読めない喫茶店

宇野片み緒

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喫茶────へようこそ

3.リンドール無限

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 どうにも腹の虫が治まらない。盆休みくらいは自由を噛み締めたかったのに。トランク風の黒いキャリーを引き、澤口はくたびれた顔で歩いていた。三十人規模で、一泊二日のバスツアーに行ってきた帰りである。同じ営業部の係長の提案で、親睦会とのことだった。最も鼻持ちならないのは、夜に行われたレクリエーションでの一幕である。罰ゲームがパイ投げという、あまりにも時代錯誤な企画だった。そして、同期の女がパイ投げ対象になった際に、上司がちゃかした。
「おいヒューガ、代わってやれよ。男だろ」
 ヒューガとは澤口の下の名前だ。日向と書く。似合わない上に珍しいので、からかいの種になる。澤口は自分の名が好きでない。休日に無給で機嫌を取るのが癪で、つい歯向かった。
「そう言う係長が代わってあげたらどうですか」
「なにい、生意気なっ」
 その怒声と同時に、顔面にパイが飛んでいた。挙句、女の嘘泣きで周りが口笛を吹く始末。
 午後八時。散々な気分でアパートの前に着いた。向かいの喫茶エプロンは、いつにも増して暗く見えるが一応灯りは点いているらしい。ちょうど空腹であり、立ち寄ることにした。軋むブリキ戸を引いて開く。すると順繰りに机を拭いていた松虫が、驚いて入口に目をやった。古臭いモールガラスの窓は既に閉じられている。手前には、クリップで留められた藍染めと思しき皺加工の布。澤口は暗く見えた理由を今さら理解し、後悔混じりに呟いた。
「閉めるところだったんですね」
「ええ。や、でも、その、どうぞ。どうぞ」
 店主は不安げな面持ちで、たよりなく空間を指した。疲労で気が回らず、営業マンの男は言葉に甘え腰かけた。傘を机に引っかけようと左腕に触れて気づく。ない。バスに置き忘れてきたようだ。ご注文は、と松虫が目を泳がせて尋ねる。普段以上に挙動不審な様子から、ほとんど売り切れている予感がした。ええと、と生返事をする。不意に机の横に松虫がしゃがみこんだ。
「あの、澤口さん。もしかして、何か嫌なことがあったんですか」
 目線を合わせようとしたのなら下がりすぎだ。青年は意外そうに彼を見てから、わずかに俯いて肯定した。店主は身振り手振りをつけながら、おろおろ続けた。
「そ、それは、それは良くないです。ええと、ええと、ああ、何を食べれば元気が出ますか。その、メニュー表から、どれでも」
 澤口はさらに意外そうに目をしぱたたかせた。
「どれでも? あるんですか?」
 ならなぜ不安そうなのかを考えて、入店の瞬間から自分が心配されていたのだと気づいた。澤口は落ち込みが顔に出すぎる。机の横の白いつむじが、ゆらりと上がり微笑んだ。
 幾分落ち着いてメニュー表を開く。左下の余白に、新たな読めない紙切れが、なぜか絆創膏で貼り付けてあった。



 青年は眉間に深いしわを寄せ、わざと指差す。
「セロテープなかったんですか」
 店主はよくぞ気づいてくれたとでも言うようにえくぼを浮かべた。
「え、ございますが、セロテープと違って劣化しないと聞きまして」
「それバンドエイドじゃなくてペーパーエイド」
 独り言のように返した澤口の言葉に松虫は息を飲んだ。
 紙切れには「うみ」を含め、新メニューらしき文字が五つ羅列している。
「右端がリンドール無限に」
 言いかけてから、閉店間際だったことを思い出し眉が歪んだ。
「見えるってだけで作れって意味では」
 と息を継ぐ。しかし、松虫はいつも通り嬉し気にかかとを弾ませた。
「確かに、ええ、確かに見えます」
 それから澤口の疲労を気遣ってか、すぐに正解を言った。
「ハンバーグ定食」
「それ、注文しても大丈夫ですか。夜ごはんがまだで」
「リンドール無限?」
「えっ。いや、ハンバーグ定食。リンドールって流石に何だよって感じですし」
 澤口の返事に、松虫は困り顔で肩をすくめ、随分とあっさり厨房に引っ込んだ。さすがに今日は間が悪すぎたと感じ、青年はその背を素直に見送る。同時に残念な思いもあった。リンドール無限という意味不明なオーダーが通っていれば、彼は何を出しただろうか。

 十分後に、整然としたハンバーグ定食が現れた。漆黒の皿にオーロラソースがかかった主役が鎮座し、横に鮮やかなコールスローサラダが盛られている。白地に錦鯉の紋様が描かれた器に白ご飯。片付け途中に押し掛けられたというのに、サービスが変わらない。
 さらに正方形の洒落た小冊子を側に置き、店主は人懐こく微笑んだ。それは外国製のチョコレートのカタログだった。澤口は食べ始めようとしていた手を止め、きょとんと視線をやる。
「今日すぐには用意できなくて申し訳ないんですけども」
 そう言って店主はカタログを開いた。真ん丸くて大きいキャンディ包みのチョコレートが、透明の円柱に複数個入り、大きい箱から小さい箱へと積み重なってタワーを成している写真があった。カラフルで上品な包みにはLINDORと書かれている。澤口は目を丸くしてその文字を追う。カタログと松虫を交互に見る。店主は少し早口になり、とても愉快そうに語った。
「ええ、ええ、そうなんです。澤口さんはリンドールって何だよと仰いましたが、あるんです。リンツというチョコレート会社の商品で、中でもこれはリンドールタワーといって、式典でよく飾られるものらしいんです。というわけで私、取り寄せておきます。ええと、三セットくらいあれば、無限の気分になりますでしょうか」
 澤口は唖然として瞬きを繰り返し、終いに声を上げて笑った。
「良いです。知れただけで」
 そしてさっきまでが嘘のように機嫌よく、定食を平らげた。
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