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第一章

5 シアナお嬢様とロドリック、ユリアンとマルクスさん

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 小屋へ向かうために階段を降りていると、廊下から使用人たちの話し声が聞こえてきた。『ユリアン』の言葉を耳にしたので物陰に潜んで彼らの立ち話を盗み聞きする。その会話はユリアンの疑問に答えるかのようなものだった。
「それにしてもユリアン・マルトリッツは噂の通り美人よね。ブロンドの髪ではないようだけど。ご主人様が誑かされないといいわ」
「そんなこと起きるわけないでしょう。いくら美人でも、シアナお嬢様とロドリック様の絆は、魔性の男に壊されるようなものじゃないもの」
 シアナお嬢様。どこの貴族の娘だろうか。聞いたことがないが、話からするにロドリックの恋人のようだ。
 彼女は体の弱いお方らしい。メイド達の話を聞いているうちに推測が固まってくる。
 おそらくロドリックはシアナの病気が完治するまでの期間を二年としたのだろう。いくら非情な戦争狂のロドリック・エデルといっても縁談の話は多いのかもしれない。
 それを退けるためにも妻が必要だった。シアナと結ばれるまでの妻の役割が、ユリアン・マルトリッツ。マルトリッツ家はエデル公爵家にとって弱小の貴族家であるし、簡単にマリオネットにできる。
 もしかしてこの数日、ロドリックが屋敷を留守にしていたのも彼女へ会いに行くため? あの仏頂面のロドリックが人を愛するとは意外に思えたが、ユリアンは彼のことを何も知らないし、知ることもない。彼は本心と真心を、彼女にだけ明け渡しているのだろう。
 なるほど。ロドリックには恋人がいたのか。
「きっとすぐに離縁されるに決まってるわ。メイド長も早速ユリアン・マルトリッツをいびっているし、あの男がしゃしゃり出ようなんて思わないはずよ」
「そうよね。きっとロドリック様はシアナお嬢様を選ぶに決まってるわ。二人は幼馴染ですもの……」
「ちょっと貴方達! 何を話してるの!」
 二人の会話に新たな女性の声が威勢よく割り込むのでユリアンも肩をビクッと震わせる。
 こっそり覗くと、そこには肩ほどまでの黒髪のメイドが立っていた。
「こそこそ奥様の陰口を叩くなんて身の程知らずな真似してないで、少しは仕事をしたらどうなの」
 きつい口調で咎めるメイドは、大きな瞳がどこか幼い印象を抱かせる女性だった。叱られたメイド達が「何よ、エラったら、いい子ぶっちゃって」と愚痴りながらいそいそと去っていく。
 エラと呼ばれた彼女はハァと呆れたように息を吐き、仕事へ戻って行った。ユリアンはそれを確認してから踵を返し、別の廊下を通って小屋へと向かう。
 ……凄いな。同僚をあれほどはっきり叱責できるなんて、相当な勇気の持ち主だ。
 凄まじい剣幕だった。こっちまでびっくりしてしまうほど。ユリアンは音を殺して歩む。唇は勝手に笑みを描いていた。本当に、凄いと思ったのだ。
 エラの叱責は瞬発的で、その流暢な口ぶりには一つも迷いがなかった。
 ユリアンはその点、ああして迷わず怒るということができない。彼女みたいな人はいちいち弾を込めているのではなく、あらかじめ装填しておいた弾を放っているのだろう。
 僕もちゃんと用意しておかないとな。きちんと闘う準備ができていないと、大切な子を守るなんてことはできないのだから。
 うん。しっかりしよう。意思を固めつつ小屋に帰ってきたユリアンは、迷わず『大切な子』の元へ向かった。
 窓際のテーブルのよく陽が当たるところにその『箱』は置いてある。今日は起床してすぐにロドリックとの朝食へ向かったので、まだ会っていないのだ。
