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第一章
10 ロドリックが帰ってくる
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どの国の物語を読んでも、主人公には友達がいた。ユリアンが好んで読んでいた本は動植物に関する書籍だけれど、たまに小説や絵本も開いたりしていた。
勇者たちには仲間がいたし、旅人には故郷の友人、王宮の王子には信頼できる幼馴染の友達がいた。中でもユリアンが気に入っていたのは、海の人魚たちが繰り広げる不思議な世界の物語だ。
ユリアンが『ジュリ』と咄嗟に名乗ったのは、主人公の人魚がその名だったからでもある。ユリアンはジュリに憧れていた。ユリアンにはマルクスという一番の親友がいるけれど、『ジュリ』みたいに、言葉を交わして共に泳げる友人と出会ってみたかったのだ。
そして今、テトは弾けるような明るい笑顔を向けてくれる。
「おすすめのお茶を飲ませてくれ」
「うん……っ!」
ユリアンは急いでティーポットを準備し、お湯を沸かした。森で取ってきたベリーを乾燥させた特別な紅茶だ。
窓際の席のテーブルには二つ椅子があるけれど、今までそれに腰掛ける人間はいなかった。今、テトがそこに座って待っていてくれる。ユリアンはふわふわした高揚感に浮かれながら、紅茶を用意した。
テトはよく公爵邸の外の街へ行くらしく、彼の話はとても面白かった。新聞や本の中でしか見たことのなかった世界を聞いて、二年後の自由への想いが膨らんでいく。
お茶を飲み終わるとテトは本邸へ帰っていった。別れ際に「また来る」と手を振ってくれたけど、ユリアンは寂しくてうまく笑い返せなかった。
本当に来てくれるかな。ユリアンはここで待つことしかできない。本邸への立ち入りが禁止されているわけではないけれど、そうなると自分がロドリックの妻と明かすことになる。
きっとテトと対等な友人関係になることは難しいだろう。
それだけは嫌だ……。
だが、そんな不安も杞憂に終わり、テトは翌日も小屋へ遊びに来てくれた。
その数日後も。何回も。ユリアンはその度に新しいお茶を用意し、取っておいたベリーや木の実をテトにプレゼントした。
テトもまたお菓子を持ってきてくれた。この小屋にやってくるテトは長袖に長ズボンを履いてくるようになったが、テトが虫に刺されたりここへ来るまでの間に怪我をするのが怖かったので、小屋にはマルクスに無害な虫除けのハーブをぶら下げ、いつ怪我をしても処置できるように塗り薬を作ったり、エラに持ってきてもらったりもした。
たまに庭師のベンノとも話したが、ベンノはテトという青年に覚えはないようだった。本邸には使用人が多いので無理もない。エラにはテトのことは内緒にしておいた。なぜならテトが小屋にやってくる時は大体、「サボってきた」と言うから。
「――あぁ、そういえば、そろそろウチの公爵が帰ってくる頃なんだよ」
「え?」
テトと出会って二ヶ月後のある日。
彼は「ほら、バルシャへ騎士団と向かっただろう」と砕けた笑みを向ける。
ユリアンは目を丸めて彼を見つめ、口の中で小さく呟いた。
「公爵、様が……」
公爵。ロドリックだ。
夫がバルシャ共和国へ向かってから気付けば三ヶ月以上が経つ。
テトと交流を始めてからも随分月日を重ねていた。
三ヶ月前、ロドリックは『帰還がいつになるか分からない』と言っていたけれど、どうやら帰ってくるようだ。すっかり忘れていた彼の存在を突きつけられて、思考が急激に回る。ロドリックが帰ってきたらユリアンの小屋はどうなるのだろう。
ロドリックが小屋に気づいたら本邸へ戻される? それとも彼もまたメイド長に手を貸しているか、もしくは黙認している可能性はあるだろうか。
テトは面倒そうに眉を顰めて、「だからあまり小屋には来れなくなるかもしれない」と言った。
ロドリックが帰ってきたら……テトは小屋に来れなくなる?
