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喫茶────へようこそ
2.うみ、はじめました
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廃墟同然の小屋だが喫茶店である。若い男がブリキ戸の前に立っていた。向かいのアパートで一人暮らしをしている澤口だ。快晴なのに腕には黒いこうもり傘。濃色ジーンズに無地の白カットソーで、上にきつね色のサマーニットを羽織っている。彼は先日、気まぐれに入ったこの店の味に惚れ込んだ。しかしここの店主ときたら、酷い悪筆だというのにメニューも店看板までも手書きだ。パソコンが使えないらしい。見かねた澤口がメニューを作り直し、仕事が定休であるこの水曜日に、こうして届けに来たというわけだ。
喫茶エプロンと悪筆で書かれている木の板が無骨に出迎える。戸の下には、前回はなかったはずの潰れた軟球が挟まっていて半開きだった。澤口は顔をしかめる。取っ手を引くと、香辛料の匂いが立夏の空へ立ち込めた。足元から拾って声を張る。
「松虫さん、変なの挟まってましたけど」
奥の厨房から、やせぎすの男が足を引きずって現れた。動作は老人のようだが、顔立ちから察するに歳は澤口より少し上か。松虫と呼ばれた彼は、ここの店主である。
「や、澤口さん、ようこそ。それね、わざとなんです。この中は空気がこもりますでしょう」
「ドアストッパー使いましょうよ」
持ってないんです、と眉尻を下げて軟球を受け取り、ブリキ戸の下に挟み直す松虫。潰れた軟球の方がないだろうよ、と澤口は感じ、首をひねった。
「天気雨でしたか」
不意に松虫が尋ねた。聞き返すように両眉を上げた青年に、店主は謝るような声色で返す。
「や、その、傘を持っていらっしゃるので」
「いつも持つんです。今日は晴れですよ」
気難しい目で、澤口は音を立てず机に傘を引っかけた。直してきたメニューも置き、
「どうぞ」
何てことないふうに述べた。厚紙を見開き型にして、深緑のレザーシールで表紙と裏表紙を付けている本格的な仕上がりだ。張り切りすぎたと自覚していて恥ずかしかったが、せっかくいい出来なので簡単なものには変えず持ってきた。松虫は目を真ん丸にした。
「こ、こんなに立派に作っていただいて! 読めるようになるだけで十分でしたのに、ええ、もう、こんなに。ありがとうございます」
「ああ、はい。普通なんですけどね、そのくらい」
照れ隠しのように視線を逸らし澤口は店内を見回す。そして、妙な貼り紙に気づいた。
うみ、はじめました。
そう書いているように見えるが、例の悪筆だ。
「松虫さん、あれ。あんたはいったい何をはじめたんです」
指して苦笑した。せっかくメニューを直したのに、新メニューが読めないとは。あれは、と言いかけて松虫は口をつぐみ、企んだような笑顔を浮かべ言い換えた。
「何て読めます?」
澤口はその笑みの理由が分かった気がした。
「うみ、はじめました」
ニヤニヤが移る。店主は感嘆を漏らし楽しげに頷いた。
「なるほど、うみ。ええ、読めます、そうとも読めます、ええ」
「実際はなんて書いてあるんですか」
青年は呆れたように、でも案外楽しそうに店主を見た。彼は愉快そうに、訥々と語り出す。
「よく来てくださるお客さんに、一人、酒豪の方がいましてね。一合じゃ足りないって、仰るんです。それで始めたメニューなんですけれども、何だと思います?」
答えじゃなくてクイズにしやがったな、とほくそ笑んで貼り紙を凝視する澤口。うみに見える字を脳裏で勢いよく整える。急に思い当たり、
「一升、はじめました」
つい大声で言ってしまった。ええ、いかがですか、と松虫が人懐こくえくぼを見せる。この変な店主のことだから、その一升をうみに変えてやろうと企んだに違いない。しかし真っ昼間から瓶で酒を煽るなど、真面目な澤口にとってはとても耐えがたく、したくない反人道的行為だった。
「そんならいりません。一升は多すぎるし、昼でしょう今は」
身を引いて答えると、店主は怒られた子供みたいに俯いた。
「え、あ、そ、そうですね。すみません、ええと、でしたら、他の」
その泣き出しそうな顔を見ていると、
「うみをグラスで」
つい、かぶせて言っていた。松虫の表情が途端に明るくなり、かかとが嬉しそうに上下する。
「いいんですか、その、昼間から飲んでしまっても」
「いいですよもう」
調子が狂う青年は、軽くため息をついた。
厨房に引っ込んだ松虫が、数分後に運んできたのは、澄んだ水色をしたオンザロックの日本酒だった。三日月型に切られたすだちが透明ガラス製のソーサーに乗っている。
「元々の色では、ないですよね」
尋ねると、店主はしてやったりという顔で小瓶を掲げた。