 ユリアンは小走りで窓際のテーブルへ駆け寄り、その箱の上蓋を開いた。
「マルクスさん!」
 中へ手を伸ばすと、手のひらに柔らかい熱が乗り上がる。
 その感触にユリアンは安堵と愛おしさの笑みを漏らす。ゆっくりと腕を引き抜き、目の前に手のひらを掲げて、ニコッと笑みを向ける。
「マルクスさん! すぐにご飯とってきてあげるからね」
 手のひらでは小さな可愛いルローカナヘビのまん丸な目がユリアンを見上げていて、返事をするようにぱちっと瞬きした。
 ユリアンはふんわり微笑んで、ルローカナヘビ……マルクスの頭を人差し指の腹で優しく撫でる。マルクスは気持ちよさそうに目を細めて、ユリアンを信頼するように脱力した。
 ルローカナヘビはトカゲの一種で、手のひらサイズほどしかない小さな生物だ。まん丸の目と細い尻尾が愛らしく、人間に懐きやすい温和な性格をしている。ルーストランド王国の南側に接するルロー共和国の在来種で、ルーストランドでも南の地方に生息しているこのカナヘビは、五年前にマルトリッツ男爵領地で拾った。
 当時、ユリアンは十三歳の冬だった。
 マルトリッツ男爵家の辺りは雪は降らないけれど、その午後は耐えられないほどに寒かったので、焚き火でもしようと森で倒木を砕いていたのだ。
 中から現れたのは冬眠中のルローカナヘビだった。ユリアンは大変に動揺した。どうしよう。冬眠中なのに起こしてしまった。焦ったユリアンはひとまずカナヘビを持ち帰り、男爵家が保有する書籍を読み漁る。
 一度冬眠から起こしてしまうと再度眠らせるのはカナヘビにとって重度のストレスを感じるらしい。餌と温かい室温さえ整っていればトカゲ亜目の中でも比較的タフなカナヘビは生きられると記載されているので、ユリアンは暖炉の近くでカナヘビを世話することにした。
 何度目かの夜を過ごした時、ユリアンはカナヘビに『マルクスさん』と名付けた。
 マルクスはあの冬からずっとユリアンの傍で生きていてくれる。
 男爵家で暮らしていた頃、義母も義弟も使用人達も、人間は皆ユリアンを虐げたけれど、耐えられたのはマルクスという友人がいてくれたからだ。
 どんなに辛い時でもマルクスはつぶらな瞳でユリアンを見つめてくれた。だからユリアンは自分を透明にすることなく、こうして生きてこられたのだ。
 まるで言葉が分かるように表情豊かな友人だ。ユリアンが微笑みかけると、マルクスも嬉しそうに首を上下させる。
 ユリアンは小屋を出て、草をかき漁りバッタを捕まえる。可愛いけれど肉食なのでご飯は小さなバッタやコオロギなど昆虫である。
 つまり、この『離れ』はユリアンとマルクスにとって天国なのだ。
 父からロドリック・エデルとの結婚を言い渡された時も、一番に胸に抱いたのは、冷酷な戦争狂との結婚への恐怖ではなく、『南へ行ける』という希望だった。マルトリッツ領よりエデル公爵家の方がより南に位置している。温暖な地方を好むマルクスにとって生きやすい環境ということ。
 そしてメイド長の粋な計らいにより、自然に近い小屋を手に入れることができた。
「マルクスさん、今日は日向ぼっこ日和だよ」
 満腹になったマルクスはテーブルの上で気持ちよさそうに寝転ぶ。椅子に座ったユリアンはテーブルに頬肘をつき、ニコニコとマルクスを眺めた。
 ユリアンにとってマルクスがいっとう大切なように、ロドリックにも愛しい人がいるのかもしれない。
 二年の契約が満了すれば、互いに好きな人と共に生きることができるのだ。
 ユリアンはマルクスと共に別のどこかへ、そしてロドリックもシアナお嬢様とやらと結ばれる。よかったよかった。ハッピーエンドだ。
 互いに幸せになろうではないか。
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