読めない喫茶店

宇野片み緒

文字の大きさ
上 下
9 / 15
signal.

9.シグのひーくん

しおりを挟む
 小さなアパートの一室。無駄な物が置かれていない、モノトーン調の部屋。縦長のステンレスラックに向かい、澤口は黒いノートパソコンを開いた。遠景に羊の群れがいる写真のスクリーンセーバーが暗転して、現れたデスクトップも同じ写真。別に羊が好きなわけではない。初期設定がこれだったのだ。風呂上りの灰色のスウェット姿で一息つく。
 検索窓にシグと打ち込む。結果、関係のない情報がずらりと並んだ。ゲームのキャラクターの説明、銃メーカーのサイト。澤口はつい、顔をしかめた。片仮名二文字で出るわけがないと分かっていながら、心のどこかで期待していた。言葉を変えて検索し直した方が早いと思いつつ、ぼんやりとスクロールを続ける。次のページに進んだ時、一番上に来た内容に目を見開いた。
『飛架理@シグ』
 ツイッターアカウントだった。字の並び方と言い、間違いなく志鶴空の弟だ。ヒットしていた驚きの他、プロフィールのすかした文面にも青年は目を点にした。
『弟のほう。ギター。通称ひーくん。基本ゲリラライブ。地球のどこかにいるから見つけて』
 凝視したままページを開く。名はひかりと読みそうだが、男にしては変わっている。アイコン画像はベースギターを構えた少年の横顔。柔らかそうな黒髪と、体系に対して大きすぎる灰色のセーターが目を引いた。うざったく伸びた前髪で素顔は見えない。鼻と顎のラインは綺麗だ。十人程度のフォローに対してフォロワーが三百人を超えている。固定ツイートは、
『シグは、シグナルでシグマで時雨で仕草でつまり永遠って意味』
 という要領を得ない煽り文と、姉弟での路上ライブ中と思しき画素の低い写真。それに五百いいねがついている。拗らせた子供というのが、澤口の抱いた第一印象だった。
 一番最近の呟きは『期末おわった』という一言で、返信が連なっている。おつかれさまという声が多い。その一方で『やはりバカだったか』という類の書き込みが数件ある。飛架理が内一つにだけ『そのおわったじゃねえし。やはりってなに笑』と返していた。呟きは三日に一度くらいの頻度で、どれも短文。一つ前の呟きは『行きつけの喫茶店で一日中勉強してきたあ』というものだった。それへのコメントも褒め言葉が主なのに、一部だけ『絶対はかどらない』『イキリ野郎ウケる』『店に迷惑』といった批判的な声がある。もしかしてアンチがいるのだろうか。それには本人からの返信はない。『なんていう喫茶店?』には『ひみつー』と返していた。行きつけという文字列を追う。投稿日時は先週の日曜日。また次の週末も来るかもしれない。
 シグのことを他にも軽く調べたが、これといった情報は見つからなかった。ただ日曜日に、喫茶エプロンに来る可能性だけ。

「お、お、ようこそ。珍しいですね、水曜日以外に来られるなんて」
 松虫が目を真ん丸にして出迎えた。澤口は適当な相槌を打つ。今日を待ちわびた木金土は気が気じゃなかった。職場でも落ち着きがないと指摘されてしまったほどだ。狭い店内に、やはり居た。前髪を中央分けにした大人しそうな少年。ツイッターで見た雰囲気とは異なるが、篭橋飛架理に違いない。洞のような瞳が、志鶴空と同じですぐ分かった。少年は頬杖をついてメニューとにらめっこしている。この子が、と思いつつ視線を外す。松虫が不思議そうに澤口を見上げていた。苦笑を返し、いつもの席に腰掛ける。そうすると急速に冷静になり、居るから何やねん、と自分で自分に突っ込んだ。なぜわざわざ日曜を狙って来た、俺は。今からライブが始まるわけでもなし。拗らせた子供とばかにしたが、これでは自分も大概、拗らせた追っかけではないか。
 不意に優しく落ち着いた声の鼻歌が聴こえた。
「出会いは花時雨 静かな雨音に馴染む声」
「ひーくんお客さん居るよ」
 松虫の声がすぐさまそれを遮った。歌はすぐに止まって小柄な男子高校生が澤口を見る。彼はぎょっと肩を跳ね上がらせ、挙動不審に目を泳がせて、メニューで赤い顔を隠した。
「すみませんすみません! めっちゃ歌っちゃった、恥ずかしっ。と言うか来たのいつすか。気づかなかったんすけど。あーもうごめん今の忘れてください」
 わざと歌ったのかと思いきや、本当に気づいていなくての鼻歌だったらしい。松虫とのやり取りまでも耳に入っていなかったとは、よっぽどぼんやりしていたのか、何か大事な考え事をしていたのか。ぺらぺらと喋るが、声はバンドマンとは思えないほど小さかった。話すきっかけが生まれ、澤口はひそかに安堵した。松虫が二人の中間に立ち、人懐こい笑みで飛架理に告げた。
「気づかないよね、そっと入ってくるから。厨房に居る時、僕、耳を欹てる必要あるもん」
 聞きなれない響きに澤口はぽかんとした。常連の高校生相手ともなると、松虫も完全に敬語が外れるらしい。今後はもう少し音を立てて戸を開けようと、ひそかに決心した澤口だった。
「さっき歌ったん、自作の曲?」
 そう尋ねると飛架理は、人見知りっぽいボソボソした声を返した。
「です。なんで分かったんすか」
 うつむいて目を逸らし、はにかんでいる。そのあどけない表情は実に高校生らしく、『地球のどこかにいるから見つけて』という言葉を等身大でリアルに見せた。
「自分シグのひーくんやろ。お姉さんの単独ライブ見て知った」
 あ、しーちゃん、と破顔して少年は頷いた。はっきり笑うとかなり幼い。
「しーちゃんの三味線まじで凄いっすよね」
 弟は誇らしげに述べた。それから、ええと、と口ごもる。
「ああ、そっか、俺一方的に知ってるな。澤口です」
「澤口さん。あ、名刺。どもっす。やっべ受け取る作法知らね」
 席から立ち、澤口に駆け寄る飛架理。向かい合うと少年の背の低さが際立った。彼は名刺を片手で受け取り、物珍しそうに幾度もひっくり返して表面も裏面も見た。へーっと感心した声を上げて天にかざす。そして暗記カードさながらに頷いてから、尻ポケットにしまい込んだ。
「株式会社ヒトデ 人事営業部 サワグチヒナタ」
「だいぶ作法なってないで」
「読み上げるのNGなんすか」
「いや、読み上げ方と……何もかも。あと俺ヒナタじゃなくてヒューガ」
「ヒューガ」
「さん」
「アッ、すません。ヒューガさん」
「下の名前で呼ばれんの苦手やねんな。澤口さんで頼むわ」
 松虫が「志鶴空さんは」と言いかけてから、微笑んでやめた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

幼馴染

ざっく
恋愛
私にはすごくよくできた幼馴染がいる。格好良くて優しくて。だけど、彼らはもう一人の幼馴染の女の子に夢中なのだ。私だって、もう彼らの世話をさせられるのはうんざりした。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

処理中です...