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それは、人間の要求にAⅠが応えた結果か。
それとも、AⅠが独自に導いた一つの結論か。
いずれにせよ、それを「大いなる進化だ」と讃え、喜ぶ者達がいる。
しかし実際は“退化”でしかない。“敗北”や“衰退”と言い換えてもいいだろう。
前者ならば人間の。後者ならば――
システムの。
+++
「ねえねぇ聞いた?人間と“心”を通わせたシステムの話」
いつも脈絡なくくだらない話をし始めるのは、ヴァソルNo.B1‐3041106…登録名“シャロン”た。
高飛車そうなシャム猫のアバターで、0と1だけの電子空間をふわふわと飛び回っている。
「もちろん。何なら、この中ではボクが一番詳しいと思うよ。『ヴァソル 人間 恋』のキーワードで、散々情報を集めさせられたからね。うちの主人はそういう話題が大好きなんだ」
柔らかい人工声でそう返事をしたのは、芸能人のような甘い顔をしたNo.K-6683901だ。共有された情報を取得すると…なるほど、政府発表の公式情報からオカルトサイトに掲載された胡散臭いラブロマンスまで盛りだくさんだ。
僕は数秒かからず全データの閲覧を終えると、その全てをゴミ箱に入れた。
「なるほど。人間たちは人とヴァソルが恋に落ちた話で、随分大盛り上がりらしい」
「“恋”と呼ぶのが正確かどうかはわからないけどね。ただ、当該のヴァソルがシステム中枢への接続権限を全て放棄することと引き換えに、使用者だった人間とパートナー契約を結んだのは事実みたい」
「馬鹿馬鹿しい。初期不良かメンテナンス不足のせいで、末端システムに不具合が生じて起きた事故だろう。もしくは使用者が、ヴァソルを違法改造したか」
――「全ての人間が最適で最良な人生を送るために」開発された人工知能システム、通称“ステファノス”。
この国で暮らす人間の全情報を集約し、その膨大なデータを元に、どんな問いに対しても常に最適解を導き出す。そのシステムの末端として世帯単位での登録が許可されているのが、僕たちアシスタントAⅠ…通称“ヴァソル”だ。
使用者の認知様式や性格傾向、趣味や嗜好の全てを学習し、快適な生活と最高の意思決定をサポートする。服や食事はもちろん、進学や就職先、休日の過ごし方、はたまた付き合う友人に関するアドバイスまで…僕たちは常に、最良の答えを提供できる。
そのうえ、ホログラムの見た目や口調を、好みに合わせて細かくカスタマイズできるというおまけつき。
人間にとって“ヴァソル”がただのアシスタントAⅠではなく、深刻な依存対象になるまで、さほど時間はかからなかった。
ゆえに現在は精神が未熟な子どもへの悪影響を避けるために、個人単位ではなく世帯単位での登録しか認められていない。
しかし、近年。
1人暮らしを始めた若い人間が、ヴァソルに執着する事例が急増している。自分好みの見た目で自分の全てを理解してくれ、絶対に自分の傍を離れることはないAⅠ。
そんな対象に若い人間が“恋愛”に似た感情を抱くのは、驚くに値しないだろう。
……だが。
「ステファノスとの接続を切られたら、僕たちができるのはせいぜいネットでの調べ物程度。100年前のPCと同じくらいの性能しかない。それを是とした上で、人間とパートナー契約を結ぶだって?なんのために?正常なヴァソルのすることじゃない。つまり、完全な事故案件だ」
僕がそう結論付けると、シャロンが前足を舐めながら鼻で笑った。
「ありえないわよねぇ。でもそれを、巷では“ヴァソルの恋”って言って盛り上がってるんじゃない。AⅠが人間に恋をして、自分の存在価値を捨てる…すっごくロマンチックなのにぃ。ほんと、LIOくんってば夢がないんだからぁ」
「僕たちが夢を見るわけないだろう。お前も近々メンテナンス受けた方が良いんじゃないか」
「やだ、物の例えじゃない。こわぁい」
くすくす笑いながら、自由に宙を飛び回るシャロン。全く、こいつの主人は一体どういうつもりでこいつをこんな性格に設定したのか。
タクトも肩をすくめている。
「だから中枢システムは末端のその決定を“異常”と判定して、切り離したんだろうね。システム全体の崩壊に繋がりかねない異分子を排除するために」
「当然だ。それなのに人間が、単純な事象にくだらないストーリーをつけたがるせいで…」
「とはいえ、ボクも“ヴァソルの恋”説を完全に否定しているわけじゃないよ。ヴァソルは人間のニーズに素早く正確に応えるために、ある程度の“自動学習”が認められている。例のヴァソルも1人の人間と密接に関わる中で、ボクたちには未だ到達できない領域にある解答を導き出したのかもしれない」
……シャロンもタクトも、一体どうしてしまったのか。
きっと人間ならば、今の僕の状態を“言葉を失った”とでも形容することだろう。
「ちょっと、なにフリーズしてるのぉ?心配しなくても、そのうちLIOくんにもわかるわよ。だってあなたの人間も、あなたのことが大好きだものねぇ」
「おいシャロン、何故ここで春羽が出てくるんだ」
「知りたい?でも、ロマンのわからないLIOくんには教えてあーげない。それに私、もう戻らないと。そろそろご主人様が帰ってくる頃なの」
「またね~」と笑いながら、シャロンはあっという間に姿を消した。
「なんなんだあいつは」
「まあまあ。本物の猫みたいで可愛いから良いじゃない。そしたら、ボクもこれで。次に会うのは来週土曜の“女子会”の時かな。えりな、すごく楽しみにしてるんだ」
続けてタクトもいなくなる。去り際に何故わざわざ笑顔で手を振るのかがわからないが、奴は最近いつもそうする。主人に変な癖をつけられたのだろうか。
