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第七章

43 なぁ、ロイ

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 ——なぁ。
 おかしいと思わなかったか?
 ……ロイ。
 夜空は星で溢れかえっている。夕陽の消え去った静かな夜だ。
 ロイの城は平和で、ロイの微かな寝息だけが聞こえている。ファルンへ戻ってきてから、もう三日が経った。ロイはこの三日間、俺をひとときたりとも離さない。いつになったら軍部の仕事へ戻るのか。呆れてしまうけれど、俺も、ロイと一秒だって離れたくなかった。
 三日月の光が眠るロイの頬を照らしている。
 でも、ロイ。
 おかしいと思わなかったのか?
 お前は、己が岩渓軍に襲われると分かっていてじっとしている男ではない。
 なぁ、気付かなかったのか?
 俺だって二度イージェンを使っている。けれど記憶は一つも消えていない。
 覚えてる?
 ……お前はあの時、「リネ」と呼んだ。
 もう十年も昔の話。拷問を受けたロイは、一度だけ目覚めて、俺を見上げた。
 それは心臓も凍るほどの冷たい眼差しだった。ロイは小さく、
『リネ』
 と呼んだのだ。
 俺は覚えているよ。あの時のロイの、俺に何の感情ももたないみたいな真っ暗な目を。
 でもロイは、覚えていないよな。
 ……それでいい。けれどお前は眠っているから、この夜だけ。
 




 
 ——本当の話をしよう。


















【第七章 Igen】
(二十三年前 十三歳)





