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第二章

23 眠りたい

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「ヒートはここ数ヶ月きていないというお話でしたね」
 ロドリックは「あぁ」と頷いた。具体的な期間は明かされていないが、ユリアンの口振りからして長期間にわたると考えられる。
「精神的なストレスでもヒートが止まるということが起きます。身体の機能が低下しているのです」
「それは命に関わるのか?」
「いえ。ヒートが来ないことで命に影響を及ぼすことはありません。むしろヒートの方がオメガ性の体を酷使します」
 ヒートは発情期だ。強烈な発熱も伴うので、それを和らげるアルファ性がいないと過酷なものとなる。
 だが、今のユリアンの問題はそこではない。
「ヒートを止めるほどのストレスがあることは深刻ですね。食欲低下もそのためでしょう」
「……」
「奥様には、かわいそうな事件が起きましたから……」
 話を終えたのは夜になってからだった。医者の馬車を執事に見送らせ、ロドリックは自室に戻る。
 以前ユリアンがハチを駆除した書斎に一人になり、いつもの呼吸をした。軽く息を吸い、長く深く吐く。薄暗い部屋にランプの光が揺蕩っている。ロドリックは瞼を閉じたが、耳元でいくつかの声がしたので目を開いた。
 もう一度呼吸を繰り返し水などを飲む。引き出しからユリアンとの契約書を取り出して、契約期間の字を指先で撫でてみる。
 ……やはりこの結婚はユリアンにとって厳しかったのか?
 残り一年と半年。結婚契約は再来年の夏までだ。
 それまでにバルシャと協定を結ぶ。次にバルシャへ向かうときには必ず役目を果たして、バルシャの脅威を排除する。
 そうすればユリアンは自由だ。
 だが、それまでこの公爵邸で彼が耐えることはできるのか。
「――今晩は雪が降る。より冷え込むので気をつけてくれ」
「……はい」
 その夜、ロドリックは帰宅して早々ユリアンの部屋を訪れた。
 今日は朝から王都へ向かっており、ユリアンがしっかり夕食をとっていたのか見ていない。一週間前に雪が降り出してからこの地方は更に冷え込んで、帰路を馬車で駆けている最中もユリアンが凍えていないか気がかりだった。
 寝室のベッドで本を読んでいたユリアンは、部屋に入ってくるロドリックの姿を認めたが、『お帰りなさい』を言わなかった。それがロドリックには心地いい。
「この部屋は、十分暖かいのでご心配なく」
「だが雪が降っている」
「そうみたいですね」
 エラの報告によると、今日のユリアンは一歩も外に出ていないらしい。冬が始まったばかりの時はまだ、小屋へ通っていたが、近頃はそれもない。
「……マルトリッツは、ここより暖かかったのか?」
 エデル公爵領の気候はユリアンに合わないのだろうか。
 あの嵐にも追い詰められたのだ。ここを忌み嫌っていても仕方ない。
 だが、ユリアンの返事は落ち着いていた。
「そうでもないですよ。マルトリッツとちっとも変わりません」
 そう呟き、軽く目を閉じる。その口調は抑揚がなかったが、どこか皮肉めいたものに聞こえるので勘繰ってしまう。
 マルトリッツとちっとも変わらない……マルトリッツのことも蔑んでいるような含みがある。
 ユリアンはマルトリッツ男爵家の正妻の子ではない。調査員の報告では、マルトリッツ家にいた頃の彼は滅多に姿を見せなかったと言っていた。
 一体あの家でどんな扱いを受けていたのか。
「契約を終えて離縁をしたら、ユリアンはどうするんだ」
「僕はもっと暖かい街へいきます」
 以前も聞いた回答だった。あの頃はまだ、森を彷徨いていて、ユリアンには元気があった。
「そうか。男爵家には帰る気はないんだな」
「それは男爵夫人が許さないと思います」
 男爵夫人との溝は深いようだ。ロドリックも離縁後のユリアンの処遇に関してはマルトリッツ男爵家から聞いていたので、ユリアンが『暖かい街へ行く』のも了承していたのだ。
 それはユリアンの願いでもあり、男爵家の意向でもある。
 男爵家がユリアンの帰宅を許さないことを、ユリアンも理解しているようだ。
 すると、彼が唇の隙間からこぼすようにして言った。
「僕は夫人の子ではないので」
「……実母のもとへ向かうのか?」
「いえ、僕の母は亡くなっていますから」
 ロドリックは口を噤んだ。ユリアンの実母がどうなっているかは把握していなかった。
 そうか、亡くなっているのか。初めて得る情報だった。だが、ロドリックが唇を引き締めたのはそれが理由ではない。
「母が亡くなってからマルトリッツ家へ来て……ん? あぁ。マルトリッツ家に入って暫くした後、母が亡くなったと聞きました」
 記憶が混在している? 時系列を把握できていないみたいだ。
 言い終えたユリアンは薄く瞼を開いて、ロドリックの指先を見下ろした。あんまりにも爪先を見つめてくるので、その視線に頭のてっぺんが熱くなる。ロドリックは咄嗟に手を背中の後ろへやって告げた。
「ユリアン」
「はい」
「寒くないか?」
「……」
 するとユリアンはもそもそとブランケットの中に入り込んでいき、ベッドに横たわってから「寒くないです」と答えた。
「そうか。腹は減ったか?」
「特に……」
「なら何か希望はあるか?」
 目を閉じていたユリアンが、ゆっくりと薄く瞼を開く。
 その隙間から紫の瞳の光が溢れでていた。
「眠りたい」
 その小さな呟きに、ロドリックはハッと息を呑んだ。
 瞠目して彼の横顔を見つめる。するとユリアンは瞼を閉じて、また眠りに落ちていく。
 暫く呆然とユリアンの寝顔を見下ろしていた。やがて微かな寝息が聞こえてきてから、呼吸を取り戻す。
 ロドリックは彼の言葉が、ただ多くの睡眠をとりたいという意味ではない気がした。
 ――何も考えずに眠る。
 それが願いなのではないか。
 ……『妻』に関わるつもりはなかった。
 そして妻にエデル公爵家と精神的に深い繋がりをもたせるつもりもなかった。
 公爵家に執着させないよう、限りなく距離を置くはずだったのだ。嫌われるくらいの冷たい関係がいい。
 まさかそれがメイドに影響するとは。
 今後は二度とあんな目には遭わせない。
 ユリアンを無事に、暖かい街へ送らなければならない。
 それがロドリックにできる唯一だ。
 ロドリックはユリアンの寝顔を数秒眺めてから、寝室を後にした。冬の公爵邸の廊下は冷たく、歩いているうちに足先から体の内部へ侵食してくるようだった。
 冬が入り込んでくる。冬がこの地を巣食っていく。
 ロドリックはユリアンが冬に引き摺り込まれないよう、毎日気にかけた。
 部屋がきちんと暖かいか。食事はしているのか。何度も問いかけ、毎晩のように寝室のユリアンを確認しに行き、食事を共にして見守る。
 そしてユリアンは鬱陶しがることもなく、淡々としていた。
 契約結婚を終えたらより安全な暖かい街へ送ろう。金を与えればいいと思っていたが、この分だと後ろ盾は必要だ。マルトリッツ家はユリアンを保護する気はないようだから、エデル公爵家と関わりのある貴族か傍系貴族の家に入らせてもいい。 
 『マルクス』という男はどうだろう。
 ユリアンに必要なのではないか。その男はマルトリッツ領にいるのか? 探し出して、ユリアンの元へ連れてきてもいい。
 そうしているうちに、ユリアンの顔色はみるみる悪化していく。まるで生きながらにして死んでいるかのように、一人だけ冬の色に染まっていくのだ。元々ぼうっとしていた男だと思っていたが、それがより顕著になった。意識が現実から逸れている。常に眠りを探しているような。
 はたして冬を超えられるのか?
















