読めない喫茶店

宇野片み緒

文字の大きさ
上 下
2 / 15
喫茶────へようこそ

2.うみ、はじめました

しおりを挟む
 廃墟同然の小屋だが喫茶店である。若い男がブリキ戸の前に立っていた。向かいのアパートで一人暮らしをしている澤口だ。快晴なのに腕には黒いこうもり傘。濃色ジーンズに無地の白カットソーで、上にきつね色のサマーニットを羽織っている。彼は先日、気まぐれに入ったこの店の味に惚れ込んだ。しかしここの店主ときたら、酷い悪筆だというのにメニューも店看板までも手書きだ。パソコンが使えないらしい。見かねた澤口がメニューを作り直し、仕事が定休であるこの水曜日に、こうして届けに来たというわけだ。
 喫茶エプロンと悪筆で書かれている木の板が無骨に出迎える。戸の下には、前回はなかったはずの潰れた軟球が挟まっていて半開きだった。澤口は顔をしかめる。取っ手を引くと、香辛料の匂いが立夏の空へ立ち込めた。足元から拾って声を張る。
「松虫さん、変なの挟まってましたけど」
 奥の厨房から、やせぎすの男が足を引きずって現れた。動作は老人のようだが、顔立ちから察するに歳は澤口より少し上か。松虫と呼ばれた彼は、ここの店主である。
「や、澤口さん、ようこそ。それね、わざとなんです。この中は空気がこもりますでしょう」
「ドアストッパー使いましょうよ」
 持ってないんです、と眉尻を下げて軟球を受け取り、ブリキ戸の下に挟み直す松虫。潰れた軟球の方がないだろうよ、と澤口は感じ、首をひねった。
「天気雨でしたか」
 不意に松虫が尋ねた。聞き返すように両眉を上げた青年に、店主は謝るような声色で返す。
「や、その、傘を持っていらっしゃるので」
「いつも持つんです。今日は晴れですよ」
 気難しい目で、澤口は音を立てず机に傘を引っかけた。直してきたメニューも置き、
「どうぞ」
 何てことないふうに述べた。厚紙を見開き型にして、深緑のレザーシールで表紙と裏表紙を付けている本格的な仕上がりだ。張り切りすぎたと自覚していて恥ずかしかったが、せっかくいい出来なので簡単なものには変えず持ってきた。松虫は目を真ん丸にした。
「こ、こんなに立派に作っていただいて! 読めるようになるだけで十分でしたのに、ええ、もう、こんなに。ありがとうございます」
「ああ、はい。普通なんですけどね、そのくらい」
 照れ隠しのように視線を逸らし澤口は店内を見回す。そして、妙な貼り紙に気づいた。



 うみ、はじめました。
 そう書いているように見えるが、例の悪筆だ。
「松虫さん、あれ。あんたはいったい何をはじめたんです」
 指して苦笑した。せっかくメニューを直したのに、新メニューが読めないとは。あれは、と言いかけて松虫は口をつぐみ、企んだような笑顔を浮かべ言い換えた。
「何て読めます?」
 澤口はその笑みの理由が分かった気がした。
「うみ、はじめました」
 ニヤニヤが移る。店主は感嘆を漏らし楽しげに頷いた。
「なるほど、うみ。ええ、読めます、そうとも読めます、ええ」
「実際はなんて書いてあるんですか」
 青年は呆れたように、でも案外楽しそうに店主を見た。彼は愉快そうに、訥々と語り出す。
「よく来てくださるお客さんに、一人、酒豪の方がいましてね。一合じゃ足りないって、仰るんです。それで始めたメニューなんですけれども、何だと思います?」
 答えじゃなくてクイズにしやがったな、とほくそ笑んで貼り紙を凝視する澤口。うみに見える字を脳裏で勢いよく整える。急に思い当たり、
「一升、はじめました」
 つい大声で言ってしまった。ええ、いかがですか、と松虫が人懐こくえくぼを見せる。この変な店主のことだから、その一升をうみに変えてやろうと企んだに違いない。しかし真っ昼間から瓶で酒を煽るなど、真面目な澤口にとってはとても耐えがたく、したくない反人道的行為だった。
「そんならいりません。一升は多すぎるし、昼でしょう今は」
 身を引いて答えると、店主は怒られた子供みたいに俯いた。
「え、あ、そ、そうですね。すみません、ええと、でしたら、他の」
 その泣き出しそうな顔を見ていると、
「うみをグラスで」
 つい、かぶせて言っていた。松虫の表情が途端に明るくなり、かかとが嬉しそうに上下する。
「いいんですか、その、昼間から飲んでしまっても」
「いいですよもう」
 調子が狂う青年は、軽くため息をついた。

 厨房に引っ込んだ松虫が、数分後に運んできたのは、澄んだ水色をしたオンザロックの日本酒だった。三日月型に切られたすだちが透明ガラス製のソーサーに乗っている。
「元々の色では、ないですよね」
 尋ねると、店主はしてやったりという顔で小瓶を掲げた。
「これ。アンチャン茶を加えたから青いんです。タイのハーブティーで味も香りも少ないですから、主に着色用に使われるもので。それとですね、酸が入ると不思議なことが」
 店主の骨ばった手が、実験を勧めるようにすだちを指差した。絞ってみる。うみは、魔法のように紫がかった色に化けた。刹那、夜の海の凪を感じた。
 口に運ぶ。炭酸だ。微かに豆が香る風変わりな味。初夏らしい爽やかなカクテルだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

『別れても好きな人』 

設樂理沙
ライト文芸
 大好きな夫から好きな女性ができたから別れて欲しいと言われ、離婚した。  夫の想い人はとても美しく、自分など到底敵わないと思ったから。  ほんとうは別れたくなどなかった。  この先もずっと夫と一緒にいたかった……だけど世の中には  どうしようもないことがあるのだ。  自分で選択できないことがある。  悲しいけれど……。   ―――――――――――――――――――――――――――――――――  登場人物紹介 戸田貴理子   40才 戸田正義    44才 青木誠二    28才 嘉島優子    33才  小田聖也    35才 2024.4.11 ―― プロット作成日 💛イラストはAI生成自作画像

処理中です...