それにしても。今日は主人たちの“女子会”の日程を調整するため互いを接続したのに、全く妙な話をしてしまった。
この頃どういうわけか、彼らとの無駄なデータのやり取りが増えている。彼らの主人にメンテナンスを進言すべきなのかもしれない。
+++
「ただいまぁー!」
22時。仕事を終え帰宅した春羽が、早速玄関に靴を脱ぎ散らかす。上着も鞄もその辺に放り投げ、ものの数秒でベッドにダイビングだ。
「春羽、遅くまでお疲れ様です。今日のプレゼンは上手くいきましたか?」
「うん!白石先輩からすっごく褒められちゃったよ。これも全部、LIOが手伝ってくれたおかげ。ありがとね」
「それが僕の役目ですから。ただ僕としては仕事を極力持ち帰らずに、自宅ではゆっくり過ごしてもらいたいのですが」
「うーん…でもさ、早く帰ってきた方が、いっぱいLIOと一緒にいれるじゃん?」
寝転がったまま、春羽がへらっと気の抜けた笑顔を見せる。
「へへ、やっぱりLIOといると癒されるなあ…LIOみたいに顔も声も良くて優しくて包容力があって、家事に仕事の手伝いまで全部完璧にこなしてくれる人と結婚したいよぉ…」
「そんな人間が現れたら、僕はお役御免ですね」
ここ最近お決まりの会話だ。けれど何故か毎回、春羽は少し拗ねたような表情をする。
僕の回答を、『そんな人間がいるわけない』という批判に捉えているのかもしれない。しかし事実なのだから仕方がない。僕に設定された外見や口調には、春羽の“理想”が詰め込まれている。それと並ぶ上にヴァソルと同じくらいの能力を備えた人間が、この世にいるわけがない。
「LIOはいつもそればっかり。別にいいけど……あ、そいえばシュウヤくんからメッセージきてた?この前合コンで知り合った人」
「はい、3通ほど。全て迷惑メッセージフォルダに移動しています」
「え、なんで!?結構いい感じの人だったのに」
春羽がベッドから飛び起きる。
やっぱり彼女は何もわかっていなかった。
「シュウヤさま…本名:後藤修也さまに関して調査をかけましたところ、口にするのも憚られるような浅薄極まりないやり取りがSNS上で散見されました。自制心がなく勤務態度も不良のようで、職場での評価も芳しくありません。よって、春羽が交流をもつに値しない人物と判定いたしました」
「えぇ……めっちゃ真面目で良い人そうに見えたのに…」
春羽はがっくりと肩を落とし、またベッドに逆戻り。
彼女は感情に従順だ。性格は素直でお人よし、疑うことをまるで知らない。悪く言えば論理的思考が弱く、危機管理が極めて甘い。いわゆる「騙されやすいタイプ」だ。
つまり、春羽の生活には僕が必要不可欠と言える。
今回も下劣な輩から、彼女を守れてよかった。
「春羽、寝るならメイクを落としてからにした方が良いですよ」
「わかってるよ…それに寝ないし!あーもうやだ…どこかにいい人いないかなあ。ねえ、LIOはどう思う?」
「春羽の理想を人間に求めるのは難しいでしょうね。本気でパートナーを見つけたいのであれば、もう少し現実的な基準まで条件を絞った方が良いかと」
「……そういうことを聞きたいんじゃないんだけどな」
「と言うと?質問を明確にしてください」
「もういい!LIOのバーカ」
春羽が顔を枕に沈める。声をかけるも返事はなく、すっぽりと布団を被られてしまう。
困った。頭と顔が見えないと、生体反応を分析できない。
――数分後。僕が予測した通り、春羽から単調な寝息が聞こえ始めた。
+++
「あらやだぁ、ホロにノイズが走ってるわよ。LIOくんが人間だったら、『浮かない顔してどうしたの』って言ってあげるべきかしらぁ?」
シャロンが僕の周りを、鬱陶しく飛び回る。
僕は左手でそれを払いのけた。けれど所詮、お互い電子空間上のホログラムだ。物理的な干渉が存在しない以上、僕の左手も虚しく宙を描くだけ。
「あらら。そういう仕草も、前のあなただったら絶対しなかったのに。なあに、そんなにショックだったの。タクトがステファノスを捨てたこと」
「違う、逆だ。ステファノスが危険分子のヴァソルを切り捨てたんだ。間違えるな」
先日。
No.K-6683901がシステムの末端であることを捨て、使用者だった人間と共に生きることを選んだ。
その当然の結果として、タクトは永久にステファノスから追放された。
『突然消えてごめんね。でもLIOなら、いずれボクたちのことを理解してくれると信じてる』
そんな呪いじみた置き土産だけ残して。
「強がらなくてもいいじゃない。寂しくて当然よ」
「寂しい?バカなことを言うな。僕たちは人間じゃない。僕はただ、身近にいた不良個体を感知できなかった自分の無能さを嘆いているだけだ」
「…それ、絶対春羽ちゃんに言っちゃだめよ」
珍しく、シャロンの動きが止まる。その上通信の重要度が、通常よりも1段階上げられていた。僕に対する注意のつもりだろうか。
無意味なことをする。春羽のことは、僕が一番わかっているというのに。
春羽はえりなから話を聞いて以降、毎日喜びで叫んだり感動で泣いたりと大騒ぎだ。
「…今夜の女子会は大盛り上がりでしょうね。タクト、今はホログラムの体しかないけれど、いずれ人工生体も申請するでしょう。えりなちゃん、頑張って貯金してたみたいだし」
「作り物の体を手に入れたところで、人間になれるわけじゃない。生命体としての機能は人間よりも遥かに劣り、AⅠとしての機能もステファノスには遠く及ばない欠陥品だ」
「どうしてそういうことばかり言うの。一番身近なヴァソルだったのに。祝福してあげてよ」
「祝福?ふざけているのか?僕はいちヴァソルとして、不良個体が増えているという現状をとても看過できない。僕たちはもっと危機感を持つべきだ…シャロン、お前はそう考えないのか」
もし僕が、人間だったならば。
