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第四章

50 全てを君に

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「日差しが厳しいから、日陰にしよう」
「なら、小屋で昼食をいただきますか?」
 ユリアンはあまり小屋に招待してくれない。ロドリックは反射的に頷いていた。
「そうしよう」
「エラ達に準備させましょう」
 新しい小屋は、小屋というより屋敷に近い。多くのことがあったため、ユリアンの安息の場所にでもなればと第二の屋敷のつもりで建てたのだ。
 用意されたランチを囲って、ワインで乾杯する。ユリアンはふんわり笑って言った。
「王都への遠征、お疲れ様でした」
「あぁ」
「長い道のりだったんじゃないですか?」
 ユリアンは小さな口で食事を進めていく。約二日間留守にしていただけだが、その間で体調を崩していないのか、夜はどうだったかなど聞きたいことが多数あったが、ひとまずユリアンの質問に答えた。
「そうだな」
「こんなに早く帰ってくるとは思いませんでした」
「急いだんだ」
「何故?」
「……何となく。ユリアンは王都には行ったことがあるのか?」
「ないです。王都って、何があるんですか?」
 エデル公爵領よりもマルトリッツの方が王都に近いが、パーティに出かけるのは弟ばかりで、ユリアンは皆無だったようだ。
「買い物をするには適してるんじゃないか」
「へぇ」
「今度行ってみるか?」
「買い物って何を買うんですか?」
「ユリアンの気になる本はあるかもしれない」
 王都でユリアンを連れて食事をしたり、店を訪れるのはきっと楽しいだろう。想像してみるも、ユリアンは「そうですか」と関心がなさそうだ。
「遠出は嫌いか?」
「そうですね。マルクスさんと離れてしまうし」
「そうか……」
「どうして落ち込んでるんですか?」
「いや」
「今回の遠征で何か嫌なことでもあったんですか?」
 ユリアンは声を低くする。
「不都合が起きました? バルシャの協定の議会へ出席したんですよね」
 不安そうな顔をするので、ロドリックはすぐに首を振った。
「何も問題はない。秋にバルシャへ向かうことになった」
「協定を結ぶに行くんですね」
「あぁ。騎士団を連れていくが、武力行使に至ることはまずないだろう。国王陛下とバルシャ共和国も意見が合致している。巷でも噂になっているが、むしろ向こうは、すぐにでも締結を望んでいるんだ」
「それは、とてもいいことですね」
 ユリアンは安堵を浮かべて微笑んだ。その笑みを前にするとロドリックの心もふわっと浮いて、嬉しくなる。
 そこで考えるのは、この結婚についてだ。
 元はと言えば、バルシャ共和国の姫から求婚を受ける前に先んじて結んだこの結婚。今まではユリアンに、そこまで説明していなかった。
 しかしこれはユリアンとの結婚だ。ユリアンに知る権利はある。
 この情報は今となっては過去のもので、隠す必要はないし、明かすデメリットもない。それでもこれまで話してこなかったのは……、なぜだろう。
 ロドリックは不意に考えて、やがて答えを知る。
 ロドリックは何も話したくなかったのだ。
 戦争に関する全てを。母のように戦争に目を向けてしまう。その可能性を少しでも排除するために沈黙し続けていた。
 けれど母とユリアンは違う。
 ユリアンはユリアンだ。
「マルトリッツ家の君に結婚を申し込んだのは」
 切り出すと、ユリアンが紫の目でロドリックを見つめた。
「バルシャ共和国と接していたからだ」
「……マルトリッツ家を傀儡としたかったのは、バルシャに近いからなんですね」
「あぁ。ユリアンと結婚する前に、バルシャの姫が俺に求婚する兆候があると諜報員が掴んだ」
 ユリアンは唇を閉じる。唾を飲み込むのがわかった。
「その前に誰かと結婚する必要があった。姫に寝首をかかれるわけにはいかないからな。バルシャに牽制をかけるため、あの国との国境に領地をもつ貴族家を選ぶことにした」
「そこに、オメガ性の僕がいたんですか」
「そうだ」
 ユリアンは数秒沈黙したが、納得したように首を上下させる。
 これは政治と防衛のための結婚だった。個人の意思を悉く無視された結婚に、ユリアンが怒りを見せるのはきっと今なのだろう。
