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第一章

14 ユリアンの唯一の夢

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 彼は何度かユリアンの手元から目を逸らしながらも「ソレは俺で処理しておく。苦労をかけた」と続ける。その瞳にはやはり恐れが潜んでいるのが容易に見て取れた。
 ユリアンは淡々と「いえ、僕が何とかします」と答える。ロドリックは首を横に一度振った。
「そこまでしなくていい」
「いえ、あの」
 あなたを気遣っているわけではなく、これは大事な食料なんです。
 と言うわけにもいかずユリアンは一度唇を引き結んだ。せっかく殺虫剤を使わないで重要なタンパク質源を確保したのだ。このハチは普通のスズメバチより小さくて、針と毒のうを取り除けばマルクスさんも喜ぶ。
 ユリアンは小さく唇を開いた。
「僕が処理します」
「しかし」
「殺したわけではないのでそのうち起きますよ」
「そ、そうなのか」
「女王蜂を移動させればいいだけです。そうすればもうロドリック様のお部屋には近づきませんから。ロドリック様はハチが苦手なのでしょう?」
 さすがに自分でも言い逃れできないと思ったのか、ロドリックは力無く息を吐き出すと、重そうに歩いてソファに腰掛けた。
 長い足を放り出し背もたれに体重を預ける。ユリアンは彼の隣に歩いて行って、その乾いた横顔を見下ろした。
 ロドリックはボソッと吐き捨てるように白状した。
「以前、刺されたことがある」
「なるほど」
 ロドリックは視線を己の太い腕へ移して、苦い過去を思い出したのか顔を顰めた。
 一度刺されたならすでに体内にハチ毒の抗体ができているだろう。二回目に刺されると、抗体が過剰反応してショック状態を引き起こす可能性があり、場合によっては死に至る。
 二回目でなくても、強力なスズメバチの毒はかなりの症状を起こす。実際ロドリックは、「刺されたのは十年前だが」と気落ちした声で続けた。
「呼吸困難に陥り、歩くこともできず、倒れたんだ。作戦中だったらどうなったことか」
 十年前ならロドリックは十七歳だ。戦争にはすでに出陣していたが、幸いにも軍事作戦中ではなかったらしい。
「この邸宅で刺されたんですか?」
「あぁ。庭の奥で。地中からいきなりハチが出てきたんだ」
 地中に巣を作るスズメバチは特に危険だ。獰猛で戦闘的かつ体も大きく毒も強い。もしもロドリックが小屋近くの森を指しているのだとしたらユリアンも警戒しなければならない。もう一度周辺を確認してみようと改めて思いながら、ユリアンは「恐ろしいですね」と相槌を打った。
「次に刺されたら命の危険があると言われた」
「おっしゃる通りです。でも、十年が経ったんですよね?」
「あぁ」
「なら死の危険度はかなり下がったと思いますよ」
「そうなのか?」
 背もたれに寄りかかっていたロドリックが上半身を起こす。目を軽く見開いてユリアンを見上げ、「十年経つと大丈夫なのか?」と、比較的明るくなった声を出した。
「問題がないというわけではないですが、アレルギー反応が起きやすいのは一度目に刺されてから二年内なので。十年経つと危険は薄れます」
「そうか……」
 ロドリックは放心したように頷くと、膝に両肘をつき、じっと自分のつま先を見下ろした。体の大きな人だけれどその姿は、やけに小さく見えた。
 ……それにしても、過去にハチ毒で意識を失っていながらユリアンについてきてあの部屋に入ったのか。
 過去を把握するとロドリックが怯えていたのに頷けるし、ハチのいる空間にやってくるなど無謀だなとも思う。一度目にユリアンが書斎に入ってから、出ようとした際向こうから扉を開いてきたロドリックを思い浮かべる。ユリアンが書斎で、飛び回るハチがオスだと把握し、天井裏のハチたちの気配を確認し、オスバチを殺すまでは数分だった。あの数分間ロドリックは書斎の外のこの部屋で、ぐるぐる悩み、結局やって来ようとしたらしい。
