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第二章

19 マルクス?

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 あれは確かエラという名のメイドだ。使用人の顔はあまり把握していないが、このメイドは覚えている。両親がベルマニア出身の捕虜で、彼女は孤児となった後、公爵邸に就職したのだ。
 公爵邸の使用人の一部にはルーストランド王国で暮らすベルマニア人が働いている。ベルマニアとの国交を進めて、これまでの緊迫した関係を緩和するための政策の一部でもあった。なるほど。エラのようにベルマニアの孤児達が傍観者側についていたなら、直属の上司を越えて執事長へ報告することはできない。表立ってはいないがベルマニア系の二世はまだ差別されている。公爵邸の使用人からそれを理由として虐げられた報告は入っていないが、再調査が必要だ。
 エラは捜索中、熱心にユリアンを探し回り、先ほども心から心配そうにユリアンを見つめていた。あの悲痛な表情からしてまともな使用人なのだろう。そういえば彼女は何かの箱をテオバルトに渡していた。あの箱はユリアンの部屋にあるはずだが、中身は何なのか。
「んっ……」
 その時、ユリアンが微かに呻いた。
 テオバルトがハッと息を呑んで、ユリアンの少しの動きでも見落とさないとばかりに顔を凝視する。だがユリアンは目を開くどころかぎゅっと瞼を閉じるだけで、目を覚まさなかった。
 今晩はもう遅い。ユリアンの容態も安定しているので、隣室には軍医が控えることとし、老医師や看護婦たちはそれぞれの自室へと帰っていった。テオバルトも後ろ髪を引かれるような様子だったが、何か処理があるらしく、エラを連れて忙しなく部屋を出ていった。
 ロドリックも一度執務室に戻り、副団長のディーター・ヘルダーと十数分程度会議を開く。それから着替えてユリアンの眠る部屋に戻るが、彼の状況に変化はない。
 窓の外はまだ雨嵐が吹き荒れている。執務室へ戻ろうとも思ったが、ロドリックはユリアンのベッドを眺められる程度の距離に椅子を置き、腰掛けた。
 軽く目を閉じてみるが、周囲に気配を感じたので、瞼を上げる。ロドリックはじっと外を眺めた。窓を叩きつける真っ暗な雨は凶暴で、外でのたうち回る化け物が邸宅に体をぶつけているようだった。
「う……」
 すると、ベッドの方から呻き声が漏れる。
 ロドリックは腰を上げて、ユリアンのもとへ向かう。
 小さなランプの暖色の光に照らされたユリアンの顔が、悪夢にうなされる様に歪んでいた。見下ろしていると彼の唇から、
「マルクスさん……」
 と掠れた声が溢れた。
 マルクス?
 ……誰だ?
 マルトリッツにマルクスという名の家族はいない。友人か、……それとも恋人か。悪夢の中で助けを求める相手なのだからユリアンにとって信頼できる人間に違いない。
 そうか、ユリアンにはそうした人間がいるんだな。ロドリックは渇いた心地を味わいながら、その悪夢からマルクスはユリアンを助け出せるのだろうか、と考えた。
「……ロドリック様?」
 自然と意識は嵐の方に向いていて、またしても窓の外を眺めていたロドリックだが、突然はっきりとした声が届くのでユリアンに視線を落とす。
 マルクスはユリアンを無事に助け出せたらしい。先ほど悪夢に襲われていた苦悶の表情は跡形もなく消え、静かな瞳がロドリックに向けられていた。
 ロドリックは、「熱はどうだ」と問いかけた。
「熱……? あぁ、何だか、体が熱い気もします」
「自分の状況についてどこまで把握している?」
「僕、は、助けられたんですよね」
「あぁ」
「……どうしてロドリック様がここに?」
 ロドリックは答えられなかった。答えを持ち合わせていないからだ。夫だから、という回答も空虚だった。ユリアンとの関係は契約結婚である。強いていうなら悪夢に捉われるユリアンがいつ救い出されるのかを眺めていたから、だ。
 返事はせずに、椅子の背を掴んでベッド脇まで移動する。たった今目覚めたばかりのユリアンに困惑の様子はなく、ロドリックの姿を認める視線は冷静だった。
 枕元のテーブルに置かれた水差しを持ち上げ、グラスに移す。ユリアンに渡すとそこで初めて、彼が受け取るのを一瞬躊躇った。
 それでもグラスを手に取り、喉が渇いていたのか一気に中身を飲み干す。
「ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
 グラスを空にしたユリアンはそう呟いた。
