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第六章

40 覚めない夢を

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【第六章】
(五年後)











 まとめた荷物は鞄一つで収まった。今の俺に必要なものなどこれくらいしか無い。
 少し切ないけれど、悲しくはなかった。思い出すのは、もう十年も前の生活だ。
 ロイと暮らしていた頃の俺は、自分でも恥ずかしくなるほど『沢山』を持っていた。
 ロイが俺にプレゼントしたものは一つも手放したくなかったし、ロイと共に旅した先で手に入れたものや、ロイとの生活のため購入したもの、何もかもが大切で、屋敷の中の俺の部屋はごちゃごちゃと物で溢れていた。
 中でも思い出を封じ込めた水晶は、膨大な数になっていた。
 思い返すと、微笑みが漏れる。
 すると、体に暖かな重みが増した。
「なんで笑ってるのー?」
「ん?」
 隣の部屋に住む一家の男児、アランだ。
 暖炉の前であぐらをかく俺に抱きついたアランは、あっという間に背中に登ってくる。あまりの元気に笑いながら「アラン、重いよ」と言うと、後から姉のエミリが慌ててやってくる。
「アラン! シモンさんが重いって!」
「おもくないーっ」
 エミリはアランを引き剥がすと腕に抱えた。
 此処は子供達がよく遊んでいる広場だ。早朝すぎてまだ他には誰もいないが、数刻経てば子供達の笑い声で満ち満ちる。
 エミリは俺と同じように暖炉の前までやってきて腰を下ろすと、困ったように眉を下げた。
「ごめんねシモンさん。アラン、元気が良すぎて」
 彼女とアランはかなり歳が離れている。そのせいか、エミリはかなりアランを可愛がっており、今もぎゅうっと抱きしめて離さなかった。
 暴れていたアランも抱きしめられたことでおとなしくなる。俺はクスッと笑いながら、「元気はいいことだよ」と言った。
 エミリの一つに纏められた赤髪をアランが引っ張った。エミリは「コラ」と軽く叱ってから、俺の荷物へ目を向ける。
「もう村を出るの?」
 それから寂しそうに潤んだ目で俺――此処では『シモン』を見上げた。
 此処は、大陸でも北の果てに位置する国のある村だ。年がら年中雪が降っているので、村の人々は一つの建物の中で暮らしている。
 一つの町ほどもある巨大な船だった。かつては海のように雄大な湖が近くに存在していたらしいが、湖は凍り、雪が降り積もり、どこにあるかはもう分からない。
 海も湖も渡ることなく雪に埋もれる船であるが、こうして皆が暮らせるのは村長一族の力が関係している。
 村長は長寿の魔法使いで、船全体をその膨大な魔法の力で温めている。
 凍った窓の向こうは常に吹雪で荒れているが、船の中の暮らしは快適だ。
 俺はこの船で五年間を過ごした。船の村を教えてくれたのはジェイ様だ。
 村長は、俺のことを亡くなったジェイ様から聞いていたようで、快く迎え入れてくれた。南境戦争が始まってからジェイ様も此処で一年ほど暮らしていたらしいが、彼はやがてファルンへ戻ったのだ。
 俺はその時にはもう、ロイの建ててくれた秘密の屋敷で暮らしていた。当時の俺の最大の懸念は弟分のオーラで、彼も俺のせいで危険に晒すのではと不安でならなかった。
 ジェイ様はオーラの身請け人を買って出てくれた。メルス街からオーラを引き取り、匿ってくれたのだ。
 そして俺がファルンから亡命したその後、オーラはロイの使用人として生活し始め、ジェイ様は殺された。
 もしもジェイ様がファルンに戻らず、この永劫の冬に閉じ込められた船の中にいれば、彼は生きていたかもしれない。
 何が起きるかは分からない。
 俺が五年を此処で過ごせたのも奇跡なのだろう。
 この平和な村で暮らせたのだ。
 春を迎えない永遠の冬に住む村人たちだが、彼らの心には春が満ちている。