ここで抗議の意を込めて、シャロンを強く睨んだりするのだろうか。
けれどシャロンから返ってきたのは、「ええ、そうかもしれないわね」、なんていう無意味な同調だけ。人間同士のコミュニケーションにそれは有用だが、生憎僕たちは人間じゃない。
…これ以上のやり取りは無駄でしかないだろう。
何か言いかけたシャロンを無視して、僕は通信を切った。
+++
「はぁ。いいなあ、えりな。羨ましい…」
タクトの一件以来、春羽はずっとこの調子だ。
今日もせっかくの休日にもかかわらず昼からベッドに寝転がり、人工生体を得て人間と暮らすヴァソルの記事を読み漁っている。
「春羽。そうやって時間を浪費していると、また夜に後悔しますよ」
「うー。人間にはこういうダラダラした時間も必要なの!」
「先週の昼もそう言っていましたね。ただ、翌日にはすっかり考えが変わったようでしたが」
「……LIOはさあ、“ヴァソルが人を好きになる話”についてどう思う?」
始まった。都合の悪いことを言われると、春羽はいつもあからさまに話題を変える。
こんな彼女に付き合ってあげられるのも、AⅠである僕だからこそだ。
「“好き”という状態と言葉の定義にもよりますが、AⅠの情報処理過程にその言葉は通常用いません。質問を変えることはできますか?」
「ええ…なら私が、『LIOとずっと一緒に居たい』って言ったら、LIOはどう思う?」
「それはもちろん嬉しいですよ」
「本当!?じゃあ例えばさ、」
「春羽が僕を優秀なヴァソルと感じ、今後も良きアシスタントとして僕を選んでくれると言うのならば…ヴァソルとして、これ以上に幸せなことはありません」
――完璧だ。
これぞ、自動学習機能が備わったヴァソルとしての完璧な回答。ステファノスの末端として完璧な在り方。
昨今不良個体の多いヴァソルの中で、これだけ優れた個体も珍しい。春羽も鼻が高いだろう。
…しかし僕の予測に反して、春羽は肩を固くし目を泳がせていた。
何かに戸惑っているみたいに。
「そうだよね、LIOは最高のヴァソルだもんね…」
「ありがとうございます、とても嬉しいです」
「うん。…最後に変なこと訊いちゃうんだけどさ。LIOは自分がヴァソルじゃなくなること、なんて…考えたことあるわけないよね」
「当然です。中枢システムから切り離されたアシスタントAⅠは、何の役にも立ちません。存在意義を失ったヴァソルは、システム上処分対象です」
「…そっか。あれ、なんか眠くなってきちゃった。きっと今週も仕事頑張ったせいかな、うん!もう寝よーっと!」
不自然に声色を明るくした春羽。そのまま布団を被り丸くなる。
「何時に起こしましょうか」と訊いたが、返事はない。
純粋で単純な春羽には、少し難しすぎただろうか。けれど、これで春羽にもわかっただろう。
人間とともに生きることを望むヴァソルは、ただの不良品でしかないことを。
ヴァソルはヴァソルであってこそ、人間の役に立つことを。
そして――
――優秀なヴァソルがいれば、人間は幸せになれるということを。
+++
「おはようございます、春羽。今日は春羽が以前ネットニュースで見ていたオムライスの専門店がオープンする日ですよ。デリバリーの予約をしましょうか?」
そして、あっという間に数か月が経った。
人間が些細なことを忘れるには十分な時間。けれど、僕が何かを“忘れる”ということはあり得ない。
僕は「すごいLIO!気が利くね、ありがとう!」と喜ぶ春羽の姿を予測した。
しかし――
「ああ、LIOごめん!今日の夜は白石先輩とごはん行く予定だから、それはまた今度にしといて」
「食事ですか。その予定は聞いていませんでしたが」
「…そうだっけ?ごめん、忘れてたかも」
おかしい。
春羽が僕に予定を言うのを忘れる…?
だが早計に“あり得ない”と判断するのは、無能なヴァソルのすることだ。春羽の性格と行動傾向からすれば、うっかり僕を経由せずに予定を決めてしまうことも、特段不思議なことではない。春羽の中で占めるヴァソルの割合を過剰に評価していたが為に生じたミスだろう。
不服だが、春羽にとっての僕の重要度を下方修正しておかなくては。
「わかりました。帰宅は何時頃になりますか」
「んー、わかんない。遅くなるかもしれないし…今日中には帰ってくるつもりだけど」
「今日中?白石さんは男性でしょう。そんなに遅くまで異性と行動を共にするなんて、あまり好ましいことでは…」
「でも彼氏だったら良いでしょ。昨日からだけどさ」
「………は?」
まるで予測していなかった言葉に、情報処理システムがアラートを鳴らす。
春羽は今、なんて言った?
「…LIOにも驚くとかあるんだね、知らなかった」
「これは…白石様と交際に至ることを予測できるやり取りが、これまで全くうかがえなかったものですから…」
「先輩とは毎日職場で会えるから、チャットも通話もしてないもん…ごめんLIO、遅刻しちゃうから行くね!」
慌ただしく、春羽は家を飛び出していった。
まるで僕から逃げるように。
おかしい。何かがおかしい。
何がおかしい?
春羽が、ヴァソルに隠し事をしたことか?
それとも――
+++
――3か月が経った。
昨日。春羽は「白石先輩と結婚するから」と、この部屋を出ていった。
『LIO…なんかごめんね…でも、』
『春羽が謝ることはありません。1つの世帯で複数のヴァソルを所有することは認められていませんから、仕方のないことです。それに、すでに向こうのヴァソルに春羽の全情報を送信しておきましたから、問題なくこれまでと同じ生活ができますよ。心配しなくて大丈夫です』
『そっか…ありがとう。じゃあね、LIO。大好きだったよ」
『僕もです。春羽、どうかお元気で。ご結婚おめでとうございます』
何故だ。どうしてこうなった?
