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第一章

2 奥様のための離れをご用意しました

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◇◇◇




 たった数分の会話ではあったが、ロドリックがアルファ性であることは確信できた。
 正直、出会う前から分かっていた。事前にロドリック・エデルについては調べていたし、彼がアルファ性だということも把握済み。やはりオメガ性だからユリアン・マルトリッツが選ばれた、ということなのかもしれないと考えてみるも真意は掴めない。
 この世界には男女性の他に、ベータ性、アルファ性、オメガ性という第二性が存在している。殆どの人間はベータ性だが、他二つが希少かつかなり複雑な人種だった。
 アルファ性は生物的に優位な存在で、身体能力が高く、知能も優れている。何事にも有利な最上位的存在なので、希少とはいえ貴族や王族には多い。
 オメガ性は真逆の、支配階級の最下位に位置する存在だ。貴族に生まれたオメガ性の良い例がユリアン自身だった。家族からは蔑まれ、使用人にも見下される。一方で弟は自分がオメガ性のユリアンだと偽り、男達を誑かしていた。
 そう、オメガ性なら男性でも子を孕むことができる。そして一般的にオメガ性は美しいという通説がある。人形のような存在がオメガ性で、つまりは見下されているのだ。美しいと持て囃す一方で、人々は躊躇いなく性欲を向ける。
 いいようにされる人形なのだ。けれど僕たちは人間だった。
 オメガ性は特別な生物で、ヒートという発情期間がある。この時オメガ性が発するフェロモンはアルファ性を誘惑する。フェロモンに充てられたアルファ性は、時にラットというアルファ特有の発情期に入り、オメガ性を性的に襲う。
 オメガがアルファにうなじを噛まれるとフェロモンが変質したり、ヒートそのものが治ることもあるという。これが番になるということだ。自分のフェロモンが番のアルファにしか効かないので、強姦のリスクを軽減させるなどメリットが多い。一般的に愛し合うもの達が番になるが、事故的に番になることも多々あるらしい。
 防止のためにオメガ性はうなじを守るチョーカーをつけて、ヒートの抑制剤を飲み、緊急避妊薬も常備する。アルファ性はオメガのヒートに当たらないよう気をつけるだけだ。
 ユリアンもまた、ロドリックがアルファだと察していたのでチョーカーをつけて彼と会った。結婚契約は二年で、満了すれば無縁となる関係である。わざわざ番になることはないだろう。
 アルファは複数のオメガを番にできるけれど、オメガは番を一人しか選べない。下手に適当な人間にうなじを噛まれたら、その後は地獄だ。番成立後のヒートをアルファのケア無しで過ごすのは、かなりの苦痛と聞いている。
 つまり、ユリアンはロドリックにうなじを噛まれてはならない。事故が起きぬよう気を引き締めなければいけないのだ。
 あと二年の間は、努力しなければ。
 ……それはそうと、なぜ二年なのだろう?
 ユリアンは冷めた朝食をいただきながら首を傾けた。
 与えられた部屋は本邸の端っこにある。眼前には冷たく硬い食事が広がっている。
 昨晩、控えに渡された誓約書を改めて読み返したが、二年の理由はどこにも書いていなかった。当然ではあるがユリアンはロドリックについて噂程度しか知らないので、その内情を察することはできない。
 ただ離縁したいのならば期限など設けなければいい。それにも関わらず期間を設定したのはのっぴきならない訳があるはずだ。
 たとえば、二年後にロドリックが誰かと再婚したいだとか。それとも彼が出兵している戦争に関係しているのか。
 二年、か。長いのか短いのか分からないな。ユリアンは硬いパンを少しでも柔らかくするため冷めたスープに浸して、口へ運ぶ。
「……美味しい」
 用意された朝食は、冷たいポタージュスープと黒いパンが一つ。それとしなったサラダに、硬い水だった。
 公爵邸にやってきて五日が経っている。王国随一の資産と軍事力を誇るエデル公爵の夫人が頂くには粗末な朝食だとユリアンも理解しているが、それでもこれらはユリアンにとって立派な料理だった。
 実家であるマルトリッツ男爵邸にいた頃はこれよりも何十倍も酷い食事をしていた。父と義母、そして義弟に虐げられていたので、使用人たちからもなぶられていたのだ。
 ユリアンが暮らしていたのは物置小屋だった。用意されるのは夕飯分のパンと水だけだったので、その他は近くの川や森で適当に食べ物を獲っていた。
 最も、男爵邸にやってきた当初は、パンすらも恵みに感じていたのだ。
 働いていないのに食料を得られることに天地がひっくり返るような衝撃を受けたのだ。
「ごちそうさまでした」
「……」
 全て完食して呟くと、扉の近くに立っていたメイドが無言でやってくる。
 黙々と食器を片付けて、最後に鋭い視線をこちらに向けてからメイドは部屋を出て行った。一応「ありがとう」と声をかけてみるが返事はない。ユリアンは未だに邸宅の使用人たちから声をかけられたことがない。
 無理もない。主人に嫁いできたのが悪名高いあのユリアン・マルトリッツなのだから。
 男であるにも関わらず男たちを誑かす魔性の令息。誇り高い自分たちの主人が選んだ妻が、最低なユリアンなのだから、使用人たちも困惑しているに違いない。