 エミリはアランを抱きかかえて、気弱に微笑んだ。
「そっか。シモンさんがいなくなっちゃうなんて、寂しいな」
「うん」
「シモン、どこ行くのー?」
「ちょっとな」
 もうすぐ、列車のやってくる頃だ。最果ての地ではあるが、世界とは何とも不思議なもので、氷の上だろうが海の中だろうが、何処へでも人々を運ぶ列車がある。
 その列車が何処まで続いているかは、誰も把握していない。一説では死者の国まで運ぶと聞くが、終点に辿り着いた者はこちらの世界に帰ってこないので、誰も真偽を見ていないのだ。
 そしてまた走ってきては、別の街へと駆けていく。不思議な列車が、この船にもやってくる。
 俺は腕時計を確認し、「野暮用があるんだ」と立ち上がった。
「もう旅に向かうんですね」
「あぁ」
「乗り場まで送って行きます」
 彼女の言う『乗り場』とは、列車のやってくる駅のことではなく、この船の出入り口を意味する。
 年百年も前に本来の役目から離れた船であるのに、かつてこの船が湖を渡っていた頃の名残が残っているのだ。
「ありがとう」
 頷くと、エミリはにっこり破顔した。アランがすかさず俺の腕に抱きついてくる。
 三人で乗り場まで向かっている最中も、他の住人が声をかけてくる。俺を旅人だと思っている彼らは、それぞれの笑顔で「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
 船の出入り口はこうして存在するけれど、普通の村人では外に出ることができない。俺のように魔法使いでもなければ、吹雪に巻きこまれてたちまち凍死してしまうのだ。
 乗り場が見えてきた。門の開け閉めをする魔法使いの村人が、俺を待ち構えている。
 エミリはアランを俺から離すように抱き上げて、若い眼差しで俺を見つめた。
「シモンさんのお話はいつも楽しかった」
 アランは朝からはしゃぎすぎて疲れたのか、ぷっくりとした頬を赤らめて姉の腕の中で眠り始めている。
 エミリはアランを起こさないよう、優しい声で告げた。
「外の世界がそれほど無限とは思わなかったの。私もいつか、春の街を旅してみるね」
「うん」
「今まで、ありがとうございました」
 エミリが頭を下げる。俺もまた、「俺の方こそありがとう」と深く頭を下げた。
 ありがとう。
 心から、このあたたかな街と人々に感謝する。
 束の間の平和を、俺に与えてくれたのだ。
 俺は息を深く吐き、顔を上げた。エミリは目に涙を浮かべながらも、俺の旅立ちを笑顔で見つめてくれた。
 踵を返し、門番の村人へ合図を送る。門が鈍く重い音を立てながら、開いた。
 吹雪が俺を襲う。門番はその吹雪が建物内へ侵入しないよう防御魔法を発動させる。
 振り向くまでもない。俺を覆う世界は途端に真っ白に染まっている。既にエミリとアランの姿は見えなかった。
 さぁ、行こう。
 ——そうして俺は、五年間を過ごした雪国を後にした。
 最後にファルンを去ってから五年が経っているのだ。
 駅まで辿り着くと、ちょうど列車がやってきたところだった。金を支払って、借りた個室へ向かう。これほど過酷な環境だと転移魔法を使うのにも体力がいるので、南部の街までこの寝台列車を使うことにしていた。
 五年前の俺だったら転移魔法を使えたかもしれないが、最近は特に体力が落ちている。
 村の皆は気候が俺に合わなくなったと思っていたが、それは間違っている。
「……ミートボール」
 南部の街までは二日日間かかる。食事は料金に含まれていて、早速朝食兼昼食として、食事が運ばれてきた。
 鹿肉を使ったミートボールだ。ベリーのソースがかかっている。とても美味いが、思わず苦笑してしまう。
 料理の下手な俺が振る舞える数少ない食事の一つだ。さすがはプロの料理人が作った一品で、とても美味だった。
 もう五年が経ったのだ。
 師匠のかけてくれたイージェンの感情消去の効果は一年前に切れている。