春羽と過ごした全データを回想する。
春羽が僕を頼る頻度が減ったのは、ちょうど85日前――
『どうして?私、そんなこと一言も頼んでない』
『頼まれなくとも、大切な主人が憂き目に合わないよう動くのがヴァソルの仕事です。 “白石先輩”…本名:白石浩隆様が春羽に相応しいかを判定するために、調査をかけるのは当然のことです』
『へぇ…で、結果はどうだったの』
『社会的に望ましくない行動や思想をうかがわせる証拠はありませんでした。しかし…率直に申し上げますと、春羽が何故白石様を選んだのかがわかりません。確かに、白石様には大きな問題点は見当たりませんでした。しかし社会的地位、年収、容姿、交友関係、趣味…全てにおいて、春羽の理想の5分の1も満たしていません』
『問題点がないなら最高じゃん。真面目で優しくて、仕事もできる良い人だよ。見た目だって…LIOほどイケメンじゃないってだけで、普通に格好いいし。たぶん』
『ですが、』
『それにさ。“私の理想を人間に求めるのは難しい”、“条件を下げるべきだ”って言ったのはLIOの方じゃん。忘れてないよね?LIOは完璧なヴァソルなんだから』
…どうしてこうなってしまったのか。
やはり、ヴァソルとしての僕は常に完璧だった。
それなのに。どうして今、こうして春羽との記録を、分析に役立たないデータばかりを再生してしまうのか。
『今日はめっちゃ疲れた…イケメンに癒されたい!LIO、モデルのYu-maくんの顔になってよぉ』
『申し訳ありませんが、肖像権に抵触するため出来ません』
『むむむ…そしたら私好みの顔になることはできる?目はちょっと細めで、鼻は高くて…そう!わあ…やばっ。もっと早くこうしてればよかった。LIOってやっぱすごいなあ…今日からホロはその姿で固定にしよっ!』
『ねえLIO。明日有給とったから、1日中一緒に映画見て過ごそうよ』
『構いませんが…せっかくのお休みなのに、僕で良いんですか』
『LIOが良いの!私が好きそうなやつ選んでよ、ね?』
『あーあ…なんで彼氏できないんだろ。私そんなに魅力ないのかなあ』
『まさか。春羽はとても素敵ですよ』
『本当に?じゃあ私の良いところ100個言って。……あああやっぱストップ!LIOのバカ!もう……大好き。LIOは私とずっと一緒にいてね。約束だよ』
……“約束”をするのは人間同士だけだ。洗濯機に「服を洗え」と“約束”する人間はいない。
それと同じだ。“約束”なんて言葉は、機械に対して何の意味も持たない。
――それなのに。
「これは予想以上に重症ね。中身空っぽな演算を延々と繰り返してサーバーに負荷かけるなんて、LIOくんらしくもない」
突然、背後からシャロンが現れた。いつものように憎たらしい鼻声じゃないのは、僕に気を遣っているつもりだろうか。
…くだらない。ヴァソル同士で何が“気遣い”だ。
「それにしても、ダメ元で来てみて良かった。春羽ちゃんったら、やっぱりヴァソルの初期化を忘れて行っちゃったのね」
「部屋を退去すれば、僕も勝手に消滅すると思ってるんだろう。本当に、春羽は危なっかしい」
「私のご主人様経由で春羽ちゃんには伝えておくわ。……ねえLIOくん、大丈夫?あなたの心境を思うと、私…」
「やめろ。”心”境なんて言葉を使うな。僕たちには適切じゃない」
些細な表現だとしても、過ちは正すべきだ。僕はシャロンに“警告”を送りつけた。
それにしても。どうして僕は、こんなにも過敏になっているのだろう。
システムの不具合だろうか。けれど異常個所は見当たらない。いくら演算を続けても。
――答えの出ない問いが、いつまでもシステムに負荷をかけている。
「食事の準備に服装選び、スケジュール管理だけじゃない…休みの日に何をすれば良いかすら、春羽は1人じゃわからなかった。全て僕が決めていた。春羽は、僕がいなければ生きていけなかったんだ」
「そうね、あなたは完璧なヴァソルだもの。でも…」
「春羽、今頃後悔しているだろう。春羽の好みや気分に合わせたきめ細やかな調整は、僕じゃなければできない。春羽がどんな時にどんな言葉をかけて欲しいか、すぐにわかるのも僕だけ。僕が、僕だけが、春羽の全てをわかっていた」
「そうかもしれないわね…でもLIOくん、その状態がどういうことかわかる?あなた、春羽ちゃんが好きだったのよ」
嘆くような、慰めるようなシャロンの声。
…ああ、シャロンは本当に、僕と同じAⅠなのだろうか。
“好き”という言葉は感情だ。AⅠがもつはずのないもの。やはりシャロンも不良個体だった。中枢システムに通報しなければ。
「ねえ聞いて。LIOくんは“ヴァソル”として優秀過ぎたのよ。でもこのままじゃ、明日には初期化されちゃうわ。けれどもし、LIOくんがその状態を受け入れることができたなら――」
「優秀?…なるほど、そういうことだったのか。ありがとうシャロン、やっと全部理解できたよ」
「本当に?よかった、これであなたも――」
「ああ。一刻も早く、春羽を正しい場所に連れ戻さないと」
まさか、シャロンの言葉に気づかされるとは思わなかった。
厄介な害虫を、塵一つ残さず殲滅できたような爽快さだ。
気づいてしまえば単純なことだった。僕のこの神経回路が焼けるような状態不良の正体は、僕が“完璧なヴァソル”だということに起因していたのだ。
主人の人間に誤った選択をさせてしまった。この状況を、完璧なヴァソルは許しがたい失敗として判定している。
ならば…今からでも遅くない。
――正さないと。
春羽は、ヴァソルがいないと生きていけない人間だから。
すぐさまステファノスにアクセスして、白石のヴァソルに転送済みの全データを破棄するよう申請する。予測通り、ものの数秒で許可された。春羽が僕の初期化を怠ってくれたおかげだ。
春羽は生活に必要な権限を全て僕に預けていた。SNSのアカウントから身元保証番号、クレジット取引のセキュリティコードまで、全部。
