に建てられたであろう長屋が並んでいる。金木犀を庭木にしている家が何軒かあり、路地は甘い香りに満ちていた。小さな畑に小さな老婆。ほっかむり姿で団扇を持ち、七輪の秋刀魚を仰いでいる。ここだったか、と澤口は目を丸くした。こんにちは、と挨拶すると、彼女は歯の抜けた口で幸せそうに笑って、へあへあと返事した。迂回も悪くなかったと感じる。環状を逆回りした形で通行止めの裏に着く。ヘルメットの内の一人が、それに気づいて大声を張った。
「兄ちゃん、そこ行きたかったの。言ってくれたら通したのにごめんね」
「いえいえ、どうも」
 爽やかな笑みを返す澤口。なんだ、言えばよかったのか、と穏やかに納得した。最近、物事を優しく捉えられるようになったと澤口は自分でも感じていた。原因は明らかすぎる。
 いつもと違う角度から見ると、喫茶エプロンの外観は余計にあばら家に感じられた。手書きの看板は僅かに右に向いている。視界に入る面が裏では、加工前の木の板が無造作に捨てられているかのようだ。ブリキ戸を開けると、聞き慣れた出迎えがあった。
「お、お、澤口さん、ようこそ」
 緩慢な掠れ声。清潔感はあるが、しわしわのシャツに野暮なバギー。店内には久々に他の客がいない。天井から吊るされた少ない豆電球が、ダマスク柄の薄緑の壁をぼんやりと照らし出している。喧騒から離れた空間。無意識に、ほっと笑みが零れる。澤口は机にこうもり傘を引っ掛け、いつもの席に座った。昭和めいた窓を見やる。モールガラスは外をぼかす。点描のようになった工事現場が、窓枠にちょうど収まり絵に見えた。
「来にくくなってましたよ。苦情入れたらどうですか」
 肩をすくめて澤口が笑うと、松虫は普段と変わらず、おっとり返した。
「工事でしょう。や、いいんです、今日だけみたいですから」
「またそんなこと言って」
 売り上げに無頓着すぎて心配になる。
 ご注文は、と店主が尋ねた。また珍妙な字が増えていることを期待して壁を見る。新しい貼り紙はなかったが、りんご鍋に見えるちゃんこ鍋の横に、追記があった。ナントカ、入り?



 じっと貼り紙を睨む。松虫は微笑んで注文を待っている。気難しい目の青年は、にやりと口角を上げて無理難題を突き付けた。
「サイコロ入り」
「ええ、そうとも読めます、ええ」
 待ってましたと言わんばかりに、店主のかかとが上下した。
「実際はなんて書いてあるんですか」
 お約束の台詞。えくぼを浮かべて松虫は答えを言う。
「すいとん入り」「読めませんて」
 どちらも笑みを含んだ暖かい声色だった。
「お昼ご飯なら、定食にいたします?」
 猫背の店主が人懐こい笑みで尋ねる。ぜひ、と頷く澤口。
「ええと、ハンバーグか、からあげか、あと、今なら、秋刀魚が」
「秋刀魚で」
 目を輝かせて、常連の青年は食い気味に答えた。
 携帯を見ながら待つ。シグの新しいライブ情報が出ていないか、飛架理のツイッターを覗いてみた。澤口自身はSNSは何もしていない。一言だけ『うわあ』という呟きが増えていた。投稿日時は昨日。それにいいねが十件。全く意味が分からない。どこで、何が等の情報がゼロだ。前のツイートと関連性があるのかと思いきや、それぞれの呟きには数日の間があって、そうでもないようだった。『うわあ』『期末おわった』『行きつけの喫茶店で一日中勉強してきたあ』……。

 二十分ほど経って、定食が盆に乗って運ばれてきた。ミョウガと大根おろしが添えられた焼きたての秋刀魚。エメラルドグリーンの和食器に盛りつけられていて、塩焼きの照りが映える。ほかほかの白ご飯。さらに小鉢が三つ付いていた。長芋の梅紫蘇和え、トマトとアボカドと卵のコブサラダ、ころころの大学芋。澤口はつい、見た瞬間ふきだした。小鉢のおかずが全て見事にサイコロ切りなのだ。しかも無理がない。
「え、あと、汁物が、ありまして。少々お待ちを」
 そう言い残し、松虫は足をずって厨房に戻っていく。まだサイコロが増えるのかとニヤついてしまう。
 それはすぐに届いた。じゃがいも、玉ねぎ、かぶが器とのコントラストで食欲をそそる。読み違いの元となったすいとんも、ちゃんと入っていた。店主は裏方に徹するように、少し離れてさり気なく見守る。澤口はいただきますと手を合わす。まず汁物を口に運んだ。オリーブオイルの効いた鶏出汁の味。肌寒さが増してゆく秋によく合う。
 大学芋は好物だ。どうしても気になって、秋刀魚より先に箸を伸ばしてしまった。整った四角が生み出す均等な食感が上品だ。甘さも丁度いい。
 秋刀魚は、もちろん美味しかった。旬ならではの濃い味わいが贅沢だ。ミョウガの歯ごたえが楽しく、大根おろしだけとは異なる新しさがある。
 長芋の梅紫蘇和えは箸休めに最適。
 コブサラダ。浮くかと思いきや、わさびマヨネーズで仕上げられていて完璧に合っていた。
 三角食べを大いに楽しむ澤口。表情によく出るので、松虫は聞くまでもなく美味しいという感想を受け取る。ハトロン紙のランプシェードは秋が似合う。ほの暗い別世界の中、工事の音だけが現実味を帯びて、ずっと遠雷のように聞こえていた。
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