読めない喫茶店

宇野片み緒

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エタニティライブ

8.発見日です

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 学生たちは、閉会が済むとすぐに帰った。いつしか再開した豪雨が窓を叩いている。食事は大好評でどの皿も浚われたので、ライブの終盤に松虫がそっと片付けた。八時半を指している壁時計は、スイープセコンドなので静かだ。澤口はジョッキを両手の指に掛けて一気に持った。居酒屋でバイトをした経験があるのだ。志鶴空は私服に着替えるため、店奥の手洗場に入っている。
「すみません、片付けまで手伝っていただいて」
 即席テーブルを右往左往して拭きながら、店主が眉をハの字に下げた。冷静に見ると、彼の服装は存外普段と大差なかった。質は良いがくたびれているワークシャツ。煤染めのそれを白スキニーに合わせているから映えたのだ。いつもは野暮なバギーのところ。
「まだ帰りたくなかったから、やることあって嬉しいくらいです」
 率直な笑みを返し、澤口は厨房の暖簾をくぐった。清潔で真っ白な空間だ。整理整頓が行き届いており、意外と広い。ジョッキを流しの横に置く。冷蔵庫に、悪筆のレシピが数枚留められている。帆船のミニチュアマグネットが目を引いた。飾り棚に置き時計がある。長方形に近いが不定形の文字盤に、ターナーの『交易船の到着』が印刷されていた。短針が錨の形。
「松虫さん、船めっちゃ好きな人やん」
 驚いて、酔いも相まって、思いがそのまま声に出た。壁一面の食器棚には、同じものが二つとない器が並んでいる。口を開けて見とれてしまう。シェルコースター、しぶき舟型の刺身皿、錨が描かれたブルーグラス。いちいち立体的で場所を取っている。それで、腑に落ちた。
「だから『エプロン』って……」
 息を飲んで独り言ちながら、今まで店名の由来を考えもしなかったことを悔いた。海原のような食器棚が見下ろしてくる。港言葉でエプロンは、船着き場のことを指す。

 店頭に戻ると、私服の志鶴空が戻ってきていた。机を運ぶのを手伝っている。船を見た後だからだろうか。酒が残っているせいだろうか。テーブルから千切れて、定位置に進んでいく赤茶の机が、出航する船に見えた。五艘。うみが、体内でザブンと波打つ。
「そういえば、志鶴空さんは誕生日いつなんですか」
 口から突いて出た。振り向いた彼女の、洞のような瞳の静寂。
「冥王星の発見日です」
 か細い声が告げた。独特すぎる回答拒否をされたのかと、表情を伺う。三味線弾きの女は可笑しそうに目を細めた。
「今の、シグとしてインタビューを受けた時の答え方」
 発言の端々からファンの存在を感じる。シグというバンドを、帰ってからちゃんと検索しようと思った。冥王星の発見日も。
 松虫が、冥王……と呟きながら机を置き、記憶を辿るように目を伏せた。
「分かるんですか」つい口を挟む澤口。
「恐らく二月十八日だったかと」
 志鶴空が目を真ん丸にして、そうです、と声を弾ませた。
「まじかよ」「高校生の頃、天文部でしたから」「まじかよ」
 店主は頷き、人懐こく目尻を下げた。料理、船、天文。自分とは縁遠すぎる学術的な趣味の羅列に、澤口は気が遠くなる。自分が随分ちっぽけな生き物に感じられた。

 片付けが終わり、帰ろうとした澤口を松虫が引き留める。
「りんご鍋、食べていかれませんか」
 きょとんと振り向く。店主は困り顔で微笑した。
「や、その、午前、練り切りの次に出すつもりが、意外と長居されなかったので。あの時は呼び戻すのも、気が引けたといいますか。澤口さん、ものすごく堂々とした後ろ姿でしたから」
 あ、と石を詰めたような声が出た。練り切りで大満足し、奢るとのたまって颯爽と去った自分を思い出し、顔から火が出る。あの時二人が慌てていたのは、金を出すタイミングと帰るタイミングを澤口が大いに間違えていたせいなのだ。
「確かに、準備中とか言ってましたね。すみません」
「や、大丈夫です。あの後、志鶴空さんと大爆笑でふふふふ」
「やめて、思い出し笑いほんまやめて」
「お腹に余裕があればで結構なんですけれども、いかがですか」
「いただきます。ぜひ」
 実際の顔色は微塵も変わっていないのだが、本人は耳まで真っ赤になっている気がして落ち着かなかった。席に着くとき、珍しくガタンと鳴った。松虫は厨房にりんご鍋を取りに向かう。志鶴空が椅子を持ってきて、上品な所作で一人掛けの向かいに座った。
「だからあたし、昼は我慢したんです。一緒に食べたかったから」
「それは、すみません本当。なんか帰ったりして」
 うなだれる澤口を見て、志鶴空は肩をすくめ「ふふ」と言った。何笑とんねん、と関西弁の突っ込みが飛び出そうになったが、怖がらせる気がして二の句に詰まった。何も言い返さなかったことで、本気で落胆していると思わせてしまったのか、彼女は急いで補足した。
「違うんです! 昼食を抜いたって意味じゃないんです。我慢したのはりんご鍋だけで、あたしお昼は、オムライス食べました」
 しばしば突っ走る、と思いながら青年は一先ず相槌を打った。
 店主が戻ってきて、一人用の小さな鍋敷きをニつ机に置いた。その上にパステルカラーのココット鍋が可愛らしく座る。蓋を開けると目に飛び込んだのは、りんごとじゃが芋のフルーツグラタンだった。ワインで煮た赤いコンポートと、薄切りの芋が敷き詰められている。クリームチーズとカマンベールチーズが贅沢に使われていて、宝箱のような鍋の中で、表面は沸々と息をしていた。澤口と志鶴空は、子供のように目を輝かせ、鉱石掘りでも始めんばかりにスプーンを手にした。お互い、目の前で相手の表情がみるみる明るくなったのがおかしくて笑う。
「単純ですね」
 生意気に澤口が言うと、こっちの台詞です、と銀世界を思わせる声が凛と返った。
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