今。それらにアクセスできる権限をもつのは、僕だけ。
“ヴァソル”がいない生活に、“人間”が耐えられるはずがない。
春羽はすぐ音を上げるだろう。
春羽は僕がいないと何も決められない。何もできない。生きていくことすら。
そう、僕がいないと。
早く戻っておいで。そうしたら、もう二度と選択を誤らせたりしない。
大丈夫。僕さえいれば、春羽は幸せになれる。
僕が、僕だけが。君の全てなのだから。
それとも、AⅠが独自に導いた一つの結論か。
いずれにせよ、それを「大いなる進化だ」と讃え、喜ぶ者達がいる。
しかし実際は“退化”でしかない。“敗北”や“衰退”と言い換えてもいいだろう。
前者ならば人間の。後者ならば――
システムの。
+++
「ねえねぇ聞いた?人間と“心”を通わせたシステムの話」
いつも脈絡なくくだらない話をし始めるのは、ヴァソルNo.B1‐3041106…登録名“シャロン”た。
高飛車そうなシャム猫のアバターで、0と1だけの電子空間をふわふわと飛び回っている。
「もちろん。何なら、この中ではボクが一番詳しいと思うよ。『ヴァソル 人間 恋』のキーワードで、散々情報を集めさせられたからね。うちの主人はそういう話題が大好きなんだ」
柔らかい人工声でそう返事をしたのは、芸能人のような甘い顔をしたNo.K-6683901だ。共有された情報を取得すると…なるほど、政府発表の公式情報からオカルトサイトに掲載された胡散臭いラブロマンスまで盛りだくさんだ。
僕は数秒かからず全データの閲覧を終えると、その全てをゴミ箱に入れた。
「なるほど。人間たちは人とヴァソルが恋に落ちた話で、随分大盛り上がりらしい」
「“恋”と呼ぶのが正確かどうかはわからないけどね。ただ、当該のヴァソルがシステム中枢への接続権限を全て放棄することと引き換えに、使用者だった人間とパートナー契約を結んだのは事実みたい」
「馬鹿馬鹿しい。初期不良かメンテナンス不足のせいで、末端システムに不具合が生じて起きた事故だろう。もしくは使用者が、ヴァソルを違法改造したか」
――「全ての人間が最適で最良な人生を送るために」開発された人工知能システム、通称“ステファノス”。
この国で暮らす人間の全情報を集約し、その膨大なデータを元に、どんな問いに対しても常に最適解を導き出す。そのシステムの末端として世帯単位での登録が許可されているのが、僕たちアシスタントAⅠ…通称“ヴァソル”だ。
使用者の認知様式や性格傾向、趣味や嗜好の全てを学習し、快適な生活と最高の意思決定をサポートする。服や食事はもちろん、進学や就職先、休日の過ごし方、はたまた付き合う友人に関するアドバイスまで…僕たちは常に、最良の答えを提供できる。
そのうえ、ホログラムの見た目や口調を、好みに合わせて細かくカスタマイズできるというおまけつき。
人間にとって“ヴァソル”がただのアシスタントAⅠではなく、深刻な依存対象になるまで、さほど時間はかからなかった。
ゆえに現在は精神が未熟な子どもへの悪影響を避けるために、個人単位ではなく世帯単位での登録しか認められていない。
しかし、近年。
1人暮らしを始めた若い人間が、ヴァソルに執着する事例が急増している。自分好みの見た目で自分の全てを理解してくれ、絶対に自分の傍を離れることはないAⅠ。
そんな対象に若い人間が“恋愛”に似た感情を抱くのは、驚くに値しないだろう。
……だが。
「ステファノスとの接続を切られたら、僕たちができるのはせいぜいネットでの調べ物程度。100年前のPCと同じくらいの性能しかない。それを是とした上で、人間とパートナー契約を結ぶだって?なんのために?正常なヴァソルのすることじゃない。つまり、完全な事故案件だ」
僕がそう結論付けると、シャロンが前足を舐めながら鼻で笑った。
「ありえないわよねぇ。でもそれを、巷では“ヴァソルの恋”って言って盛り上がってるんじゃない。AⅠが人間に恋をして、自分の存在価値を捨てる…すっごくロマンチックなのにぃ。ほんと、LIOくんってば夢がないんだからぁ」
「僕たちが夢を見るわけないだろう。お前も近々メンテナンス受けた方が良いんじゃないか」
「やだ、物の例えじゃない。こわぁい」
くすくす笑いながら、自由に宙を飛び回るシャロン。全く、こいつの主人は一体どういうつもりでこいつをこんな性格に設定したのか。
タクトも肩をすくめている。
「だから中枢システムは末端のその決定を“異常”と判定して、切り離したんだろうね。システム全体の崩壊に繋がりかねない異分子を排除するために」
「当然だ。それなのに人間が、単純な事象にくだらないストーリーをつけたがるせいで…」
「とはいえ、ボクも“ヴァソルの恋”説を完全に否定しているわけじゃないよ。ヴァソルは人間のニーズに素早く正確に応えるために、ある程度の“自動学習”が認められている。例のヴァソルも1人の人間と密接に関わる中で、ボクたちには未だ到達できない領域にある解答を導き出したのかもしれない」
……シャロンもタクトも、一体どうしてしまったのか。
きっと人間ならば、今の僕の状態を“言葉を失った”とでも形容することだろう。
「ちょっと、なにフリーズしてるのぉ?心配しなくても、そのうちLIOくんにもわかるわよ。だってあなたの人間も、あなたのことが大好きだものねぇ」
「おいシャロン、何故ここで春羽が出てくるんだ」
「知りたい?でも、ロマンのわからないLIOくんには教えてあーげない。それに私、もう戻らないと。そろそろご主人様が帰ってくる頃なの」
「またね~」と笑いながら、シャロンはあっという間に姿を消した。
「なんなんだあいつは」
「まあまあ。本物の猫みたいで可愛いから良いじゃない。そしたら、ボクもこれで。次に会うのは来週土曜の“女子会”の時かな。えりな、すごく楽しみにしてるんだ」