「ど、どうして?」
「仕事が増えるからさ」
テトは半笑いで、儚げな遠い目をした。
「激務となる」
「そうなんだ……公爵様が帰ってくるって、報告が入っているの?」
「あぁ。三日前、一報が届いたんだ。もう秋が深まってきただろ? 冬になる前に一度帰ってくるらしい」
「そ、っか。大変だね」
「大変だよ、あの人は」
その口調は距離があるようでどこか親しみの込められたものだった。あの人と呼ぶなんて不敬ではないか? と思ったけれど咎めはしない。
そうか。帰ってくるんだ。内心で困惑していたが、あまりロドリックの話を続けていると『妻』の話に話題が移るかもしれない。危惧したユリアンは無理やり「確かに秋になってきたね」と話を別の軌道に乗せる。テトも特別違和感を抱かなかったようで、素直に頷く。
「肌寒くなってきたな。そろそろ雨が降る頃だ」
テトは雨が苦手なのか神経質そうに眉根を寄せて溜息を吐いた。
ルーストランド王国の南部地方では夏から秋にかけて雨が降る。マルトリッツ男爵領でも同様の気候だったが、エデル公爵地は更に雨が降ると聞いているが、実際のところは分からない。
「農作物に影響が出ないといいね」
「あぁ。ところでマルクスは雨は平気なのか?」
テトは言って、視線を部屋の端に置いた箱へ遣った。
テトがマルクスを発見したのは二ヶ月前の午後だ。ユリアンがテトと出会って一ヶ月後、不在中にテトが小屋に訪れたところ、部屋に入った彼が箱の中を確認してしまった。
蛇を恐れるテトだからカナヘビも苦手だろうと、ユリアンはマルクスについて明かしていなかった。その時点ではもうテトを信頼していたので、マルクスという親友を隠しているつもりはなかったのだが、テトを思って内緒にしていたのだ。
とはいえテトも大人なので小さな愛らしいマルクスを恐れることはなく、小屋に帰ってきたユリアンへ「かわいいのがいる!」と興奮気味に報告してくれた。
それからは彼もたまにマルクスの家を覗いたりしている。エラ同様、さすがに捕食シーンは見ていられないらしい。
ユリアンは軽く首を振って、尻すぼみになりながらも答えた。
「雨は関係ないよ。それよりも冬になったら、冬眠しなければならないから……」
それが何より寂しい。
ユリアンは視線を窓の外へ転じた。空が高く澄んで、白い雲が薄く張り付いている。
冬が近づくといつも思う。自分はマルクスが眠っている間何をしているのだろう、と。
冬の間はとにかくぼうっとして、後になると思い出すことすらできなくなる。不気味なほど記憶が曖昧になるのだ。今年も同じなのかな。いずれ来る寒空を思うと、胸がズンと重くなった。
それに今回は、ロドリックの帰還もある。
夫は結婚してすぐバルシャ共和国へ出国してしまったので夫婦として過ごした期間は皆無に近い。契約では互いの生活に干渉しないとされていたが、実際はどうなのか。
そういえばロドリックが不在の間の公爵邸に関する責任はロドリックの弟に任されている。エラや他のメイドたちの話からすると、弟君はかなりのハンサムでクールな男性のようだ。エラ曰く「二十二歳にしてヘビースモーカー気味。ロドリック様ほどではないけれど厳しいお方。特に男性に対して」で、難しい顔をしたよく似た兄弟らしい。
「冬眠か。寂しくなるな」
テトは心から残念そうに眉尻を下げた。しょんぼりとした顔が愛らしかった。
ユリアンは小さく首を上下に振った。
「そう、寂しい」
勇者たちには仲間がいたし、旅人には故郷の友人、王宮の王子には信頼できる幼馴染の友達がいた。中でもユリアンが気に入っていたのは、海の人魚たちが繰り広げる不思議な世界の物語だ。
ユリアンが『ジュリ』と咄嗟に名乗ったのは、主人公の人魚がその名だったからでもある。ユリアンはジュリに憧れていた。ユリアンにはマルクスという一番の親友がいるけれど、『ジュリ』みたいに、言葉を交わして共に泳げる友人と出会ってみたかったのだ。
そして今、テトは弾けるような明るい笑顔を向けてくれる。
「おすすめのお茶を飲ませてくれ」
「うん……っ!」
ユリアンは急いでティーポットを準備し、お湯を沸かした。森で取ってきたベリーを乾燥させた特別な紅茶だ。
窓際の席のテーブルには二つ椅子があるけれど、今までそれに腰掛ける人間はいなかった。今、テトがそこに座って待っていてくれる。ユリアンはふわふわした高揚感に浮かれながら、紅茶を用意した。
テトはよく公爵邸の外の街へ行くらしく、彼の話はとても面白かった。新聞や本の中でしか見たことのなかった世界を聞いて、二年後の自由への想いが膨らんでいく。
お茶を飲み終わるとテトは本邸へ帰っていった。別れ際に「また来る」と手を振ってくれたけど、ユリアンは寂しくてうまく笑い返せなかった。
本当に来てくれるかな。ユリアンはここで待つことしかできない。本邸への立ち入りが禁止されているわけではないけれど、そうなると自分がロドリックの妻と明かすことになる。
きっとテトと対等な友人関係になることは難しいだろう。
それだけは嫌だ……。
だが、そんな不安も杞憂に終わり、テトは翌日も小屋へ遊びに来てくれた。
その数日後も。何回も。ユリアンはその度に新しいお茶を用意し、取っておいたベリーや木の実をテトにプレゼントした。
テトもまたお菓子を持ってきてくれた。この小屋にやってくるテトは長袖に長ズボンを履いてくるようになったが、テトが虫に刺されたりここへ来るまでの間に怪我をするのが怖かったので、小屋にはマルクスに無害な虫除けのハーブをぶら下げ、いつ怪我をしても処置できるように塗り薬を作ったり、エラに持ってきてもらったりもした。
たまに庭師のベンノとも話したが、ベンノはテトという青年に覚えはないようだった。本邸には使用人が多いので無理もない。エラにはテトのことは内緒にしておいた。なぜならテトが小屋にやってくる時は大体、「サボってきた」と言うから。
「――あぁ、そういえば、そろそろウチの公爵が帰ってくる頃なんだよ」
「え?」
テトと出会って二ヶ月後のある日。
彼は「ほら、バルシャへ騎士団と向かっただろう」と砕けた笑みを向ける。
ユリアンは目を丸めて彼を見つめ、口の中で小さく呟いた。
「公爵、様が……」
公爵。ロドリックだ。
夫がバルシャ共和国へ向かってから気付けば三ヶ月以上が経つ。
テトと交流を始めてからも随分月日を重ねていた。
三ヶ月前、ロドリックは『帰還がいつになるか分からない』と言っていたけれど、どうやら帰ってくるようだ。すっかり忘れていた彼の存在を突きつけられて、思考が急激に回る。ロドリックが帰ってきたらユリアンの小屋はどうなるのだろう。
ロドリックが小屋に気づいたら本邸へ戻される? それとも彼もまたメイド長に手を貸しているか、もしくは黙認している可能性はあるだろうか。
テトは面倒そうに眉を顰めて、「だからあまり小屋には来れなくなるかもしれない」と言った。
ロドリックが帰ってきたら……テトは小屋に来れなくなる?