 見たところロドリックへの失望というより、主人をたらし込もうとするユリアンへの警戒と軽蔑の感情が大きいみたいだった。そんなに蔑まなくても、ロドリックの心を得ようなど微塵も考えていないのに。
 ユリアンはとことこと窓の近くへやってくる。部屋から出ることを許可されていないし、さして自由を求めようとは思わないので、この四日間はおとなしく部屋に引きこもっている。自由は、二年後に得るものだ。だからこの二年間でどんな扱いをされようと構わない。
「ロドリック様は帰ってくるのだろうか」
 肝心の主人の方は、早速邸宅を留守にしている。
 契約結婚の誓約書にサインをして、それをメイドに手渡したのが四日前だ。おそらく誓約書を受け取ったであろうロドリックはその足で公爵邸を後にした。
 あれから四日間帰ってこない。どこで何をしているのか少し気になるが、尋ねようにも使用人たちが目を合わせてくれない。
 彼らの視界に割り入ってまで聞くことではないな、どちらにせよやることは変わらない。僕はおとなしくしていなければならないのだ。そう思ってユリアンはロドリックのロの字も口にしていない。
 邸宅の仕事も、ロドリックの弟が取り組んでいるらしい。ユリアンはお飾りの妻……いや、飾られてもいない埃を被る妻なのだ。
「でも、そろそろ外に出たいかも」
 ユリアンは窓の外の庭を眺めながら一つ呟いた。
 この世は夏。草花が目一杯に太陽へ伸びる素晴らしい季節だ。
 ユリアンはふと視線を寝室へ向ける。勝手に唇から漏れていた。
「マルクスさん……」
 息を吐いて、唇を噛み締める。
 別に、邸宅の中を彷徨きたいわけではない。
 とにかく外に……あの庭に出たいのだ。
 公爵邸は王宮の如く広々としていて、その庭も一周回るのに一日は費やすほどの広さだ。奥の方には森と小川が流れている。それらも全て邸宅内に存在している。
 庭も素敵だけれど、あの鬱蒼とした森もかなり魅力的だ。きっとあそこにはあるはず。ユリアンはホッと安堵の息を吐きながら、反対側に視線を遣った。
 ユリアンはロドリックの部屋がある棟とは別の屋敷に位置していた。どうやらロドリックの部屋は、公爵邸が保有する騎士団の練習場に近いようだ。
 ロドリックによって与えられたこの部屋は二階の端にあって、やろうと思えば窓から降りれそうな高さにある。
 ……うーん。やるか? やってやるか?
 ただ時が過ぎるのを待っていてはいずれ死活問題になる。だったらもう、やってやろう。
 ちょうどメイドも出て行ったことだし、暫くは誰もやってこないはず。ユリアンは早速窓を開いて、地面までの距離を確認する。
 高いな。だが飛び降りても死にはしないだろう。視線を横にやると、ちょうど木の枝がこちらに伸びている。木登りは得意だ。やったことないけど。
 ユリアンは寝室に戻りシーツを引っこ抜く。ロープ代わりにしようと窓際まで持ち帰ってきた時だった。
「――奥様失礼致します」
「えっ」
 失礼するの?
 慌ててシーツを寝室の中へ放り投げる。まだユリアンは何も答えていないのにメイド長は部屋に踏み入れてきた。
 咄嗟に笑みを顔面に貼り付けるが、メイド長はそれが気に食わないのか、それともユリアンから滲み出る焦りの挙動を不気味に思ったのか、顔を歪める。
「そこで何をしていらっしゃるのですか」
「いや、何も……」
「そうですか。奥様、お部屋の移動をすることになりました」
 ユリアンはきょとんと目を瞬かせて、「移動?」と首を傾げる。
 メイド長は淡々とした口調で告げた。
「えぇ、奥様のための離れをご用意しました」
「離れ」
「ご支度の準備を」
 メイド長の後ろには若いメイドが控えているが、まるでメイド長をそのまま若返らせたかのようにそっくりな厳しい顔つきをしていた。
 あくまで支度を手伝う気はないらしい。ユリアンは心の中で苦笑し、「少し待っていてくれ」と寝室へ引っ込んだ。
 放り込んだシーツを一応戻し、部屋に備え付けられていた衣服をまとめる。他に荷物は、ヒートのための薬と、避妊薬、それから『箱』だけだ。
 薬をポケットに突っ込んで、衣服を布に包んで箱の上に乗せる。ユリアンは、
「行こうか」
 と軽く呟き、箱を持ちあげた。
 それから移動したのは、ユリアンにとって思いも寄らなかった素晴らしい『離れ』であった。
「旦那様がお帰りになるまでこちらでお過ごしください」
「……」
「奥様、聞いておられるのですか」
「あ、はい」
 しまった。ついつい見惚れてしまった。
 案内された離れは公爵邸の端っこに位置する小屋だった。
 元は物置小屋か何かなのだろう。それでも二階建ての素晴らしい小屋だ。屋根が所々外れているが修復すれば問題ない。ぼうっと立ち尽くしたまま見上げていると、メイド長とメイドは言葉もなくその場を離れていった。
 ゆっくりと小屋に踏み入れる。「お邪魔します」と呟いてみたが返ってくる声はない。代わりにハサミ虫が足元を通り過ぎていった。すごい。ここにはハサミ虫がいるのか。
 ユリアンは深く息を吸ってみた。土の匂いが胸にむせかえる。ユリアンも彼女たちの意図することは分かる。
 碌でもない魔性の男を夫人とは認めていなくて、いびるつもりでこの荒屋へ追いやったのだろう。邸宅にユリアンが存在することが気に食わないのだ。
 しかし残念だがここはユリアンの求めていた場所だ。
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