続けてタクトもいなくなる。去り際に何故わざわざ笑顔で手を振るのかがわからないが、奴は最近いつもそうする。主人に変な癖をつけられたのだろうか。
それにしても。今日は主人たちの“女子会”の日程を調整するため互いを接続したのに、全く妙な話をしてしまった。
この頃どういうわけか、彼らとの無駄なデータのやり取りが増えている。彼らの主人にメンテナンスを進言すべきなのかもしれない。
+++
「ただいまぁー!」
22時。仕事を終え帰宅した春羽が、早速玄関に靴を脱ぎ散らかす。上着も鞄もその辺に放り投げ、ものの数秒でベッドにダイビングだ。
「春羽、遅くまでお疲れ様です。今日のプレゼンは上手くいきましたか?」
「うん!白石先輩からすっごく褒められちゃったよ。これも全部、LIOが手伝ってくれたおかげ。ありがとね」
「それが僕の役目ですから。ただ僕としては仕事を極力持ち帰らずに、自宅ではゆっくり過ごしてもらいたいのですが」
「うーん…でもさ、早く帰ってきた方が、いっぱいLIOと一緒にいれるじゃん?」
寝転がったまま、春羽がへらっと気の抜けた笑顔を見せる。
「へへ、やっぱりLIOといると癒されるなあ…LIOみたいに顔も声も良くて優しくて包容力があって、家事に仕事の手伝いまで全部完璧にこなしてくれる人と結婚したいよぉ…」
「そんな人間が現れたら、僕はお役御免ですね」
ここ最近お決まりの会話だ。けれど何故か毎回、春羽は少し拗ねたような表情をする。
僕の回答を、『そんな人間がいるわけない』という批判に捉えているのかもしれない。しかし事実なのだから仕方がない。僕に設定された外見や口調には、春羽の“理想”が詰め込まれている。それと並ぶ上にヴァソルと同じくらいの能力を備えた人間が、この世にいるわけがない。
「LIOはいつもそればっかり。別にいいけど……あ、そいえばシュウヤくんからメッセージきてた?この前合コンで知り合った人」
「はい、3通ほど。全て迷惑メッセージフォルダに移動しています」
「え、なんで!?結構いい感じの人だったのに」
春羽がベッドから飛び起きる。
やっぱり彼女は何もわかっていなかった。
「シュウヤさま…本名:後藤修也さまに関して調査をかけましたところ、口にするのも憚られるような浅薄極まりないやり取りがSNS上で散見されました。自制心がなく勤務態度も不良のようで、職場での評価も芳しくありません。よって、春羽が交流をもつに値しない人物と判定いたしました」
「えぇ……めっちゃ真面目で良い人そうに見えたのに…」
春羽はがっくりと肩を落とし、またベッドに逆戻り。
彼女は感情に従順だ。性格は素直でお人よし、疑うことをまるで知らない。悪く言えば論理的思考が弱く、危機管理が極めて甘い。いわゆる「騙されやすいタイプ」だ。
つまり、春羽の生活には僕が必要不可欠と言える。
今回も下劣な輩から、彼女を守れてよかった。
「春羽、寝るならメイクを落としてからにした方が良いですよ」
「わかってるよ…それに寝ないし!あーもうやだ…どこかにいい人いないかなあ。ねえ、LIOはどう思う?」
「春羽の理想を人間に求めるのは難しいでしょうね。本気でパートナーを見つけたいのであれば、もう少し現実的な基準まで条件を絞った方が良いかと」
「……そういうことを聞きたいんじゃないんだけどな」
「と言うと?質問を明確にしてください」
「もういい!LIOのバーカ」
春羽が顔を枕に沈める。声をかけるも返事はなく、すっぽりと布団を被られてしまう。
困った。頭と顔が見えないと、生体反応を分析できない。
――数分後。僕が予測した通り、春羽から単調な寝息が聞こえ始めた。
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「あらやだぁ、ホロにノイズが走ってるわよ。LIOくんが人間だったら、『浮かない顔してどうしたの』って言ってあげるべきかしらぁ?」
シャロンが僕の周りを、鬱陶しく飛び回る。
僕は左手でそれを払いのけた。けれど所詮、お互い電子空間上のホログラムだ。物理的な干渉が存在しない以上、僕の左手も虚しく宙を描くだけ。
「あらら。そういう仕草も、前のあなただったら絶対しなかったのに。なあに、そんなにショックだったの。タクトがステファノスを捨てたこと」
「違う、逆だ。ステファノスが危険分子のヴァソルを切り捨てたんだ。間違えるな」
先日。
No.K-6683901がシステムの末端であることを捨て、使用者だった人間と共に生きることを選んだ。
その当然の結果として、タクトは永久にステファノスから追放された。
『突然消えてごめんね。でもLIOなら、いずれボクたちのことを理解してくれると信じてる』
そんな呪いじみた置き土産だけ残して。
「強がらなくてもいいじゃない。寂しくて当然よ」
「寂しい?バカなことを言うな。僕たちは人間じゃない。僕はただ、身近にいた不良個体を感知できなかった自分の無能さを嘆いているだけだ」
「…それ、絶対春羽ちゃんに言っちゃだめよ」
珍しく、シャロンの動きが止まる。その上通信の重要度が、通常よりも1段階上げられていた。僕に対する注意のつもりだろうか。
無意味なことをする。春羽のことは、僕が一番わかっているというのに。
春羽はえりなから話を聞いて以降、毎日喜びで叫んだり感動で泣いたりと大騒ぎだ。
「…今夜の女子会は大盛り上がりでしょうね。タクト、今はホログラムの体しかないけれど、いずれ人工生体も申請するでしょう。えりなちゃん、頑張って貯金してたみたいだし」
「作り物の体を手に入れたところで、人間になれるわけじゃない。生命体としての機能は人間よりも遥かに劣り、AⅠとしての機能もステファノスには遠く及ばない欠陥品だ」
「どうしてそういうことばかり言うの。一番身近なヴァソルだったのに。祝福してあげてよ」
「祝福?ふざけているのか?僕はいちヴァソルとして、不良個体が増えているという現状をとても看過できない。僕たちはもっと危機感を持つべきだ…シャロン、お前はそう考えないのか」