「ど、どうして?」
「仕事が増えるからさ」
テトは半笑いで、儚げな遠い目をした。
「激務となる」
「そうなんだ……公爵様が帰ってくるって、報告が入っているの?」
「あぁ。三日前、一報が届いたんだ。もう秋が深まってきただろ? 冬になる前に一度帰ってくるらしい」
「そ、っか。大変だね」
「大変だよ、あの人は」
その口調は距離があるようでどこか親しみの込められたものだった。あの人と呼ぶなんて不敬ではないか? と思ったけれど咎めはしない。
そうか。帰ってくるんだ。内心で困惑していたが、あまりロドリックの話を続けていると『妻』の話に話題が移るかもしれない。危惧したユリアンは無理やり「確かに秋になってきたね」と話を別の軌道に乗せる。テトも特別違和感を抱かなかったようで、素直に頷く。
「肌寒くなってきたな。そろそろ雨が降る頃だ」
テトは雨が苦手なのか神経質そうに眉根を寄せて溜息を吐いた。
ルーストランド王国の南部地方では夏から秋にかけて雨が降る。マルトリッツ男爵領でも同様の気候だったが、エデル公爵地は更に雨が降ると聞いているが、実際のところは分からない。
「農作物に影響が出ないといいね」
「あぁ。ところでマルクスは雨は平気なのか?」
テトは言って、視線を部屋の端に置いた箱へ遣った。
テトがマルクスを発見したのは二ヶ月前の午後だ。ユリアンがテトと出会って一ヶ月後、不在中にテトが小屋に訪れたところ、部屋に入った彼が箱の中を確認してしまった。
蛇を恐れるテトだからカナヘビも苦手だろうと、ユリアンはマルクスについて明かしていなかった。その時点ではもうテトを信頼していたので、マルクスという親友を隠しているつもりはなかったのだが、テトを思って内緒にしていたのだ。
とはいえテトも大人なので小さな愛らしいマルクスを恐れることはなく、小屋に帰ってきたユリアンへ「かわいいのがいる!」と興奮気味に報告してくれた。
それからは彼もたまにマルクスの家を覗いたりしている。エラ同様、さすがに捕食シーンは見ていられないらしい。
ユリアンは軽く首を振って、尻すぼみになりながらも答えた。
「雨は関係ないよ。それよりも冬になったら、冬眠しなければならないから……」
それが何より寂しい。
ユリアンは視線を窓の外へ転じた。空が高く澄んで、白い雲が薄く張り付いている。
冬が近づくといつも思う。自分はマルクスが眠っている間何をしているのだろう、と。
冬の間はとにかくぼうっとして、後になると思い出すことすらできなくなる。不気味なほど記憶が曖昧になるのだ。今年も同じなのかな。いずれ来る寒空を思うと、胸がズンと重くなった。
それに今回は、ロドリックの帰還もある。
夫は結婚してすぐバルシャ共和国へ出国してしまったので夫婦として過ごした期間は皆無に近い。契約では互いの生活に干渉しないとされていたが、実際はどうなのか。
そういえばロドリックが不在の間の公爵邸に関する責任はロドリックの弟に任されている。エラや他のメイドたちの話からすると、弟君はかなりのハンサムでクールな男性のようだ。エラ曰く「二十二歳にしてヘビースモーカー気味。ロドリック様ほどではないけれど厳しいお方。特に男性に対して」で、難しい顔をしたよく似た兄弟らしい。
「冬眠か。寂しくなるな」
テトは心から残念そうに眉尻を下げた。しょんぼりとした顔が愛らしかった。
ユリアンは小さく首を上下に振った。
「そう、寂しい」
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