「これ。アンチャン茶を加えたから青いんです。タイのハーブティーで味も香りも少ないですから、主に着色用に使われるもので。それとですね、酸が入ると不思議なことが」
店主の骨ばった手が、実験を勧めるようにすだちを指差した。絞ってみる。うみは、魔法のように紫がかった色に化けた。刹那、夜の海の凪を感じた。
口に運ぶ。炭酸だ。微かに豆が香る風変わりな味。初夏らしい爽やかなカクテルだった。
喫茶エプロンと悪筆で書かれている木の板が無骨に出迎える。戸の下には、前回はなかったはずの潰れた軟球が挟まっていて半開きだった。澤口は顔をしかめる。取っ手を引くと、香辛料の匂いが立夏の空へ立ち込めた。足元から拾って声を張る。
「松虫さん、変なの挟まってましたけど」
奥の厨房から、やせぎすの男が足を引きずって現れた。動作は老人のようだが、顔立ちから察するに歳は澤口より少し上か。松虫と呼ばれた彼は、ここの店主である。
「や、澤口さん、ようこそ。それね、わざとなんです。この中は空気がこもりますでしょう」
「ドアストッパー使いましょうよ」
持ってないんです、と眉尻を下げて軟球を受け取り、ブリキ戸の下に挟み直す松虫。潰れた軟球の方がないだろうよ、と澤口は感じ、首をひねった。
「天気雨でしたか」
不意に松虫が尋ねた。聞き返すように両眉を上げた青年に、店主は謝るような声色で返す。
「や、その、傘を持っていらっしゃるので」
「いつも持つんです。今日は晴れですよ」
気難しい目で、澤口は音を立てず机に傘を引っかけた。直してきたメニューも置き、
「どうぞ」
何てことないふうに述べた。厚紙を見開き型にして、深緑のレザーシールで表紙と裏表紙を付けている本格的な仕上がりだ。張り切りすぎたと自覚していて恥ずかしかったが、せっかくいい出来なので簡単なものには変えず持ってきた。松虫は目を真ん丸にした。
「こ、こんなに立派に作っていただいて! 読めるようになるだけで十分でしたのに、ええ、もう、こんなに。ありがとうございます」
「ああ、はい。普通なんですけどね、そのくらい」
照れ隠しのように視線を逸らし澤口は店内を見回す。そして、妙な貼り紙に気づいた。
うみ、はじめました。
そう書いているように見えるが、例の悪筆だ。
「松虫さん、あれ。あんたはいったい何をはじめたんです」
指して苦笑した。せっかくメニューを直したのに、新メニューが読めないとは。あれは、と言いかけて松虫は口をつぐみ、企んだような笑顔を浮かべ言い換えた。
「何て読めます?」
澤口はその笑みの理由が分かった気がした。
「うみ、はじめました」
ニヤニヤが移る。店主は感嘆を漏らし楽しげに頷いた。
「なるほど、うみ。ええ、読めます、そうとも読めます、ええ」
「実際はなんて書いてあるんですか」
青年は呆れたように、でも案外楽しそうに店主を見た。彼は愉快そうに、訥々と語り出す。
「よく来てくださるお客さんに、一人、酒豪の方がいましてね。一合じゃ足りないって、仰るんです。それで始めたメニューなんですけれども、何だと思います?」
答えじゃなくてクイズにしやがったな、とほくそ笑んで貼り紙を凝視する澤口。うみに見える字を脳裏で勢いよく整える。急に思い当たり、
「一升、はじめました」
つい大声で言ってしまった。ええ、いかがですか、と松虫が人懐こくえくぼを見せる。この変な店主のことだから、その一升をうみに変えてやろうと企んだに違いない。しかし真っ昼間から瓶で酒を煽るなど、真面目な澤口にとってはとても耐えがたく、したくない反人道的行為だった。
「そんならいりません。一升は多すぎるし、昼でしょう今は」
身を引いて答えると、店主は怒られた子供みたいに俯いた。
「え、あ、そ、そうですね。すみません、ええと、でしたら、他の」
その泣き出しそうな顔を見ていると、
「うみをグラスで」
つい、かぶせて言っていた。松虫の表情が途端に明るくなり、かかとが嬉しそうに上下する。
「いいんですか、その、昼間から飲んでしまっても」
「いいですよもう」
調子が狂う青年は、軽くため息をついた。
厨房に引っ込んだ松虫が、数分後に運んできたのは、澄んだ水色をしたオンザロックの日本酒だった。三日月型に切られたすだちが透明ガラス製のソーサーに乗っている。
「元々の色では、ないですよね」
尋ねると、店主はしてやったりという顔で小瓶を掲げた。
「これ。アンチャン茶を加えたから青いんです。タイのハーブティーで味も香りも少ないですから、主に着色用に使われるもので。それとですね、酸が入ると不思議なことが」
店主の骨ばった手が、実験を勧めるようにすだちを指差した。絞ってみる。うみは、魔法のように紫がかった色に化けた。刹那、夜の海の凪を感じた。
口に運ぶ。炭酸だ。微かに豆が香る風変わりな味。初夏らしい爽やかなカクテルだった。
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