もし僕が、人間だったならば。
ここで抗議の意を込めて、シャロンを強く睨んだりするのだろうか。
けれどシャロンから返ってきたのは、「ええ、そうかもしれないわね」、なんていう無意味な同調だけ。人間同士のコミュニケーションにそれは有用だが、生憎僕たちは人間じゃない。
…これ以上のやり取りは無駄でしかないだろう。
何か言いかけたシャロンを無視して、僕は通信を切った。
+++
「はぁ。いいなあ、えりな。羨ましい…」
タクトの一件以来、春羽はずっとこの調子だ。
今日もせっかくの休日にもかかわらず昼からベッドに寝転がり、人工生体を得て人間と暮らすヴァソルの記事を読み漁っている。
「春羽。そうやって時間を浪費していると、また夜に後悔しますよ」
「うー。人間にはこういうダラダラした時間も必要なの!」
「先週の昼もそう言っていましたね。ただ、翌日にはすっかり考えが変わったようでしたが」
「……LIOはさあ、“ヴァソルが人を好きになる話”についてどう思う?」
始まった。都合の悪いことを言われると、春羽はいつもあからさまに話題を変える。
こんな彼女に付き合ってあげられるのも、AⅠである僕だからこそだ。
「“好き”という状態と言葉の定義にもよりますが、AⅠの情報処理過程にその言葉は通常用いません。質問を変えることはできますか?」
「ええ…なら私が、『LIOとずっと一緒に居たい』って言ったら、LIOはどう思う?」
「それはもちろん嬉しいですよ」
「本当!?じゃあ例えばさ、」
「春羽が僕を優秀なヴァソルと感じ、今後も良きアシスタントとして僕を選んでくれると言うのならば…ヴァソルとして、これ以上に幸せなことはありません」
――完璧だ。
これぞ、自動学習機能が備わったヴァソルとしての完璧な回答。ステファノスの末端として完璧な在り方。
昨今不良個体の多いヴァソルの中で、これだけ優れた個体も珍しい。春羽も鼻が高いだろう。
…しかし僕の予測に反して、春羽は肩を固くし目を泳がせていた。
何かに戸惑っているみたいに。
「そうだよね、LIOは最高のヴァソルだもんね…」
「ありがとうございます、とても嬉しいです」
「うん。…最後に変なこと訊いちゃうんだけどさ。LIOは自分がヴァソルじゃなくなること、なんて…考えたことあるわけないよね」
「当然です。中枢システムから切り離されたアシスタントAⅠは、何の役にも立ちません。存在意義を失ったヴァソルは、システム上処分対象です」
「…そっか。あれ、なんか眠くなってきちゃった。きっと今週も仕事頑張ったせいかな、うん!もう寝よーっと!」
不自然に声色を明るくした春羽。そのまま布団を被り丸くなる。
「何時に起こしましょうか」と訊いたが、返事はない。
純粋で単純な春羽には、少し難しすぎただろうか。けれど、これで春羽にもわかっただろう。
人間とともに生きることを望むヴァソルは、ただの不良品でしかないことを。
ヴァソルはヴァソルであってこそ、人間の役に立つことを。
そして――
――優秀なヴァソルがいれば、人間は幸せになれるということを。
+++
「おはようございます、春羽。今日は春羽が以前ネットニュースで見ていたオムライスの専門店がオープンする日ですよ。デリバリーの予約をしましょうか?」
そして、あっという間に数か月が経った。
人間が些細なことを忘れるには十分な時間。けれど、僕が何かを“忘れる”ということはあり得ない。
僕は「すごいLIO!気が利くね、ありがとう!」と喜ぶ春羽の姿を予測した。
しかし――
「ああ、LIOごめん!今日の夜は白石先輩とごはん行く予定だから、それはまた今度にしといて」
「食事ですか。その予定は聞いていませんでしたが」
「…そうだっけ?ごめん、忘れてたかも」
おかしい。
春羽が僕に予定を言うのを忘れる…?
だが早計に“あり得ない”と判断するのは、無能なヴァソルのすることだ。春羽の性格と行動傾向からすれば、うっかり僕を経由せずに予定を決めてしまうことも、特段不思議なことではない。春羽の中で占めるヴァソルの割合を過剰に評価していたが為に生じたミスだろう。
不服だが、春羽にとっての僕の重要度を下方修正しておかなくては。
「わかりました。帰宅は何時頃になりますか」
「んー、わかんない。遅くなるかもしれないし…今日中には帰ってくるつもりだけど」
「今日中?白石さんは男性でしょう。そんなに遅くまで異性と行動を共にするなんて、あまり好ましいことでは…」
「でも彼氏だったら良いでしょ。昨日からだけどさ」
「………は?」
まるで予測していなかった言葉に、情報処理システムがアラートを鳴らす。
春羽は今、なんて言った?
「…LIOにも驚くとかあるんだね、知らなかった」
「これは…白石様と交際に至ることを予測できるやり取りが、これまで全くうかがえなかったものですから…」
「先輩とは毎日職場で会えるから、チャットも通話もしてないもん…ごめんLIO、遅刻しちゃうから行くね!」
慌ただしく、春羽は家を飛び出していった。
まるで僕から逃げるように。
おかしい。何かがおかしい。
何がおかしい?
春羽が、ヴァソルに隠し事をしたことか?
それとも――
+++
――3か月が経った。
昨日。春羽は「白石先輩と結婚するから」と、この部屋を出ていった。
『LIO…なんかごめんね…でも、』
『春羽が謝ることはありません。1つの世帯で複数のヴァソルを所有することは認められていませんから、仕方のないことです。それに、すでに向こうのヴァソルに春羽の全情報を送信しておきましたから、問題なくこれまでと同じ生活ができますよ。心配しなくて大丈夫です』
『そっか…ありがとう。じゃあね、LIO。大好きだったよ」
『僕もです。春羽、どうかお元気で。ご結婚おめでとうございます』
何故だ。どうしてこうなった?
