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第一章

6 あーっ!奥様!

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 公爵家の騎士団を率いてロドリックがバルシャ共和国へ向かってから一週間が経っている。その間にユリアンの元へ食事を運んでくるメイドには、先日廊下で『シアナお嬢様』について語っていた二人組も含まれていた。
 顔を見たのは一瞬だったが記憶をしていたし、「食器は夕方に回収いたします」の声も聞き覚えがあったのですぐに彼女達だと分かった。二人は案の定ユリアンに厳しい視線をぶつけてきたし、好意的な姿勢は一切見せなかった。
 公爵邸は、ロドリックの戦績と彼の弟の働きにより運営は十分回っているようで、使用人の数もかなり多い。その中でメイド長選りすぐりの使用人がユリアンの専属となっているようだ。
 エラというメイドは本邸で働いているはず。もう彼女の一刀両断する叱責は聞けないのだろうか。
 と、考えていたが、案外彼女との再会は早かった。
「奥様、おはようございます。本日は私がシーツのお取り替えをいたしますね」
「あっ」
 その日、朝からよく晴れていた。
 朝食を摂り終えて、ユリアンはマルクスと読書をしていた。するとそこにやってきたのがエラだった。
 思わず声が出てしまったが、エラは丸い瞳をきょとんとされて不思議そうにしている。ユリアンはにっこりして「よろしく頼むよ」と返した。
「はい! どうぞお寛ぎください」
「あぁ。ありがとう」
 エラは弾ける笑みを浮かべ、速やかに二階へと上がっていった。
 若いと思っていたが、見たところユリアンと同年代だろうか。ユリアンは今年で十八になったばかり。エラの雰囲気からして同い年かもしれないと勝手に親近感を覚える。
 それにしても、メイド長はどうしたのだろう。エラをユリアンの小屋へ寄越すとは思わなかった。
 エラは今までとはタイプの違う使用人で、このお屋敷に来てからメイドから笑いかけられたのは初めてだ。ぼんやり考えていると、いきなり二階から、
「ぎゃっ!!」
 と悲鳴が降ってきた。
「?」
 ユリアンは腰を上げ、どうしたのかなと階段を上っていく。エラは寝室の端っこで青い顔をして立ち尽くしていた。
「どうしたんだ?」
「いえっ、奥様は!! どうぞ私のことなど構わずに!!」
 全ての声量が大きい。構わずにと言われても助けてくれと懇願されているようなものだった。
 エラはふるふる首を振って、怯えた視線をベッドの下に向けた。ユリアンは首を捻りつつ、躊躇いなくベッドへ歩いていく。
「あーっ奥様! ユリアン様!」
「え、何?」
「ダメです! います! 奴が!!」
 奴?
 反対側に首を傾けた時だった。
 ベッドの下からひょっこり現れたのは、鋭い刃を天に掲げた威風堂々のその姿。
「あ、オオカマキリだ」
「あーっ奥様! 危険です!」
 エラは片手で右目を隠し、もう片方の手を制止を示すようにこちらに伸ばす。
「奥様! 私が処理しますのでご安心ください!」
「ご安心って言われても」
 そんなに怯えているようではどうにもできまい。
 エラは虫が大の苦手なようだ。苦手なものはどうにもできないが、邸宅で働く上ではかなり大変だろうと同情した。ユリアンはオオカマキリをヒョイっと掬って、ひとまず肩に乗せてみる。
「きゃーっ! ユリアン様!」
「大丈夫だよ。カマキリだから。ほら、刃がかっこいいね」
「きゃーっ!」
 エラは首を勢いよく横に振って、肩ほどまでの黒髪が乱れる。あんまりにも怯えていて彼女が可哀想なので、ユリアンはおとなしく階段を降り、小屋の外へカマキリを解放した。
 あばよ、とばかりに去っていくカマキリを見送ってから小屋に戻ると、ちょうど彼女が震える膝で階段を降りてくるところだった。
「大丈夫?」
「申し訳ありません。情けない姿をお見せして……ユリアン様はお強いですね!」
「え? あはは」
 まるで救世主を相手にしたような輝きの満ちた目を向けてくるので、自分が頼り甲斐のある人間に思えて笑えてしまう。
 ユリアンが笑ったことで、さらにエラも表情を明るくした。先ほどの真っ青な顔はどこへやら、頬には血色が戻っている。
「申し遅れました。エラと申します」
「うん、よろしく。エラ」
「はい! ……あの、ユリアン様。この小屋……離れは、少々虫が多いようです。私がお掃除しましょうか?」
「いや、大丈夫。さっきのはたまたま潜んでたカマキリだから」
「そうですか……」
 眉尻を下げたエラだが、気を取り直すように息を吐き、はっきりとした口調で言った。
「ご不便はございますか? 本日から私も奥様付きのメイドに加わりますので」
「え? 君が?」
 エラは無垢な顔で「ええ」と頷く。ユリアンは意外に思ったが、まぁ今は「そうか。よろしく」だけでいいだろうと首を上下に振る。
 エラは明るい笑顔を浮かべた。
「どうぞよろしくお願いいたします。では、シーツをお取り替えしてきますね」
 彼女は言って、タタっと階段を上がっていく。その後ろ姿を見守ってから、ユリアンは窓際のテーブルへ戻り、マルクスの眠る箱の蓋を閉じた。
 虫がダメならマルクスさんも怖いかな。少し心配に思うが、心は軽かった。
 これからエラがメイドの一人になる。
 ユリアンに目を合わせて、笑顔を向けてくれる人がいる。
 二階でエラの足音がする。今日は朝から晴天で、夏の爽やかな風が吹いていた。風が窓から入り込んでユリアンの栗色の髪をふんわりと浮かす。
 ユリアンの心もまた、ふんわりと軽く、暖かかった。


 



 マルトリッツ男爵邸で、ユリアンと目を合わせて声を弾ませてくれる人間は一人もいなかった。
 だが公爵邸に来てみたらどうだろう。大して実家と変わらないと思っていたのに、ユリアンの受け取る人間の声は増えていく。
「ユリアン様、もしかして庭師のベンノさんとお知り合いになったのですか?」
 夕食を運んできたエラが、そういえばとばかりに問いかけてくる。
 彼女と知り合って一週間が経った。ついでに言えば、ロドリックがルーストランド王国を離れて二週間だ。
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