「ほ、んとうのはなし?」
「そうだ」
 窓の外には歓楽街の夜景が広がっている。館主である『ケイ様』は窓のカーテンを閉め切り、忙しなく手を動かしながら告げた。
「イージェンの本当の効果だよ」
 ケイ様は低く吐き捨てるようにして、棚の引き出しに何かまじないを唱えている。
 俺は、なぜケイ様がそれほど焦っているのか分からない。ケイ様はいつだって冷静沈着な性格で、俺を落ち着かせる立場の方だった。
 ケイ様は引き出しから麻袋を取り出した。とても汚らしい袋に見える。
 俺の元へ戻ってくると、目の前の机に指で線を引いた。
「イージェンはIGENと書くんだ」
 俺は、狼狽えながらも答える。
「読めません」
「読めなくてもいい。ラティ、覚えておけ」
 ラティ。これは俺の二つ目の名前だ。
 子供の頃は『アカ』と呼ばれていた。琥珀色のこの瞳が、赤く見えていたからだ。七歳の時にエストゥナのこの娼館に売られてきてからは、『ラティ』と呼ばれるようになった。
「イージェンには『再び』の意味がある。つまり、二度、だ」
「二度……」
 イージェンはケイ様たちが固執する特別な魔法のことだ。効果は感情消去。娼館の遊女たちはよく、『恋愛感情抹消魔法』なんて呼んでいた。
 俺もあまり理解していないけれど、それが何か重要な魔法であることは察している。
 ケイ様は、俺の両手を握って、顔を寄せた。
「ラティ。しっかり聞くんだ。俺の伝えたことを全て覚えて、お前は情報を伝えなければならない」
「……はい」
 鬼気迫る物言いに芯が冷える。俺は表情を固くして、強く頷いた。
 ケイ様は首を引き、声を潜める。
「イージェンには二つの効果がある」
「再び、ですね。一つは感情消去ですか」
「そうだ。一度かけると、感情が消える。二度かければ記憶が消えるんだ」
「えっ……」
 誰にも明かすな。
 ケイ様は恐ろしいほど強い眼差しで俺を見つめる。
 いいか。イージェンは『恋愛感情抹消魔法』なんてものではない。
 これが本当のイージェンだ。
「イージェンの感情消去に必要なのは、このユコーンという花だ」
 ケイ様は言って、俺に小さな麻袋を押し付けてくる。俺は茫然と受け取る他ない。
「ユコーンの花の液を使う。その量に応じて効果が異なる。一滴で四年近く、小瓶の全てを飲めば永遠に忘れるか、死ぬまで昏睡状態に陥る」
「死ぬまで……」
「ユコーンがこれから何に使われるか、ラティ、お前はいつか知ることになるだろう」
 ケイ様は真っ赤な目で俺を見ている。
 尋常でない雰囲気に恐れを成しながら、俺は、落とすように呟いた。
「どうして、俺なんですか」
「皆を救いたいだろう?」
「……っ」
 俺は、十三歳だった。
 此処はエストゥナ国の歓楽街。暖かい海に面する国で、各国から大勢のお客様がこの遊郭に訪れる。
 エストゥナは多くの難民が集まっている多国籍国家だ。此処にいるのは皆、細やかに続く内戦や国同士の争いで家族や故郷を失った者たちだ。
 俺もまた、どこかの国から売られてきた。出身国はいまだに分からない。
 見目を買われて、男ではあるが用心棒ではなく娼夫として身を売っている。豪勢な金の使い方をする客とは違って、俺たちは皆貧しく、互いを助け合って生きていた。
 一方で俺は、別の役目も担っていた。
 ケイ様は瞳孔の開いた目で声を絞り出した。
「俺はじきに殺される」
「え……」
 ケイ様は決して冗談など言わない方だ。
 俺は絶句し、ケイ様は続けた。
「お前はこれを持ってファルンのイクセルの元へ向かえ」
「ファ、」
 声が途中で途切れる。俺は目を瞠って、
「ファルン?」
 と鸚鵡返しに呟いた。
 よりにもよって、ファルン王国?
 ケイ様はじっと俺を見つめている。この方は、本気だった。
 ……ファルン王国はトゥーヤの長年の宿敵だ。また、俺はトゥーヤ国の岩渓軍がファルンへの侵攻を企んでいるのを知っていた。この花の種は、岩渓軍が国際中立機関の魔法使いを殺して手に入れたものらしい。
 ケイ様が更に岩渓軍から花の種を盗んで、今、俺に託した。
「ファルンはこれを使って、きっと世界に平和を齎す」
「なんでファルンなんですか」
 俺は荒ぶりそうになる息を押さえて、必死に問い質した。
「なんで、ファルン。だって俺たちは……」
 言いかけて口を噤む。俺は唇を噛み締めた。
 エストゥナ国のこの娼館で娼夫として働く俺と、館主であるケイ様。裏の華々しい世界で生きているように見えるが、これは俺たちの表の姿だ。
 本当の俺たちは、各国から訪れるお客様から情報を得て、トゥーヤ国の岩渓軍に渡す役割を担っている。
 俺をエストゥナに売ったのは岩渓軍だ。俺は諜報員としてエストゥナに侵入し、同じく岩渓軍側の工作員であるケイ様のもとで働いている。
 しかしながら岩渓軍は俺にとって恐怖の存在でしかない。仲間だなんて思ったことは、一度もない。岩渓軍に所属する身ではあるが、いつ切り捨てられるかと不安な毎日を過ごしている。
 裏切れば殺されるから、仕事で得た情報を逆らうことなく渡し続けていた。
 だから、岩渓軍がユコーンの花を所持していることも知っている。
 それをケイ様が盗んだなんて。
 ケイ様は一度も瞬きをせずに、充血した目で俺を見つめながら言った。
「俺は国際中立機関の魔法使いだ」
「は……?」
 国際中立機関……?
 その存在は勿論知っている。けれど、理解が追いつかない。
 啞然とする俺に、彼は告げた。
「俺は国中機関の諜報員として、岩渓軍に入り込み、ここで娼館を持っていたんだよ」
 そ、んな。
 言葉も出ない。
「他にも仲間がいる。お前の他にも逃す仲間がいるけれど、他の奴らは俺の魔力に耐えられない」
「……」
「ファルンまで飛ばせるのはお前だけだ」
「……て、」
 俺は一度口内に溜まった唾液を飲み込み、掠れる声で訊ねた。
「転移魔術を使えるのですか?」
「ああ」
「そんな……」
「お前は、岩渓軍を裏切って、この花の種をイクセル魔法使いへ届けろ」
「……」
「イクセル魔法使いは知っているよな?」