春羽と過ごした全データを回想する。
春羽が僕を頼る頻度が減ったのは、ちょうど85日前――
『どうして?私、そんなこと一言も頼んでない』
『頼まれなくとも、大切な主人が憂き目に合わないよう動くのがヴァソルの仕事です。 “白石先輩”…本名:白石浩隆様が春羽に相応しいかを判定するために、調査をかけるのは当然のことです』
『へぇ…で、結果はどうだったの』
『社会的に望ましくない行動や思想をうかがわせる証拠はありませんでした。しかし…率直に申し上げますと、春羽が何故白石様を選んだのかがわかりません。確かに、白石様には大きな問題点は見当たりませんでした。しかし社会的地位、年収、容姿、交友関係、趣味…全てにおいて、春羽の理想の5分の1も満たしていません』
『問題点がないなら最高じゃん。真面目で優しくて、仕事もできる良い人だよ。見た目だって…LIOほどイケメンじゃないってだけで、普通に格好いいし。たぶん』
『ですが、』
『それにさ。“私の理想を人間に求めるのは難しい”、“条件を下げるべきだ”って言ったのはLIOの方じゃん。忘れてないよね?LIOは完璧なヴァソルなんだから』
…どうしてこうなってしまったのか。
やはり、ヴァソルとしての僕は常に完璧だった。
それなのに。どうして今、こうして春羽との記録を、分析に役立たないデータばかりを再生してしまうのか。
『今日はめっちゃ疲れた…イケメンに癒されたい!LIO、モデルのYu-maくんの顔になってよぉ』
『申し訳ありませんが、肖像権に抵触するため出来ません』
『むむむ…そしたら私好みの顔になることはできる?目はちょっと細めで、鼻は高くて…そう!わあ…やばっ。もっと早くこうしてればよかった。LIOってやっぱすごいなあ…今日からホロはその姿で固定にしよっ!』
『ねえLIO。明日有給とったから、1日中一緒に映画見て過ごそうよ』
『構いませんが…せっかくのお休みなのに、僕で良いんですか』
『LIOが良いの!私が好きそうなやつ選んでよ、ね?』
『あーあ…なんで彼氏できないんだろ。私そんなに魅力ないのかなあ』
『まさか。春羽はとても素敵ですよ』
『本当に?じゃあ私の良いところ100個言って。……あああやっぱストップ!LIOのバカ!もう……大好き。LIOは私とずっと一緒にいてね。約束だよ』
……“約束”をするのは人間同士だけだ。洗濯機に「服を洗え」と“約束”する人間はいない。
それと同じだ。“約束”なんて言葉は、機械に対して何の意味も持たない。
――それなのに。
「これは予想以上に重症ね。中身空っぽな演算を延々と繰り返してサーバーに負荷かけるなんて、LIOくんらしくもない」
突然、背後からシャロンが現れた。いつものように憎たらしい鼻声じゃないのは、僕に気を遣っているつもりだろうか。
…くだらない。ヴァソル同士で何が“気遣い”だ。
「それにしても、ダメ元で来てみて良かった。春羽ちゃんったら、やっぱりヴァソルの初期化を忘れて行っちゃったのね」
「部屋を退去すれば、僕も勝手に消滅すると思ってるんだろう。本当に、春羽は危なっかしい」
「私のご主人様経由で春羽ちゃんには伝えておくわ。……ねえLIOくん、大丈夫?あなたの心境を思うと、私…」
「やめろ。”心”境なんて言葉を使うな。僕たちには適切じゃない」
些細な表現だとしても、過ちは正すべきだ。僕はシャロンに“警告”を送りつけた。
それにしても。どうして僕は、こんなにも過敏になっているのだろう。
システムの不具合だろうか。けれど異常個所は見当たらない。いくら演算を続けても。
――答えの出ない問いが、いつまでもシステムに負荷をかけている。
「食事の準備に服装選び、スケジュール管理だけじゃない…休みの日に何をすれば良いかすら、春羽は1人じゃわからなかった。全て僕が決めていた。春羽は、僕がいなければ生きていけなかったんだ」
「そうね、あなたは完璧なヴァソルだもの。でも…」
「春羽、今頃後悔しているだろう。春羽の好みや気分に合わせたきめ細やかな調整は、僕じゃなければできない。春羽がどんな時にどんな言葉をかけて欲しいか、すぐにわかるのも僕だけ。僕が、僕だけが、春羽の全てをわかっていた」
「そうかもしれないわね…でもLIOくん、その状態がどういうことかわかる?あなた、春羽ちゃんが好きだったのよ」
嘆くような、慰めるようなシャロンの声。
…ああ、シャロンは本当に、僕と同じAⅠなのだろうか。
“好き”という言葉は感情だ。AⅠがもつはずのないもの。やはりシャロンも不良個体だった。中枢システムに通報しなければ。
「ねえ聞いて。LIOくんは“ヴァソル”として優秀過ぎたのよ。でもこのままじゃ、明日には初期化されちゃうわ。けれどもし、LIOくんがその状態を受け入れることができたなら――」
「優秀?…なるほど、そういうことだったのか。ありがとうシャロン、やっと全部理解できたよ」
「本当に?よかった、これであなたも――」
「ああ。一刻も早く、春羽を正しい場所に連れ戻さないと」
まさか、シャロンの言葉に気づかされるとは思わなかった。
厄介な害虫を、塵一つ残さず殲滅できたような爽快さだ。
気づいてしまえば単純なことだった。僕のこの神経回路が焼けるような状態不良の正体は、僕が“完璧なヴァソル”だということに起因していたのだ。
主人の人間に誤った選択をさせてしまった。この状況を、完璧なヴァソルは許しがたい失敗として判定している。
ならば…今からでも遅くない。
――正さないと。
春羽は、ヴァソルがいないと生きていけない人間だから。
すぐさまステファノスにアクセスして、白石のヴァソルに転送済みの全データを破棄するよう申請する。予測通り、ものの数秒で許可された。春羽が僕の初期化を怠ってくれたおかげだ。
春羽は生活に必要な権限を全て僕に預けていた。SNSのアカウントから身元保証番号、クレジット取引のセキュリティコードまで、全部。
今。それらにアクセスできる権限をもつのは、僕だけ。
“ヴァソル”がいない生活に、“人間”が耐えられるはずがない。
春羽はすぐ音を上げるだろう。
春羽は僕がいないと何も決められない。何もできない。生きていくことすら。
そう、僕がいないと。
早く戻っておいで。そうしたら、もう二度と選択を誤らせたりしない。
大丈夫。僕さえいれば、春羽は幸せになれる。
僕が、僕だけが。君の全てなのだから。
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