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第三章

24 春が来た

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【第三章】








 小屋で冬眠していたマルクスが目を覚ましたのは、よく晴れた日の午後だった。
 最近は雪解けもして、暖かい日が続いていたけれど、それはユリアンにとってまだ春ではない。マルクスの目覚めこそが春の始まりだ。
 春がやってきた。
「マルクスさん、おはよう。今日は昨日より暖かいよ」
 手を差し出しながら笑いかけると、マルクスがささっと手のひらに乗ってくる。その勢いで肘までやってきて、尻尾をユリアンの腕に巻きつけた。
 マルクスの住処である箱はこの小屋に置いている。以前の小屋は嵐で流されてしまったので、ロドリックが新しく建ててくれた新品の小屋だ。
 流された小屋は元々庭師が住んでいたらしいが、これはユリアンだけの小屋だ。庭師やユリアンに許可されていない使用人が入ってくることはなく、それはロドリックにも適用している。
 ユリアンは特に明言も指示もした覚えはないが、ロドリックはユリアンの許可なしで小屋を訪れないようにしている。名目上はユリアンの小屋だけれど建てたのはロドリックだ。気にせずやってくればいいのに、なぜか彼はそうしない。
 真相は不明だが、おかげで小屋は安全なマルクスのお城となっている。
 冬も無事にここで越すことができたのだ。
「マルクスさん、ご飯全部食べちゃったんだね。お腹いっぱいでしょ?」
 餌箱に置いておいた餌が全てなくなっている。冬眠明けとはいえ凄まじい食欲にくすくす笑うと、マルクスは答えるように目をぱちっと瞬きした。
 食欲旺盛なマルクスの腹がぽっこり膨らんでいる。「かわいいなぁ」と呟きながら、暫くジィッと眺めていたけれど、マルクスは昼寝の時間らしくいそいそと箱の中に戻っていく。
 睡眠を妨害する訳にはいかないので、ユリアンは箱を日当たりのいいテーブルに置いて小屋を出た。
 すると、川の近くに人影が見える。
 ユリアンは彼の方へ向かった。
「ロドリック様」
 声をかけるとロドリックが振り向いた。
 素知らぬ顔でユリアンを見下ろしているが、この人がここに来る用事など本来皆無である。最近、こういうことがよくある。
 ロドリックがユリアンの小屋付近をうろついているのだ。なぜ小屋にやってこないのか不思議でならないけれど、ひとまずユリアンが話しかけに行くことにしている。
「どうしたんですか?」
「……川を見ていた」
「それって楽しいですか?」
 ロドリックはいつもの仏頂面で、「楽しい」と答えている。とても川の鑑賞が楽しそうには見えなかった。
 この仏頂面は決して不機嫌なのではないと今なら分かる。三ヶ月のバルシャ共和国への遠征を終えて帰ってきたロドリックと、この春に至るまで共に過ごして得た発見だ。
 ロドリックは別に、怒っていない。そしてより彼の印象で強くなったのは、初めて会った時にも感じた疲弊感だった。
 ロドリックは基本的に疲れている。よくよく見ると目の下にはクマがあるし、仕事を終えた後ユリアンの部屋へやってくる際のロドリックはぼうっとしがちだ。
 この人は眠れていないのではないか? ユリアンは何となくそう思っているけど、事実がどうかは分からない。
「ロドリック様、川も楽しいかもしれませんが、やっぱり森の方がワクワクしますよ」
「森に行きたいのか?」
「ロドリック様が行きたいかなと思って」
「……」
 ロドリックがなぜ小屋に頻繁に訪れるようになったかは不明だ。ユリアンは、スズメバチがいないからではないかと推察している。
 ロドリックはスズメバチを恐れて西の森へやって来なかったのだ。今はいないだから自由にやって来られる。それはとてもいいことだ。せっかくなので今日も、夫を森へ案内することにした。
「大丈夫ですよ、スズメバチはいませんから」
「あぁ」
「時期でもないですしね……あ、雪が残ってる」
 常時木陰となるであろう大木の近くに、雪がまだ溶けずに積もっている。隣のロドリックは、腰に刺さっている剣には触れず、なぜか木の棒を拾う。いざとなった時の武器にするようだ。
 子供っぽい行動に思えるが、どうやらこれはユリアンの前でだけ見せる一面らしい。枝を持って至極真剣に隣を歩くロドリックだが、この姿を使用人たちが見たら驚愕するに違いない。
 冬の間にロドリックと多くの時間を過ごしたので意外な一面を見ることは多かった。たとえば、ユリアンの唇が切れそうだからとリップクリームを塗ってきたり、少しでもユリアンが好反応を見せた菓子を大量に買ってきたり。
 まるで年の離れた弟を甲斐甲斐しく世話焼くみたいだった。
 ……いつも、冬の間は記憶が薄れる。
 マルクスが眠ることで訪れるユリアンの冬を、ユリアンは曖昧に過ごしている。そして春になってから振り返るとどうにも記憶も不確かになるのだ。
 けれど今回の冬は記憶の中心にこの人がいる。
「すまなかった」
 すると突然、ロドリックが言った。
 ユリアンが手を伸ばして枝の先の赤い実を取ろうとした時だった。ユリアンよりもずっと背の高いロドリックが代わりに取ってくれたかと思えば、いきなりそう言ったのだ。
「はい?」
「秋のことだ。冬の間のユリアンは寒さでぼうっとしていたから、辛い過去を突きつけるのもどうかと思って言えなかった」
「……」
「すまなかった」
 そうか。
 結婚してからのことを言っているのか。
「俺の態度のせいでユリアンを傷付けた」
「……」
 ロドリックが冷酷な態度を取っていた件について言っているらしい。それがメイド達の暴走を助長したのは、否定できない。
 ロドリックは悲痛そうに顔を歪めている。ユリアンはそれをぼうっと眺めながら、春だな、と思う。
 もう春になった。
 あと一年と少しでロドリックとはさよならだ。
 ロドリックがユリアンと結婚したのは、マルトリッツ男爵領を傀儡とするためである。
 利点も分かったので、切り捨てられることはないだろう。それにこの数ヶ月共に暮らしてみて分かった。この人は案外、何を言っても怒らない。思ったことを言ってもいいのだ。
「悲しませてすまない」
「いえ」
 ユリアンは軽く首を振った。今もロドリックは、ユリアンに一連の事件を思い出させて悲しませていると思っている。
 だがユリアンは、悲しんだことはない。
「傷付くとか、悲しむとかではないです」
「は?」
「気まずいんです」
「……」
 この空気が。
 淡々と述べるとロドリックが目を少しだけ丸くする。予想だにしなかったらしく、しかし過度な驚きもなく、ロドリックもまた静かに納得した。
「なるほど」
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