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エタニティライブ
5.りんご鍋
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ライブ当日は豪雨だった。建物の角という角がぼやけて見える。読めない告知に悪天候まで重なるとは。本当に開催できるのかが心配すぎて、澤口は土砂降りの中、朝一に様子を伺いに来てしまった。パラソルばりに大きなこうもり傘をたたむ。ひさしのないブリキ戸の前で一瞬、滝のような雨に打たれた。流木のチャイムも湿気を吸って音が低い。喫茶エプロンの店内は、外との対比で明るく見えた。ようこそ、と言ういつもの出迎えがなく、首をひねる澤口。
「店主は買い出しに行っています」
突如、女性の細く高い声が聞こえて面食らった。入り口からはちょうど死角になる席に、小柄な妙齢の人が腰かけていた。重たげな緩いパーマのおかっぱに、眉上の不揃いな前髪。ヘアカラーは緑がかったアッシュ。虚ろで大きな上がり目が、彼女を思慮深そうにも、反して空っぽなようにも見せていた。裾が長い生成りのワンピースを着ている。白い肌に赤いグロスとチークが映え、雪うさぎみたいな配色だな、と澤口はぼんやり思った。入口で立ち尽くしていると、女は何を勘違いしたのか慌てて立ち上がり、叫ぶように述べた。
「あの! ここの料理とてもおいしいんです。諦めて帰るの、もったいないです。ここの店主さん、真面目な方です。営業中に買い出しなんて珍しいんです。少しだけ待てませんか」
突然の剣幕に驚き、青年は一歩後ずさった。
「いや俺、常連なんで、分かってんですけども。なんか、すみません」
軽い謝罪と一緒に、営業スマイルを浮かべる。小柄な人はかっと赤くなり、俯いた。
「そうでしたか。ごめんなさい。ずっと入口に立っておられるから、食べずに引き返そうか悩んでるのかなと思ってしまいました。あ、あたしも、常連なんです」
慌てふためきながら彼女は着席した。その足元に、ちりめん張りの白いケースが横たわっているのに気づき、澤口は、あ、と零す。三味線が入っていてもおかしくない、大きな長方形。しかし彼女が今日ライブをする本人ならば、あまりにも到着が早い。
「お互い常連のわりに、初めて会いますね」
歯を見せて笑うと、控えめな笑みで同意が返った。その小さな口に一升の酒が入るのが想像できず、タイミングよく大きな箱を持っているだけの別人なのではないかと、青年は確信を持てなかった。傘の柄を机に引っ掛けて、いつもの席に腰かける。
「でも不在って本当に珍しい。何かあったんですか」
聞くと、志鶴空と思しき人は苦笑して、一枚の貼り紙を指差した。
「あたしが、あれを読み間違えてしまったせいなんです」
澤口は目を細めて、それに視線をやる。
「十月から、りんご鍋をはじめます?」
吐息のような笑い声が上がった。彼女の独特の雰囲気は、脳裏に雪原を見せる。
「あたしも、そう間違えたんです。それで幸太郎さんは、りんごを買いに……」
遠い目をして、彼女はぽつりと付け足した。
「この雨だし引き留めたんですけど、行っちゃいました」
幸太郎さん、が松虫のことだと認識するのに数秒かかり、相槌が遅れた。
「実際はなんて書いてあるんですか」
いつもの言い回しで、澤口は返した。か細い声が言う。
「ちゃんこ鍋だそうですよ」
そのとき、流木のドアチャイムが鳴った。ビニール傘とエコバックを不器用に持ちながら、店主がブリキ戸に挟まった。帆布製の上着が色を変えるほどに濡れている。傘の膜が壁につっかえて中に入れない。まるで過剰な演出だ。
「はいはい、予想通りの展開ですね」
助けに入り、澤口はもう何度めになるかしれない呆れ顔をする。松虫は、ほっと微笑んだ。
「や、澤口さん、来られてたんですね。ようこそ。志鶴空さん、店番ありがとうございました」
その言葉で澤口は、彼女が志鶴空だとようやく確信できた。大きな目を少し細めて、冬の空気を纏う人は申し訳なさげに会釈する。志鶴空さん、幸太郎さん、と二人が名前で呼び合っていることに急に気づき澤口は首をかしげた。深い理由はなさそうに見える。
「聞きましたよ、あれがりんご鍋になる件」
貼り紙を指して告げた。人懐こい笑みが返る。
「え、そう、そうなんです。大変面白い読み違いをいただきまして、せっかくですから、作ろうかと。あ、そうだ、澤口さん。こちら、志鶴空さんです。今日のライブの」
弾むかかと。澤口は、雨の轟音を思い怪訝に問う。
「今日やるんですか?」
二人のやり取りを聞いて、三味線弾きはまたもや勢いよく席を立った。
「ごめんなさい、わざと名乗ってなかったです。あたし、篭橋志鶴空といいます。三味線を弾いてます。今日、五時からここでライブの予定で、一応、告知の貼り紙があれです。読めた人だけ来れるってコンセプトだったので、黙ってたんですけど、今、幸太郎さんが今日のライブって言っちゃいましたね。もしよかったら来てください」