 次に見せるユリアンの反応を待つこの間に、緊張が増していく。罪悪感と緊迫感に押しやられるロドリックだが、解放するのはユリアンだった。
 ユリアンは小さな、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「バルシャの姫君は美しいと聞きます。よかったんですか?」
 ユリアンはワイングラスを手に持って揺らした。ロドリックは「なっ」と声を漏らした。
「とてもお美しいらしいですよ」
「そんなことはどうでもいい」
「そうですか? お姫様との結婚なのに」
「ユリアンの方が綺麗だ!」
「え? あはは」
 ユリアンはおかしそうに笑った。その笑い声を耳にして、体内を支配していた緊張がどっと解けていく。
 脱力して、喉が乾く。ロドリックはワインを口にする。ユリアンは、笑っている。
 口を衝いて出ていた言葉だが訂正するものではない。しかしユリアンは「僕はかわいいんですか?」と言うので、修正は必要かと思い、ロドリックはさらに言った。
「女性のように綺麗だという意味ではない。女性と比べているわけではなく、人間単位で見て美しいんだ」
「あはは、人間単位」
「生物として、美しい」
「真顔で言うのは何なんですか。ロドリック様は大真面目な顔をして冗談を言うんですね」
「冗談ではない。事実だ」
「はは、そうですか。はい」
 伝わっていない気がするので、ロドリックはむすっとした。笑われるようなことは言っていないつもりだ。しかしユリアンは笑う。笑っている。
 笑っているならばまぁ、いいだろう。じっくりその姿を観察しようとするも、ユリアンはお返しとばかりに目を細めた。
「ロドリック様の黒髪は好きですよ」
 何気なくユリアンが言ったセリフに、ロドリックは固まる。
 ユリアンは軽く微笑みながらロドリックの反応を眺めていた。
 深く考えた言葉ではないはずだ。ロドリックの特徴を述べただけ。祖父から父へ、父から自分へ継がれた黒髪について、ロドリックは話していない。
 だからこそ告げられた純粋な言葉だ。だからこそ、ロドリックの胸に馴染んでいく。
 枯渇した大地に溶けていく爽やかな水のようだった。ロドリックは、自分の心を誰かに渡そうなど考えたこともなかった。
 けれど今、この心の全てがユリアンに向けられている。 
「そうか」
 そうだったのか。
 ロドリックは自分の心に向けてつぶやいた。ユリアンを見つめながら。
 やっと、自分を知ったのだ。
「はい。珍しくて、好きです」
「……うん」
「珍しいのはいいですよね。ロドリック様の立派な体も凄いなと思っていました」
「そうか」
「もしかして照れてます?」
「照れてない」
「そうですか。嬉しくないですよね」
「いや、嬉しい」
「あははは」
 ユリアンが楽しそうに笑い声を立てる。それがとても嬉しくて、ロドリックも不器用に笑った。
 テーブルには次々に食事が運ばれてくる。ユリアンの好むものばかりだ。以前より立派な造りで再建した小屋は、安全で、爽やかな室内に涼しい風が入り込んでくる。
 ユリアンが美味しいものを食べて、心地の良い空間にいる。
 これこそがロドリックの安心だと思った。
 この心を安らげるものはユリアンだ。
 それなのに、どうしてだろう。
 その時、窓から一匹の虫が飛んできた。ハチのように激しい羽音を立てる虫が真っ直ぐにこちらへ向かってくる。部屋に控えるメイドが反応するより先に、ユリアンが立ち上がった。
 棚に並べられた本を一冊手に取ると、ユリアンは容赦なく叩き落とす。
 そうしてロドリックに振り返り、言った。
「大丈夫、ハチではありませんよ。これはアブかな」
 ユリアンの安全な暮らしがロドリックの安心なのに、ユリアンは容易くロドリックを守ってしまう。
 ロドリックは椅子から立ち上がってすらいない。無抵抗で、命の危険を感じるより前に、選択するよりも前に、ユリアンが全てを終わらせる。
 そうして頼もしく笑うのだ。
「アブでもハチでも、僕が貰っていきます」
「……あぁ」
 あぁ。
 ロドリックの心も、持つもの全てを。
 何もかも全部。
「全部君に渡そう」
 全てを渡したいと心底願う。
 全部捧げるから、そして少しだけ欲しい。
 どうしようもなく、この男が欲しいと思った。
 ロドリックは、ユリアンを愛していたのだ。











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