「大樹城の、お方ですよね」
「そうだ。すぐに向かえ」
「け、ケイ様が、ケイ様は、ファルンへ向かわないのですか」
 ケイ様は大きく、首を横に振った。
「俺にはまだ守らなければならない奴らがいる」
「……」
「向こうにはイクセル様と、俺の親友であるジェイという男がいるはずだ。そいつらとコンタクトを取れ。このユコーンは、イクセル大樹城へ運ぶんだ。いいか、ラティ。イージェンの真の能力をちゃんと伝えろ」
 自分がとんでもない役割を任されようとしていることに気付き、奥歯が震えてガチガチと頭の中に響いている。ケイ様は小声で「ラティ!」と叫んだ。
 俺は壊れたおもちゃみたいに、首を上下させた。
「に、二度。二度の効果がある。い、いち、一度目は感情消去。二度目は、記憶の消去……なんでも、消すことができる」
「いや、何でもではない」
 俺は顔を上げた。
「消す対象は選べないんだ」
「……じゃあ、何が消えるんですか」
 ケイ様は目を細める。
 そしてどこか、恍惚とした表情で告げた。
「その者が最も執着する感情だよ」
 俺は、うつろに繰り返した。
「最も……?」
「そうだ、一番の愛」
 イージェンは感情を消す魔法。しかしその『感情』は、選べるものではなくて、対象が最も執着する強い感情だ。
 つまりは愛……。
 なぜかケイ様は、ひどく優しい微笑みを浮かべていた。
「これはいずれ戦争に使われるだろう。戦争に関わる奴らが最も執着しているのは領土拡大や殺戮、勝利だからな。それらを消すために、これがある」
「……二度目の、記憶消去も、最も強い感情に関係する記憶ですか?」
「ああ」
 一呼吸おき、ケイ様は囁いた。
「だが、それは蘇生の一つでしかない」
「え?」
 俺は一度目を瞬かせて、ケイ様を凝視する。
 ケイ様は語った。
 イージェンの、本当の話だ。
「ユコーンを多く飲んで昏睡状態に陥った者を唯一起こす方法が、記憶消去というだけだ。イージェンを続けて二度かけたところで、記憶は無くならない」
「……」
「イージェンをかけられて永遠続く眠りについてしまった者を起こすために、二度目のイージェンをかける。しかしその時、目覚めた者は感情どころか、それに関わる記憶を失ってしまう」
 あまりの混乱で息が荒くなる。緊迫した状況と、秘密の情報に、パニックに陥っていた。
 しかし困惑して終わってはダメだ。
「……感情消去のためユコーンの花の液を大量に摂取した者は、未来永劫その感情を失うか、永遠の眠りについてしまう。その眠りを解くための唯一の手段が、もう一度イージェンをかけること。目覚めたものは記憶を失っている……ということですか」
「あぁ、そうだ」
 ケイ様は悲しいほどに、誇らしげな笑みを浮かべた。
「さすがラティだな」
「どうして眠り続けるのでしょうか」
「それは、その者にとって消された感情が命より大切だからだ」
 ケイ様は、まるで夢見るように語った。
「取り戻すために眠る。しかし取り戻せないから、目が覚めることはない」
 その姿が、『永遠の眠り』なのだ。
「起こすためには、二度目のイージェンを使う。これにはユコーンを必要としない。まじないを唱えればいいだけ……しかし、目覚めたものは、その感情に係る記憶の全てを失う」
 ケイ様は言い終えると、息を吐いた。どこか気の抜けたような、草臥れたような……全ての情報を伝え終えて、まるで自分の役割を果たし急激に老いぼれたみたいな表情をした。
「俺が知っている情報はこれが全て。イージェンにはまだ解明されていないことがあるが、これが最大の情報だ。覚えたな?」
「……はい」
「ラティ。俺はお前をこれからファルンへ飛ばす。ユコーンをイクセル魔法使い様に届けるんだ」
 俺は歯を食いしばり、恐る恐る頷いた。
 その瞬間、ケイ様が俺の頭に手を置く。強く押し付けられて、俺はグッと俯いた。
 頭のてっぺんに、ケイ様の声が落ちてくる。
「イクセル様に伝えてくれ。ラティに転移魔法を教えてやってくださいと」
 それが彼の遺言だった。
 魔法が頭の上から広がり、俺を覆っていく。
 最後の声が、溶けていった。
「さよなら、ラティ」
 ——気付けば、空は青かった。
 一秒前まで夜だったはずなのに、此処は真昼間だ。
 夢なのでは? そう思ったけれど、目の前に巨大な大木が広がっているのに気付き、
(ああ、此処はファルンなんだ)
 と吐息を吐いた。
 俺は震える足で立ち上がり、大樹に近づく。するとどこからか、うさぎがやってきた。彼女は「イクセル様へのお届け物ですか?」と問いかけてくる。当たり前のように動物が話しかけてくる異様さに、思わず笑みをこぼして、俺は花の種と伝言を託した。
 すぐにその場を去る。『イクセル魔法使い』に会おうなんて、思えない。
 だって俺はもう、ラティじゃない。
 岩渓軍の諜報員としてのラティは、ケイ様に、『さよなら、ラティ』と告げられた時に死んだのだ。
 俺はその場を逃げ去った。体を支配する震えは、いつまでもいつまでも終わらなかった。
 メルス遊郭街へ辿り着いた俺は、『リネ』に名前を変えて仕事を始めた。
 娼館は俺にとって最も安全な地である。ここで隠れて過ごすと決めた。俺はもう、イクセルという見たことのない魔法使いにも、誰にも、関わりたくなかった。
 大丈夫。アカもラティも死んだんだ。もう此処にはリネしかいない。
 大丈夫。メルスの娼館の皆は優しかった。俺をただの難民の孤児だと思っている。だから俺は、このまま哀れな子供として生きて、成長して、普通の男になる。
 メルスから出られなくてもいい。過酷な仕事だとしても、命を狙われないで済む。
「だから、大丈夫……」
 俺はリネだ。他の何者でもない。
 こうして生きていけば、いつか。
 いつか、俺にも本当の心で愛し合える誰かに出会えるかもしれない。
 そんな途方もない夢を、見ていた。










 ——そしてロイ。お前に出会った。






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