上 下
14 / 75
第一章

14 ユリアンの唯一の夢

しおりを挟む
 彼は何度かユリアンの手元から目を逸らしながらも「ソレは俺で処理しておく。苦労をかけた」と続ける。その瞳にはやはり恐れが潜んでいるのが容易に見て取れた。
 ユリアンは淡々と「いえ、僕が何とかします」と答える。ロドリックは首を横に一度振った。
「そこまでしなくていい」
「いえ、あの」
 あなたを気遣っているわけではなく、これは大事な食料なんです。
 と言うわけにもいかずユリアンは一度唇を引き結んだ。せっかく殺虫剤を使わないで重要なタンパク質源を確保したのだ。このハチは普通のスズメバチより小さくて、針と毒のうを取り除けばマルクスさんも喜ぶ。
 ユリアンは小さく唇を開いた。
「僕が処理します」
「しかし」
「殺したわけではないのでそのうち起きますよ」
「そ、そうなのか」
「女王蜂を移動させればいいだけです。そうすればもうロドリック様のお部屋には近づきませんから。ロドリック様はハチが苦手なのでしょう?」
 さすがに自分でも言い逃れできないと思ったのか、ロドリックは力無く息を吐き出すと、重そうに歩いてソファに腰掛けた。
 長い足を放り出し背もたれに体重を預ける。ユリアンは彼の隣に歩いて行って、その乾いた横顔を見下ろした。
 ロドリックはボソッと吐き捨てるように白状した。
「以前、刺されたことがある」
「なるほど」
 ロドリックは視線を己の太い腕へ移して、苦い過去を思い出したのか顔を顰めた。
 一度刺されたならすでに体内にハチ毒の抗体ができているだろう。二回目に刺されると、抗体が過剰反応してショック状態を引き起こす可能性があり、場合によっては死に至る。
 二回目でなくても、強力なスズメバチの毒はかなりの症状を起こす。実際ロドリックは、「刺されたのは十年前だが」と気落ちした声で続けた。
「呼吸困難に陥り、歩くこともできず、倒れたんだ。作戦中だったらどうなったことか」
 十年前ならロドリックは十七歳だ。戦争にはすでに出陣していたが、幸いにも軍事作戦中ではなかったらしい。
「この邸宅で刺されたんですか?」
「あぁ。庭の奥で。地中からいきなりハチが出てきたんだ」
 地中に巣を作るスズメバチは特に危険だ。獰猛で戦闘的かつ体も大きく毒も強い。もしもロドリックが小屋近くの森を指しているのだとしたらユリアンも警戒しなければならない。もう一度周辺を確認してみようと改めて思いながら、ユリアンは「恐ろしいですね」と相槌を打った。
「次に刺されたら命の危険があると言われた」
「おっしゃる通りです。でも、十年が経ったんですよね?」
「あぁ」
「なら死の危険度はかなり下がったと思いますよ」
「そうなのか?」
 背もたれに寄りかかっていたロドリックが上半身を起こす。目を軽く見開いてユリアンを見上げ、「十年経つと大丈夫なのか?」と、比較的明るくなった声を出した。
「問題がないというわけではないですが、アレルギー反応が起きやすいのは一度目に刺されてから二年内なので。十年経つと危険は薄れます」
「そうか……」
 ロドリックは放心したように頷くと、膝に両肘をつき、じっと自分のつま先を見下ろした。体の大きな人だけれどその姿は、やけに小さく見えた。
 ……それにしても、過去にハチ毒で意識を失っていながらユリアンについてきてあの部屋に入ったのか。
 過去を把握するとロドリックが怯えていたのに頷けるし、ハチのいる空間にやってくるなど無謀だなとも思う。一度目にユリアンが書斎に入ってから、出ようとした際向こうから扉を開いてきたロドリックを思い浮かべる。ユリアンが書斎で、飛び回るハチがオスだと把握し、天井裏のハチたちの気配を確認し、オスバチを殺すまでは数分だった。あの数分間ロドリックは書斎の外のこの部屋で、ぐるぐる悩み、結局やって来ようとしたらしい。
 その光景を想像すると少し笑える。笑ってはいけないとは分かっているが。
「手間をかけさせたな。また明日、団員に天井裏を確認させることにしよう」
 ロドリックは顔を上げてそう言った。
 ユリアンは軽く頷き、せめてもの気遣いでハチ入りの瓶を後ろ手にして彼の視界から隠した。
「はい」
「なんというか、お前は、見かけに反して意外な性格をしているんだな」
「はい。……はい?」
 ユリアンは適当に相槌を打ってから自分のことを言われたのに気付いて眉をちょこっとだけ寄せた。魔性の遊び人にしてはハチを殺すことを意外に思ったのか? 人の心を思うままに扱う魔性は、ハチを殺すのを厭わなそうだけれど。内心で首を傾げるユリアンだが、ロドリックは非常に疲れきった様子で言った。
「お前一人にやらせてすまなかった」
「お気になさらず」
「……情けない」
 ロドリックは目にかかる前髪をかき上げて呟く。独り言に近いそれを聞きながらユリアンは、この人は案外弱音を吐くのだなと感心した。
 そもそもロドリックに関して何か知っているわけではないので、彼の常がわからないのだけれど。ユリアンは端的に返した。
「情けないことないでしょう。ハチに刺された経験があるなら警戒するのが当然です」
「……」
 ロドリックが横顔だけでこちらを見遣る。ハチへの心情は察するが、その静かな表情の正体はよく分からなかった。
 そうこうしているうちにハチが起きてきてしまうかもしれない。エラに頼んで氷を用意してもらいハチの動きを止めなければ。頭の中で段取りを組みながらユリアンは言った。
「それでは僕は失礼しますね」
「あぁ」
 ロドリックはハッと我に返ったように首を上下させた。言ってから「待て」と付け足す。
「なんです?」
「何か、必要なものはあるか?」
 ハチを処理するのに必要なものを聞いているのだろう。ユリアンはかぶりを振った。
「大丈夫です。ロドリック様はお休みになってください」
「そうか」
「では、失礼します」
 ユリアンは告げると、今度は速やかにロドリックの部屋から去った。
 振り向かずに廊下を歩んでいく。まだ瓶の中のハチは眠っている。小屋に帰ってくるとちょうどエラがいて、寝室の準備を整えている最中だったので氷を持ってくるよう頼む。
 氷で冷やされたハチたちは、薬草で弱っていたこともありポツポツと死んでいく。夜通し処理をしていると、いつの間にか朝になっていた。
 こうして眠らずに朝を迎えるのは、マルトリッツ男爵邸にいた頃からの日常だ。眠れないことは多々あって、その度にユリアンは本を読んだり薬を作ったりしていた。
 夜の森はゴー……っと唸り声を微かに響かせるだけで静かだったが、徐々に空が明るくなるにつれて、様々な動物や鳥の声が聞こえてくるようになった。椅子に腰掛けながら窓の外を眺めていると、箱の中で眠っていたマルクスが起きて、ユリアンの指をつついた。
 ユリアンは手のひらにマルクスを乗せて、小屋の外を歩く。草むらには夜露が輝き、蜘蛛の糸に蠅が捕まっている。ユリアンはぼうっと川を眺めながら、呟いた。
「もっと暖かいところへ行こう」
 マルクスがまん丸な目でユリアンを見上げる。
 ユリアンは小さく笑い返した。
「海の見える街で、二人で一緒に暮らそうね」
 暖かくて、平和な場所で、マルクスと二人で暮らす。
 それがユリアンの唯一の夢だった。
 ――その日、昼になると小屋にテトがやってきた。
 だが訪れたテトはいつものテトではなく、ロドリックの弟のテオバルトの顔をして、開口一番に告げた。
「今すぐお住まいを邸宅内に移しましょう」
しおりを挟む
感想 214

