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第一章

4 契約結婚の理由

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◇◇◇




 その夜、公爵邸が騒がしくなったことを、端の小屋で眠っていたユリアンは知る由もなかった。 
 ロドリックが帰宅したためだと知ったのは翌日の朝だ。ユリアンはメイドに起こされて、寝惚け眼のまま支度を整え、本邸へ向かった。
 案内された部屋にはロドリックとの朝食の場が用意されていた。半分眠りながら待っていると、やがて、エデル公爵騎士団の戦闘服に身を包んだ彼がやってきた。
「今日の午後、バルシャ共和国へ向かう」
「はい」
 抑揚のないロドリックの発言に、ユリアンもまた単調に返した。
 ロドリックは朝から美しくて、大きい男だった。戦場では気を使うこともできないはずの黒髪は、サロンで丁寧に扱われたようにサラッとして煌めいている。
 傷一つない肌も、特別手入れはしていないはずなのに妙に綺麗だ。もしもアルノーがロドリックを見れば、一目惚れでもするんじゃないかと思うほどハンサムな男だった。
 だが、何だろう。初めて会った時と同じ疲弊したような印象を抱かせる。彼もまた寝不足なのだろうか。
 ユリアンの内心など露知らず、ロドリックは食事を進めながら「帰還がいつになるかは決まっていない」と語る。ユリアンは凄まじい眠気に耐えつつ、わざわざ朝食の場を用意するとは生真面目な男だなと考える。
 ロドリック・エデル公爵は王都で開かれる議会や行事への出席を免除されている。王国内で私有騎士団を保有するのはエデル公爵家のみで、騎士団はルーストランド王国と他国との戦争に多くの貢献を果たしている。
 騎士団の団長であるロドリックは国を留守にしていることも多い。そのため、議会には弟のテオバルトが出席しているようだ。
 ロドリックが王国内屈指の軍事力を誇る騎士団を保有するために、本来上位貴族家が参加する王室の行事は特例として欠席を赦されている。これらの事情は、結婚を申し込まれてからの一週間で、エデル公爵家について叩き込まれたのでユリアンも理解している。
 国への軍事的貢献があるとはいえ従来の慣習を堂々と無視しているのがロドリックだ。そんな彼が妻と食事を共にするという細やかな慣習に従うとは思わなかった。
「俺がいない間に、エデル公爵を危機に晒すようなことが起きないよう行動には十分気をつけろ」
「はい」
 ユリアン・マルトリッツが魔性の遊び人であることに関して触れているのだ。もとよりパーティとやらに出掛ける気は毛頭ない。ユリアンは自信をもって「ご心配なく」と頷く。
 ユリアンは、彼の忠告より食事に関心をもっていた。
 眼前に広がる朝食は、この数日間口にしていた食事よりも数百倍素晴らしいものだった。どれもこれも暖かく、新鮮で、柔らかい。
 いつも食べているパンが本当にただの岩だったのではないかと疑うほどに、今朝のパンはホクホクと熱をもって中はふんわりとしている。ジャムは、数年ぶりに口にした。はしたなくスプーンを舐めてしまいたくなるほど甘くて、涙が出るかと思った。
 サラダも取りたての野菜を使ったかのように新鮮で、今日は豚肉も用意されている。肉だ。自分で獲った鶏肉ではなく、豚肉のステーキ。
 ミルクはよく冷えているし、紅茶も信じられないほど美味だった。主人と食事を取るとこんなに素晴らしい朝食をいただくことができるのか。
 ありがとうロドリック。さらばロドリック。バルシャ共和国でもお元気で。
 まだ目の前に夫はいるが、前もって心の中で別れの言葉を告げる。尤も別れを言いたかったのはこの食事たちに対してだ。ロドリックがいないなら、こんなに美味な朝食にはありつけない。
 ……マルクスさん。彼は今、何を食べているのかな。
 ふとした瞬間に考えるのは彼のことばかり。
 温かい紅茶を口に含むと、気分がとろんとして、勝手に声が漏れていた。
「マル……」
「まる?」
