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第二章

22 このままだと

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「ユリアン」
「……ロドリック様」
 何度か呼びかけてやっとユリアンがこちらを見上げる。テーブルにはユリアンのために紅茶とクッキーが用意されているが、手をつけた様子はない。
 その瞳には光がなく、唇も乾き、顔も疲弊している。ユリアンの部屋は暖かくむせかえるほどだ。だがこれくらいが丁度いいと思えるくらい、この五日間ユリアンの様子がおかしい。
 まるで氷になってなってしまったみたいに、ふとした瞬間に動きを停止し、ぼうっと目を伏せる。眠っているわけではない。だが何も見ていない。
 あれだけ西の森や庭を歩きまわっていたのに、今は全く森へ行かない。朝に一度小屋に向かっているだけで、それ以外は部屋を出ることなく、図書室にすら向かわないのだ。
「昼食を残したんだろ? 腹が痛いのか?」
「昼食は、量が少し多かったんです」
「そんなことない。適切な量だった」
 ロドリックは声を荒げたつもりはなかった。だがその時、ユリアンが微かに怯えたような顔を見せる。
 なぜ? これくらい普通の声量で、冬が来る前のユリアンなら気にしていなかった。ロドリックを前にしても平然と、そして雑に会話するのがユリアンで、ロドリックが何を言おうと然程気に留めた様子はなかったのに。
 ロドリックは対面の椅子に腰掛け、すぐさま口調を和らげて、「何か食べたいものはあるか?」と問いかける。ユリアンはいつもの無表情に戻り、緩やかに首を振った。
「思い浮かびません」
「だが朝食も少なかっただろ」
「貴方の、食事量が多いんです」
 淡々と答えるユリアンの唇が気になる。このままだと切れてしまいそうだ。
 ロドリックはメイドに言いつけてリップクリームを用意させた。小瓶を受け取り、ユリアンに「唇に塗ってくれ。今にも切れそうだ」と渡す。しかし会話に間が空いたからか、ユリアンはまた窓の外を眺めて意識が離れてしまっている。
 ロドリックは席から立ち上がり、ユリアンの前に跪く。控えていたメイド達が信じられないといった風に目を見開くが構わずに小瓶の蓋を開けた。
「何するんですか」
「口を薄く開いておけ」
 ようやくユリアンの目が向けられるが、彼は抵抗しなかった。クリームを付属の小さなヘラで掬って唇に塗りつけてやる。ユリアンはおとなしく待って、塗り終えると、「ベタベタする」と不満そうに呟いた。
「唇が切れるよりはマシだ。これからは定期的に塗ってくれ」
「ベタベタして嫌です」
「なら自分で調節しろ。手も乾いているじゃないか」
 床に片膝をついたままユリアンの右手を取るが、その手の冷たさにゾッとした。細い指をギュッと握ってみるもユリアンの力は全く入らない。
 ユリアンは椅子の背に寄りかかったまま、気力のない目でロドリックを見下ろしていた。
 まだ冬は始まったばかりだというのにこれほど冷えているのでは無事に冬を乗り越えられるのか。
 このままではダメだ。ロドリックは、ハンドクリームともっと分厚いブランケットをメイドに要求する。そうしてメイドとやりとりしている間に、ユリアンは自分の唇に触れた。クリームがついた指先をじっと見つめると、あろうことかその指を、自分の右手を握るロドリックの手の甲に擦り付けてきた。
「ほら、ベタベタするでしょう」
「……」
 その瞬間、背後のメイド達が「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
 ユリアンはゆっくりと瞬きをして、また視線を窓の外に向ける。控えていたエラも青ざめて、「奥様……」と呟き、ロドリックに恐怖の目を向けた。
 メイド達からしたらユリアンの行動は恐ろしくて堪らないのだろう。ロドリックはそれよりも、ユリアンの茶が気になった。
「……俺の手にクリームを擦り付けるな」
「ロドリック様が勝手に、僕の唇に塗ったんじゃないですか」
「分かった。俺が悪かった。まずは温かい茶を飲んでくれ」
 ロドリックの言葉が衝撃的だったのか、またメイド達が顔を驚愕に染めた。慌てて表情を元に戻し、「お茶を新しく淹れ直します」と準備を始める。
 少しでも冷えた体が元に戻るよう、ジンジャーも追加で頼んだ。そしてより分厚いブランケットをユリアンの膝にかけて、ハンドクリームもテーブルに置いておく。
「クッキーでも食べろ。この五日間、食事量が少なすぎる」
「はい。食べます」
 と言って手に取るも、一口を飲み込むのが遅すぎる。
 冬が来る前、ユリアンが森へ探索するのに付き合ったことがある。ユリアンは木の実を見つけては口にし、ロドリックには雑草としか見えない草を食べていた。一応止めるも全くの無駄で、ヘラヘラしながら森を進んでいたというのに。
 あれだけ食欲旺盛だったユリアンが冬が来た途端こうなってしまった。
 マルトリッツ領の冬は案外暖かかったのか? この地方とそれほど変わらないはずだが、実際の体感は違うのかもしれない。
 寝具ももっと防寒に優れたものにした方がいい。ここまでユリアンが寒さに弱いと思わなかった。
「食欲がないのか? 気持ち悪いのか?」
「気持ちは、普通です」
「風邪を引いてるんじゃないか? 喉は痛いか」
「痛くないです」
 この勢いで元気を失っていったら、冬の最盛期には一日一食以下になってしまう。ユリアンはようやくクッキーを一枚完食した。皿の上のクッキーを食べ終えるのに朝から晩までかかりそうな遅さだ。
 と、そこでロドリックはやっと気づいた。
 もしや寒さのせいではない?
「ヒートか?」
 ヒートのせいなのか? ユリアンはオメガ性だ。
 オメガ性は一般的に三ヶ月に一度ヒートがくる。ユリアンがエデル公爵邸にやってきて三ヶ月はとっくに過ぎている。
 周期は人によるらしく、半年に一回の者もいれば二ヶ月に一度訪れるオメガ性もいるらしい。
 ユリアンの食欲低下はその前兆なのか?
 だが彼は、唇を動かさずに声だけで答えた。
「僕はヒートが安定していないんです」
「……は?」
「もうずっと来てません。だからお気になさらず」
「……」
 新しい紅茶が注がれる。ジンジャーの粉がカップのそこで渦巻いていた。
 ロドリックは「そうか。まずは紅茶を飲め」と指示し、やっと立ち上がる。ユリアンはぼんやりとカップの水面を眺めて、両手をカップに添えた。
 その指は真っ白で、手だけ見れば死人みたいだった。
 長いこと眠ってしまった人間の手のよう。
 ヒートが来ていない、とは。
 それはつまり。
「相当なストレスが原因でしょう」
 至急オメガ性に詳しい医者を呼びつけると、医者は神妙な面持ちでそう説明した。
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