 長いまつ毛が伏せて、鼻筋に影を落としている。小さな唇は忙しくなく息を繰り返しているが、表情は異様に穏やかだった。
「……お前を西の森の小屋に追いやった者たちには処分を下す」
 謝罪の言葉には返事をせずに告げると、ユリアンがロドリックを見上げた。
「……あの」
「聞きたいことは幾つかあるが、体力が完全に回復したら話し合おう」
「はい」
「一つだけ尋ねたい。どうして昨晩、『異常はない』と言った?」
 ――『この三ヶ月で何か異常あったか』
 ――『異常ですか。特にありません』
 これが異常でないはずがない。公爵夫人が邸宅から追い出されるなどあってはならないことだった。
 ユリアンは数秒沈黙した。ロドリックはその時になって、無意識ではあるが自分がユリアンに圧をかけている言い方になったのではと気づいた。ロドリックの物言いは他人をいたずらに脅かすきらいがある。ハッとするが、ユリアンは気にした素振りはなく、落ち着いた口調で答えた。
「互いの生活には干渉しないという契約だったので……」
 ロドリックは唾を飲み込む。
 あぁ、そうか。
 圧されたのはロドリック自身の心だった。
 罪悪感で胸が潰れそうだ。ロドリックは息を吐き、一度だけ髪をかき上げた。ユリアンはぼうっとグラスに反射するランプの光を見下ろしていた。何を言うべきか迷ったが、ロドリックは「契約条件の見直しが必要だ」と告げた。
「そうですか」
「暫く療養のことだけ考えてくれ」
「はい」
 契約を結んだ時と同様、ユリアンは静かに受け入れる。これ以上ここにいるのは気が休まらないだろうと、ロドリックは早々に席を立つ。
「何かあったらそこのベルを鳴らしてくれ。隣室に医師がいる」
「ありがとうございます」
「おやすみ」
 ユリアンは大きな瞳でロドリックを見上げて、「ロドリック様も」と囁いた。
「おやすみなさい」
 ロドリックはその射抜くような眼差しから目を逸らし、軽く頷き、部屋から去った。
 執務室へ向かう長い廊下を歩みながら、(ユリアンの部屋を東の棟に移そう)と考えを改める。
 西の棟は放棄し、東に移動させる。騎士の宿舎に近い方が何かあったときに守りやすい。新しくメイドは雇わずに、ロドリックに仕える使用人らをユリアン付きに配置し直す。ロドリックの使用人達は仕事に真面目で、噂に左右される短絡な者達ではない。騎士の家から出た者も多いのでユリアンが危機に晒された時は役立つだろう。
 一方で寡黙な者ばかりだから、エラというメイドを中心にしておけばユリアンの気も安らぐはず。あとは、……テオバルトに聞いた方が早い。
 まずは罪人達の素性を今一度洗い直す必要がある。身元のはっきりしているカミラに工作員の疑惑がなくても、他のメイド達はまだ疑いが晴れたわけではない。
 邸宅内に流れているユリアンの不名誉な噂の訂正も必須だ。明日、合議が終わり次第、使用人達を集めて邸宅全体の意識を改めなければならない。
 一度自室へ戻ったロドリックは腰のベルトを外し、ベッドの端から古くなったコートを手に取った。水を飲み、軽く息を吸い、ゆっくり深く吐く。そうした呼吸を何度か繰り返した後、シャワールームへ向かい捜索で汚れた身を清める。
 執務室へ戻ると待ち構えていた執事からハーブティーを受け取り、懲罰部屋へ移動させた西の使用人達の報告を聞く。次に騎士と共に今回の捜索で使用した照明弾他のリストと怪我人の状況を確認していると、ちょうど、領地に派遣した騎士が帰還した。嵐による領内の被害の報告を受け、被害地域に派遣する騎士を編成する。そうしているうちに朝を迎えると、あの嵐は、すべて悪ふざけだったかのように薄れていた。







 ◇◇◇





 西の森でハチに刺されたことがある。軍医からは「次に刺された時はこの薬を服薬し、大量の水をお飲みください」と指示を受けたが、あれ以降西の森には不用意に近づかないようにしている。
 だが、ユリアンがいまだに西の森に通っている。一体何をしているのか気になり、訪れてみると、ユリアンは草むらに座り込み雑草を食べていた。
「……何をしてるんだ」
「あ、ロドリック様」
 振り返ったユリアンは、口をもぐもぐ動かしながらゆっくり立ち上がる。平然と「お散歩ですか?」と首を傾げるので、ロドリックは声を荒げた。
「なぜ草を食ってるんだ!」
「草……まぁ、草ですね」
「朝食は用意されてるだろう!?」
「……」
「なぜ黙る!」
「すみません、飲み込んでたので」
 咀嚼を終えたユリアンは半笑いを浮かべた。
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