 その光景を想像すると少し笑える。笑ってはいけないとは分かっているが。
「手間をかけさせたな。また明日、団員に天井裏を確認させることにしよう」
 ロドリックは顔を上げてそう言った。
 ユリアンは軽く頷き、せめてもの気遣いでハチ入りの瓶を後ろ手にして彼の視界から隠した。
「はい」
「なんというか、お前は、見かけに反して意外な性格をしているんだな」
「はい。……はい?」
 ユリアンは適当に相槌を打ってから自分のことを言われたのに気付いて眉をちょこっとだけ寄せた。魔性の遊び人にしてはハチを殺すことを意外に思ったのか? 人の心を思うままに扱う魔性は、ハチを殺すのを厭わなそうだけれど。内心で首を傾げるユリアンだが、ロドリックは非常に疲れきった様子で言った。
「お前一人にやらせてすまなかった」
「お気になさらず」
「……情けない」
 ロドリックは目にかかる前髪をかき上げて呟く。独り言に近いそれを聞きながらユリアンは、この人は案外弱音を吐くのだなと感心した。
 そもそもロドリックに関して何か知っているわけではないので、彼の常がわからないのだけれど。ユリアンは端的に返した。
「情けないことないでしょう。ハチに刺された経験があるなら警戒するのが当然です」
「……」
 ロドリックが横顔だけでこちらを見遣る。ハチへの心情は察するが、その静かな表情の正体はよく分からなかった。
 そうこうしているうちにハチが起きてきてしまうかもしれない。エラに頼んで氷を用意してもらいハチの動きを止めなければ。頭の中で段取りを組みながらユリアンは言った。
「それでは僕は失礼しますね」
「あぁ」
 ロドリックはハッと我に返ったように首を上下させた。言ってから「待て」と付け足す。
「なんです?」
「何か、必要なものはあるか?」
 ハチを処理するのに必要なものを聞いているのだろう。ユリアンはかぶりを振った。
「大丈夫です。ロドリック様はお休みになってください」
「そうか」
「では、失礼します」
 ユリアンは告げると、今度は速やかにロドリックの部屋から去った。
 振り向かずに廊下を歩んでいく。まだ瓶の中のハチは眠っている。小屋に帰ってくるとちょうどエラがいて、寝室の準備を整えている最中だったので氷を持ってくるよう頼む。
 氷で冷やされたハチたちは、薬草で弱っていたこともありポツポツと死んでいく。夜通し処理をしていると、いつの間にか朝になっていた。
 こうして眠らずに朝を迎えるのは、マルトリッツ男爵邸にいた頃からの日常だ。眠れないことは多々あって、その度にユリアンは本を読んだり薬を作ったりしていた。
 夜の森はゴー……っと唸り声を微かに響かせるだけで静かだったが、徐々に空が明るくなるにつれて、様々な動物や鳥の声が聞こえてくるようになった。椅子に腰掛けながら窓の外を眺めていると、箱の中で眠っていたマルクスが起きて、ユリアンの指をつついた。
 ユリアンは手のひらにマルクスを乗せて、小屋の外を歩く。草むらには夜露が輝き、蜘蛛の糸に蠅が捕まっている。ユリアンはぼうっと川を眺めながら、呟いた。
「もっと暖かいところへ行こう」
 マルクスがまん丸な目でユリアンを見上げる。
 ユリアンは小さく笑い返した。
「海の見える街で、二人で一緒に暮らそうね」
 暖かくて、平和な場所で、マルクスと二人で暮らす。
 それがユリアンの唯一の夢だった。
 ――その日、昼になると小屋にテトがやってきた。
 だが訪れたテトはいつものテトではなく、ロドリックの弟のテオバルトの顔をして、開口一番に告げた。
「今すぐお住まいを邸宅内に移しましょう」
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