「――ロドリック様」
 しかし、そうした懸念はある日突如として消え去った。
「このお菓子、美味しいですね!」
 午後、仕事の休憩も兼ねて彼の部屋へ向かうと、ティータイムと読書を楽しむユリアンが、笑顔の使用人たちに見守られてお菓子を楽しんでいる。
 ——それは本当に突然だった。
 春がやってきたから、というにはその変化の訪れは明確すぎて説明がつかない。ロドリックには何が起きたのか全くわからない。森を染めていた雪が溶けて、比較的あたたかい日が続いていた。そしてある晴れた日の午後、突然ユリアンに笑顔が戻ったのだ。
 あれから一週間、ユリアンの声はずっと明るい。
「クッキーの中にチョコレートが入っています」
「あぁ」
「どうやって焼いたんでしょう。焼くときにチョコが溶けて滲み出ないのかな」
「さぁな」
「ロドリック様、どうやって焼いたんですか?」
「俺は焼いていない。料理長に聞いてみようか」
「はい。僕も作りたいな」
 ユリアンは「お暇なら外へ行きましょう」と自らロドリックを誘い出した。エラも「クッキーをお詰めしますね」とピクニック気分で準備を始める。
 庭にはふんわりとした暖かな春の風が吹いていた。少し強いせいで、ユリアンの茶髪が乱れる。だがユリアンは微動だにせず、二本足でしっかりと立って、木を見上げていた。
 冬の間は寂しかった木々に花の蕾がついている。ユリアンはそれを指差して、花が綻ぶように笑った。
「そろそろ、咲きますね」
「……そうだな」
 何が起きたんだ。
 ロドリックには分からない。
 よく分からないが……。
 その笑顔は綺麗で、とても可愛かった。








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