あなたにおすすめの小説

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

生まれ変わりは嫌われ者

青ムギ
BL
無数の矢が俺の体に突き刺さる。 「ケイラ…っ!!」 王子(グレン)の悲痛な声に胸が痛む。口から大量の血が噴きその場に倒れ込む。意識が朦朧とする中、王子に最後の別れを告げる。 「グレン……。愛してる。」 「あぁ。俺も愛してるケイラ。」 壊れ物を大切に包み込むような動作のキス。 ━━━━━━━━━━━━━━━ あの時のグレン王子はとても優しく、名前を持たなかった俺にかっこいい名前をつけてくれた。いっぱい話しをしてくれた。一緒に寝たりもした。 なのにー、 運命というのは時に残酷なものだ。 俺は王子を……グレンを愛しているのに、貴方は俺を嫌い他の人を見ている。 一途に慕い続けてきたこの気持ちは諦めきれない。 ★表紙のイラストは、Picrew様の[見上げる男子]ぐんま様からお借りしました。ありがとうございます!

【完】僕の弟と僕の護衛騎士は、赤い糸で繋がっている

たまとら
BL
赤い糸が見えるキリルは、自分には糸が無いのでやさぐれ気味です

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……? ※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします

み馬
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。 わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!? これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。 おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。 ※ 独自設定、造語、出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。 ★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★ ★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

【完結】選ばれない僕の生きる道

谷絵 ちぐり
BL
三度、婚約解消された僕。 選ばれない僕が幸せを選ぶ話。 ※地名などは架空(と作者が思ってる)のものです ※設定は独自のものです

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

婚約者に会いに行ったらば

龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。 そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。 ショックでその場を逃げ出したミシェルは―― 何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。 そこには何やら事件も絡んできて? 傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

処理中です...