 なんとか今日日まで耐えていたが、この環境ではこれ以上は無理だった。
 暫しファルンのイクセル大樹城へ戻って、師匠にイージェンをかけてもらい、すぐにまた出よう。
 イージェンの呪い(まじない)自体は簡単で、ロイでも使えるほどだ。問題はユコーンの花の液。
 これは軍部のわずかな人間か、イクセル大樹城の魔法使いたち、そして国際中立機関くらいしか扱っていない。それ以外に保持しているということは、きっと何処かから奪ってきたのだろう。
 岩渓軍もそうだった。彼らはユコーンを手にすることにも執着していた。
 ……岩渓軍の話は近頃聞かない。
 まるで本当にいなくなってしまったかのように、彼らの暗黒の事件は耳に入らなくなっていた。
 けれど、ロイ・オークランスの名はこの北の果てにも轟いている。
 大国・ファルン王国の五軍大元帥であるロイ・オークランス。自国の自衛だけでなく、同盟国への援助も積極的で、魔族の末裔にとっての希望でもある。
 それでいて若く、美しい男だった。どの国にもロイの肖像画や、彼の魔狼姿の絵が売られている。
 後者は人々の想像である。彼は戦場以外で真の姿を現さないし、戦争はもう九年前から起きていない。
 しかし絵はよく売れる。特に婦女子に人気だ。彼はまだ独り身でいるから、全く関係のないこの国の村人まで「奥様が亡くなられてからずっとご傷心なのね」と胸を痛めていた。
 どうしてロイは一人でいるのだろう。彼なら引く手数多なのに。
 俺はずっと、ロイを好きなままだけれど。
 この身では、あの頃の思い出だけが頼りだった。
 あぁ。
「……ロイ」
 食事を摂って、ベッドに身を横たえると、あっという間に眠気が増した。
 魔法で防御したとは言え、人間をも殺す吹雪の中を歩いたのだ。暖かい列車が特に甘く感じる。仄かな揺れがまるで、揺籠みたいだった。
 眠気に誘われるまま、意識を夢の世界へと運ぶ。
 真っ暗な部屋の中にいたのに、俺は気付けば、夕陽の中にいた。
『――ロイ』
 記憶の中の俺が呼んでいる。
 俺の声に、あの人が答える。
 リネ……。
 ……サラ。
 ロイが微笑んで、俺の名を呼んでくれる。
 二つの名をもつ俺を愛してくれたロイ。どんな俺をも受け入れてくれた、愛しい人。
 黄金の海が背景に見える。これは一体、どの記憶だろう。ああけれどでも、ロイはいつだってあの愛に満ち溢れた眼差しで俺を見つめてくれていた。
 俺の前にはロイがいる。ロイが俺の手を取ってくれる。
 温もりを感じた。夢だと解っているのに、本当に暖かいから、俺は嬉しくなってパッと明るい笑顔を浮かべる。
 ロイが俺に囁く。
 サラが俺の誇りだと。
 サラ。
 ——愛してる。
 ……もう。
 このままロイ以外の全てを忘れて、幸せだったこの記憶の中で永遠に眠っていたい。
 感情を殺すことよりも、ロイを愛さない方が俺には何万倍も難しかった。何も、失えない。何も……失うものなんてもう何一つないと思っていたのに、ロイと出会い恋をして、また希望を抱いてしまった。恐怖に突き動かされて逃げ流離いながら生きるのではなく、ロイと一つの屋根の下語らいながら暮らすため生きるようになった。夢みたいな日々だった。ロイとの全てが。夢になってしまった。何もかもが。もう取り戻せないと分かっていても、それでも夢を見てしまう。記憶の中の二人は若く、愛に満ちている。眠るたびに、希う。どうかあの日々に戻ってほしい。時よ、戻れ、絶望の記憶なんか全部嘘だったのだと……。戻れないなら、この夢の中にいたい。二度と訪れない記憶を呼び起こす夢が悪夢だと言うなら、何て幸せな絶望なのだろう。俺はもうロイ以外の何も愛せない。俺はこの悪夢の中で、二度と目覚めたくない。黄金の光の中で、黄金の瞳を見つめて、名前を呼び続ける。そうしていられるなら、もう、俺は、永遠に目を覚まさないよ。
 ロイ。
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