いや、雨なのにと言いたくて、ライブのことは前から存じていて……と経緯を話そうとして、面倒になる。
「こちらこそ名乗り遅れました、澤口です。読めませんでしたね。でも、せっかくなんでライブ行きますよ」
スマートに今バレたことになり、松虫は感服した。
「店主は買い出しに行っています」
突如、女性の細く高い声が聞こえて面食らった。入り口からはちょうど死角になる席に、小柄な妙齢の人が腰かけていた。重たげな緩いパーマのおかっぱに、眉上の不揃いな前髪。ヘアカラーは緑がかったアッシュ。虚ろで大きな上がり目が、彼女を思慮深そうにも、反して空っぽなようにも見せていた。裾が長い生成りのワンピースを着ている。白い肌に赤いグロスとチークが映え、雪うさぎみたいな配色だな、と澤口はぼんやり思った。入口で立ち尽くしていると、女は何を勘違いしたのか慌てて立ち上がり、叫ぶように述べた。
「あの! ここの料理とてもおいしいんです。諦めて帰るの、もったいないです。ここの店主さん、真面目な方です。営業中に買い出しなんて珍しいんです。少しだけ待てませんか」
突然の剣幕に驚き、青年は一歩後ずさった。
「いや俺、常連なんで、分かってんですけども。なんか、すみません」
軽い謝罪と一緒に、営業スマイルを浮かべる。小柄な人はかっと赤くなり、俯いた。
「そうでしたか。ごめんなさい。ずっと入口に立っておられるから、食べずに引き返そうか悩んでるのかなと思ってしまいました。あ、あたしも、常連なんです」
慌てふためきながら彼女は着席した。その足元に、ちりめん張りの白いケースが横たわっているのに気づき、澤口は、あ、と零す。三味線が入っていてもおかしくない、大きな長方形。しかし彼女が今日ライブをする本人ならば、あまりにも到着が早い。
「お互い常連のわりに、初めて会いますね」
歯を見せて笑うと、控えめな笑みで同意が返った。その小さな口に一升の酒が入るのが想像できず、タイミングよく大きな箱を持っているだけの別人なのではないかと、青年は確信を持てなかった。傘の柄を机に引っ掛けて、いつもの席に腰かける。
「でも不在って本当に珍しい。何かあったんですか」
聞くと、志鶴空と思しき人は苦笑して、一枚の貼り紙を指差した。
「あたしが、あれを読み間違えてしまったせいなんです」
澤口は目を細めて、それに視線をやる。
「十月から、りんご鍋をはじめます?」
吐息のような笑い声が上がった。彼女の独特の雰囲気は、脳裏に雪原を見せる。
「あたしも、そう間違えたんです。それで幸太郎さんは、りんごを買いに……」
遠い目をして、彼女はぽつりと付け足した。
「この雨だし引き留めたんですけど、行っちゃいました」
幸太郎さん、が松虫のことだと認識するのに数秒かかり、相槌が遅れた。
「実際はなんて書いてあるんですか」
いつもの言い回しで、澤口は返した。か細い声が言う。
「ちゃんこ鍋だそうですよ」
そのとき、流木のドアチャイムが鳴った。ビニール傘とエコバックを不器用に持ちながら、店主がブリキ戸に挟まった。帆布製の上着が色を変えるほどに濡れている。傘の膜が壁につっかえて中に入れない。まるで過剰な演出だ。
「はいはい、予想通りの展開ですね」
助けに入り、澤口はもう何度めになるかしれない呆れ顔をする。松虫は、ほっと微笑んだ。
「や、澤口さん、来られてたんですね。ようこそ。志鶴空さん、店番ありがとうございました」
その言葉で澤口は、彼女が志鶴空だとようやく確信できた。大きな目を少し細めて、冬の空気を纏う人は申し訳なさげに会釈する。志鶴空さん、幸太郎さん、と二人が名前で呼び合っていることに急に気づき澤口は首をかしげた。深い理由はなさそうに見える。
「聞きましたよ、あれがりんご鍋になる件」
貼り紙を指して告げた。人懐こい笑みが返る。
「え、そう、そうなんです。大変面白い読み違いをいただきまして、せっかくですから、作ろうかと。あ、そうだ、澤口さん。こちら、志鶴空さんです。今日のライブの」
弾むかかと。澤口は、雨の轟音を思い怪訝に問う。
「今日やるんですか?」
二人のやり取りを聞いて、三味線弾きはまたもや勢いよく席を立った。
「ごめんなさい、わざと名乗ってなかったです。あたし、篭橋志鶴空といいます。三味線を弾いてます。今日、五時からここでライブの予定で、一応、告知の貼り紙があれです。読めた人だけ来れるってコンセプトだったので、黙ってたんですけど、今、幸太郎さんが今日のライブって言っちゃいましたね。もしよかったら来てください」
いや、雨なのにと言いたくて、ライブのことは前から存じていて……と経緯を話そうとして、面倒になる。
「こちらこそ名乗り遅れました、澤口です。読めませんでしたね。でも、せっかくなんでライブ行きますよ」
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