 コーヒーカップをテーブルに置いたロドリックが、訝しげにこちらを見遣る。
 眠気と満腹感で思考が蕩けていたようだ。とはいえユリアンも、威圧的なロドリックの睨みが恐ろしいわけでもないので、大して動揺する気にもなれずスッと首を横に振るだけにした。
「いえ、何でもありません」
「……」
 夫は妻に興味がないのか『マル』について言及する気はなさそうだった。
 それよりも気になるのが、ユリアンの態度らしい。
「何をぼうっとしている」
「はい?」
 ユリアンはミルクを飲みながら上目遣いでロドリックを見つめる。
 彼は無表情で言った。
「この間からそうだが、お前はやけにぼさっとしているな」
 ぼさっと?
 今、どうやら苦言を吐かれている。ロドリックからは何も考えていないように見えるようで、ユリアンの態度が気に食わないらしい。
 シャキッとしろってことなんだろうな。まぁ、善処はしたいけれど、どうせ数時間後にはロドリックもいなくなる。
「努力します」
「努力? 何をだ」
 ロドリックの眉間の皺は、名刺一枚は挟めそうなほど深くなっている。
 その鋭い金色の瞳を眺めながら、ユリアンは「ぼさっとした態度を直せるよう努力します」と答える。
「……」
「頑張ります」
 語尾が伸びないよう気をつける。流石に「頑張りまーす」では騎士団長の誇り高い剣で一斬りだ。
「……」
 かなりの沈黙の後、先にロドリックが席を立った。無言で出ていくかと思ったが、なぜかこちらを一瞥し、そして扉付近でも振り返り、ユリアンをじっと見つめてくる。
 なんだろう? よく分からないがひとまず微笑んでおこう。
 目元を緩めて小さく微笑みを浮かべてみる。一応「お気をつけて」と告げると、
「……おとなしくしていろよ」
 ロドリックは牽制のため厳しい顔つきで言い残し、ようやく部屋を後にした。
 主人がいなくなるとメイド長がやってくる。何か言われる前に先にユリアンも腰を上げ、ロドリックが去った方とは反対側へ廊下を歩き出した。
 夫の見送りには行かなくていいだろう。おとなしくしていろ、と言われたし。満腹になった腹を撫でながら、ユリアンは速やかに小屋へ向かった。
「……バルシャ共和国か……」
 ロドリックはかの国へ向かう。そこは戦地ではない。
 このルーストランド王国は百年も昔から断続的に、隣国のベルマニア王国と戦争を繰り返している。
 広大な面積を誇るルーストランド王国の南側に、左からルロー共和国、ベルマニア王国、バルシャ共和国と国が連なっており、ルーストランド王国はそれらの国と接しているのだ。
 その三国との国境を守るのがエデル公爵家だ。ルーストランド王国の南側の領地の殆どはエデル公爵家のものである。
 ルロー共和国は昔から我が国と友好的な関係を結んでいるが、ベルマニアとは戦争を繰り返し、そしてバルシャ共和国はベルマニアと手を組むのではないかという噂がまことしやかに流れている。
 マルトリッツ男爵家もまた、バルシャ共和国との国境に一部面していた。結局、ユリアンがマルトリッツを出るまでバルシャ共和国の動きは見られなかったが、ロドリックはその国を警戒しているのだろう。
 具体的にロドリックが何のためにバルシャ共和国へ向かったのかは分からない。ユリアンはあくまで、埃被る妻のため、それを知る資格がない。
 でも、今朝の話を聞いて一部納得した。
 やはりロドリックが結婚相手にマルトリッツを選んだのはバルシャ共和国が関係しているようだ。
 ロドリックがなぜ契約結婚を期限付きで結んだのか。その理由は、ロドリックが離縁後に結婚したい娘がいるか、戦争に関係するものかと予想していたが、どうやら後者らしい。
 大変苦労をする御方だな。大丈夫、僕はちゃんと契約通り過ごします。
 ――と、思っていたのだけれど。
「どうしてご主人様はユリアン・マルトリッツなんかと……」
「シアナお嬢様のご病気が治るまでの辛抱よ。お嬢様が元気になられたら、きっとユリアン様とは離縁するに決まっているわ」
 前者だったようだ。
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